気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

日本の夜明けに貢献・・・ジョン(中浜)万次郎の痕跡を訪ねて(土佐沖で漂流・・・島からの救出)・・・(2)

2017-02-22 01:04:48 | 思い出

 2017年1月6日 高知県土佐清水市、妻と二人で、同じ県内の佐川町の実家から、足摺岬にある万次郎像や生家を訪ねて旅行している。

万次郎の生家や足摺岬の観光を終え、万次郎の資料館に向っているが場所が分からない。

土佐清水市の中心部で通りかかった女子高校生に訪ねると、親切に教えてくれた。

教えられた道路を走行して行くと、すぐに美しい海岸が見えてくる。

 さらに走行すると公園らしきものが見え、その先は、「海の駅」 と書かれ看板と、その下に、「ジョン万次郎資料館」 と書かれた建物が見えてくる。

見える方向にある公園の中を、そのまま走行していると大きなモニュメントが見えてくる。

「なんだろう!」 と思って、車から降りて行ってみると、万次郎たち5人が漂着した無人島 鳥島でのモニュメントであった。

 この公園は、「足摺港公園」 との名称がつけられている。

公園の横には、「海の駅 あしずり」 があり、その施設内に 「ジョン万次郎資料館」 がある。

公園の側に車を止めて散策してみると下の写真のようなモニュメントが展示されている。

万次郎少年像(万次郎と仲間達の群像)

この像は、1991年万次郎漂流150周年を記念して足摺港公園内に建立されている。

無人島 鳥島に漂着し、仲間4人と共に助けを求めている情景を表している像で

「ジョン万次郎少年群像」 と呼ばれている。 (銅像=濱田浩造作)

この群像の横には、下記のように書かれて石碑が置かれている。

 

「天保12年1月5日(1841年1月27日)早朝 宇佐浦(現 高知県土佐市宇佐町)船出した5人の漁師。

 船    頭  筆 之 蒸 38歳 (後にハワイで伝蔵と改名)

 漁 労 係   重   助 25歳  (5年後ハワイで病死) 

 櫓    係  五右衛門 16歳  (以上3人は兄弟で筆之蒸 萬次郎とともに日本に帰還)

同     寅右衛門 26歳  (ハワイに移住)

 炊    係  萬次郎   14歳  (中浜出身で ただ一人アメリカ本土に渡る)

船は足摺岬の南東15km程の沖合で操業中に、突然強風が吹き荒れ 「辰巳の方に押し流され 其疾きこと箭の如し」 (漂巽紀略)とあり、

なんら成す術もなく漂流 5日目にして 南海の孤島(鳥島)に漂着する。

九死に一生を得て島に上陸した5人は、143日間の無人島での厳しい生活に耐え抜き、5月9日(1841年6月27日)

米国捕鯨船 ジョン・ハウランド号(船長ホイットフィールド)に発見され、無事に救助される。

この出会いから 少年 萬次郎(ジョン マン)の波乱万丈なドラマが始まっていくのである。

そして 後に 日米親善の橋渡しと文化の発展に大きく貢献した 萬次郎と仲間達の漂流時の群像である。

平成8年3月 土佐清水市 」

 

足摺港公園のモニュメントを散策した後、「海の駅 あしずり」内にある 「ジョン万次郎資料館」 にむかう。

資料館の入り口で入場料 400円を支払って入館する。

私は、万次郎と同じ高知県出身であることから、万次郎の物語については、若い頃から興味を持っていた。

その興味を決定的にしたのは、20余年ほど前に 津本 陽が書いた、「椿と花水木 万次郎の生涯(上、下)= 読売新聞社」に出会ったときからである。

私はこの本をむさぼるように一気に読み、大きな感動が私の心に芽生えていたことを鮮明に記憶している。

万次郎の勇気ある行動や、ホイットフィールド船長の国家間の将来を見据えた万次郎への愛・教育などが思いだされてくる。

また、日本へ帰国後に、江戸時代末期や明治維新に活躍した多くの改革派の人たちに重大な影響を及ぼしている。

万次郎がアメリカで体験したことや、アメリカの国家体制、経済のシステム・文化など、日本人では考えられないような先進的な情報を日本に伝えている。

このことが幕末の改革派の人たちに、討幕した後の新しい日本の姿や未来の方向に大きな影響を与えている。

万次郎が、こうしてもたらしたアメリカの先進的な情報は、当時の坂本竜馬や、三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎、

土佐藩や薩摩藩・長州藩などの人たちに大きな影響を及ぼし、それを元に、新しい日本の姿を描いていったのではないか! と思われる。

足摺港公園の側にある 海の駅 「あしずり」 その施設内に 「ジョン万次郎資料館」 がある。

「ジョン万次郎資料館」 の玄関 手前には、日本とアメリカの国旗が掲揚され、その中央には、両国を結ぶ船のハンドル(ステアリングホイール=舵輪(だりん)が展示されている。

 

入館してすぐに

 「拓く! 土佐清水では ジョン万次郎の事績を軸に 時代の先駆け、国際交流の礎を築いた万次郎の勇気あるフロンテイア スプリットと その気性を育んだ土佐清水の おおらかな風土を紹介します。」

 と書かれている。 

ジョン万次郎資料館

資料館では、最初に挨拶として ジョン万次郎を次のように紹介している。

「ジョン万次郎資料館へようこうそ。

中濱万次郎(ジョン万次郎)は貧しい漁師の家庭に生まれましたが、類まれな精神力と行動力で自身の運命と未来を切り拓き、日本の夜明けに多大な功績を残した非常に重要な人物です。

ジョン万次郎がアメリカから持ち帰った理念・情報・知識・技術は、幕末の日本をめざめさせ、

坂本竜馬や勝海舟、山之内容堂(土佐藩主)をはじめ、身分の上下を問わず、人々に大きな影響を与えました。

私たちは、その偉業を学ぶと共に、今日の日本だからこそ、ヒューマニズムとチャレンジ精神、ネバーギブアップのジョン万スプリットを

万人の心にと願わずにはいられません。

ご来場の皆さまにおかれましては、会場内に展示されたジョン万次郎の 人生の軌跡を追いながら、

国際人第1号としてのジョン万次郎の崇高な思想と理念を体感していただきますと共に、

ジョン万次郎のふるさと 土佐清水市をまんきつしていただきたいと思います。 」

このように書かれている。 

 

※ジョンマン・スプリット

冒険(アドベンチャー)とは、夢を形に変える行動力の意である。

最大の災難を最大の味方(幸運)に転ずる生き方。

つまり どんな困難に遭っても、希望を持ち、決してひるんではいけない、

人間 前が見えてきたら、後は自分の力で泳ぎきれ、

中濱万次郎は、限りない人間愛と、不撓不屈の精神(ジョンマン・スプリット)を発揮して活躍する。 

ジョン万次郎の肖像画

ジョン万次郎は、1827年1月1日に土佐国幡多郡中浜浦谷前の漁師 悦助と志 夫婦の二男として生まれる。

貧しいながらも、両親の愛に育まれ、万次郎は利発にすくすくと育っていく。

しかし 9歳の時に父親を亡くした万次郎は、母を助け、家計を支えるため、わずか10歳から土地の老役 今津家の下働きに出ることになった。

万次郎の主な仕事は、薪割り、米つき、子守等であったが、年の暮れにもなると、一日に何俵もの米つきを任され、少年万次郎にとっては重労働であった。

そんな折に、米つきの件で、今津家の主人との間でトラブルが発生する。

そんな折に、近くの港に入港し、荷揚げをしていた高岡郡宇佐浦の漁船に出会って事情を話したところ

この漁船の 漁師見習い(かしぎ) として乗り込むことになった。

 

14歳になった万次郎は、漁師見習い(かしぎ)として、宇佐浦(高知県土佐市)の筆之丞(ハワイで伝蔵に改名)に雇われた。

宇佐浦は万次郎が生まれた中ノ浜(現土佐清水市)から80km余りも離れた漁村だが、

どちらも鰹(かつお)漁の盛んな土地柄で、漁師たちの交流は古くから行われていた。

 

万次郎たち5人が乗り込んだ小さな漁舟(伝馬船)

万次郎たちが乗った船は、4間一尺(約7.5m)、櫓を2挺立ての天馬船で、白米2斗余りの食料と、わずかな薪や水が積み込まれていただけであった。

1841年、万次郎、筆之丞、重助、五右衛門、寅右衛門の5人は、足摺岬沖で操業中に、突然の大しけ(北西風)にまきこまれて漂流する。

 

鎖国をしていた当時の日本では、幕府が漁船や商船の大きさ、形態、装備などを制限しており、外洋を航行できないような法をだしていた。

嵐に遭遇する万次郎たち5人の乗った小さな漁舟、突然の大しけ(北西風)に巻き込まれて漂流し、7日目に無人島の鳥島に漂着する。

万次郎とその仲間たち4人が乗った小さな漁船は、宇佐浦(土佐市)を出港し、

足摺岬の沖合で操業中、突然発生した暴風に流され、鳥島に流された漂流経路

 

暴風のために櫓を折り、航行困難になった舟は、足摺岬沖から漂流し、一晩で室戸沖まで流された。

さらに、強風にあおられて紀州沖を過ぎ、黒潮に乗って、そのまま成す術もなく太平洋を流されていく。

出発時に積んできた米(約38kg)で、おかゆをつくり、魚を食べて飢えをしのぎ、雨水をためて飲料水にする。

漂流してから7日目の昼ごろ、東南方向の海上に、小島を発見、全員気力を振り絞って、島に接近する。

夕方、島から200mのところ(舟付)に、いかりを下ろして停泊する。

翌朝,みんなは疲れてはいるが、一人を残して上陸して食べ物と水を求めて島内を散策する。

島の周囲は約8.5km、山の頂上には噴火口があり、溶岩の跡がいたる所でむき出しになっている。 樹木は背の低いものが少しある。

騒がしい鳴き声の鳥のアホウドリが生息している。

羽根を延ばすと2mほどの大きさである。 全部で2,000羽ほどで、巣をつくりヒナを養っている。

さらに散策を続けると近くで洞穴を見つける。 

洞穴は5人が生活するのに十分なスペースがあり、結構温かく、雨露を防ぐことができそうであった。

鳥島の地図

万次郎たちが漂着した鳥島は、八丈島を中心とする伊豆諸島南部の小島である。

鳥島は東京から南へ580kmの海上に浮かぶ活火山島で、東西2.7km、ほぼ円形、海岸線の長さ8.5km

面積4.54平方Km、島の南端のわずかな草むらが、アホウドリの生息地として知られている。

火山活動の活発な無人島である。

鳥島は、黒潮の影響で、難破船などでの漂着者の多い島であった。 近くの小笠原諸島にも漂着することが多く発生していた。

 

現在の鳥島

無人島でアホウドリの生息する鳥島 火山活動も活発な島である。 

 

鳥島に生息するアホウドリ

万次郎など鳥島への漂着者が、生命を永らえることができたのは、アホウドリのおかげである。

それは、海草、魚貝類とともに、かけがえのない栄養源となった。

後に、羽布団などのために乱獲される時期があったが、現在は特別天然記念物、国際保護鳥に指定されて保護されている。

 

万次郎たち漂着者 5人が、無人島であるこの島に漂着してから143日間もの過酷な生活を余儀なく過ごしていた。

 

ある日の朝(1841年6月27日)

東南の方角に黒い物体を見つけた。 島ではない。 雲か! じっくり見ると動いている。 船だ!

土佐周辺では見たことがないような大きな帆船であった。 筆之蒸が 「あれは異人船だ!」

船はどんどん近づいてくる。 大きな船体、帆がいくつも張ってある。

「助かるぞ!」 誰もが叫んだ。 「やっと運が俺たちにめぐってきたんだと!」 と、誰もが思った。

みんな、こおどりして喜び、両手を振り、大声を上げて、懸命に救いを求めた。 

しかし、船は、5人に気づかずに、そのまま走り去って行った。

大きな喜びが、大きな失意に変わり、がっくりと力が抜けていく。

みんなの顔には、涙が流れ、じっとしていられなくなり、住みかの洞窟に戻ると号泣していた。

万次郎は、悲しみをまぎらわすために、海辺に下りて海草や貝などを取り始めた。

そうすることで、興奮をおさえ、平常心を取り戻そうとしていた。

ところが、昼が過ぎた頃、朝見かけた船が、また、島に近づいてくる。 信じられない気持であった。

しばらく見とれていると、沖合にピタリと止まり、大きな帆船から小舟が2隻下ろされた。

2隻とも帆を張って、5~6人の大きな男たちが漕ぎながら、島へ近づいてくる。

万次郎たちは、驚いて飛び上った。

 大声で 舟が来るぞ! と 叫ぶと 全員が集まってくる。

 ぼろぼろになった着物を棒切れにくくりつけ、それを振って大きな声で叫んだ。

「おおい 助けてくれ! 助けてくれ!」

向こうも気づいた様子だった。 小舟は、帆をおらし岩場を縫うように近寄ってくる。

変わった服装の異人、顔が真っ黒の異人もいて、初めは怖いと感じ、後ずさりしたが、

異人たちは、ニコニコ笑いながらこちらに向かって手招きしている。

みんな 海に飛び込み、小舟に向って泳ぎ始めた。  近づくと相手の小舟に引き上げてくれた。

その後、万次郎に、もう一度飛び込み、島に帰るように指図してくる。

最初 何かと思ったが、島においてある荷物を持ってくるように言っているようであった。

洞穴から 荷物を持って小舟に変えると、小舟は本船に向って漕ぎだした。

本船は見上げるばかりの大帆船であった。

乗組員が見守る中、5人は船長室に案内された。 家具といい、調度品といい、見たこともないような立派なものであった。

 

 万次郎たち漂流民の全員が救助される状況については、お互いに言葉が分からず、手振り、身振りで、伝えるしかなく、定かな情報はないが、

万次郎たち5人が救助された当時の様子を 航海日誌には、

「1841年6月27日、日曜日、本日南東の微風。午後1時 島を見かけ、海ガメがいるかどうか調べるため、2隻のボートを出す。

やせ衰え、直ちに救助を要する5人を島で発見、救出するも、飢えを訴えるほか何も理解できず。 島は北緯30度30分」

鳥島での、漂流者との劇的な出会いを、このように淡々と記している 。

 

万次郎たちを救助したジョン・ハウラン号の船長をはじめ、乗組員の方々は、万次郎たち漂流民に対して好意的であった。

ただ、当初、船長は、突然舞い込んだ遭難者の扱いに困惑していた。

太平洋のど真ん中の船の中で長期にわたり、言葉のわからない5人分の食料や水の確保を心配していた。

気の荒い船乗りと、些細なことでのトラブルも心配していた。

船長は、彼らに仕事を与えた。 甲板の掃除、牛や豚の世話などの仕事だったが、みんなよく働いた。

特に、なんでも敏捷にこなす、万次郎には、船員たちも好意的だった、

たまたま通りかかり、万次郎たち5人の漂流民を無人島 鳥島で救助したアメリカの捕鯨船 ジョン・ハウランド号 

通りかかったアメリカの捕鯨船 ジョン・ハウランド号の模型、 3本マスト 建造重量377トン、船体長38.4m、船体幅8.3m 

の捕鯨専用の木造帆船で、30人~35人程度の船員が乗って捕鯨活動をする大型捕鯨船。 さらに小舟を8隻乗せている。

アメリカの捕鯨船 ジョン・ハウランド号の ホイット・フィールド船長,万次郎をアメリカに連れて帰り、高等教育を受けさした恩人 ホイットフィールド船長

1841年1月、当時14歳の万次郎が、宇佐浦から仲間4人と漁に出て遭難し、漂着した鳥島で、

143日間に及ぶ過酷な無人島生活をおくっていたところを救助したのが、海ガメの捕獲のため、

この島にやってきたのがアメリカの捕鯨船 ジョン・ハウランド号であった。

 

ジョン・ハウランド号の船長や乗組員は、万次郎たちには親切で、身振り、手振りで、話しかけてくる、実に陽気で、親しみのもてる人たちだった。

万次郎は、彼らの話すことに一生懸命に耳をかたむけ、教えられた言葉を、何度も繰り返し、声を出していた。

覚えだての言葉を使うと、みんなが喜んでくれた。

万次郎は、どんなことでも、ぐんぐん吸収した。 鳥島を後にしてから、およそ 5ケ月間で、異人の言葉を一生懸命に覚え、彼らの習慣もまねをしていた。

万次郎は、動作が機敏で いつも 「アイ・アイ・サー」と答えて、良く働く万次郎に、愛称が贈られた。

「マン・ジ・ロー」は 三つに分かれ、発音しにくいことから、

万次郎を 「マン」 にちじめて、性とし、船の名前のジョンをとって ジョン・マン」(Jhon Mung) と呼ばれるようになった。

万次郎の仕事は、甲板の掃除や船長の身の回りの世話が主な仕事であったが、志願して捕鯨の仕事も覚えていった

 

本船から何艘かの小舟に分かれて、本船からの信号旗で情報交換をしながら鯨漁をする。

捕鯨船であるジョン・ハウランド号は、万次郎たち5人を救出後も捕鯨をしながら航海を続ける。

太平洋は、足摺岬の海と違って、すべてが雄大であった。

風の強さも想像を絶するものがあり、いったん荒れると、大きな山のようで、船を呑み込み、一瞬のうちに沈める力があった。

万次郎たちは、もう駄目かと何度も思ったことがあった。

しかし、船はむっきりと起き上がり、大波を乗り切っていく。

特に、嵐のときは、船長が舵輪を握り、どんな大波でも、どんな強い風でも、鮮やかなさばきで乗り切っていく。

万次郎や筆之蒸は、文句のつけようもないすごい腕だと思った。

特に船頭である筆之蒸は、兜を脱がざるを得なかった。

このような捕鯨と航海を続けて、三か月ほどたったある日、遠くに島が見えてくる。 

日本は冬であるが、この辺りは夏のように暑かった。 ハワイ諸島 オアフ島のホノルルであった。

 

ハワイのホノルル港に寄港するまでの約半年間、万次郎は持ち前の勘と利発さで、アメリカの先進の捕鯨技術、言葉、習慣などを覚えようと一生懸命に働いた。

  知識欲が旺盛で吸収率も高かった万次郎は、言葉や習慣、捕鯨の仕事なども少しずつ覚えて、船員たちになじんでいった。

ホイットフィールド船長は、何事に関しても一生懸命になって取り組んでいく万次郎に好感をもつようになり、他の船員たちも万次郎を仲間として受け入れ、とても可愛がっていた。

この年(1841年) 11月、期待通りの漁獲を挙げたジョン・ハウランド号は、太平洋の真っただ中に浮かぶ、ハワイ ホノルル港にいかりを下ろした。

 

ジョン・ハウランド号が停泊した  オアフ島 ホノルル港のあるハワイ諸島

当時、日本は鎖国を続け、オランダ船以外は寄せ付けなかった。 

ハワイが捕鯨船の補給基地として利用され始め賑わっていた。

ホノルル港に寄港して、ホイットフィールド船長は、5人の日本人漂着者を連れて、今まで親交のあった宣教師で、医師でもあるG・P・ジャッド氏を訪ねた。

船長は、5人の遭難のいきさつを話すと、ジャッド氏は快諾してくれ、引き受け人になってくれた。

 役場の斡旋で、住居もあてがわれ、ハワイの人たちは、5人の漂流民を温かく迎えてくれた。

 

そんな折に、船長のウイリアム・H・ホイットフィールドは、5人を保護した後、一番若く、利発で、まじめに仕事をこなす万次郎の姿をよく見ていた。

この若者ならば、将来、きっとアメリカや日本のために役立つ人間になるかも知れない。

そのためには、アメリカに連れて帰り、高等教育を受けさすことが大切である。 と考えるようになったいた。

船長は、このことを親代わりで、船頭でもある筆之蒸に先に話をする。

 筆之蒸は、「みんなを無事に日本に連れて帰らねば」 と日ごろから責任を感じていた。

万次郎の将来を考えると・・・アメリカに行ってで先進技術を学んだ方が・・・などの考えもあって、

「本人さえ よければと・・」 と返答する。

その後、船長は、万次郎に直接話をする。 

万次郎も、日本と違ってアメリカの社会制度や捕鯨や航海技術などに興味が深々と湧いていたのと、自分を子供の用に可愛がってくれる船長や船の仲間たちと別れたくはなかった。

「万次郎をアメリカの自宅へ連れて帰りたい」 との船長の申し入れを 快諾したのはいうまでもなかった。

 

 ハワイ諸島 オアフ島 ホノルル港に停泊する捕鯨船群

1842年1月、捕鯨船ジョン・ハウランド号は、筆之蒸などの漂流民4人をハワイで下船さして宣教師に預けた後、

日本人の新人 ジョン万次郎 一人を加えて捕鯨の航海へと、ホノルルを出港していく。

 

ホイットフィールド船長との運命的で、奇跡的な出会いがあった万次郎の人生は、これから大きく変わっていく。

日本の鎖国時代が続くなかで、自由で先進的な体験や教育を受けることになる万次郎は

日本に帰国後、アメリカで学んだ知識や技術、情報などが活かされ、新しい日本の国造りに大きな影響を与えていくことになる。

 


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