三方よし館
三方よしの原典 |
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弘誓寺(ぐせいじ)
那須与一には七人の子供がありそれぞれ一寺を建て寺名をすべて弘誓寺(ぐせいじ)と号しました。これを那須の七弘誓寺といいます。この寺だけが浄土宗で住職の姓も稲岡姓ですが、八日市の建部下野< 御身山 無量院 弘誓寺>。他の六ヶ寺はすべて浄土真宗で住職はみな、那須姓を名乗っています。
八日市の瓜生野(西本願寺)・五個荘金堂(大谷 東本願寺)・能登川の躰光寺(西本願寺)・湖東町小田刈(西本願寺)・湖東町中一色(東本願寺)・南川瀬の法蔵寺(西本願寺)です。
八日市の建部下野< 御身山 無量院 弘誓寺>は、この寺は平安初期の延暦十年(791)建部社の神宮寺として建てられ比叡山延暦寺一乗止観院に属し大願寺と称していました。中興の祖は源平の合戦のときの「扇の的」で有名な源氏の武士那須与一宗高の二男である願名坊宗信です。那須与一は東国下野国から近江の国に封ぜられ石畑建部領主となり発願して建てたのがこの寺です。正元元年(1259)2月7日のことでした。
近江商人(五個荘商人)屋敷
近江商人の行商は、他国で商売をし、やがて開店することが本務であり、旅先の人々の信頼を得ることが何より大切であった。そのための心得として説かれたのが、売り手よし、買い手よし、世間よしの「三方よし」である。取引は、当事者だけでなく、世間の為にも !
近江商人とは主に今の滋賀県、かつての近江国を出身とする商人のことで、大阪商人、伊勢商人と並んで日本三大商人といわれることもあります。
琵琶湖に臨んだ近江国は、古来水陸交通の要衝の地として開け、農産物も豊かで早くから市が立ち、商業が盛んでした。
鎌倉、室町時代になると、この地の商人達は比叡山延暦寺と結んで座を結成し、越前、伊勢、美濃方面へ盛んに行商に出かけるようになりました。
江戸時代に入ると交通の発達と市場の拡大にともなって全国に進出し、その活躍はいっそう活発になりました。徳川幕府が鎖国政策をとる以前に、安南屋、シャムロ屋などのように海外へ飛躍したものもいました。
近江の商人達は、はじめ天秤棒を肩に、近江特産の蚊帳、上布、畳表などをもって出発し、各地で売りさばきながら、その地の特産を仕入れ、さらにそれを売りながら旅を続ける「持ち下り商い」と呼ぶ行商で富を蓄えました。次に各地に出店を構え、その出店の間で産物を回す、「産物回し」によって財をなし、江戸日本橋通り、大阪の本通り、京都三条通に大店舗を連ねるようになりました。
琵琶湖の鮎と近江商人は他所へ言って出世するといわれるように、地元には会社を作らず、別の地に会社を構えるのが特徴でした。
近江商人は一般的に「八幡商人」「日野商人」「五個荘商人」と分けられるのが多いのですが、豪商を多くだしたのは、近江のうちでも八幡、日野、彦根などで、最上の紅花、会津の漆器、名古屋の青貝塗といった各地の産物を一手に動かし、関東の醸造業、松前の漁業にまで商才をふるいました。
さらにその富力によって、金融の上においても大いに活躍し、大名貸しや、日野出身の中井家のように仙台藩、その他の藩の藩財政の実験を握るものまで現れました。
昼食は・・・五個荘
【うどん たなか】本日のおすすめを(うどんやでそばを注文!)
近江商人の旧邸で
舟板塀が、屋敷の一部に使われてます。
三方よし会館(東近江観光協会も館内に)遠景は観音寺城
館内郷土銘産売り場・・・無人でしたが!
参考資料:現地ガイドさんの説明・現地説明板、パンフレット、HP・BLOG等々
歴史ブロガーの「景清・清盛・道誉 つわものどもの謎と足跡を訪ねて」・・・甲良編・・・・へと続く