今、ドラマ「半沢直樹」が高視聴率をたたき出している。確かに、ここまではおもしろかった。毎回、
「ここでどんでん返しか!」
と感心させられてきた。
さて、その半沢直樹を倍返しならぬ、2倍楽しくご覧いただけるようにというのが、この文章の趣旨である。本当に倍楽しくなるのか、どうか、正直あまり自信がない(笑)。
堺雅人がこのドラマのコマーシャルで
「まじめな会社員のあなたはまねをしないように」
とかなんとかいっていた。私も、うっかりまねをしかねないところがあるので(笑)、この忠告は心して聞いておくことにした(笑)。
さて、その半沢直樹を語る上でどうしても語りたくなったのが、アニメ「ドラえもん」だ。半沢直樹を見る上でどうしても、ドラえもんを語らねばならないという義務感に私は襲われた(笑)。
半沢直樹の謎を解く上でどうしても踏まえなければいけないのはドラえもんである。ま、でも、ちょっと考えてみれば、この二つの物語は似ていることはすぐにわかる。
そうだよな。
「いじめ」じゃん。
そのとおりである。半沢直樹ではこれまた二枚目のミュージカル俳優石丸寛二(上、写真、左)が意地悪支店長を演じ、半沢を窮地に追い詰めていた。そうだ。そうだ、と急がないでもらいたい。それだけではおもしろくない。
フィクションを忘れさせる力
さて、まずドラえもんだが、当たり前のことから確認しなければいけない。
ドラえもんに登場する人物は、まあ、架空といえばすべて実在しない。のび太もジャイアンもスネ夫も、みんな、架空の人物だ。しかし、ここで考えてみなければいけない。そういってしまえば架空だが、しかし、のび太もどき、ジャイアンもどきの子供をさがせばいないことはない。いや、のび太は架空だが、けっしてありえない存在ではない。ちょっと振り返って思い返してほしい。いる(た)でしょ、似た人たちが?どうだろうか?
ところが、アニメドラえもんで、どう逆立ちしても存在しない存在がある。
「だーれだ?」
わかるよね、そう、
「ドラえもん」
だ!いくらなんだって、ドラえもんはいない。ドラえもんもどきもいない。ドラえもんはそういう意味では
徹底的、絶対的(笑)架空存在
なのだ。ドラえもんは存在しない。
無=非存在
だ。徹底的、絶対的無だ!ありえない!
しかし、ここに、アニメドラえもんのすごさが存在する。私もいくつかドラえもんを見た。そこで、いちいち、私たちは「ドラえもんは存在しないのさ」とは考えない。
逆だ!ドラえもんは確かに存在する!と私たちはドラマを見て感じている。本当に架空でそらぞらしかったら、おそらく私たちはドラえもんを見ない。
つまり、こうだ。
ドラえもんは存在しない、しかし、存在する
私たちのアニメを見ている意識をなぞれば、確実にドラえもんは存在していると考えている。というか、ドラえもんの言動はある説得力を込めて私たちに迫ってくるのだ。この、存在しないものを存在させる力こそが藤子・F・不二雄のとてつもない力なのだ。
なぜ、架空のドラえもんは存在の重みを持って私たちに迫ってくるのか?
かつてJ.Pサルトルは『存在と無』第一部でこのような注目すべき記述を行っている。
今日会う約束をしていた斎藤にあうために、喫茶店へ行った。しかし、斎藤はいなかった。喫茶店の店内を探した。あそこにも、あそこにも、斎藤は〈いない〉。この〈いない〉重さは、仮に〈バルタン星人はいない〉とそのときに思う〈いない〉とは明らかに違う。そうだ。現代のカルテジアンサルトルはこういう。〈いない=無〉という存在は存在する。(「われ思う、ゆえに我あり」!)
半沢直樹も同様だ。半沢直樹は存在しない。しかし、ドラマ「半沢直樹」のすごさはその非存在の存在を私たちに迫ってくるのだ。
「バカだね、あれはドラマだぜ。本当の話じゃないんだよ。」
といわれても、私たちは興奮をおさえることができない。それは、確かに半沢直樹は存在するからだ。ドラえもんを存在させる力とは何だろうか?半沢を存在させる力とは何だろうか?
それはこうもいえる。
私たちに架空を忘れさせる力とは何か?
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