神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

菅原道真公⑨ 「讃岐での鬱々たる日々」。

2009年10月31日 | ★特集

⑨ 讃岐での鬱々たる日々











 讃岐国という僻地へ左遷されたと感じ、4年もの長い任期を都を離れて過ごさなくてはならない辛さに気を落としていた菅原道真公ですが、国司に任じられた場合には120日以内に任地へ赴かなければならないという規則もあって重い腰を上げざるを得ず、留守中の「菅家廊下」の運営や家族のことなど気掛かりな事柄を差配しながら、ようやく旅支度が整って都を出立したのは除目の日から2ヶ月以上も経った3月下旬になってからでした。

 「老子」や「白氏文集」などいくらかの書物と身の回りのものを携えて都を出た菅原道真公は、山崎の河陽の津から淀川を下ろうとしていましたが、そこに現れたのが出立を聞き付けて都から追いかけてきた渤海からの帰化人で詩友の王氏という詩人でした。是非とも旅立つ友を見送りたいと駆け付けた友の気持ちに感激した菅原道真公は、河陽の駅亭の楼閣に登って語り合い、手を取り合って涙を流しながら別れを惜しみました。このように、温かい仲間の友情に励まされるようにして讃岐国への道を再び進み出した菅原道真公は、風光明媚な明石の駅亭を経て潮の渦巻く瀬戸内海を越え、3月26日に赴任地である讃岐国府へと辿り着きました

 讃岐に赴任した菅原道真公を待っていたのは破綻寸前の財政と窮乏に苦しむ民衆の姿でした。都への思いを抑えながら国中を視察して内情の把握に努めるなど、慌しい日々を過ごすうちに讃岐での生活にも慣れ、次第に落ち着きを取り戻すようになった菅原道真公は、秋には華やかな都の暮らしを思い起こして国府で重陽の宴を開き、田舎暮らしの寂しさを紛らわせています。このとき詠んだ「重陽日府衙小飲」という漢詩の中で、切ない気持ちと共に讃岐国の諸問題への対応に思いを巡らす胸のうちを吐露しています。











 菅原道真公は、ここで感じた庶民の暮らし向きの苦しさを「寒草十首」という長文の漢詩にしたためていますが、重い税金や労働に耐えかねて逃げ出したものの再び讃岐国に戻ってきた者や、他国から逃げ込んできた者たちの窮乏ぶり、老人や孤児たちに限らず、あらゆる職に就いて働く者にとっても貧しさゆえに満足に暖をとる事も出来ず、ただただ冬の厳しい寒さに打ち震えながら耐えざるを得ない様子を見つめ、そこから律令制による行政支配の問題点や限界を見事に看破しています。

 このように慧眼をもって国家政策の矛盾を見抜き、苦しい庶民の生活にしっかりと向き合っていた菅原道真公ですが、やはり僻地での侘しさや日々役所に押しかける民衆の訴えにいちいち対応しなければならない煩わしさに鬱々とした思いを抱えており、かつて善政を敷いて庶民に慕われた讃岐国司・藤原保則卿を理想として政務に励もうという思いと、いざ役所に向かうと山のように積み上げられた訴状や公文書の処理にもの倦む思いの相反する矛盾した心理を抱えての毎日を過ごしていました。

 地方の国司に任じられた者は、必要だと認められた場合には在任中でも一定の期間京都に戻ることを許されており、これを「中上り」と呼んでいました。正五位下の内示を受けていた菅原道真公は公式の手続きを踏み、叙勲を受けるために足取りも軽やかに懐かしい京都への「中上り」の旅路を急ぎます。その道すがら河陽の駅亭に立ち寄った菅原道真公は、讃岐国へ赴くときにわざわざ後を追って激励に駆け付けてくれた王氏のことを思い出し、懐かしさから旧交を温めようと駅亭の役人に王氏の消息を尋ねます。役人はためらいながらも駅亭の片隅に菅原道真公を連れていき、王氏が先日没していたことを告げて彼の眠る塚の場所を指し示しました。菅原道真公は、月日の流れの残酷さと人の縁の儚さを感じ、ただただ塚に手を合わせて亡き友の冥福を祈るしかありませんでした。















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