城郭探訪

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源満仲(みつなか)館  近江国(大津)

2015年04月30日 | 居館

お城のデータ

所在地:大津市仰木町4-2-50 map:http://yahoo.jp/IFjb-2

区 分:居館

居 館:紫雲山来迎院満慶寺(現・真迎寺)

築城期:平安期

築城者:源満仲

遺 構:「多田満仲公頌徳碑」。遺構はない。

目標地:仰木太鼓館(滋賀県大津市仰木4丁目2−50)

城 主:源満仲(多田満仲)

訪城日:2015.4.30

駐車場:仰木太鼓会館

仰木太鼓会館

 

お城の概要

源満仲館は仰木小学校の西側にある「御所の山」と呼ばれる丘陵にき築かれていた。

現在は公園となって「多田満仲公頌徳碑」などが建てられているだけで遺構などはない。

歴 史

平安時代中期に活躍した源満仲(多田満仲)の館と伝えられる。

満仲は天禄2年(971年)に摂津国多田から仰木に来住し、十年余りを過ごしたという。

満仲は比叡山横川の恵心僧都に帰依して満慶と号し、居館を紫雲山来迎院満慶寺と称して善政を敷いたという。

居館:紫雲山来迎院満慶寺

(滋賀県大津市仰木2丁目7-10)http://yahoo.jp/hnkvc0

 日本浄土教の始祖である恵心僧都によって開基されました。本尊は恵心僧都の御作と伝えられている阿弥陀如来です。

 北東にある「御所の山」は、多田源氏の源満仲が天禄2年(971)に摂津多田から来往して10余年間に亘り、居館を構えた跡とされ、満仲の遺跡を示す石碑が今も残されています。満仲は恵心僧都と信仰が深く、僧都を戒師として出家し、法名を満慶と号し、居館を紫雲山来迎院満慶寺と称したと伝えられています。
 寺域内には、満仲の念持仏とされる薬師如来をお祀りしている薬師堂や「横川のお大師さん」に対して「辻のお大師さん」とか「仰木のお大師さん」と呼ばれている元三大師堂があります。
 又、飛地境内には、国の重要文化財に指定されている延命地蔵をお祀りしている地蔵堂があり、毎年、自治会の協力のもと、地蔵盆法要が奉修されています。

元三大師堂バス停前

満仲の生涯

当初は都で活動する武官貴族であった。天徳4年(960年)平将門の子が入京したとの噂があり、検非違使や大蔵春実らと共にこの捜索を命じられた武士の一人として現れたのが史料上の初見。武蔵権守の任期を終えていた応和元年(961年)に満仲の邸宅が強盗に襲撃される事件が起こり、自ら強盗の一味であった倉橋弘重を捕らえた。弘重の供述によれば醍醐天皇の皇孫親繁王と清和天皇の皇孫源蕃基がそれぞれ主犯と共犯であったという。

左馬助在任時の康保2年(965年)に、多公高・播磨貞理らと共に村上天皇の鷹飼に任ぜられる。同4年(967年)に村上天皇が崩御すると、藤原千晴と共に伊勢に派遣される固関使に命ぜられるが、離京することを嫌った双方が辞退を申し出たが、満仲のみ病による辞退を許された。

安和2年(969年)の安和の変では、源連らによる皇太子・守平親王(のち円融天皇)廃太子の謀反があると密告して事件の端緒をつくった。この事件で左大臣・源高明が失脚したが、満仲は高明の一派であり、これを裏切り密告したとの噂がある。また、この事件で満仲の三弟・満季が対立する有力武士・藤原千晴の一族を追捕している。満仲は密告の恩賞により正五位下に昇進した。

藤原摂関家に仕えて、武蔵国・摂津国・越後国・越前国・伊予国・陸奥国などの受領を歴任し、左馬権頭・治部大輔を経て鎮守府将軍に至る。こうした官職に就くことによって莫大な富を得た満仲は他の武士からの嫉妬を受けたらしく、天延元年(973年)には武装した集団に左京一条にあった自邸を襲撃、放火されるという事件が起きている。この事件による火災は周辺の建物300軒から500軒にまで延焼したという。また、この事件でも同日中に三弟満季が嫌疑人を捕らえているが、実行犯については明らかでない。

二度国司を務めた摂津国に土着。摂津国住吉郡(現在の大阪市住吉区)の住吉大社に参籠した時の神託により、多田盆地(後の多田荘。現在の兵庫県川西市多田)に入部、所領として開拓するとともに、多くの郎党を養い武士団を形成した。

また寛和元年(986年)に起きた花山天皇退位事件に際し、花山天皇を宮中から連れ出した藤原道兼を警護した「なにがしといふいみじき源氏の武者たち」とは、満仲の一族であったと考えられている。この政変後、満仲と主従関係にあったとみられる藤原兼家は一条天皇の摂政に就任した。

翌永延元年(987年)多田の邸宅において郎党16人及び女房30余人と共に出家して満慶と称し、多田新発意(しんぼち)とよばれた。この出家について、藤原実資は日記『小右記』に「殺生放逸の者が菩薩心を起こして出家した」と記している。また『今昔物語集』には満仲の末子で延暦寺の僧となっていた源賢が父の殺生を悲しみ、天台座主院源と仏法を満仲に説き出家させたという説話がある。なお同書ではこのときの年齢を六十余歳と伝えており、これによれば生年は延喜19年(919年)から延長6年(928年)の間となる。長徳3年(997年)8月27日に卒去。遺骸は多田院(現在の多田神社)に葬られた。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、Wikipedia

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