城郭探訪

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景清道

2012年07月07日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

平氏の武将 景清 歌川国芳画『耀武八景 大寺晩鐘 悪七兵衛景清』

観音寺山麓の景清道(当日のレジュメより)

伝説によると景清道は、 

平景清が平氏再興の祈願をするため尾張国より京都の清水寺へ通った道とも

寄寓していた近江八幡の旅庵寺より桑実寺の薬師如来に眼病平癒のために日参した道ともいわれている(中近世古道調査報告書 朝鮮人街道 滋賀県教育委員会)

景清道は 近年 ルートの調査がされましたが全てがはっきりとわかっていませんが信長の下街道建設以前から中仙道(東山道)の間道として使われていたようです。

湖東地方に古くから「景清道」と言う道があり、古来より多くの人々が往来してきた。「景清道」は道の名称であるが、源平時代の武将名が道の名に定着している。景清道は、人里離れた山の中や、田の畦のようなところをくねくねと走っているのは、景清が関所を通過せずに、通行しようとして作ったためといわれている

 

近江八幡の農道に

 観音正寺の参道に 五個荘大城神社の横

 

 

観音寺山の景清道

佐々木六角氏当時にはこの間道は東近江市五個荘町から野洲まで続いていた間道であり、道並みには寺や武家屋敷が連なっており往時の面影を伝えている。

石寺の観音正寺参道を   真下に教林坊が見えてくる

 

 景清道(Blog)より

景清道は、平景清が尾張から京都に向かう時に通った道とされているが、観音寺城域においては、山上に向かって延びる複数の登城道を結ぶ道として、非常に重要な道であったと考えられる。例えば、この図のように景清道を辿ると、道沿いに多くの武家屋敷や寺院あとが見られるだけでなく、山上に延びる 5 本の道筋の入り口に出会う。山すそに近いところを横に走っている道なので、当たり前といえば当たり前ではある。このため、新しい登り口を見つけるには、この道を歩くのが一番手っ取り早い方法であるといえる。

 

 

観音寺城の山裾、案内坂と景清道(blogより)
DSC_0546.jpg入り口。
DSC_0551.jpg案内坂に入ると下の広場につながる石積みのスロープがある。スロープ道を見上げた。

DSC_0553.jpg道の山側には石垣が続いているが崩れているところが多い。

DSC_0555.jpg石垣の上は屋敷跡。ところどことに山上方向に向かう道がある。DSC_0558.jpg同じような道がしばらく続く。道の両側は竹薮。雑木が混生も多い。DSC_0561.jpg振り返って見る。DSC_0565.jpg住宅地に抜ける直前。DSC_0567.jpg住宅。DSC_0570.jpg住居も小屋も庭も畑も、ここでは何もかもが石垣の上。DSC_0571.jpgDSC_0572.jpgDSC_0574.jpg
DSC_0575.jpg手が加えられているが、もとは観音寺城時代の排水路か?DSC_0576.jpg暗渠の開口。
DSC_0579.jpgさらにこの舗装された道を前進。DSC_0582.jpgこの先もうすこしで行き止まり。DSC_0584.jpg最後の民家の角で振り返る。DSC_0585.jpgこの石垣の先(写真右端から数メートル)で道は行き止まり。DSC_0588.jpg田のあぜ道から。

 

DSC_0589.jpg行き止まり直前の石垣。道と石垣入り口には石段が設けられている。DSC_0591.jpg石垣の上にのぼり民家方向(来た道)を見る。DSC_0593.jpg道の石段を上り山中に入るとまた石垣。左手に折れ教林坊方面にDSC_0602.jpg教林坊には入らず、この周辺を徘徊。DSC_0605.jpg道沿いの川はお茶子谷の谷水の排水路だと思う。
DSC_0609.jpg道沿いの川はお茶子谷の谷水の排水路だと思う。DSC_0610.jpg石垣で固められた一角。このまわりを一周してみる。DSC_0611.jpgどんどん下りる。
DSC_0612.jpg途中で振り返る。DSC_0614.jpg下りきったところで来た道を振り返る。DSC_0617.jpg一角の反対側の道を上る。この道は赤坂道。この先で観音正寺参道に合流する。

DSC_0618.jpg手入れされておらず荒れ放題。
DSC_0620.jpg見覚えのある、教林坊の裏手付近に出る。DSC_0623.jpgここは、景清道。道の右側は、教林坊を囲む塀。石段のある左側の郭は墓地になっている。
DSC_0626.jpg景清道はこの先、観音谷、源三谷方向に延びている。

麓を横切る景清道と登城道筋。今回は源三谷までは行かず、観音谷付近で引き返す。
kagekiyo.gifDSC_0643.jpg塀の途切れたところから、教林坊を覗く。DSC_0632.jpg塀の反対側(山手方向)のお茶子谷沿いの道に入ると、右手に立派な石垣が見える。この先は倒れた竹で道が塞がっているが、踏み越えて無理やり進むとお茶子谷筋に出られる。おそらくここがお茶子谷筋への正しい入り口。

DSC_0634.jpg石垣の手前側の側面。地図によるとここは青地邸。DSC_0638.jpg景清道に戻る。道沿いに石垣が続いており、その石垣の一部に入り口らしきものがある。

DSC_0639.jpg中を覗いたところ縦も横も埋まっており、これが何なのか。

DSC_0650.jpg道沿いには屋敷跡と石垣が続く。DSC_0654.jpg観音谷近くまできたところ。DSC_0656.jpg振り返って見る。DSC_0657.jpg景清道を示す案内板。

DSC_0676.jpg谷にかかる橋。たぶんこの谷は観音谷。DSC_0667.jpg進むと畑地になっている広場に出る。地図によると古観音堂跡。DSC_0669.jpg棚田のように積み重なった畑地の側面は石垣で固められている。

景清道はこの先、源三谷に向かって延びている。

DSC_0693.jpg景清道はこの観音正寺参道を横切って延々と続いている。この先を行くと本谷筋に出会い、鳥打峠を超え宮津口筋や薬師口筋の入り口付近に到達するはずである。

 

 .平氏の武将 景清の生涯

時は、平安時代の平氏一門による武家政治が台頭し、平清盛の政治勢力により院政の地位を高め、京都六波羅に本拠を構えて、栄華と威勢を誇っていたが、鎌倉の源頼朝の挙兵により、「源平の戦い」の時代に入り、驕る平氏も清盛の死によって、平家一族は安徳天皇と共に京の都を離れ西海へ落ち延びて、ついに屋島・壇の浦の戦いで平家一門は滅亡するという、今から820年前にさかのぼる源平時代に生きた景清の伝記である。

景清は仁平3(1153)年上総の国(今の千葉県中部)に忠清の次男として生まれる。景清27才の治承4(1180)年、安徳天皇の滝口の任に補され、その後、兵衛尉に任ぜられて上総介七郎兵衛と呼ばれた。
平安末期の寿永2〈1183)年に、源平争乱の讃岐国、屋島の戦い、壇の浦(山口県下関市)の戦いにおいて勇将ぶりを発揮する。
名著の『平家物語』の屋島における有名な「錣引き1の場面で登場する。
「遠からん者は音にもきけ、近くはよって目にも見よ。われこそは、京の者たちのあいだで評判の上総の悪七兵衛景清なり。」と名乗り、奮戦している。
更に、壇の浦の戦いにおいても、悪七兵衛が登場している。
「源氏の者たちは、馬に乗れれば大きな口をきけるだろうが、舟の上での戦いは知らぬ。魚が木にのぼったようなものだ。ひとりひとりつかまえて海にたたきこんでやる。」と豪語しているが、平家の最後がきた。祖母の二位殿は安徳天皇を抱き深い海に身を投げた。と同時に、天皇の母である建礼門院も海に身を投げたが、源氏に引き上げられた。後に僧法印慶恵僧の住まいに身を寄せ、出家して大原山の寂光院に移り、平家一門の冥福を祈りつつ、建久2(1191)年往生している。
このように壇の浦の戦いで平家一門は断絶したが、悪七兵衛は兄忠光と共に逃亡して行方は不明である。それ以来景清は、叔父にあたる大日能忍(平安末・鎌倉前期の禅僧)を刺殺しており、「悪七兵衛」と云われたとの説もある。
建久6(1195)年3月12日、源頼朝は東大寺大仏再建供養のため奈良へ行ったが、源頼朝を狙う不審な者を捕らえさせた。その不審者は平家の残党薩摩の中務(なかづかさ)家資(いえすけ)と自供したので処刑したとある。しかし謡曲の「大仏供養」に演じられる平家の残党はここでは景清で、春日山に逃げている。[後述]
翌建久7年、平家の残党として悪七兵衛は追捕され源頼朝に降り、日向へ流されたとある。
この頃であろうか、目を患い一心に薬師如来に帰依し、又、平家の再興を祈願して「景清道」を往来したのだろうか。又、謡曲の「景清」の曲趣、尾張の国、熱田の遊女との間にもうけた娘、人丸が訪れるのもこの時期であろう。
建久9(1199)年正月13日、源頼朝がこの世を去ったが、既に景清には武勇の姿はなく、盲目で悲惨な乞食同様の末路を送ったとされている。
平氏の武将景清は、建保2(1214)年日向の国、今の宮崎市にて逝去。
享年62才。法名 千手院殿水鑑景清大居士とある。
宮崎市生日亀井山の生目神社には、眼を祀ったと言う伝説があり、宮崎市北方塚原に景清の霊を祀った廟あり、廟の横に人丸姫之墓と母の供養塔も祀られている。

景清伝記より

参考資料:現地ガイドさんの説明・現地説明板、パンフレット、HP・BLOG等々


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