『歩いても 歩いても』などの是枝裕和監督が、業田良家原作の短編コミック「ゴーダ哲学堂 空気人形」を映画化した切ないラブストーリー。心を持ってしまった空気人形と人間の交流を温かく見守る。『グエムル -漢江の怪物-』のペ・ドゥナが空気人形役を熱演。共演者も『蛇にピアス』のARATAや『ニセ札』の板尾創路ら個性派が顔をそろえる。国際的撮影監督、リー・ピンビンのカメラによる情緒豊かな東京の風景と、人形の純粋さに夢中になる。[もっと詳しく]
ペ・ドゥナな儚げな「空気人形」を、優しく抱きしめてあげたい。
中年男が一人で入るのは勇気がいるのだが、「創作ドール」の企画展や常設ショップがあると、ついつい足が向かってしまう。
あるいは専門誌や写真集があると、ドキドキしながら見入ってしまう。
魂をもっているかのようなアンティックなクラシック・ドール、四谷シモンに代表される妖しい耽美人形、結城座の公演で出てきそうな舞台人形、近頃はやりの球体関節の少女ドール、精巧につくられたミニチュア・フィギュア、日本や西洋のからくり人形・・・。
人形はいつもこちらをまっすぐに見つめてくる。
これらの人形たちは、誰と関係を結びたがっているのか、いや人形たちに魅せられるこちら側が、人形と秘められた関係を結びたがっているのか。
『空気人形』に登場するダッチ・ドールは、もちろん第一には「性欲処理」の目的で製作された人形である。
けれども、取り外して洗浄できる「人口膣」だけが重要なのではない。
やはりそこには、「性欲処理」以外のフェティシズムに似た「感情移入」の造形が必要となってくる。
そして他のドールたちと同じように、観賞だけでは飽き足らず、人間はそれらを所有したくなる。
あるいは触れたり、言葉をかけたり、抱擁したり、添い寝をしたくなる。
『空気人形』で、秀雄(板尾創路)が愛玩するラブドール「のぞみ」は、一世代前の旧式とも目されるダッチドールに過ぎない。
たぶん『ラースとその彼女』で登場したリアルドールである「ビアンカ」の方が、高級ドールのような気もする。
しかし、コンビニレストランで働くしがない中年男の秀雄にとってみれば、唯一無二の慰藉の対象である。
セーラー服やメイド服やといった妄想の補助装置であるコスプレを用意して、ちゃんと誰もいないアパートで帰りを待ち、二人分の食事の席についてくれ、夜をずっと眠りまで伴にして、自分の独り言を従順に聞いてくれる・・・。
周囲からはいかに奇異に見えようが、それは秀雄にとってみれば、必要不可欠なパートナーであることを否定することは出来ない。
ある意味では、自分の子どもや、ペットや、コレクションに愛情を過多に注ぐ心性と、それほど異なることはないのだ、と言ってもいい
そのダッチ・ドールがある日、「こころ」を持ってしまうというファンタジーが、この『空気人形』という物語の核となっている。
これも『僕の彼女はサイボーグ』といった「擬似感情」をプログラミングされた対象に恋をするといったSFもどきのお話と、たいして異なるわけではない。
けれども『空気人形』はもっともっと切なく、エロティックで、ある意味哲学的な、お話である。
「のぞみ」の目が、ある日、そっと瞬きをする。
その時、僕たち観客は、「のぞみ」がダッチー・ドールという単なる物体から、命を持った生命体に変移したかのような想像=妄想を抱きはじめることになる。
そして「のぞみ」は窓の外の光と風を浴びて、一滴の雫に手を触れることになる。
すると魔法のように、ビニールのような手が徐々に瑞々しく変異し、しばらくして全身に「生命」が満ちていき、ペ・ドゥナ扮する「のぞみ」の裸身に化身していく。
僕は思わず、息を飲んだ。これはとても美しいシーンだ。
最初は少しぎごちなく自分の体を持て余しているかのような「のぞみ」は、外に出て人々の仕草を観察しながら模倣をし、町をおずおずと歩き出す中で、だんだんと世界との距離を計る事が出来るようになる。
「空気人形」が、(持ってはいけない)「こころ」を持つことになったのだ。
しかしその「こころ」は、「自分」という過去の記憶の集積から成立しているものではない。
彼女は「空気人形」であり、過去の物語などない。
だから、ひたすら「無垢」の受け皿として存在することになり、その「無垢」を埋めるかのように、世界の側が、関係を取り結ぶことになる。
リストラを受け妻に逃げられたであろう中年の店長。
自分の年齢に脅迫観念を覚えている受付嬢。
代用教員の過去を持つ死に怯える老人。
交番通いをしながら無関係な事件とでも自分をつなげたがる未亡人。
過食症のOL。
鬱屈しフィギュアに魅せられる浪人生。
帰らない母を待つ父と小学生の娘・・・。
「のぞみ」の周囲に登場する人々は、社会病理の小さな典型を抱え、どこか空虚である。
「からっぽ」であるドールに吸い寄せられるように、見えない空洞を持った人間たちが、浮かびあがってくる。
そのひとりひとりの「自分」物語を、是枝監督は語ろうとはしない。
東京という町の、匿名の箱庭のような風景を舞台にして、「のぞみ」も周囲の人間も、どこかでジオラマ人形のように配置されている。
「空気人形」は、ビデオレンタル店の男(ARATA)に恋をする。
この男もまた、恋人を喪ったのか、空っぽな「こころ」を抱えている。
男は、空気が漏れて萎んだ「空気人形」のおなかの部分にある空気穴から息を吹きかける。
ペ・ドゥナの体が、生気を帯びる。息を介したSEXともいえる描写が、なによりエロティックなシーンである。
「空気人形」は逆に男の体に傷をつけ、テープで傷口を防ぎ、自分と同じように息で男を満たそうと空気穴を捜す。
それが自分にはとても心地いいことであったから。
もちろん、「空気人形」ではない男の体からは、ただ赤い血が流れ続けるだけである。
『誰も知らない』や『歩いても歩いても』や『花よりもなほ』で、斬新な驚くべきカメラワークを見せた是枝監督は、今回は撮影監督に、ホウ・シャオシェンやウォン・カーウァイの撮影で親しいリー・ビンピンにカメラを委託した。
リー・ビンピンは邦画でも『珈琲事光』『春の雪』などでお馴染みだし、今年公開される『ノルウェイの森』の撮影監督にも起用されている。
『復讐者に哀れみを』などでもペ・ドゥナのヌードシーンは撮られたが、『空気人形』のそれはまことに幻惑的な美しさがある。
『リンダ・リンダ・リンダ』でたどたどしい日本語を使う韓国から来た高校生を眩しく演じたペ・ドゥナだが、『空気人形』では、人工的でありながら自然性でもあり、コスプレに身を包み華奢な儚さを持ちながら肉感的でもあり、天使のような童顔でありながら存在の虚しさを背負っているような独特のエロティシズムを放っている。
最近の『ユリイカ』でペ・ドゥナ特集がなされたが、「こころを持つことは寂しいことでした」とモノローグするシーンや、自分のアイデンティを求めて人形制作師(オダギリ・ジョー)を尋ねて「私を作ってくれてありがとう」というシーンや、ゴミ捨て場に横たわり少女に渡された人形を抱きながら、タンポポの綿毛のような息を、かかわりあった人々に届けるかのように吹きかけるシーンに、僕の胸も痛む。
人間であれ、「空気人形」であれ、もともと自分というものなどあるのかどうか。
ただただ「他者」のまなざしの中に、「他者」から感じられる息吹のなかに、そして「他者」との儚い時間の紡ぎの中に、瞬間満たされるものがあるのかもしれない。
劇中で、ペ・ドゥナ扮する「空気人形」は、一篇の詩を語りかける。
吉野弘の「命は」と題された詩。僕も大好きな詩人だ。
生命は
自分自身で完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命はすべて
そのなかに欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思えることさも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?
花が咲いている
すぐ近くまで
虻の姿をした他者が
光りをまとって飛んできている
私も あるとき
誰かのための虻だったろう
あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない
kimion20002000の関連レヴュー
『ラースとその彼女』
『誰も知らない』
『歩いても歩いても』
『復讐者に哀れみを』
『リンダ・リンダ・リンダ』
『春の雪』
なまめかしい手触りのある映画でしたね。
『マネキン』の明るさと真逆でした。
手触り感というのが大切ですね。
監督、美術、カメラなど、スタッフの考え方でしょう。
下手をすると、ポルノまがいか、難解実験映画か、どたばたファンタジーになりそうなテーマですからね。
この語りかけ、「命」という詩だったんですね。吉野弘という方にも興味がわいてきました。
肉体も、表情も、透明感があったと思います。
吉野弘は、「詩の書き方」なんかの本もお出しになってますね。
見てしばらく経ちましたが、はっきりと覚えてます。
ひとえに、ペ・ドゥナちゃんの突き抜けすぎた存在によるもんだと思いますが、比類ないですね。
あすこまですごいと、反則だよお・・・とも思うほどでした。
反則ですか、そうですねぇ。
ペ・ドゥナは昔から好きでしたが、この作品は、はまり役でしたね。
きれいな体の線を上手に撮って貰っていて、彼女にとっても記念の作品になったとも思います。
劇場鑑賞して、かなり経つのですが、未だに不思議感の残っている作品です。
何が現実で何が夢の中なのかの境目も、ふわっとしてまして。
しかし、強烈なメッセージがあったように思います
。
ラストシーンの動かなくなった人形を見下ろしての「きれい!」の一言が、救われた気分になりました。
映画の解釈を、観客に委ねるところがあるんじゃないでしょうか。
「空気人形」とはなにか。
すぐに答えは出なくとも、ひきずっていくような気がしますね。
切なくなる言葉ですね。
“のぞみ”がオダギリジョーのところへ行く場面が僕にはとても悲しくて、涙が出てきてしまいました。
彼女がある種の人間の公約数だからですかね。
>タンポポの綿毛
が飛ぶ終盤に作者は希望を込めたのでしょうか。あるいは・・・
打ち捨てられて、動くことも出来なくなって。
でも、「こころを持ってしまった」彼女は、なにかを風に乗せて伝えようとします。
そのことは儚いけれど、ひとつの希望だと思いたいですね。