近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

中野重治「小説の書けぬ小説家」第二週目

2009-12-16 00:36:13 | Weblog
今週は先週に引き続き、中野重治「小説の書けぬ小説家」の発表でした。
先週挙がった問題点である、〈戦争がかもし出した問題〉と三人称で転向の問題が描かれる意味について先週よりも詳細な検討をなさっていました。〈書けぬ〉原因が、検閲の厳しくなる社会にあると読み、当時の社会状況などを参考資料として挙げてらっしゃいました。
外部資料があることで作品背景がわかりやすくなっていた半面、本文のどこから発表者のおっしゃるところの〈戦争がかもし出した問題〉読み取れるのかという疑問も、質疑応答の中で出ていました。また、作中作である「がま口の一生」や「自叙伝」などがなぜ頓挫していくのか、そして作中で引用されている様々な文章の持つ意味などを追って行くことで、小林秀雄の言ったところの「絶望」の内実なども見えてくるのではないかという指摘もありました。
書けない自己を描き出して行くことで、人間存在や社会の深層を探るもがきやあがきが作品の中にあるという意見も出されました。かつてプロレタリア文壇にいたため警察には睨まれ続け、かと言ってプロレタリア文壇の中に戻ることも出来ないという、どこにも行くことのできない無力感が作品中にあるように思います。
今回の発表を終えて、発表者の方々は深淵を探る資料作りを心がけて行きたい、ミクロとマクロを組み合わせた視点を持ちたいなどと述べていらっしゃいました。この発表は次回以降の発表の糧となって行くのでしょう。

今年の例会は今週で終わりです。次回の例会は来年1月に入ってからとなります。
今年も1年おつかれさまでした。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

中野重治「小説の書けぬ小説家」第一週目

2009-12-08 11:31:39 | Weblog
今週は中野重治「小説の書けぬ小説家」第一週目の発表でした。
本発表では本文に寄り添いながら、高木高吉のありようを昭和初期の時勢にリンクさせていました。
高吉は〈がま口の一生〉〈自叙伝〉〈種子〉などを書こうと思いながら書けない存在として描かれ、それは〈支配者〉によって左翼からの〈転向〉を余儀なくされた者が理想と現実のあいだで揺れ動く様を表しているとのことでした。
このように〈書けない〉自己を書いていくことで、時勢に対してどのように向き合っていくかの宣言となっていると分析していらっしゃいました。

質疑応答の中では、マルクス主義だけに傾倒していたわけではない中野の立場をどう考えるかというものや、何を書きたくて何を何を書けないのかが判然としないという指摘などがあがりました。
また、昭和初年には太宰・横光・石川などが「小説の書けない小説家」というモチーフを扱っており、彼らが一人称で書いているのに対して中野が「小説の書けぬ小説家」を三人称で書いていくことの意義がどこにあるのかという手法の問題があげられた他、同じ転向問題を扱った中野の作品「村の家」などとの差異がどこにあるのかというような、文学史・作家史的な問題もあがりました。

モザイクのようなテキストで、エピソードが多いため、まとめるのに苦労したと発表者の方はおっしゃってました。来週は今週あがった問題などを取り扱っていくそうです。来週もがんばってください。
師走も押し迫り寒い日が続きますが、皆様身体にはどうぞお気をつけ下さい。

ニシヤマ

横光利一「七階の運動」

2009-12-01 18:40:18 | Weblog
こんにちは。
今回の例会では横光利一の「七階の運動」を扱った発表を行いました。
作品内におけるデパートの中を往来するエレヴェーターと、各階で働く女性たちと「久慈」の関係を中心に論じていった発表であったように思います。
発表者は先行論と作品とを照らし合わせたうえで、作品内の「永遠の女性」ということばに光を当て、「永遠の女性」を構成または再構成してゆく反復運動を、当時の時代への批判的な眼差しで描きだしたもの、としていました。当時の時代については、登場するデパートではたらく女性たちを発表者はモダン・ガールとして見、それとやはり当時の時代を象徴するデパートとを構成する資本主義・貨幣万能主義への批判であるとしていました。
以上の発表の論旨に対し、質問はまず時代を見て行く上での資料に関してのものがありました。デパートについての言及があまりなかった点や、資本主義・貨幣万能主義というものを、はたしてどの程度横光が意識していたのか、といった質問でした。それから、「永遠の女性」を構成・再構成する、という作品の読みに関しては、それを反復運動とした点で、はたしてそれだけなのか、それから先に関してはなにか言えないか、といったものや、「永遠の女性」という構図から離脱していった能子に関しての質問がありました。
なかなか作品自体への質問が多く、また発表者もよくそれに応戦していたため、かなり活況を呈した発表であったのではないかと思いました。
ただ、質問されたことの根底にあったものの中には、当時の時代を読みこんでいくという作業の困難さがあったようにも思います。発表者はレジェメに資料を添付していましたが、それがはたしてどの程度に信頼できるのか、またその資料は普遍的な事実として認知されていたのか、といったことを含めて、昭和初期の多用な文化が形成されていた都市の小説を読むことのむずかしさを実感した次第です。
来週は、中野重治の「小説の書けぬ小説家」です。これもなかなかむずかしいと、教授からご指摘された作品ですので、頑張りたいと思います。
モロクマ