城郭探訪

yamaziro

山中城 近江国(大津)

2015年04月30日 | 戦国山城



お城のデータ

所在地:大津市山中町       map:http://yahoo.jp/bDtWGC

区 分:山城

現 状:山林

築城期:織豊期

築城者:磯谷氏

遺 構:郭・土塁・竪堀

標 高:377m 比高:87m(元・山中保育所290m) 

目標地:元・山中保育所

駐車場:元・山中保育所

訪城日::2015.4.30

 京側山中バス停

集落内へ

極楽寺

お城の概要

 登り道は保育園のグランドから尾根状を直登し、保育園は背後のピークにまず登り、尾根上を東南に進んで、最後は急坂を30mほどよじ登ったところの山頂が城跡でした。

 山中町には、節(武士)ヶ谷、陣ヶ谷、陣見山、奥ノ城、口ノ城と云った地名があったようで、奥ノ城は山中越沿いの比叡平の京都側(山中町)辺りとされ、まさに山中城跡はそこに位置している。

 城跡の遺構は、不明瞭で薄いものが僅かに残る程度で、縄張りも不明瞭で詰め城・砦。

山頂部は十分な削平でなく不明瞭。その山頂部から南に緩やかに下る尾根筋に二ヶ所の三日月状土塁が築かれた郭を形成している。喰い違い状の虎口を伴っている。東に伸びる支尾根には浅く薄い堀切が入っている。下段の郭から南西へ鞍部を経て小ピーク、その南側に土橋を伴う堀切が微かに残る。

頂部から南尾根へ自然の地形をそのままに、平坦とは言えない郭(街道からは、見えない武者溜りか)。やや下がった郭は土塁が三日月状の城郭遺構の痕跡。

帰りは城道を、プールまで下りてきました。

元・保育園グランドこの階段かえあ元・山中保育園・自治会館。この保育園のグランドに入る、グランド沿いに山へ小道があり、左手に登ります。支尾根に挟まれた平坦地に出ます。上下二段になっていて、中央にスロープ状の道もあり、また、滋賀県の史跡標柱が建ってます。

山中城の居館?寺跡・神社跡?

右手から尾根へ登る。城道か?尾根を登って行きます。街道側に身隠し土塁・銃座(射て座)の空堀が頂部下まで続く、山中に虎口のような箇所があり、ここから右手方向の尾根へ登って行きます。

城道の武者止め!

急坂を登りつめると頂部城跡。

頂部の郭と土塁

山頂から南尾根へ平坦とは言えない郭があります。やや下がった郭は土塁が三日月状になんとか確認できる、城郭遺構 

歴 史

 山中城は、京都と大津を結ぶ重要なルートの一つである山中越の中間に位置する志賀郡山中村を領した磯谷氏の居城。

 磯谷氏のなかで久次新右衛門尉と彦四郎父子に関する記録が比較的よく残っているようである。久次の二人の娘は、織田信長の目附に就く道家尾張守と、禁裏御倉職を務める立入城主(近江国・守山)立入宗継へ嫁している。久次は、その関係から身分は幕臣ながら禁中・公家との繁がりも強かったようで、永禄7年(1564)10月尾張清州へ、さらに同10年(1567)11月岐阜城へ、正親町天皇の勅使として宗継とともに下向し、信長と対面する重責をはたしている。

 元亀元年(1570)9月23日信長は、久次に湖西を南下し比叡山に陣を張る浅井・朝倉軍の進路を阻むため、山中越の京都・山中間の封鎖を命じている。また、同2年11月15日久次の息子千代寿が元服して彦四郎と称するが、鳥帽子親は明智光秀の与力山岡景佐(瀬田城主山岡景隆の弟)で命名者は光秀とされ、当初、久次は信長に従っていたことが窺える。

しかし、元亀4年(1574)2月信長との不和が決定的となった将軍足利義昭の檄により、石山・堅田両城で反信長の挙兵がなされた。信長から離反した久次は、堅田城に立て籠もったが、同月29日光秀らに攻められて敗退。同年7月義昭が再び挙兵し、久次も京都の一乗寺に籠り信長軍と交戦するが再び敗れ、紀伊山中へ逃亡中吉野で土民に殺され、首級は信長のもとに持参された。

 久次の息子彦四郎は、信長没後の天正11年(1583)6月羽柴秀吉から山中の旧領を返され、7月には山中越普請の奉行に任じられている。

 帰りは城道を、プールまで下りてきました。

プール

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、Wikipedia

         本日の訪問、ありがとうございました!!感謝!!


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