神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

大阪・玉造稲荷神社。

2008年07月04日 | ◆大阪府
商売繁盛・子孫繁栄・芸能向上・家内平安

玉造稲荷神社

(たまつくりいなりじんじゃ)
大阪市中央区玉造2-3-8




伏見稲荷大社からの勧請ではない稲荷社。創祀年代の古さから「もといなり」との呼び名も。



〔御祭神〕
宇迦之御魂大神
(うがのみたまのおおかみ)

下照姫命(したてるひめのみこと)
雅日女命(わかひるめのみこと)
月読命(つきよみのみこと)
軻遇突智命(かぐつちのみこと)



 大阪城の南方に位置する玉造。ここは、古代より交通の要衝として多くの街道や水路が通っており、651(白雉2)年には孝徳天皇によって難波宮が築かれるなど古くから栄えていた地域でした。また、「日本書紀」に記されているように、493(仁賢天皇6)年の話として朝鮮半島から渡来した工匠に関する記述があることから、勾玉などを製作する玉造部が居住していたことが分かります。そういった歴史ある町に鎮座しているのが、玉造稲荷神社です。



 
1954(昭和29)年に再建された社殿(左)と、その前にある利休井(右)



 社伝によると、紀元前12(垂仁天皇18)年の秋に創建されたといわれる古社で、もともとは比売社と称していたそうです。この周辺には、紀元前1世紀ごろには弥生文化が伝わり、人々も定住して生活を営んでいたということなので、豊作や豊漁などを祈願する祭祀の場が設けられていたいう可能性は十分考えられます。

 比売社は、588(用命天皇3)年に社殿の改築が行われたという記録が残されていますが、この前年の587(用命天皇2)年に仏教の受け容れを巡る争いが高じて物部守屋公と武力衝突する事態に至った聖徳太子蘇我馬子公が、ここ玉作岡に陣を敷いて「吾に勝利を与えるならこの栗の白木に枝葉を生じさせ給え」と戦勝祈願したといいます。のちに枝葉が生え、戦乱も無事勝利のうちに終わったことから、戦勝に対する感謝の意味を込めて社殿整備を行ったと考えられます。一説には、このとき聖徳太子自ら彫ったといわれる十一面観音像多聞不動像を祀る観音堂が建立されたといい、四天王寺の最初の創建地だったのではないかとも言われています。



 
縁結びにご利益があるといわれる「恋キツネ」(左)と、社殿の東側に並ぶ多くの摂社(右)。



 戦国時代には織田信長公による石山本願寺攻略時の兵火によって1576(天正4)年に境内が悉く焼失しますが、稲荷神を厚く信仰していた豊臣秀吉公によって経済的な支援が行われ、大阪城の鎮守神とされて五幸稲荷大明神として崇敬を集めました。大阪城で行われる神事の大半は、当時「豊津稲荷神社」とも呼ばれていたこの神社の神職によって執り行われていました。1603(慶長8)年には豊臣秀頼公によって社殿や月見・花見のための高殿が建立され、境内に残されている石鳥居もこのとき寄進されています。

 1615(元和元)年の大阪夏の陣の兵火によって焼失した玉造稲荷神社は、1619(元和5)年に入って大坂城代・内藤紀伊守信正公を始め、氏子や崇敬者の皆さんの寄進によって再建されました。江戸時代には交通の要衝地としてお伊勢参りの出発地とされ、境内にあった観音堂大坂三十三所観音の第10番札所とされていたこともあって多くの参拝客で賑わっていました。

 その後、1863(文久3)年11月に起こった「新町焼」と呼ばれる大火事によって全焼しましたが、1871(明治4)年に再建。1945(昭和20)年6月の大阪大空襲によってまたもや焼失しますが、戦後の政教分離により、「玉造稲荷社」「玉造いなり」など古くから使われていた呼び名にちなんで、宗教法人玉造稲荷神社として再出発、1954(昭和29)年には氏子の皆さんの尽力によって境内の再建・整備が行われて現在に至ります。



 
豊臣秀頼公寄進の石鳥居(左)と、地元ゆかりの千利休の顕彰碑(右)。



 社殿のすぐ東隣には陸上海上交通の守護神として有名な厳島神社があります。境内にある池は白龍が現れたといわれる池で、雨乞いに霊験があるといわれています。その隣には、江戸時代の享保年間に大阪城内のさまざまな屋敷に祀られていた稲荷社を1社にまとめて建立されたといわれる万慶稲荷神社と、大阪城代・松平輝和公の屋敷に祀られていた稲荷社を(明治40)年に境内に遷座したといわれる新山稲荷神社豊臣秀頼公の胞衣を祀るといわれる胞衣塚大明神が立っています。

 1603(慶長8)年に豊臣秀頼公が境内を整備された際に寄進されたという石鳥居も残されていますが、1995(平成7)年の阪神・淡路大震災によって基礎部分が壊れてしまったため、上半分のみが保存されています。その隣には、この辺りに屋敷を構えていたといわれる名茶人・千利休の遺徳を偲んで1977(昭和52)年に大阪青年会議所の働きかけによって建てられた千利休居士顕彰碑があります。



 
1986(昭和61)年に創祀2000年祭の奉祝記念として開館した難波・玉造資料館(左)と、
地元出身の漫才作家・故秋田實氏を顕彰する「笑魂碑」(右)。



アクセス
JR大阪環状線「森ノ宮駅」下車、南西へ徒歩10分
大阪市営地下鉄中央線「森ノ宮駅」下車、南へ徒歩8分
JR大阪環状線「玉造駅」下車、北へ徒歩10分
大阪市営地下鉄長堀・鶴見緑地線「玉造駅」下車、北へ徒歩8分 ほか
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拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト
  玉造稲荷神社ホームページ


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2 コメント

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神宮 (山本)
2008-07-04 11:09:45
「ぽちっ」がなかったので一言。

神宮まで170km。
伊勢神宮は橋の付け替えですね。
こんばんわ! (きみー)
2008-07-05 00:48:14
 「伊勢参宮本街道」は、玉造から奈良→桜井を経て数々の峠を越えながら伊勢へと伸びていたようですね(^^)170㎞を歩くなんて、昔の人々の健脚ぶりには感心してしまいます。

 お伊勢さんは7月26日の起工式から1年以上をかけての架け替え工事ですね。遷宮の奉賛をさせていただいて2級賛助会員になっていますので、今年中には本宮の御垣内の特別参拝に伺おうと思っています!

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