気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

伏見稲荷大社 外国人に大人気の朱塗りのトンネルが・・・娘たちとの京都旅行・・・その

2016-05-25 22:30:25 | 思い出

 2016年(平成28年)3月15日(火)晴れ、インドネシアバリ島に住む娘や孫たちと、昨日から京都旅行に来ている。

昨日はあいにくの天気であったが、今日は一転し青い空が広がり、観光には申し分のない天気である。

午前中は宇治にある平等院を見学、浄土庭園の中島に造られた鳳凰堂(ほうおうどう)の建築様式や色鮮やかさに感動していた。

鳳凰堂の見学を終えた私たち家族4人は、JR宇治駅から伏見稲荷大社のある稲荷駅に向かった。

宇治駅から15分ほどで稲荷駅に到着すると、駅には多くの外国人が家族連れで訪れている。

伏見稲荷大社の第一鳥居の前でにある稲穂をくわえている狐の像、 稲荷社では、神様の使いとして狛犬に代わって狐が入口におかれる。

稲荷大社は商売繁盛や五穀豊穣の神として多くの人たちから崇敬されている。 

狐が稲穂をくわえている姿は、五穀豊穣を強く祈願する当時の人々の気持ちが理解できそうである。

 

伏見稲荷大社は、JR奈良線稲荷駅の目の前にあり、道路を挟んで大きな朱色の鳥居が立てられ、

大理石で敷かれた参道が真っすぐに稲荷大社本殿方向に延びている。

参道の奥には、朱色の鳥居や伽藍が立てられ、訪れた多くの人たちで賑わっている。

 

ここ京都にある伏見稲荷大社は、境内に朱色の鳥居が1万本以上あり、

朱色の鳥居はトンネルのようにどこまでも続く、圧巻の光景が外国人を魅了する、大人気の観光スポットになっている。

2013年の「外国人に人気の観光スポット調査では2位を、2014年では「広島平和記念資料館」を抜いて1位を、

2015年も連続で一位となっている。

これは、紅い鳥居が続く風景が非常に日本的なことと、拝観料不要や、閉門時間もないことと、

稲荷山の山巡りが、欧米人が好むウオーキングができることなどが理由としてあげられている。

私たちも駅前の第一鳥居をバックに記念撮影した後、家族4人で楼門の方に向かって行く。

 

伏見稲荷大社は、全国に三万余りある稲荷社の総本社である。

京都市伏見区の稲荷山の山麓に本殿があり、稲荷山全体を神域としている。

稲の神、農耕の神として信仰され、時代とともに商売繁盛、家内安全、芸能まであらゆる神徳を持つとして、多くの人々に厚く信仰されている。

鳥居は、私たちの住む領域と、神様の住む神域を結ぶ入口の部分に建てられ、鳥居ををくぐると、そこは神様の住む神域である。                    

伏見稲荷大社の案内図

伏見稲荷大社の祭神は、宇迦乃御魂大神(うかのみたまのおおかみ)、佐田彦大神(さたひこのおおかみ)、大宮能売大神(おおみやめのおおかみ)、田中大神(たなかのおおかみ)、四大神(しのおおかみ)である。

創祀は、元明(げんめい)天皇の和銅4年(711年)で、稲荷山の三ケ峰に神が鎮座したのが始まりと伝えられている。

もとは渡来系の秦氏の氏神だったと云われ、明治まで秦氏の子孫が神職として奉仕していた。

豊臣秀吉によって建立された楼門(重要文化財)

 

 戦国乱世に終止符をうち、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、文禄3年(2594年)伏見に大城郭の建築と城下町造りを開始し、伏見の街一帯は大きく変容していった。

稲荷大社の出世開運、商売繁盛など、現世の招福が多いことから、秀吉は稲荷大神に深い崇敬をよせていた。

そんな折、秀吉の生母大政所の大病平癒を稲荷大神に祈願し、大がかりな祈祷を執行した結果、大政所の大病は平癒していく。

これによって、秀吉は稲荷大神への信仰を益々深め、稲荷大社の本格的な修復を行っていった。

この楼門はその折に建立されたものである。

多くの人たちが訪れ、鮮やかな建築美を放つ第二鳥居からの楼門(重要文化財)

手水舎(ちょうずや)で参拝の前に口や手を清める人達。

多くの人達が訪れる楼門、鮮やかな着物姿の女性や外国からの観光客が多く見られた。楼門の前の両側には、狛犬に代わって狐の像がおかれている。

楼門に掲げられている 色鮮やかな 「伏見稲荷大社」

訪れた多くの人たちはこの楼門をくぐり抜け、外拝殿(げはいでん)へ向って行く。

 

私たちは、楼門をくぐり抜けると、その後には、外拝殿(げはいでん)がある。そのうしろには、内拝殿(ないはいでん)と本殿があり、その方向に進んで行く。

これらの伽藍は、第一鳥居からは本殿まで、直線状に並んで建てられている。

下拝殿は、楼門の後ろ側にあり、内拝殿の前にある。 きらびやかな美しい建築美を見せる外拝殿(げはいでん)(舞殿)

外拝殿(げはいでん)、後ろには内拝殿があり、多く人たちが参拝する姿が見えている。 本殿は内拝殿の後ろに建てられている。

外拝殿は楼門と同時期に建立され、1840年(天保11年)に改築される。

外拝殿の軒先には12基の釣り灯篭が下がり、黄道12宮の星座を表したデザインが施されている。

きらびやかなで美しく飾られた外拝殿(舞殿)の舞台から内拝殿(ないはいでん)方向を見る。

毎日のように舞いや琴、笛などの優雅な音楽が奉納される神楽殿

1882年(明治15年)能楽殿として建造される。 神楽殿では祈祷に訪れた人々のために毎日のように神楽が奉納されている。

神楽女の舞や、神鈴や琴、笛の優雅な音楽が境内に鳴り響き、人々を楽しませてくれる。

この石段を上ると内拝殿(ないはいでん)の拝殿があり、本殿は内拝殿の後ろ側に建てられている。

 

内拝殿は、1694年(元禄7年)の建立の時に、本殿に付け加えられた唐破風朱塗向拝を、1961年(昭和36年)に本殿から切り離して現在の形にしている。

 内部は祈祷拝受座になっている。

本殿は内拝殿の後ろ側にあり、内拝殿は本殿の前に建てられて、本殿と内拝殿を一緒にされる場合もあるようです。

訪れた多くの人達が内拝殿の拝殿から各々の願い事などを秘めて参拝している。

本殿をバックに記念撮影、本殿と内拝殿は部分的にはつながっているが別個の建物である。 左側が本殿、右側が内拝殿である。

左側にあるお守りやお札などの受与所があり、買い求める若い人達で賑わっている。

私たちは、内拝殿で参拝した後、賑わう お守りやお札の授与所の前を通り鳥居千本に向かって行く。

私たちもこの鳥居をくぐり、大勢の人たちと一緒に鳥居千本へ向かって行く。

鳥居千本までの途中にある玉山稲荷社(祭神は玉山稲荷大神)

この神社の前を通ると右側に石段があり、鳥居千本に向かって一段一段と登って行く。

鳥居千本の入り口、ここから参道には一寸の隙間もなく鳥居が立てられ、鳥居のトンネルが続く。

 

朱塗りの信者から奉納された鳥居がトンネル状に隙間なく立ち並ぶ千本鳥居。

願い事に御利益があった信者が、お礼の意味から鳥居を奉納する習慣が江戸時代以降に広がる。

その結果 「鳥居千本」 誕生するが、現在では一万基以上の鳥居があると云われ、

稲荷山の参道全体に林立している。

朱色で塗られた鳥居が立ち並ぶ参道は、ゆりやかな坂道になっているが 私たちも訪れた大勢の人達と一緒に参道を上って行く。

鳥居千本の参道も 二つに分かれるが 途中で また 合流する。

誰もいなくなった鳥居トンネル、ゆりやかな曲線を描きながら、色鮮やかな鳥居と太陽光線が独特のコントラスを描いて美しい光景を見せている。

鳥居千本の鳥居トンネル内の参道は道幅が狭く、通行する多くの人同士のぶつかりあいがあって、時々よろけたりする時もある。

鳥居トンネルが続く参道をしばらく上って行くと、鳥居トンネルがなくなり、小さな祠が無数に建てられている場所に出てくる。

参道沿いには多くの塚と呼ばれる祠が林立しているが、私たちはそのまま参道を進んで行く。 

私たちは塚の横にある石段の参道を登って行くと、山に囲まれた小さな池があり、その周辺には鳥居や小さな伽藍が建てられている。

新池、 谺ケ池(こだまがいけ)の別名があります。 

行方不明になった人の居場所を探す時、「池に向かって 手を打ち こだまが返ってきた方向に手掛かりがつかめる」 という云い伝えがあります。

当初私たちは、鳥居トンネルの続く稲荷山の山頂まで登る計画をしていたが、

新池近くの人に、稲荷山までの登頂時間を尋ねると、まだ、この場所から30分はかかるとのことであった。

京都駅から関西空港行の特急電車「はるか」の予約時間が16時45分である。 稲荷山まで登ると間に合わない恐れが出てくる。

みんなで相談した結果、この場所から下山して、京都駅に向かうことにした。

下山ルートは、途中までは同じであるが、別ルートで下山を始める。

鳥居トンネルの続く別ルートから下山を始める。

下山する参拝道から、鳥居トンネルの様子が一望できる場所にでてくる。 それにしてもすごい鳥居の数で、その多さには驚かされる。

 

私たちは、内拝殿や楼門の横を通り、JR奈良線稲荷駅まで下って行く。

初めて訪れた伏見稲荷大社、さすが外国人の人気ナンバーワンだけの見ごたえのある神社である。

どこまでも続き、きわめて日本的で、紅い鳥居でできたトンネルがどこまでも続く光景はまさに圧巻である。

今回の京都への旅でも、外国人の多さにはお驚かされるが、ここ伏見稲荷大社では、日本人よりも外国人が多いようにさえ感じる。

それに、鳥居トンネル以外でも、伏見稲荷大社の多くの伽藍が、きらびやかな紅い色で統一された美しさを、神社全体的を引き立てるように見せている。

特に楼門などの細かい細工や鮮やかな色彩は、いつまで眺めていても飽きることがなく、日本木造建築技術の伝統と美しさや奥深さを感じさしてくれる。

特急はるかで車内で談笑しながら、車窓から見える日本の美しい風景を楽しむ。

特急「はるか」は速いもので午後6時ごろには、日根野駅に到着する。

昨日の出発前には、かなり強い雨が降り、午前中の東寺などの観光はあいにくであったが、午後からの清水寺では、天気は回復してくる。

今日は、朝から観光には申し分のない天気で、平等院や伏見稲荷大社の観光を楽しむことができた。

娘や孫たち初めて観光に訪れた平等院の日本建築の素晴らしさや、圧巻の紅い鳥居トンネルの続く伏見稲荷大社を見学出来て満足そうであった。

また、娘たちは明日から、孫の要望で長野県の野沢温泉へスキーに行く予定になっている。

私たちは、仕事の関係で、明日の午後から東京へ車で出発する予定である。

娘の提案で実現した今回の京都旅行は、ほんとに思い出の残る、いい旅であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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平等院 きらびやかな平安の色彩が・・娘たちとの京都旅行・・その

2016-05-19 22:26:07 | 思い出

 

平成28年(1916年)3月15日 バリ島から来た娘と孫、私たち夫婦の4人は、京都駅前のホテルをチエックアウトした後、

京都駅構内で軽いモーニングを済まして、JR奈良線で、平等院のある宇治市へ向かった。

JR宇治駅までは25分程で到着する。 

お茶の産地として有名な宇治は、古くから名勝の地として知られ、平安時代には公家や貴族の別荘が多く建てられていた。

私たちは駅前の観光案内所で平等院に関する情報を確認した後、ゆっくりと平等院に向かって歩いて行く。

しばらく歩くと左側に宇治川があり、擬宝珠を冠した美しい宇治橋が自然の景観に調和するように架けられている。

伝承では、646年(大化2年)初めてかけられたと伝えられ、京都府宇治市に属している。

現在の橋は、1996年(平成8年)に架け替えられたもので、長さ155m、幅25mの橋である。

橋が宇治川の自然や周辺の歴史遺産に調和するように擬宝珠を冠した木製高覧という伝統的な形状を使用している。

宇治橋は、瀬田の唐橋、山崎橋とともに日本三古橋の一つに数えられている。

また、宇治橋は昔からの物語にもたびたび登場する。

古今和歌集や紫式部の源氏物語、能の「鉄輪」で登場する橋姫伝説、狂言のモデルになった通圓茶屋、小説「宮本武蔵」などで登場している。

 

宇治橋の右方向が、平等院への表参道で、橋のたもとには、源氏物語の作者として知られている紫式部の像が建てられている。

私たちは紫式部の像の前で記念撮影を済ますと、参道の両側に食堂や御土産店などが並ぶ表参道を平等院に向かって行く。

私はかつてから、平等院に対しては写真を見るたびに、「なんという細かい細工をしたきれいな建物だろう!」

「京都に行ったら見に行こう」 と思っていたが、どういうわけか、今日まで実現することはなかった。

ようやく、今回 バリ島に住む娘が、「京都へ 一泊旅行に行こう!」 と言い出し、実現することになった。

JR宇治駅に降り立ったところから、私は平等院に対して興味が深々と湧いていた。

「どんな場所に建てられているのか!」 「周りとの景観や平等院を取り囲む池などの景観は、どうなっているのだろうか!」 楽しみであった。

宇治橋からの参道を5分ほど歩くと、前方にこんもりとした公園のような森が見えてくる。

さらに 進んで行くと、右側に平等院と書かれた石柱が立てられている。

平安時代からの景勝地だった宇治川のほとりにある平等院の入口

 

平等院は、平安時代に貴族の頂点を極めた藤原道長の別荘があった宇治川を臨む景勝の地に造られている。

道長の息子 時の関白であった頼通(よりみち)によって最初に開かれたのが平等院の始まりである。

平安時代の後期、末法の世に入るといわれていた永承7年(1052)、末法思想が、貴族や僧侶らの心をとらえていた時代に、極楽往生さながらの美しさを平等院はほこっていた。

その影響から浄土信仰が社会の各層に広く流行するようになった。

 その翌年の天喜元年(1053)には、平等院の阿弥陀堂(鳳凰堂=国宝)が落慶し、堂内には、平安時代の最高の仏師「定朝」によって制作された丈六の阿弥陀如来坐像が安置され、華やかさを極めたとされている

 

※末法思想とは、釈迦が説いた正しい教えが世で行われ、修行して悟る人がいる時代(正法)が過ぎると、次に教えが行われても、外見だけが修行者に似るだけで悟人がいない時代(像法)が来て、その次には、人も世も最悪となり、正法が全く行われない時代(末法)とする歴史観のことである。

平安時代末期に災害、戦乱が頻発したことにともない、終末論的な思想が定着し、世界の滅亡と考えられ、貴族も庶民も、その末法の到来に怯えていた。

 さらに、末法では現世における救済が否定され、死後の極楽浄土への往生を求める風潮が高まり、浄土教が急速に広まった。

※浄土教(じょうどきょう)とは、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し、成仏することを説く教え。 浄土とは、一般に阿弥陀仏の西方極楽浄土をさす。

 

※浄土信仰は、阿弥陀仏の救いを信じ、死後、この世の穢土(えど=けがれた世界)を去って、仏の住む西方(せいほう)極楽浄土に往生することを願う信仰のことである。  浄土三部経での教えをもとに、中国で発達、日本でも平安時代後期に末法思想が強まると、貴族や庶民の間で広まった。

この時代には、法然(ほうねん)が浄土宗、親鸞(しんらん)が浄土真宗、一遍(いっぺん)が時宗を確立、法華信仰とともに、日本仏教の大きな思想的な流れを形成している。

 

約1000年前に建立された建造物や仏像が今に伝えられ、世界遺産にも登録されている。

 

平等院の配置図 右下に宇治川が流れ、宇治橋は右斜め上の方向に位置している。

 

平等院の世界遺産登録は、平安時代の後期・11世紀の建築、仏像、絵画、庭園などを今日に伝え、「古都京都の文化財」として登録されている。 

平等院は、京都の南、歴史的な文化遺産を残す宇治川のほとりに建てられる。

浄土式庭園である平等院庭園では、中心に阿字池(あじいけ)を据え、池の中島に人々を救済するという阿弥陀如来像を設置する鳳凰堂が建てられた。

 

 

表参道から進んで行くと右側に受付にて拝観料(大人=600円)支払って、この表門から入場して行く。

 

よく手入れされた庭園の樹木を眺めながら、進んで行くと、左側に観音堂が見え、その先には季節的にはまだ早い藤棚が見えている。

さらに進むと、池に囲まれた美しい平等院の鳳凰堂が、その手前には紅い二つの小さな橋が見えている。

よく整備された庭園の池に浮かぶ、初めて見る平等院鳳凰堂の紅い建物、池に逆さに映りながら、庭園と左右のバランスのとれた歴史的な木造建築物、

あまりの美しい建築様式の建物に、我を忘れたようにしばらく見とれていた。

 

鳳凰堂は平成24年9月から行っていた修理が、平成26年3月に完工して、紅い漆塗りの美しい外観が蘇っている。

平等院の庭園は、池の中島に鳳凰堂が建つ阿字池を中心とした浄土式庭園で、国指定の名勝に指定されている。

池の側から紅く修復された鳳凰堂を見ていると感動が湧いてくる。

阿字池(あじいけ)の中島に建てられ、二つの橋が架けられた平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)。

鳳凰堂は中心の中堂と、その左右に連なる南北の翼廊、中堂の背後に繋がる尾廊の、四棟の建物から構成されている。

 

平等院鳳凰堂 1053年(平安時代)に藤原頼道が造立し無量寿院と号した。

建物全体が、鳳凰が羽を広げたような形状であることと、屋上にある銅製の鳳凰があることから鳳凰堂と呼ばれるようになった。

鳳凰堂の中堂には、本尊として祀られている阿弥陀如来が安置されている。

 

 池の中島に建つ平等院鳳凰堂は、10円硬貨のデザインでも有名で日本国民に広く知られている。

宇治池の中島に建てられた中島にある鳳凰堂をバックに家族全員で記念撮影する。

宇治池の中島に建てられた平等院鳳凰堂

建物の構造は、木造入母屋造りで屋根は本瓦葺となっている。 構造形式も中央と左右同じ建物から構成されている。

建物の機能は、中堂だけが、人々を救済する阿弥陀如来像を祀っているが、両翼廊は中堂を引き立てるための装飾的な建物で実用性はないと言われている。

中堂の背後に繋がっている尾廊も、中堂に渡る通路としての役割に過ぎない。

 

湖面にも逆さに映り、バランスのとれた美しさを見せる平等院鳳凰堂

鳳凰堂の建物は、阿弥陀如来を祀る中堂と、それに連なる両サイドの南北翼廊・さらに中堂の後方に繋がる尾廊から構成されている。

中堂の南北の翼廊は、形式が等しく造られ、切妻造り、本瓦葺き、一重二階建てで、中堂の側面から南北方向に延び、、途中で東方向に折れ曲り、平面的にはL字型になっている。

直角の曲がりの部分には隅廊(3階部分)は宝形造り、本瓦葺きで、屋根頂上部には宝珠を乗せている。

鳳凰堂は中心の中堂とその左右に重なる翼廊、中堂の背後にある尾廊から構成されている。

中堂の正面に人々を救済する阿弥陀如来が祀られている。

外観的には2階建てに見えるが、建築構造は一重裳階付き(いちじゅうもこしつき)である。

※裳階(もこし)とは、身舎(もや=母屋、身屋)建物の主要部分の周囲に差し掛けられた屋根の部分。

身舎は入母屋造り、本瓦葺きで、棟上には、一対の銅製の鳳凰を置いている。 

阿弥陀如来像が祀られている中堂正面、

外側の扉を開けると、内側の格子には軍配形の窓が開けられ、阿弥陀如来の面相が見えるようになっている。

※軍配(ぐんばい)=現在では大相撲の行事が持っている物

鳳凰堂は、東向きに戸を開き、阿弥陀如来像を安置している。 拝礼に訪れた人々は、池の対岸から西向きに阿弥陀如来を拝むこととなる。

これは、阿弥陀如来のある極楽浄土は、西方にあるという浄土の世界観を表現したもので、平安時代には、このような極楽浄土が信じられ、浄土式の庭園が多く造られた。

阿字池(あじいけ)南西方向から望む平等院鳳凰堂

平等院は平安時代の浄土寺院の形を、そのまま残す寺院としても、貴重な価値があると評価されている。

 

平等院鳳凰堂の屋根の上にある鳳凰

保存上の観点から、1968年以降は、棟上げにはレプリカの鳳凰が設置され、実物は別途保管されている。

鳳凰堂の屋上にある鳳凰

平等院の鳳凰堂の屋上にある鳳凰から採用されたといわれる一万円紙幣の鳳凰

 

私たちは鳳凰堂のある阿字池の周りに造られた参道を、時計回りで写真撮影をしながら進んで行く。

どの角度から鳳凰堂を見ても、前には池があり、枝ぶりの良い樹木が植えられ、趣のある建築様式と色彩が鮮やかである。

鳳凰堂は中堂を挟んで左右対称の建築様式や、紅い色彩の柱、組物と本瓦葺きの屋根などと、阿字池や庭園と見事に調和された美しさを放っている。

阿字池の南西方向から見る鳳凰堂、屋根と紅い柱や組物と池とのバランスが素晴らしい建物である。

南翼廊の三階部分に当たる隅廊、宝形造り、本瓦葺き、で屋根の頂上部には、瓦製の宝珠を乗せている。

南翼廊の一階部分は建具や壁はなく開放された床も張られていない。 左の白い壁のある建物が中堂と繋がる尾廊である。

中堂の後ろ側に繋がっている尾廊も、切妻造りの本瓦葺きである。 池をまたぎ通路としての役割を果たしている。

尾廊方向から見た中堂、北翼廊 庭園の反り橋があり、鳳凰堂への入堂も池の北岸から、2つの小橋を渡るように造られている。

阿弥陀如来を祀っている中堂を中心に北翼廊と尾廊が、平面的にL字形で造られている。

庭園の北岸から二つの小橋を渡り鳳凰堂の北廊へ渡って行く。 反り橋は大改修の折に州浜に復元される。

阿字池の中島に建つ鳳凰堂の北岸からの入り口にあたる北翼廊、阿弥陀如来を安置している中堂とつながる尾廊

 

平等院鳳凰堂を阿字池の周りからゆっくりとした見学を終えた後、隣接している 「平等院ミュージアム鳳翔館」を見学する。

この館では、写真撮影が禁止されているために、国宝などの展示物を紹介できないのが残念である。

国宝の梵鐘、国宝雲中供養菩薩像26躯(全52躯のうち)、国宝鳳凰、重文十一面観音立像などが展示されている。

中でも驚いたのは、雲中菩薩像の姿である。 

琵琶や琴などの楽を奏でる菩薩、笛や太鼓などの菩薩、柔らかの表情で楽しそうに踊る菩薩など、

極楽浄土との往生を願った平安の人たちの強い信仰心と来世への憧れが感じられる。 来世の天国での楽しさを現しているようである。

 

平等院の平等とは、どういう意味でつけられたのだろうか!

私はかつてから、地球上の人間も、動物も自然環境も、お互いに依存しあい、助け合いの精神で付き合うべきだと考えている。

地球は 決して人間だけのものではない。 人間のみで考えていると、大災害などのしっぺ返しを食らってしまう。

人間同士でも、本来は平等であるはずが、いつの間にか差別のある階級が造られてしまう。

人間の本質は、一人では生活ができず、社会という単位で集落や村、町、国といった組織体を築かなければ生きていけない。

その折に衣食住など生活していく上で、欠く事の出来ない大切な物を作らなければならないという役割が生じてくる。 

この役割が仕事で、社会全体で必要なものは誰かが、必ずやらなければならない。

食をつくる人、住をつくる人、衣をつくる人、それを束ねたり、指導する人、法などが、社会を公正に運営する上では必ず必要である。

人間は本来生まれながらにして平等であるが、子供や老人などを除いて必ず、社会的な役割である仕事をしなければならない。

仕事をする上でも、一生懸命頑張る人、怠ける人たち、あるいは自分のことしか考えない人、泥棒などルール守らない人たちが、出てくるのも社会である。

平等院が建立された平安時代の末法が信じられ時代には、社会秩序が乱れ、「自分たちの努力や力ではどうにもならない!」と考える人が多く出現している。

阿字池の中島に建てられた平等院の鳳凰堂にある阿弥陀如来を拝むこと、来世の浄土信仰を信じ、希望のある日常生活を生き抜いていくことが必要であったと考える。

そういった意味で、平等院の「平等」の名前は、多くの人々に大きなインパクトを与えたと思われる。

 

私たちは、平等院の見学を終えた後、駅前のレストランで昼食を摂り、次の目的地である、伏見稲荷神社に向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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娘たちとの京都旅行(東寺・清水寺)・・・その

2016-05-13 17:58:37 | 思い出

  平成28年3月9日 インドネシア・バリ島に住む娘が15歳になる孫を連れて関西空港に降りたった。

 半年ぶりに見る娘も顔色も良く、元気そうであった。15歳になる孫も、見るたびに大きく成長しているようで、娘も子供の成長を実感、微笑ましさが、伝わってくる。

 今回の日本滞在は、12日間と短いが、長野県の野沢温泉でのスキーや、いとこの住む浜松訪問など、内容的には忙しい日程となっている。

 そんな折、娘が急に家族4人で一泊二日の予定で京都に行こうと言いだし、3月14日と15日に行くことになった。

 14日(月)は雨であいにくの天気であったが、自宅からマイカーでJR日根野駅近くの駐車場まで行く。

日根野駅からJR関西空港駅始発の特急「はるか」9時25分発に乗り込み京都へ向かった。

車窓から見る日本の景色を娘たちと楽しんでいると、早いもので10時35分には京都駅に到着する。

京都ー関西空港特急「はるか」の前で 京都駅

多くの人達で賑わうJR京都駅の中央コンコース

京都駅に到着し、1階の改札口からコンコースに出て上空を見上げると、広大な吹き抜けになっていて、その巨大さに驚かされる。

今日は自宅を出てから、まだコーヒーを飲んでいなかった。 京都駅構内のコーヒーショップを探すとすぐに見つかった。

やはり、朝のコーヒーはおいしい。 今日一日のエネルギーが湧いてきそうである。

娘もコーヒーが大好きであるが、必ずミルクをたくさん使って飲んでいる。

私と妻はいつもブラックコーヒーである。 孫はジュースを飲んでいる。

コーヒーを飲み終えたあと、世界遺産に登録され、五重の塔として国内最大の高さを誇る「東寺」に行くために近鉄京都駅に向かった。

東寺の五重の塔は、京都の近代的な都市イメージの中で、ひときわ目立った存在で、京都独特の景観を作り出している。

新幹線からも、高速道路や周辺の山容からも、東寺の五重の塔が京都らしい風景を醸しだし、古都「京都」のシンボルとしての都市景観を構築している様に思える。

 

近鉄京都駅から東寺までは一駅で、駅から東寺は目の前に見え、真っ黒で荘厳な五重の塔が聳え建っている。

 

 

雨の降りしきる堀のある東寺、土塀を前に五重の塔が聳え建っている。

東寺は、唯一残る平安京の遺構で、創建からおよそ1200年が経過している。1994年(平成6年)に世界遺産に登録されている。

境内からの東寺五重の塔

この五重の塔は国宝に指定され、高さ55mの日本国内最高の塔で、1644年(寛永21年)に、徳川家光が再建奉納したものである。

 

小雨の降る中の東寺五重の塔

どこから見ても美しい、小雨の降る中で1200年の歴史を感じ差す五重の塔

 

雨の中の東寺を見学した後、近くのレストランで簡単な昼食を4人で摂る。

昼食のあと、次は「どこに行こうか!」と

みんなで話をしていると、レストラン前にあるバス停に、「清水寺行」のバスが次から次へとやって来ている。

「丁度いい 清水寺に行こう!」 と、話がまとまり、やってきたバスに乗車する。

 

多くの人で賑わう清水寺への参道

清水寺略図

清水寺の伽藍(施設)名

清水寺の仁王門(左側)と西門、三重塔をバックに記念撮影

バックには紅く美しい三重の塔が聳えたっている。

多くの観光客で賑わう清水の舞台、ここからの京都市内の眺望は抜群。

本堂にある拝殿前、訪れた多くの方がここで参拝する。

清水寺からの京都市内の眺望

清水の舞台に立つ着物姿の若い女性、着物もそれぞれに華やかな衣装であるが、みんな晴れやかな表情をしている。

本堂清水の舞台から奥の院方面へ向かう人達

 

清水寺本堂と出張った舞台

昔の人達の話の中で 「きよみずの舞台から飛び降りるつもりで・・・・」 とよく言われる。

これは 思い切った決心をする時に使われた言葉で、 この場所が語源になっている。

本堂から張り出した舞台は、4階建てビル相当の高さにあたり、面積は190屐410枚以上のヒノキ板が敷き詰められた桧舞台である。

京都市内の眺望が抜群で、訪れた人たちの記念写真のスポットで大変人気の高い場所である。

この舞台は元々、御本尊の観音様に芸能を奉納する場所で、平安時代から雅楽や能、狂言、歌舞伎、相撲などが奉納されてきている。

現在でも重要な法会には、舞台奉納が行われている。

清水寺本堂と舞台

寛永10年(1633年)再建、正面36m、側面30m、棟の高さ18mの大堂で、西国三十三観音霊場 第十六番札所である。

清水の舞台を支える釘を一本使わずに組み上げられた柱

急な崖に、最長12mの巨大な欅(けやき)の柱を並べて組み上げられた木造建築物

本堂横の石段を下りる着物姿の女性

清水寺のパワースポットと言われる音羽の滝の前で記念撮影する人達

右側の奥にあるのが音羽の滝で三筋に分かれて流下している。

この滝は、音羽の山中から湧き出る清らかな水で、これが「清水寺」の名前の由来になっている。

水質は素晴らしく、お茶やコーヒーなどに入れれば大変美味しいとの評判である。

三筋に分かれて流下する滝の水は、向かって左から「学問成就の水」「恋愛成就の水」「延命長寿の水」とされている。

この滝のご利益から、若い人たちが、それぞれの筋から流れ落ちる水を求めて長い列をつくっている。

私たちは、音羽の滝の前を通り入口の方に進んで行く。

音羽の滝から進んで行くと池があり、そこからは、ご覧のような三重の塔が池とともに美しい景観を見せている。

私たち家族は清水寺の観光を終えると、清水の坂を下り、バス停に向かった。

清水寺下のバス停から、JR京都駅行に乗車すると15分ほどで到着する。

今日はJR京都駅近くのホテルを娘が予約していて、徒歩で5分ほどの場所にホテルはあった。

宿泊した京都駅前のホテル

ホテルに到着すると、すぐにチエックインして部屋に荷物を運ぶと、私たちはすぐに、夕食を摂るために近くにある居酒屋に出かけた。

時刻も午後6時を少し回っている。 居酒屋を選んだのは、好き嫌いのある孫でも、居酒屋のメニューは種類も多く、好きなものを選別できるからである。

私も京都の居酒屋は、初めてであったが、娘も居酒屋を希望していた。

家族4人で捕る夕食もまた楽しく、娘と一緒に杯をともにすることは、また格別であった。

 

3月15日(火)午前8時半、ホテルでチェックアウトして、外に出ると青い空が広がり、申し分のない天気になっている。

今日は、平等院と伏見稲荷の観光を予定している。

JR京都駅構内のコインロッカーに荷物を預けると、同じ駅の中のコーヒーショップで軽い軽食とコーヒーで朝食をすますと、

JR奈良線で宇治市にある平等院に向かった。 約25分ほどで平等院のある宇治駅に到着する。 

宇治駅前には観光案内所があり、平等院の場所や周辺の観光施設などを確認する。

平等院方向に歩いて行くと、宇治橋があり、その畔に源氏物語を書いた紫式部の像が立てられている。

平等院と紫式部はどんな関係があるのかわからなかったが、源氏物語の中でこの場所が出てくるようである。

源氏物語の作者である「紫式部の像」

十一世紀の初め頃につくられた 「源氏物語」夢浮橋ひろば この地とのかかわりを説明している。

 

夢浮橋ひろばの解説文を読んでいると、平等院とは全く関係がなさそうである。

私たちは、標識に従ってゆっくりと歩いて平等院に向かって行く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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熊野三山と伊勢神宮への初詣

2016-04-04 16:10:05 | 思い出

 2016年(平成28年)1月3日 私たちは、昼過ぎに南大阪にある自宅を出発し、熊野三山と伊勢神宮への初詣に向かう。

 南大阪の自宅からは、犬鳴温泉経由の曲がりくねった粉川街道を走行し、和歌山県の紀ノ川ICに30分ほどで到着する。 

 紀ノ川ICからは、整備が進められている京奈和自動車道(和歌山→奈良→京都までの延長120km)に入り、奈良方面に走行すると、30分ほどで奈良県の五条ICに到着する。

 そこから国道168号に入り、五条市内から吉野川を渡って行くと山岳道路に入って行く。 

トンネルや急こう配の坂道やカーブの多い道路で、登り切った所に下記写の道の駅「吉野路大塔」がある。 

国道168号道の駅 「吉野路大塔」から・・・奈良方面を望む

道の駅「吉野路大塔」で小休憩した後、再び出発すると、今度は下り坂の急こう配や急カーブが続いていく。

 さらに走行するとダム湖があり、愛車は湖畔にできた狭い道路に入って行く。 

道路の対岸では、新しい道路工事が至る所で進められている。 

そのまま狭い道路を進んで行くと日本一面積の広い十津川村に入って行く。 

道路は相変わらず狭く、対向車が来るたびに、道路幅の広い場所を見つけ、対向車を通過さしてから走行して行く。

この道路では、常に対向車を意識して運転する必要性がある。

特にカーブの手前やトンネルの手前では、対向車を意識していないと、狭い場所では対向車と鉢合わせになり、

どちらかの車がバックしなければならず、無駄な時間がかかってしまう。

 道が狭い割には通行量も多い。

正月休暇の為か大型車の通行はなく、ほとんどがマイカーで大きな渋滞はなくスムーズに流れている。

この国道168号は、国道169号と共に、紀伊半島を南北に縦断する幹線道路で、京阪神から多くのレジャー客が訪れる地域でもある。

土津川村中心部を過ぎてしばらくすると奈良県から和歌山県に入り、熊野本宮大社のある本宮町に到着する。

今日は本宮町にある小さな食料品店で、夕食の買い物をして、近くにある道の駅 「奥熊野古道ほんぐう」 で車中泊する予定である。

車中泊した道の駅「奥熊野古道ほんぐう」

1月4日(月)晴れ 1月にしては暖かい朝である。道の駅の周りには朝もやがかかり、遠くを見渡すことができない。

出発の準備を整え、簡単な朝食をすますと、直ぐに出発する。

10分弱で熊野本宮大社に到着、駐車場も朝早いせいか車は少ない。

駐車場を出ると、妻と二人ゆっくりと熊野本宮大社参道に向かって行く。 

熊野三山の中心的な存在の熊野本宮大社の入り口

左側には、八咫烏(やたがらす)が描かれた幟が立ち、熊野本宮大社の大鳥居と杉木立の参道が、本殿に向かって真っすぐにのびている。

 ここは、2004年に「紀伊山地の霊場と参拝道」として世界遺産に登録されている。

 紀伊山地は、自然信仰に発する日本人の宗教心を育んだ原郷でもある。

 蜿蜒(えんえん)と連なる峰々、巨木や奇岩を抱えて生い茂る深い森、渓谷を走り瀑を懸けて、大小の川を作りながら海に注ぎ、天空が一体化するような海原を形成している。

 ここは、熊野三山と呼ばれる自然環境から生まれた聖地で、伝統的な信仰を積み重ね、伽藍や墓所、修行の場を併せ持っている場所でもある。

 熊野三山は、熊野川を遡上した所にある「本宮(ほんぐう)大社」、熊野川河口近くの「速玉(はやたま)大社」と、

滝をご神体とする「那智大社」が、熊野灘に注ぐ那智川流域にあり、 これらの3つの神社をまとめた呼称である。

 熊野本宮大社では、熊野三山の三神に共通する神を祀っている、熊野三山の中心的存在で、日本全国3000を越える熊野神社の総本社である。

 

  本宮大社は「家都美御子神(けつみみこのかみ)=阿弥陀如来」、速玉大社は「速玉大神=薬師如来」、那智大社は「夫須美神(ふすみのかみ)=千手観音」をお祀りしている。

 平安時代から鎌倉時代にかけては、皇族や貴族などの「熊野詣」が大流行し、

後白河院 {1122〜1192年=第77代天皇、即位の翌年、保元の乱が起こり、譲位して法皇となって院政をしき、広大な荘園を所領した。

梁塵秘抄(りょうじんひしょう=平安時代末期の歌謡集、後白河法皇編、当時流行していた今様(いまよう)が集められている)を著したといわれる} の参詣は34回に及んでいる。

 それに伴い熊野街道が発達し、各地から熊野への道も発展していった。

 日本各地へも熊野信仰が広がり、一般民衆の間でも熊野は「日本第一霊験所」として考えられ、「蟻の熊野詣」と言われるほど盛んになっている。


 その昔、熊野三山を参詣する人々は、必ず山を登り、川を越え、森を抜け、太陽を拝し、水に感謝することになる。

 これを体得することによって、霊験あらたかになるといわれている。

 熊野に行くには中辺路(なかへち)・小辺路・伊勢路などのルートが開発されていたが、どのルートから来ても、最初に参詣するのが熊野本宮大社であった。

熊野本宮大社に掲げられた年頭あいさつ

1月4日で朝早いせいか、参拝する人はまばらで、境内には、神社独特の静寂な雰囲気が漂っている。

私たちは、杉の木の大木に覆われた参道をゆっくりと本殿に向かって進んで行く。

 しばらく進むと真っすぐな158段の石段が、 両脇に杉木立を並べ本殿に向かってのびている。

石段を登り切ると、謹賀新年のあいさつ文と、本年を一文字で表した「気」が掲げられている。

 

2016年(平成28年)の一文字の「気」 = 「元気」・「やる気」・「強気」・「気迫」

しばらく、気の文字と説明文を見ていると、「なるほど」と思えてくる。

何事も「気」をなくせば、そこから先は、惰性、マンネリ、病気などが蔓延してくるように感じる。

逆に、「気」を しっかりと持てば、前向き、希望、夢、健康など明るい未来が見えてくる。

私たちにとって、すべての第一歩は、この「気」を どのようにもつのか! にかかっている。

かつて、経営の神様と言われた 松下幸之助は、著書の中で、

「青春とは心の若さである。

夢と希望に満ち溢れて、生活しているかぎり、

青春は永遠にあなたのものです。」

このようなことが書かれていたことが思い出されてくる。

 

参拝者が少ないためにか、巫女たちがいつものような厳粛なふるまいではなく、女子高校生のような戯れている姿があった。

この厳かな門をくぐると熊野本宮大社の本殿の境内である。 参拝を前に自然と身が引き締まってくる。

朝もやがかかっている熊野本宮大社本殿、趣のある社殿が立ち並び、私たちは左側の相殿から第一殿へ、さらに第二殿、第三殿、第4殿へと順次参拝する。

 

熊野造りの社殿が堂々と立ち並び重要文化財に指定されている熊野本宮大社、年間を通して多くの人たちが訪れる。

 

熊野造りと言われる建築様式で建てられている熊野本宮大社、多くの参拝者が訪れる熊野信仰の総本宮で家津美御子大神(けつみみこのかみ)を祀っている。

 

朝もやが立ち込める静寂な雰囲気のなか、心静かに熊野本宮大社に参拝する人たち。

熊野本宮大社は、本宮大社の家津美御子大神、那智大社の夫須美神、速玉大社の速玉大神の三神を共通の神として祀る熊野三山の中心的存在で、

日本全国3000を超える熊野神社の総本社である。

熊野本宮大社の参拝をすました私たちは、駐車場に隣接する、コーヒーショップで軽い朝食をすまして、那智大社に向かって行く。

 

 

急斜面に造られた那智大社、本殿にはこのような急斜面の階段を息を弾ませながら、ゆっくりと登って行かなくてはならない。

 何度も訪れている那智大社であるが、何度訪れても安らぎを感じさしてくれる那智山。

急斜面に建てられた伽藍や参道の石段、奥深い森から流れ落ちる大きな滝と三重塔など、

ここでしか味わえない大きなポイントが幾つかあり、その一つ一つが、心に安らぎを感じさしてくれる!  

 古の世界で上皇や多くの人たちが訪れた信仰の深さが伝わってきそうである。

 那智山は、平安末期から鎌倉時代、現生浄土を求めて多くの参拝者が訪れた熊野信仰の聖地である。

一年中を通じて多くの人たちが訪れる那智大社本殿

熊野那智大社の境内から社殿を観る。江戸時代に大改修された権現造りの社殿で、日本で最初の女神、夫須美大神を主神に12柱の神々を祀っている。

那智大社に掲げられている本年の干支 丙申

那智大社で参拝をすました後、隣にある那智山青岸渡寺(西国観音霊場第一札所)にも参拝する。

那智の滝と三重の塔ををバックに記念の撮影、何度来てもこの場所で撮影する。

私たちは、写真撮影をしながら、三重の塔方面に下って行く。ここからの景色は、三重の塔と滝が一体となった、那智山を代表する風景である。

滝と三重塔とが写ることによって、趣きを益し、那智山を代表する風景になっている。

写真などでこの風景が紹介される旅に 「一度は行ってみたい」 と思わすような! 人々に強い印象を与えているように感じる。

  

            代表的な風景の三重塔と那智の滝           本殿から那智の滝への 石段の参道 古の歴史を感じさしてくれる。

 三重塔の前を通り過ぎて滝方面に下って行くと、写真のような杉の木の大木に包まれた石段の古道があり、

数百年前に熊野詣で訪れた、古の雰囲気をそのまま伝えている。

 大木が生い茂る参拝道をさらに下って行くと、滝に直結する道幅の広い参拝道に出てくる。

豪快に流下する滝の爆音が大きく聞こえている。

滝の前には広場があり、多くの参拝者や、外国から来た観光客で賑わいをみせている。

滝前の写真スポットでは、訪れた人たちが順次交代するような形で記念撮影をしている。

 

石段の参道と那智の滝、ここでは滝そのものがご神体であり、滝に向かって鳥居が建ち、参拝できるような施設も造られている。

那智山一帯が、滝に対する自然信仰の聖地であり、滝が飛瀧神社のご神体である。

私たちも、この場所から滝に向かって参拝をする。

那智の滝、落差133mの日本一の滝で、華厳の滝、袋田の滝と共に日本三名瀑に数えられている。

那智山の参拝と観光を終えた後、私たちは、駐車場に戻り、新宮市内にある、速玉大社に向かって行く。

時間もお昼回っていることから、新宮市内のレストランで昼食を摂ることにした。

昼食をすました後、愛車で10分ぐらいの距離にある速玉大社に向かって行く。

熊野三山のひとつである熊野速玉神社

ここ熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)は、熊野三山の一つとして全国に祀る数千社の熊野神社の総本山である。    
 約2000年ほど前の熊野三所権現が最初に降臨された、元宮である神倉山(新宮市内)から現在の鎮座地に御遷りになった。
 これにより神倉神社の「旧宮」に対して「新宮」と号した古書に書かれている。
 現在の「新宮」と言う地名も、この事から呼ばれている。
 御祭神は、熊野速玉大神(いざなみのみこと)・熊野夫須美大神(いざなみのみこと)を主神に、十二柱の神々を祀り上げ、新宮十二社大権現として全国から崇敬を集めている。

多くの人が訪れる熊野速玉神社の神門から境内を望む・速玉神社は平成16年には世界遺産に登録されている。

 

華麗な美しさを見せる速玉神社拝殿と鈴門(右側)

速玉神社拝殿へ参拝する人たち

熊野三山の中で現在の社殿は熊野川の畔に位置する場所にある。

私たちは、河原にある臨時駐車場に車を止め、歩いて5分ほどで拝殿まですすむことができた。

色鮮やかな大変美しい神社である。

何回も訪れているが、境内に入ると、伽藍の美しさと繊細さが、自然と心に落ち着きを与えてくれる。

大きなしめ縄で飾られた神門をくぐると、色鮮やかで美しい社殿全景が見渡される境内にでる。

何度訪れても、社殿の美しさは抜群で、その壮麗さには強く印象付けられる。

早速、拝殿に行って、妻と共に参拝する。

 

参拝を終えると、私たちは愛車に戻り、伊勢神宮方面に出発する。時間も午後3時30分になっている。

通常だと国道42号を走行、し松坂方面から伊勢市に入ると5時間程度の時間を有すると考えられるが、

最近は高速道が開通しているらしい、が私は通行したことがなく、わからなかった。

国道42号を走行して行くと、バイパスが所々に出来上がっており、車はスムーズに走行できる。

途中熊野市内のスーパーで夕食の買い物をすまして、風光明媚な七里御浜の海岸を尾鷲方面に走行して行く。

さらに走行して行くと、真新しい熊野尾鷲道路に入って行く。

ほとんどがトンネルであるが車はスムーズに流れ、尾鷲がこんなに近かったのか! と、さえ思えてくる。

さらに走行して行くと、紀勢自動車道尾鷲北ICに入って行く。

この道路をそのまま走行し、紀伊長島、多気JCTから伊勢自動車道多に入り多気PAまで走行して行く。

多気PAに午後6時30分ごろの到着時間であった。

予定時間よりも大幅に短縮されたように感じ驚きであった。

到着すると早速車中泊の準備をして、妻と二人で少し早い夕食を摂った。

新年早々の車中の中で、カーナビのテレビを見ながら摂る夕食も、茶の間の雰囲気があり、

杯を傾けながら、ゆっくりと過ごしながら摂る夕食も、それなりの趣きがあり、楽しいひと時であった。

 

1月5日(火) 晴れ 朝、7時頃起床すると、早速、寝具などを片付け、簡単な朝食を摂る。

朝食を終えると、直ぐに伊勢自動車道を伊勢方面に出発しして行くと、まもなく伊勢西ICに到着する。

伊勢神宮方面に向かって行くと、新年の交通規制があり、神宮方面へはマイカーで入ることができなくなっている。

近くの駐車場に愛車をとめて信号を渡ると、伊勢神宮内宮へ通じるおはらい町がある。

五十鈴川沿いに沿って続く800mの通りには、江戸時代を思わすような、

切妻や入母屋の様式を取り入れた日本の伝統的な木造建築が並んでいる。

おはらい町の通りには、たくさんの土産物店・飲食店や商家が立ち並び、多くの人々が立ち寄ったりして賑わいを見せている。

10分程歩いて行くと、大きな賑わいを見せている場所に出てくる。

伊勢神宮、内宮の入口である宇治橋で前には、大きな鳥居が立てられている。

皇学館の女子学生も宇治橋を渡り内宮に進んで行く。

太陽信仰の象徴とされる天照大御神、この天照大神を祀っているのが伊勢神宮である。

冬至の日には、この宇治橋の真ん中から朝日が昇り、神々しい光景が見られる。

夏至には伊勢神宮の近くにある二見浦の夫婦岩の真ん中からしめ縄を潜って朝日が昇ってくる。

 

宇治橋は五十鈴川に架かる全長102mの橋で、橋を渡ると内宮の神域へと入って行く。

伊勢神宮内宮に掲げられ青空の下、風になびく日の丸。 

やはり、新年早々に日の丸を見ると、日本人として身の引き締まるような思いがする。

 

 伊勢神宮には、内宮と外宮があり、内宮は皇大神宮(こうたいじんぐう)、外宮は、豊受大神宮(とようけだいじんぐう)からなり、

内宮は天照大御神(あまてらすおおのかみ)、外宮は豊受大神宮をお祀りしている。


 農業の神様である御饌殿(みけでん)は、内宮の天照大神が、豊受大神と毎日の御饌(食事)をなさる所だという。

 つまり、農業の神様を重んじることによって、人間の生活の安定を祈願するという信仰の表現だそうだ。


 神宮内の古い記録によると、雄略天皇(ゆうりゃくてんのう=21代天皇、西暦456年〜479年)の枕元に立った天照大神が
「五十鈴川のほとりの一人ぼっちは寂しい、丹波の豊受大神と一緒に住みたい」
 とおっしゃってから「丹波国比冶乃真井原=たんばのくにひじのまないはら」(京都府)から移されたものだといわれている。

 
 皇大神宮(内宮)は日本の神々の親だという天照大御神を祀り、御神体は八咫鏡(やたのかがみ)である。
 この鏡は代々天皇の皇居内にあったが、崇神天皇(すじんてんのう=第10代天皇 紀元前97年〜29年)の頃、もったいないと大和の国の笠縫邑(かさぬいむら)へ、

その後、垂仁天皇(すいにんてんのう=第11代天皇、紀元前29年〜紀元後70年)が、

五十鈴川のほとりに内宮を建てて、大和の国からここへ移して祀ることになったと伝えられている。

宇治橋を渡って神宮の神域に入って道なりに進んで行くと、大正天皇の御手植松などの立派な松が私たちを迎えてくれる。

さらに進んで行くと、手水舎があり、鳥居をくぐると、右側に五十鈴川の御手洗場が見え、大勢の人達が訪れている。

大きな樹木の中にできた参道を鳥居をくぐり、内宮御正宮方面へ道なりに進んで行く。

聳え立つ大木の枝間から木漏れ日が射す参道を多くの参拝者の方々と共に進んで行く。

数百年、あるいはもっと、昔から夢にまで見た伊勢参り・・・伊勢神宮内宮の御正宮(ごしょうぐう)が、その場所である。

日本の地方の村には、必ずと言っていいほど氏神様が祀られている。 

伊勢神宮は、その氏神様の総氏神様であり、天照大御神がご鎮座されている。

私たちも、石段を登り、御正宮でお参りした後、元来た道を駐車場まで戻り、外宮に向かって行く。

内宮から外宮までは、車では10分ほどで行けると思うが、渋滞があり、40分ほどで到着する。

駐車場からは近くに北御門(きたみかど)の入り口がある。 

そこから入って行くと、正面に広場があり、その向こうには、手水舎と橋(火除橋)が見えている。

私達は手水舎で身体を清めた後、火除橋を渡り、外宮の神域に入って行く。

伊勢神宮外宮(衣食住や産業を司る豊受大御神(とようけおおみかみ)をお祀りしている)

5分ほど進むと両側に神楽殿と九丈殿の場所にでると、多くの警察官が出て、歩行規制を実施している。

やがて参道に沿って縄が通され、外宮の御正宮に進むことができなくなった。

警備の警察官に、何事かと尋ねると、もうすぐ安倍首相一行が参拝に訪れるので、その場で 「しばらくお待ちください」 とのことであった。

間もなく安倍総理一行が参拝に訪れるとのことで、警備の警察官に指示されて位置で待つ多くの人たち。

私も、隣り合わせにいた30代ぐらいの男性と30分ほど談笑していると、神官に案内された安倍総理一行が多くの人たちを連れてやってくる。

伊勢神宮外宮を新年の参拝に訪れた安倍総理一行が神官に連れられてやってくる。

外宮の参拝を終え、元来た参道を戻って行く安倍総理一行の大勢の人たち

安倍総理一行が私たちの前を通り過ぎて、15分ほどで参拝を終え戻ってくる。

その間は全く身動きができなかった。

首相一行が戻られてすぐに歩行規制は解除されて、外宮の御正宮に向かって行くが、多くの人たちでごったがやしていた。

安倍総理が参拝を終えた後、外宮の御正宮に向かう多くの参拝者たち

木塀に囲まれた外宮御正宮へ向かう参拝者たち(御正宮の中には、御正殿があり、その後ろには、御餞殿(みけでん)と外幣殿(けへいでん)がある。

外宮御正宮へ参拝に向かう人たち

外宮の御正宮での参拝を終えた後、近くにある、風宮(かぜのみや)、土宮(つちのみや)、多賀宮(たがのみや)にも参拝する。

 

思いもかけない、伊勢神宮外宮で安倍総理一行と出会った。 

7年前の参拝の折には、麻生首相一行と内宮で出会ったことがあった。 

このときは確か1月4日であったはずで、今日は1月5日であることから、昨日参拝されたと思い込んでいた。

どうやら国会の関係で今日になったようである。

外宮も何度か訪れているが、風宮・土宮や多賀宮は初めてで、外宮の奥深さを感じる。

 

今年の正月妻と二人だけの静かな正月であった。

毎年、近くにある大森神社と水間観音には初詣を例年通りに行っている。

今年は急に熊野三山と伊勢神宮の参拝を思い立ち行くことにした。

今年の道中は雪もなく、天候も上天気で大変スムーズに走行できた。

それに、熊野から伊勢までの道路が大変良くなっているのには驚かされ、大変近くなっているように感じる。

 

外宮の参拝を終えると時間も午後3時を過ぎていた。

駐車場に戻るとそのまま伊勢自動車道に入り、関JCTから名阪道、西名阪・阪和道に入り午後6時過ぎに帰宅する。 

 

毎年、初詣は自宅近くの神社や寺、寺院などに行って、昨年の感謝や、本年の平和や安定を祈願することが 習慣になっているが、今年は熊野三山と伊勢神宮に出かけた。

自然災害や悪質な事件、目を塞ぎたくなるような国際的なテロや紛争など、私たちを取り巻く安全保障環境が様変わりしている。

こうした環境の中で、世界中の人々が安定した平和的なな暮らしを願うと共に、こうした紛争地域などで、平和的な活動をされている方々に対して、

感謝の気持と、健康に留意され安全に活動できますことを祈願せざるを得なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年(平成28年)謹 賀 新 年・・・・・気ままな旅(希間々兼行) 

2016-01-03 00:27:39 | 今日の出来事

2016年(平成28年)

明けましておめでとうございます。

 

昨年はgooブログ 気ままな旅 へお立ちより頂きありがとうございます。

昨年も大きな自然災害やフランスのテロなど、心をしめつけるような出来事が多い年でしたが、

ノーベル賞を二人の方が受賞するなど、明るいニュースもありました。

本年はスポーツの最高式典であるオリンピックが、

ブラジルのリオデジャネイロで開催されるなど、私たちを楽しませてくれるイベントや

伊勢志摩サミット・米国大統領選挙などの年でもあります。

本年が自然災害やテロなどの凶悪な紛争や犯罪が少なく、

世界の人々にとって平和で希望に満ちた年であります様にお祈り致します。

私たちは天地摂理のなかで活かされています。

自然摂理をよく理解し、自然との共存共栄を図りながら、豊かな自然環境を築いていく大切さも求められています。

自然や人間の本質に向かって順応していければ、必ず 平和で幸せな社会が訪れると信じています。

本年が皆様方のご健康とご多幸の一年であります様にお祈り致します。

また、お時間にゆとりのある時などに gooブログ 「気ままな旅」に

お立ちより頂ければ幸いに存じます。

平成28年(2016年)             元 旦

 

希 間 々 兼 行   

 

 

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中山道の馬籠宿・妻籠宿・濁河温泉(混浴)の旅と道中感激の対面

2015-10-04 16:17:50 | 気ままな旅

2015年7月12日(日)朝6時00分頃 近所に住む夫婦が車でやって来る。

今日は岐阜県と長野県の県境にはさまれた秘境「濁後温泉」と「新穂高温泉」への2泊3日の旅に出る予定である。

ここのところ台風の影響で雨天の日が多くなっている。

今回の旅行も台風の進路によっては、中止せざるを得ないと思っていたが、幸いにして進路がはずれ、旅行先の天気予報も良好のようであった。

今回、同行する夫婦とは、10年来の交友で日頃から何かとお世話になった夫婦で、気心もお互いに知り尽くしている。

この夫婦が自宅にやって来て、休憩や荷物の積み込みなどを終えると、私の愛車、プリウスα(7人乗り)で、6時30分頃4人で自宅を出発する。

南大阪の自宅から阪和自動車道水間ICに入り、松原JCを走行、西名阪道から名阪道に入って行く。

名阪道も車は渋滞もなく、スムーズに走行している。 ほどなくして4人を乗せた愛車は東名阪道に入り、御在所SA(三重県)に近づいて来た。

出発して、2時間近くたち、時間も8時30分頃に達している。 

朝食も摂らずに出発したことから,御在所SAで食事と休憩を摂ることにした。

 

最初の休憩をとった東名阪道 御在所(ございしょ=三重県)SA(サービスエリア)

御在所SAに到着するとすぐにで4人で麺類の朝食を摂る。このSAも近年改装され、近代的な意匠を施している。 改装前とは様変わりして、魅力ある商品が展示販売されている。

30分ほど休憩したあと出発し、名古屋方面に走行して行く。

愛車は、程なくして木曽三川の揖斐川・長良川の河川橋を渡ると、すぐに木曽川にかかっていく。

ゆったりと流れる大河、木曽川を渡ると田園風景の中に、工場や住居の建物が散乱している光景が目に入ってくる。

こうした車窓からの光景を楽しんでいると、愛車は名古屋西ICに入り、そのまま、名古屋環状自動車道を走行して行く。

その時、わたくしが同乗している女性に、「そういえば、この近くに子供さんが住んでいるのでわ! 電話してあげたら・・」と話をする。

すると、女性はすぐに息子さんに電話をかける。 「電話口の息子さんが、子供も今、一緒にいるので、是非、会いたい」 とのことだった。

私が、「現在、名古屋環状自動車道を走っている。10分後には、一宮南ICに到着できます。」 との話をする。

こうして、一宮南IC近くのお店で、女性の息子さんと、女性の孫娘に初めて会うことになった。

同乗している夫婦と孫は、色々な理由が会ってか、まだ、一度も合ったことがなかった。

同乗の女性は、「孫に会いたい、合いたい」と切望しながらも、今日まで会えることはなかった。

女性には、思いもがけない孫に、突然、会えることになって、大きな感激が湧いてきているようであった。

車がレストランに到着すると、すぐに、女性は孫の乗っている車に向かって行く。 

この孫娘は、おばあちゃんを見つけると、初対面のような感覚はなく、すぐに抱きついてきたようであった。 

突然に訪れた、念願であった息子さんの孫に初めて対面し感激し、大喜びをするおばあちゃん。

女性は、常時、孫娘を膝に乗せ、食事などの世話をする。孫もおばあちゃんの居心地がいいのか離れることはなかった。

偶然の出会えた孫との楽しいひと時も、旅の予定から40分程しか時間の余裕はなかった。

「孫と別れた後も、会えるとは夢にも思ってなくて、会えてほんとによかった」と

車中の中で感慨深く話をする姿が印象的であった。

私たちは国道22号から近くにある一宮ICに入り、名神・東名高速道路を走行し、中央道を中津川方面に走行して行く。

中央高速道も、渋滞もなくスムーズに走行し、快適なドライブが続いている。

やがて、かつて私が住んでいた岐阜県多治見市の、懐かしい丘陵地の風景が見えてくる。

さらに走行し、車窓からは土岐市、瑞浪市の風景に代わって行く。

中央高速道の車窓からの風景を楽し見ながら走行していると、愛車は間もなく中津川ICに入って行く。

中津川ICから国道19号に入り、長野方面に10分程走行し、江戸時代に宿場町として栄え、

その名残を今日まで伝えている馬籠(まごめ)・妻籠(つまご)方面に入り口に差し掛かってきた。

国道から山間部に通じる曲がりくねった道路をゆりやかに上って行くと、15分ほどで中山道宿場町「馬籠」に到着する。

愛車を近くの駐車場に止めると、私たちは4人は、すぐに馬籠宿の見学に出かける。

駐車場の周辺にも、当時の建物など、今に残る江戸時代の風情が漂っている。

宿場の北側には、青々とした山間部の美しい田園風景が広がり、宿場町の情緒を、時代の木造建築物と共に醸し出している。

そして、その中心には、江戸時代の情緒を醸し出す、中山道(なかせんどう)馬籠宿と書かれた石碑が立っている。 石碑には、下方には「江戸 80里半・京52里半」と書かれている。

当時のイメージを損なわないように造られた、入り口にある馬籠館とバス停留所

私たちは、馬籠宿入口の看板を横に見ながら、ゆりやかな坂道をゆっくりと上って行く。

道路の両側には、江戸時代の家屋が立ち並び、歴史的な情緒豊かな街並を醸し出ししている。

 

歌川広重の浮世絵(馬籠峠(標高801m)からの馬籠宿や、中央の高い山が恵那山(標高2191m)方面が描かれている。

 

馬籠宿は69次のうち木曽には11の宿場があり、江戸からは43番目の宿場である。 距離は332km(83里六町)である。

馬籠宿は、街道が山の尾根に沿った急斜面を通っていることから、その両側に石を積んで屋敷を造る 「坂のある宿場」が特徴となっている。

宿場の中央には、高貴な人の宿泊に備えた「本陣」や「脇本陣」、荷物運搬を差配をする「問屋」などが置かれている。

一般の旅人は、通常、「旅籠」を利用する。 馬篭宿には18軒あった。

この他「飯屋」や「馬宿」などがあって、中山道(なかせんどう)を利用する多くの旅人で賑わっていた。

明治22年(1892年)に、木曽川沿いに国道が開され、さらに明治45年(1912年)には、国鉄中央線が全線開通することにより、宿場としての使命を終えていく。

 

東海道に次ぐ主要な街道で会った中山道の馬籠宿、江尾時代の趣きを、そのまま、今に伝えている。

江戸時代の面影を残す馬籠宿には、相変わらず多くの旅行者で賑わっているが、なかでも、外国人旅行者の多さには驚かされる。

わたしは、何度もこの馬籠宿を訪れているが、こんなに外国人が多いのは初めてである。

私たちは、江戸時代の情緒豊かな宿場の光景を楽しみながら、ゆっくりと街並みが続く坂道を進んで行く。

 

両側に江戸時代の街並みがあり、石畳みが敷かれ、情緒を高めている坂道のある中山道馬籠宿。多くの観光客が訪れて 賑っている。

(馬籠宿はかつては長野県木曽郡山口村に属していたが、平成17年に長野県から岐阜県中津川市へ越県合併している)

  

ここで、少し江戸時代の道路について触れておきたい。

江戸時代には、各地区と江戸を結ぶ道路が整備されている。 

一里(約4km)毎に一里塚(=土を高く盛った道しるべ)や、一定間隔ごとに宿場が造られた。

主要な道路として江戸を起点として造られた五街道がある。

○東海道(日本橋から京都三条大橋まで 53次の宿場、492kmの街道)多くの大名が利用した主要街道だが、大井川などの川止がある。

○日光街道(日本橋から日光東照宮まで 21宿、143kmの街道)

○奥州街道(日光街道の宇都宮追分から別れ、福島県白河まで11宿の85kmの街道であるが、青森県三厩(みんまや)まで続いている。

○中山道(日本橋から京都三条大橋まで69次の宿場、534kmの街道)

東海道に次ぐ主要街道である中山道は、碓氷峠や和田峠、木曽の山中の難所が多い街道であったが、川止が少ないことから利用者が多かった。

○甲州街道(日本橋から中山道下諏訪宿までの 44次219kmの街道)

また、五街道以外にも各地区を結ぶ主要な街道が整備されている。

馬籠宿水車の前で(この地は、桝形と呼ばれる宿場の入り口にあたる地で、道路を直角に二度曲げたもので、軍事的な目的で作られている。

 

私たちがさらに進んでいると、上記写真のように石畳の道路(右側)と、石段の道路(左側あ)が並行して造られている場所があった。

右側が新道で左の石段が桝形になっていて、突き当りには水車小屋がある。

その先で直角に二度、折曲げてあり、この部分の山手側は桝形になっている。

これは、城郭建築の桝形を模したもので、これが「桝形」といわれていた。 

れは本来、宿場が軍事的な目的をもって造られたことを示している。

桝形は、敵方の騎馬などに攻められた折に、道路が直角に曲がっていると、騎馬はスピードを落とさざすを得ず、防御しやすくなることから造られている。

桝形になっている水車小屋の前で記念写真をとる。

さらに、石段を登って行くと、先ほど石畳の道路に出る。 両側には江戸時代の街並みが保存され、店先では、お土産品や、民芸品・飲み物などが販売されている。

 

私たちは、真夏の太陽が照り続ける中、さらに坂道を上って行く。すると、近くにある民芸品や飲み物などを販売している店から、妻たちがアイスクリームを買ってくる。

汗をかいた時に食べるアイスクリームの味は格別で、4人とも食べながら体と心を癒している。 

さらに、坂道を上っていくと、和風建築物の馬籠郵便局の建物が見えてくる。

その先には、石垣の上から萩の花の群生が、赤い可憐な花をつけ、道路側に美しく垂れ下がり、訪れた人たちの目を楽しませてくれる。

さらに、その先には、黒い板塀に囲まれ、大木を鳥居のように加工して造られた門のある建物が見えてくる。 ここが「藤村記念館」である。

馬籠宿にある藤村記念館、(私たちは時間の関係から入館はできなかった)

明治・大正・昭和の三代にわたって活躍したの文豪「島崎藤村」の文学館である。 

藤村がこの地の出身であることから、藤村にまつわる資料など、6,000点が所蔵されている。

島崎藤村(本名=島崎春樹)明治5年(1872年)馬籠で生まれる。

生家は江戸時代、本陣、庄屋、問屋をかねた旧家である。

作品には、破壊、夜明け前など数々の作品がある。

作品以外でも初代ペンクラブ会長など日本文学界のリーダー的な活動をもする。

昭和18年(1943年)大磯の自宅で死去 71歳

馬籠の菩提寺 永昌寺では命日の8月22日、藤村忌が執り行われている。

江戸時代の馬籠の風景や情緒に魅せられてか! カメラのシャッターを切る外国から来た旅行者の女性と左側の男性。

 

私立ちは藤村記念館を少し過ぎた所からUターンして、もと来た道を下り、駐車場まで戻って行く。

駐車場に戻ると、時間も丁度、お昼頃になっていた。 空腹も感じていたことから、みんなで相談して昼食をとることにした。

隣にあるお食事処で、信州そばを食べることにする。

やはり、木曽で食べるそばは、おいしく、店員の方の笑顔もよかった。

昼食を終えた後、私たちは次の訪問地、中山道「妻籠宿」に向かって行く。

馬籠宿から妻籠宿までは、馬籠峠(標高801m)を挟んで隣接している、距離にして7kmである。

馬籠峠には、情緒豊かな一軒の茶屋があり、中山道と現在の車道が交わっている。

 

歌川広重の浮世絵にも描かれているように、峠道まで上ってきて、人休憩する人と、それを気遣う人との、心の触れ合いが描かれている。

この浮世絵には、馬籠峠から妻籠宿方向が描かれている。

 

ほどなくして、妻籠宿の駐車場に着いた私たちは、すぐに江戸時代にタイムスリップしたような街並みが残る宿場方面に向かって行く。

妻籠宿(つまごじゅく)は、中山道69次の中で42番目の宿場である。現在は長野県木曽郡南木曽(なぎそ)町に属している。

隣接する馬籠宿は、馬籠峠を超える旧中山道史跡と合わせて木曽路を代表する観光名所になっている。

江戸時代の文献によると、妻籠宿には、宿内家数は31軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠31軒である。

私たちは江戸時代の情緒を醸し出している街並みを楽しみながらゆっくりと歩いて行く。

里山を感じ出すような小さな水車小屋があり、木の樋から流れ落ちている流水によって水車がゆっくりと回転し、妻籠宿の情緒を一層高めている。

 

江戸と京を結ぶ中山道は、山深い木曽路を通ることから木曽街道とも呼ばれていた。

中山道69次のうち、江戸から数えて42番目となる妻籠宿は、中山道と伊那街道が交叉する交通の要衝として、古くから賑わいをみせている宿場街であった。

  

江戸時代の情緒ある宿場を、そのままに伝える中山道42番目の宿場「妻籠」の街並み。

妻籠宿は、全国で初めて古い町並みの保存を始めたと伝えられる宿場で、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

木造建築物の出梁造りや格子など江戸時代の建築様式を、そのままに伝える町並みが特徴で、300年の江戸時代へタイムスリップしてしまったように感じる。

中山道妻籠宿人馬会所の様子、本陣前で出発または到着した折、旅の侍や、侍のお供、荷物、馬指役、馬役や籠の人夫など、当時の宿場状況が分かりやすく描かれている。 

公家や大名など身分の高い人が宿泊した妻籠宿本陣

 

宿駅が制定されると妻籠宿本陣には島崎氏が任命され、明治に至るまで本陣、庄屋を兼ね勤めていた。

島崎藤村の母の生家であり、最後の当主は藤村の実兄で、馬籠から伯父の所へ養子にきた広助(ひろすけ)であった

 本陣は明治に入り取り壊され、その後明治32年に御料局妻籠出張所が建設される。

 本陣の復原は、妻籠宿の保存が始まった当時からの念願であり、島崎家所蔵の江戸後期の絵図をもとに、平成7年4月に復原される。

妻籠宿の中では、このように木のボールペン造りなどの民芸品を実演する店もあり、多くの見学者で賑わっていた。

妻籠の宿内には、このような水車小屋があり、小川から樋で水をひっぱり、水車を回転さしている。この風景が江戸時代の妻籠宿の情緒を一層高めている。

整備がいきとどき、趣のある入口の、妻籠宿脇本陣 奥谷(林家住宅・歴史資料館)

妻籠宿の脇本陣をつとめた林家が、明治になって建てられた豪邸を、林家伝来の家宝とともに、南木曽町営資料館として公開されている。

林家は、隣接する馬籠宿出身の文豪 「島崎藤村」 の詩 「初恋」 の少女といわれる「おゆう」 の嫁ぎ先であり、展示室には彼女の愛用した品々も展示されている。 

美しく整備された日本庭園のある妻籠宿、脇本陣前にて

江戸時代の街並みが残る妻籠宿

妻籠宿は、江戸時代から営々と続く暮らしを守りながら、宿場の景観を今によみがえらせ、伝える宿場の街並みである。

江戸時代の旅篭風情をそのままに、出梁造り(だしばりつくり)や竪繁格子(たてしげこうし)の質素な家並みが私たちを迎えてくれる。

2階の出梁りや竪繁格子が、江戸時代の街の情緒を一層高める、歴史的な街並みが保存されている中山道妻籠宿

 

時代が変り、明治になり、交通網が次第に整備されていく。鉄道や道路が新たに造られてくると、宿場としての機能を失い妻籠宿は衰退の一途をたどっていった。


やがて昭和になり、経済成長の中、江戸時代の宿場の姿を色濃く残している街並みが見直され、ここに全国に先駆けて保存運動が起こっていく。


妻籠の人たちは町並みを守るために家や土地を、 「売らない・貸さない・壊さない」 という3原則をつくり、

ここで生活しながら、江戸時代の街並みという貴重な財産を後世に伝えている。

江戸時代の街並みをそのまま伝える中山道馬籠宿や妻籠宿は、外国からの観光客にも大人気で、日本の侍の情緒を感じさしてくれるようである。

 

江戸時代にタイムスリップしたような街並みが保存されている中山道馬籠宿や 妻籠宿の見学を終えた後、私たちは、国道19号に入り、木曽福島方面に向かって行く。

日本の伝統的で地味な木造家屋が立ち並ぶ街並みを見ていると、何故か心が落ち着いてくる。

特に竪繁格子の家屋には、風情を感じるとともに、2階にある出梁造りは、映画の時代劇でよく見られるように、

浴衣姿の若い娘さんが、団扇をもって出梁に腰を掛け、賑わっている道路の状況を眺めていたり、声をかけているシーンが目に浮かんでくる。

当時の旅人たちも、賑わう街並みの様子を、出梁から楽しんでいたのでわ! と想像する。

 

国道19号は長野と名古屋を結ぶ交通の要所である。

木曽の深い谷間に木曽川が流れ、それに沿って国道が造られている。 中央高速道の開通によって、主役を取って代わられたが

、道路は整備され、走りやすく、車は渋滞もなくスムーズにながれている。 ドライブを楽しむのには、もってこいのコースである。

30分から40分ほど走行していると、木曽の景勝地 「寝覚の床(ねえざめのとこ)」に到着する。

 

中山道や木曽路で 木曽八景 として数えられる景勝地「寝覚ノ床(ねざめのとこ)」

木曽の名勝「寝覚ノ床」は、中山道の上松と須原の間の道沿いにあり、県歌「信濃の国」にも歌い込まれ紹介されている風光明媚な景勝地である。


写真は、展望所を兼ねたレストランの土産物店からの撮影した光景で、手前にはJR中央線が走っている。

寝覚ノ床は、木曽八景随一の名勝地であり、花崗岩の岩盤を木曽川の激流が長い間に水触して出来たものである.

景勝地「寝覚の床」の眺望を楽しんだ後、私たちは愛車に戻り、国道19号を木曽福島方面に走行して行く。

出発して10分程で、木曽福島の国道19号バイパスを通り、トンネルを通過して行く。

通過して直ぐに近くにある交差点から、開田高原方面の国道361号に入って行く。

開田高原は御嶽山の裾野に広がる高原で、標高は1000m以上の高地にあるため、その気候は一年を通して冷涼である。

また、開田高原は木曽馬の里として、リゾート地としても知られている。

開田高原から見る御嶽山の眺望は抜群であるが、残念ながら、雲に覆われて見ることはできなかった。

私たちは、開田高原の、雄大な自然と懐かしい農村風景を楽しみながら、さらに走行して行く。

長野県側から岐阜県側に代わり、しばらく行くと濁河温泉の標識が左方向方面と案内されている。

標識に従って走行して行くと、白樺やから松などの樹木が多く見られるような光景に代わってくる。

濁河温泉の上部に聳える御岳山の最北端にある継子岳(標高2859m)

 

愛車は曲がりくねった道路に従って高度をどんどん上げ、30分ほど走行すると、今日の宿泊先である 濁河(にごりご)温泉 旅館「御岳」に到着する。

標高1800mに位置する濁河温泉、7月だというのに愛車から外に出ると肌寒さを感じるほどであった。

早速、旅館のフロントで、宿泊手続きをすますと、4階の10畳程の広い和室に案内される。

 

 濁河(にごりご)温泉は、霊峰御嶽山の飛騨側登山口として知られ、標高1,800mでの通年営業温泉街としては、日本でも有数の高所温泉地である。

 明治20年ごろから温泉宿地として開拓され、登山者が宿泊できるようになったといわれている。

昭和30年に久々野から秋神温泉を経て濁河温泉までの車道通行が可能となり、宿泊温泉地となる。

 昭和33年には岐阜県の小坂側からの道路も完成し、より多くの観光客が訪れるようになってくる。

御岳山麓に位置し、主要道路からも離れていることから、秘湯ムードが漂い、原生林が生い茂る自然情緒豊かな温泉である。

また、濁河温泉は、標高1800mの御嶽山7合目あたりの高さに属することから、登山基地としても親しまれている。

 

この旅館には、脇を流れる濁河川の谷底へ160段(高低差50m)の階段を下りた所には、混浴の渓谷露天風呂がある。

私たちは30分ほど部屋で休憩した後、4人で館内にある混浴の渓谷露天風呂に出かける用意をする。

混浴の露天風呂に対する興味が深々と湧いてくる。

旅館の浴衣に着替え、ゆっくりと長い通路を渓谷露天風呂に向かって回廊を下りて行く。

絶壁の渓谷に造られた下り階段を露天風呂に向かって下りて行く。 渓谷には清流の流れる音や野鳥たちの鳴き声が、心地よく聞こえ、癒される気分である。

しばらく回廊を露天風呂に向かって下りて行くと、このような「金勢大明神」が祀られている。

 

金精神は勃起した男根の形をしており、金は金色に輝くような、精は勢であり、精力絶倫な男根を意味しているとされている。

金精神は、豊穣や生産に結びつく性器崇拝の信仰によるものから始まったとされている。

子宝、安産、縁結び、下の病や性病などに霊験があるとされるが、他に豊穣や生産に結びつくことから商売繁盛にも霊験があるとされている。

祈願者は石や木や金属製の男根を奉納して祈願する。

 

旅館の回廊にある階段を160段下りるて行くと、男女に分かれた粗末な木造の脱衣小屋があった。

小屋の中も、粗末な造り付けの棚が2段造られ、脱衣用のかごが置かれている。

この温泉は、混浴のためにバスタオル巻きや水着の着用も許されている。

脱衣室のドアを開けると露天風呂は目の前にあり、緑の林の中に見事な巨石を組み合した温泉である。

温泉の奥には、樋で導かれた温泉が滝のように勢いよく、流水音を発しながら注ぎ込んでいる。

自然美豊かな渓谷の中に巨石を組み合わせてできた露天風呂、秘境の温泉ムードが漂っている。

秘境の混浴露天風呂に大喜びしながら体験する。湯加減も丁度良く、長旅の疲れをも癒してくれる思い出の温泉である。

秘境の渓谷に造られた混浴の露天風呂に浸っていると、せせらぎの音や野鳥の鳴き声が心地よく聞こえてくる。

向かい側の断崖絶壁の岩肌には、小さな白糸の滝が流れ、岩肌に寄生するように生えている緑の樹木が温泉の情緒を一層高めている。

渓谷にある露天風呂の湯に、のんびり浸りながら過ごしていると、体が癒され、時間も忘れるほどであった。

露天風呂のある渓谷の風景、自然の迫力ある風景に思わず時間も忘れるほど見とれていた。

  

               秘境の旅館にて湯上りの乾杯 味も格別である。  翌朝の朝食。      朝食後の旅館 ロビーにてコーヒー。

 

旅館御岳からの眺望

 

7月13日(月) 晴れ 御岳山の7合目あたりの秘境にある濁後温泉。 

昨日は南大阪から長野県と岐阜県にまたがる濁後温泉までやってきた。 楽しく良い旅であった。

今日もよい天気になりそうで、上高地と新穂高温泉を予定している。

朝食を済ました後、コーヒーでリフレッシュした後、午前8時半ごろ、旅館御岳を後にし、愛車プリウスアルファーで出発する。

 

御岳山継子岳をバックに記念の撮影

濁後温泉からなだらかな高原の道を下って行くと、素晴らしい御岳山北側にある継子岳2859mが美しく聳えたっている。

さらに走行しながら開田高原方面に下って行くと、頂上部に雲のかかった御岳山が見えてくる。

御岳山麓、白い泡を立てながら流れる川、散在する家や農地、その脇を大きなカーブを描きながら走る道路が、独特の農村風景を醸し出している。

御岳山をバックに記念の撮影、残念ながら頂上部は雲に覆われてしまった。

御岳山全景, 右側が継子岳(2859m)左側が摩利支天山(2959m)、最高峰のっ剣が峰(3067m)は、さらに左側にある。

雲で覆われている御岳山最高峰剣が峰(3067m)方面、頂上部は、昨年(2014年)9月27日に噴火した折の灰で覆われている。

この風景を見ていると2007年8月に登った御岳山が思い出されてくる。

また、今回の噴火で数十人の方が犠牲になられた。 まだ、5名の方が行方不明になられているとのこと。

一日も早く発見され、ご家族のもとへかえられます様に願わずにはいられなかった。

以下の3枚の写真は、2007年8月に妻と二人で登った時のものです。

 

             妻と二人で登った田の原登山口からの御岳山 八丁ダルミからの御岳山最高峰、剣ケ峰3067m、 剣ケ峰から二ノ池方向を望む。

 

 私たちは、御岳山をバックに写真撮影した後、開田高原の中心部に向かって行く。 すると、公園のような緑地に、白樺が林立して、高原の情緒を醸し出している。 

 しかも、御岳山も見え、絶好の撮影ポイントになっている。

開田高原で白樺が林立し、そこから御岳山が眺望できる、高原情緒、豊かな場所があった。

 

撮影が終了した後、私たちは開田高原から木曽福島に出て、国道19号を北上、途中の藪原から県道に入り、上高地や乗鞍高原方面に向かって行く。

通りがけに信州そばの店があり、そこで、昼食を4人ですます。その後、愛車に戻り、走行して行くと、松本からの国道158号に入り、上高地への中継地、沢渡まで走行する。

私たちは、沢渡の駐車場に愛車を止め、タクシーで上高地へ行くことにした。

上高地へのシャトルバス乗り換え欺地沢渡駐車場

 

しばらくタクシーを待っていると、黒塗りのタクシーがやって来る。

 15年ほど前に、上高地は訪れているが、その後どうなっているのか! 

何度訪れても、あきることのない、魅力を持っている上高地!

私の胸がワクワクしながら、みんなと一緒にタクシーに乗り込んで行く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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平成の大修理で見事に蘇った姫路城

2015-08-09 21:53:06 | 気ままな旅

 2015年(平成27年) 5月2日(土)晴 ゴールデンウイークのさなか、私たちは南大阪の自宅を午前10時半頃 愛車プリウスα(アルファー)で出かける。

 今回の旅は、平成大修理によって白く蘇った姫路城や,香川県の観音寺・

愛媛県の別子銅山跡地を旅して高知へ向かう予定である。

自宅を愛車で出かけた後、いつもと同じようの阪神高速湾岸線から神戸線に入り、第二神明道路、加工川バイパス、姫路バイパスと走行して行く。

姫路バイパスからはJR姫路駅近くを走行すると、すぐに姫路城前の地下駐車場(大手前公園地下駐車場)が見つかった。

すぐに愛車を駐車させ、カメラを持って地上に出ると、公園があり、新緑の緑に覆われら一角から、姫路城が美しい姿を見せている。 

スクランブル式の交差点を渡ると、大天守閣に聳える鯱瓦を左右対称に展示している。

左右対称の鯱瓦の真ん中からは、緑に浮かぶ美しい姫路城が威容を放っている。

鯱瓦(姫路城の大天守閣の屋根にそびえる鯱瓦と同じもの)と真っ白に蘇った姫路城

 

 今回の姫路城の修理は、「平成の大修理」 と呼ばれ、2009年から5年半の歳月をかけて行われた。

姫路城は、白鷺が羽を広げたような美しい姿から 「白鷺城」 とも呼ばれていた。

完成した白いお城は、まさに 白鷺城の名前に ぴったりのように感じる。

今回の大修理は、柱や壁を塗りなおしたり、屋根の瓦を葺き直したりしている。

瓦は、一枚一枚剥がして、チエックし、傷みの激しいものは新しい瓦に取替える工事を行った。

修理前の姫路城と修理後の姫路城を比較して、白く見えるのは、どうしてか!

それは、石灰石や貝殻などから作る、白い「漆喰=しっくい)を壁に塗ったり、瓦と瓦の継ぎ目に使ったいる為に、お城全体が白く見えてくる。

ただ、数年たてば、修理前の城のように、少しづつ黒味を帯びて、落ち着いた色に見えるくるようである。

姫路城の配置図

世界文化遺産であり、国宝の姫路城は、1993年(平成5年)12月、奈良県の法隆寺と共に、日本で初めて世界文化遺産に登録された。

姫路城は、17世紀初頭の日本の城郭建築を代表する史跡建造物として評価を得ている。

評価の理由として

,修糧的完成度が我が国木造建築物の最高位にあり、世界的にも、他に類のない優れたものである。

17世紀初頭の城郭建築の最盛期に、天守群を中心に、櫓、門、土塀等の建造物や石垣、堀などの土木建築物が良好に保存され、防御に工夫した日本独自の城郭の構造を最もよく示した城である。

喜斎門跡方面から大天守閣を望む

私たちは、緑の林に浮かぶ姫路城を見ながら進んで行くと、喜斎門跡(きさいもん)から、堀を渡り三の丸広場方面に向かって行く。

目の前には、幾数もの城壁があり、その上空には真っ白い天守閣が聳え、堂々とした姿を見せている。

私たちは城壁を横に見ながら、三の丸広場方面に向かって行く。

幾重にも重なる城壁や白い塀や櫓、その上に建つ真っ白に蘇った大小連立式の天守閣が美しい姿を見せている。

 

姫路城は、この地の姫山に初めて城が築かれたのは1333年頃の、赤松氏の時代といわれている。

以来、13氏・48代が城主を務め、戦塵にまみれることなく今日に至っている。

赤松氏の後、西国統治の重要拠点として羽柴秀吉、池田輝政、本田忠政が城に夢を託して拡張、

いま見られる全容が整ったのは、戦乱の世が落ち着いた1617年のことである。 

多くの人達で賑わう三の丸広場と 堂々とした城壁の上に建つ土塀や櫓、さらに、その上に建つ連立式の天守閣が他に類を見ない美しさを誇っている姫路城

 

姫路城は日本一の名城といわれている。

それは、城の要塞としての機能性、防御する堀などの線が3重の螺旋形になった複雑巧妙なもの。

それに、美しい連立式天守閣をもっている。 5重6階の大天守閣と、三つの小天守閣が、渡り櫓でつながり、幾重にも重なる屋根。

白の漆喰塗りの外装などが、全体としての調和と華やかさをもった城である、。

また、姫路城は、築城400年の歴史の中で、戦火や近代の戦災に遭うことがなかったたぐいまれな城である。

そのことから、天守閣や櫓、門などの保存状態や、遺構も数多く貴重な文化遺産となっている。

姫路城の城内見学に通じる歩道、この通路には多くの見学者が訪れ、200mほどの列をなしている。

この時も入場するのに2時間ほどの時間を要するとのことであった。

私たちは三の丸広場を通り、姫路城の撮影ポイントを確認しながら前に進んでいく。

すると60歳代のボランチアガイドの男性が見え、姫路城のことについて色々と教えていただいた。

写真のことだけでなく、姫路城の歴史やエピソードなどに詳しく、その造詣の深さは驚くほどであった。

撮影ポイントを聞くと、西側の高台にある千姫ぼたん園方向から三の丸広場を見おらせる場所が良いと、教えてもらった。

早速、行って下記3枚の写真を撮影する。

教えてもらった撮影ポイントからの大小の連立式天守閣をもつ姫路城と庭園のように整備された花木などの樹木が美しい。

真っ白に蘇った連立式の大小天守閣と城壁や白い土塀が、うまく調和し、独特の美しさを見せる姫路城。

城壁の上に建つ白い櫓、さらにその上に建たつ、整然とした城壁、白い連立式の大小の天守閣が、うまく調和し、奥行のある美しさを見せる姫路城。

大手門をくぐると国宝姫路城と書かれた石碑と三の丸広場があり、その向こうには、城壁とともに連立した天守閣をもつ美しい姫路城が威風を放っている。

 

千姫ぼたん園のある高台からの姫路城を撮影しながら進んで行くと、三の丸広場に出てくる。 

三の広場や大手門から城内に通じる遊歩道近辺では多くの人たちが、眺望を楽しんだり、写真撮影をしたりして思い思いに楽しんでいる。

私たちも姫路城をポイントに撮影してして進んで行くと大手門に出てくる。

逆方向からは多くの人たちが三の丸広場方面に入って行く。

大手門をくぐるとお濠があり、桜門橋が架かり、多くの人たちが行き交っている。

国宝「姫路城」の石碑と桜門橋、姫路城を観る。

大堀に架かった桜田門橋の上に立つと、石垣に囲まれた清らかな清水の中を一層の遊覧船が向かってくる。

和船によるお濠巡りの遊覧船、間もなく大手門に通じる桜門橋の下を通りぬけて行く。

お濠と桜門橋、大手門方面からの姫路城、桜門橋を渡って大手門をくぐると三の丸広場があり、目の前に天守閣がそびえたっている。

 

私たちは、2時間近く平成の大修理で真っ白に蘇った姫路城を見学した後、愛車を止めてある大手前公園地下駐車場に帰ると、国道2号線の姫路バイパス方面に向かって行く。

姫路バイパスから国道2号を30分ほど走ると風光明媚なブルーラインを走行し、岡山県の宇野港まで行って、フェリーで高松へ渡る予定である。

 

       私の若い頃、何度も訪れている姫路城であるが、今回、三十数年ぶりに訪れる。

平成の大修理の後だけに、お城のイメージは全く違っているが、周りの公園や施設もきれいになったように感じる。

世界遺産に登録されたことで、多くの人たちが訪れ、管理費なども違っているのかもしれないが、お城の基本スタイルは全く変わっていない。

修理前の落ち着いた雰囲気の城壁や天守閣をもつ姫路城は、独特の雰囲気があり、味のある美しい城である。

私は、姫路城の連立する大小の天守閣と、それをささえる白い塀や櫓、土台の石垣がバランスよく調和して築城され、

独特の優しさがあり、他に類を見ない魅力一杯の城であると思えてならない。

姫路城は、姫路市の周りの景観の中で、広い広場を持ち、市民からも親しみのある、なくてはならないお城である。

今後、地元はもとより、日本や、世界の観光客か愛され続けるお城への地位や魅力を、だんだんと高めてきているように感じた今回の旅であった。

 

 

 

 

 

 

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バリ島への行き 立ち寄った初めてのマレーシアー

2015-07-03 18:10:02 | 思い出

2015年(平成27年) 4月10日(土) マレーシアの首都クアランループにある、ペトロナスツインタワービルの見学を終えた後、

コーヒーと甘いマレーシア独特のお菓子を食べながら30分ほど休息する。

日本の和菓子と似ていておいしい。

 休息をおえた後、私たちは、電車を利用して、歴史的な施設の多いマスジット・ジャメを予定している。

地図を見ると、近くに電車のKLCC駅がある。

 ビル構内にある案内看板にしたがって、地下商店街をKLCC駅に向かって歩いて行くとすぐであった。

券売機の前で、チケットを買おうとしたが、よくわからず困っていると、近くにいた30歳前後の女性が、買い方を教えてくれて、改札口まで案内してくれた。

親切な女性であった。何度かお礼を言って、私たちはマスメジット・ジャメ方向の電車改札機に向かった。

ところが改札機を通過しょうとした時にトラブルが発生する。 

チケットを改札機の所定の場所に置くと、ドアーが自動的に開いて通行できるようになっているが、

妻が何度チケットをおいてもドアーは、閉じたままで開かない。

後ろにいた40代位の男性が、見かねて、妻の持っていたチケットをもって駅員の所に行ってくれた。

駅員がフォーマットして、再び改札機に置くと、ようやく開いて通行することができた。

私たちは、この男性にお礼を言って、到着した電車に乗り込んで行く。

この電車は、LRTという路線を走る電車である。

乗車して三番目の駅が目的地のマスジット・ジャメ駅で、10分程の所要時間である。

駅に到着して外に出ると川があり、その向こうに、マスジット・ジャメという KL(クアラルンプール)最古のモスクが、堂々とした威風を放しながら見えている。

下の写真のように目の前の川と、その向こうにある川が、すぐ近くで合流している。 

ここがクワラルンプール、都市名の由来になった場所である。

少し先の川がクアラルンプールの名前の由来になったクラン川と、ゴンバック川の合流地点、水間にマスジット・ジャメといわれるモスクが建てられている。

川越しに威風を放つマスジット・ジャメの建物を見ながら入口の方に向かって行く。 

入口で建物の中に進もうとしたが、ガードマンから、手を横に振り、これ以上は入れないと停止させられた。 

仕方なく、道路を真っ直ぐに進んで行く。

 

1909年に建設されたKL(クアラルンプール)最古のモスクで、クアラルンプール駅と同じハボックが設計している。 

ムーア時代の様式に影響を受けたタマネギ形のドーム屋根やアーチ形建物、塔と曲線などと、

使用されている大理石やレンガ壁などが、バランスよく設計され、独特の美しさを醸しだしている。

クアラルンプールの歴史的な建築物が多いマスジット・ジャメ周辺の街並み

駅から真っ直ぐに進んで行くと大きな通りがあり、緑の多いクアラルンプールの美しい街並みが見え、往来する車や訪れる人たちで賑わっている。

マスジット・ジャメの周辺に建つ 市立劇場(旧市庁舎)と白亜の旧高等裁判所

マスジット・ジャメ周辺には多くの歴史的な建造物が集中し、かつて、この地域がマレーシアの中心であったことがうかがえる。

駅から進行してきた道を曲がると、イスラム様式でレンガ造りの市立劇場(旧市庁舎)や旧高等裁判所がある。

100年以上の昔にできたとは思えないような美しいレンガ造りと、細部にこだわった外観や色彩が独特の美しさを醸し出している。 

その上に建つ真っ黒なドームと、さらにその上に建つ真っ白い塔が、イスラム様式の個性的な景観を見せている。

外観的にもムーア・イスラム様式独特のアーチ状の白い窓が、赤い煉瓦と共にうまく調和し威風を放つ市立劇場(旧市庁舎)

マスジット・ジャメの隣接地にある市立劇場、以前は市庁舎として使用されていた。 右の白い建物が旧高等裁判所である。

市立劇場は、国立織物博物館と同様、1896年にA、B、フバックによって設計された建物である。

白の外壁とレンガ壁がイスラムやムーア建築の特色を生かしいる。 

この場所から見る建築物、独特の形状からくる色彩やコントラスが、120年前に立てられたと思えないほどの美しさを魅せている市立劇場の建物。

旧高等裁判所、この建物は1915年A、B、ハボックによって設計された。  

白亜の色彩にイスラムやムーア調の形状が美しく、屋上にある白と黒のドームが建物全体の重厚な雰囲気を漂わしている。

現在は民事など軽微な裁判所として利用されている。

スルタン・アブドウール・サマト・ビル(旧マラヤ連邦事務局ビル)

イギリスの統治時代には行政の中枢となったビルで、国の重要な行事が行われてきた。現在は最高裁判所になっている。 

 

私たちは、マスジット・ジャメや市立劇場・旧高等裁判所の建物を見学したあと、横に長くひときわ威風を放つ、旧連邦ビルを見ながら、その前にある広大なグリーン広場(独立広場)に向かって、道路を横断して行く。

独立広場の前に建つ、スルタン・アブドウール・サマト・ビル(旧マラヤ連邦事務局ビル)

イギリス人建築家A.C.Normanの設計により1894年〜1897年に建てられた。

イギリスのビクトリア様式、イスラムのムーア様式の融合したデザインになっている。

左右対称の中央には40mの高さのある時計塔と、その下には玄関が建築され、左右の塔と共に威容を放っている。

 

私たちは独立広場の隅にある花や噴水などを見学していく。 

そこから、美しく整備された広大な旧マラヤ連邦事務局ビルが良く見える。 ここからの光景は、いつまでたっても、飽きることがなかった。

それにしても美しい建物である。

中央の塔の上部にある時計台や、さらに、その上にある銅製の丸いキュポラが、建物全体の調和を図り、強く引き付ける役割を果たしている。

左右の同じ形状の小さなキュポラと、建築様式の建物がバランスよく配置され、中央の塔と共に存在感を一層高めている。

いつまでたっても飽きることのない歴史的な美しい建築物である。

また、どこか、歴史ある大国の宮殿のようなムードを醸し出しているようにも思える。 

独立広場からの スルタン・アブドウール・サマト・ビル(旧連邦事務局ビル)でマレーシアに現存する植民地時代を代表する建物として知られている。

小さな池があり、ギリシャの神殿のような柱の上から滝のように落ちる水が流れ、その水間から見るスルタン・アブドウール・サマト・ビル(旧連邦事務局ビル)

 

この場所周辺には近代的な建築物や歴史的な建築物が多く存在している。

それに、美しい公園のように整備された独立(ムルデカ)広場のグリーンや

噴水や滝などの水の芸術品が、うまく調和し、独特の美しい景観を造り出し、マレーシアの歴史的情緒を高めている。

さらに、私たちは独立広場のグリーンの上を、国旗掲揚塔のある方向に向かってゆっくりと歩いて行く。

独立広場(ムルデカ・スクエア)と正面に近代的なビルを見る。 この広場は1957年8月31日の独立宣言された歴史的な場所である。

なぜか、この広場に立って周りの景観を見ていると、当時のマレーシアの志ある方々が、

小さなことにこだわらず、大志を抱きながら、国造りに邁進、心の中に新たなる決意を強く秘めていったであろう! との様子が目に浮かんでくる。

独立広場の南端にある国旗掲揚塔、世界一の高さを誇る100mの国旗掲揚塔にはマレーシア国旗がはためいている。 

下層の位置には、独立宣言するラーマン首相のモザイク画がおさめられている。

 

1945年、現在のマレーシアと呼ばれる地域はマラヤと呼ばれていた。

第二次大戦終了後、再び、イギリスが攻め込み、イギリスの植民地のマラヤ連邦となったが、1949年マラヤ連合へ移行する。

ラーマン初代首相

その後、ラーマンは幾度となく、独立のための使節をイギリスに派遣するが拒否される。

1956年、独立のための使節を再び、イギリスに派遣し、交渉した結果、独立のためのマラヤ連合憲法が施行され、1957年8月31日、民族の念願であった独立を勝ち取った。

  

 1957年8月31日 独立宣言するラーマン マラヤ連合初代首相のモザイク画 (独立広場の国旗掲揚塔に掲示されている)

 

かつてのマレーシアやアジアのほとんどの国は、長い間、欧米諸国の植民地であった。

植民地を持った欧米諸国は、繁栄をつづけ、栄華を味わっていた。

逆に植民地にされたアジアなどの国々は、衰退し、国民生活はきわめて困窮していた。 

そんな植民地時代の状況が数百年続く中、アジアのある国が、彗星のごとく現れ、白人国家の強国 ロシアを戦争で破ったというニュースが流れてくる。

世界中の人々は、この報道に驚き、圧政に苦しむアジアの人々にも、大きな喜びが湧き上がってくる。

西洋文明の強大な軍事力や工業力には、絶対にかなわないと思っていたことが、 自分たちにも やればできるのではないか! 

独立への道が開かれるのではないか! との希望の炎が芽生えてくる。

 

日露戦争での日本の勝利は、日本だけの勝利に終わらず、世界の植民地地図を塗り替えるほど、大きな影響力のある出来事であった。

インドの初代首相 ジャワーハルラール・ネルー は次のように語っている。

「日本がヨーロッパで最も強い国の一つであるロシアに対抗できたなら、どうしてインドにできないことがあろうか」

また、初代ビルマ首相 バー・モウも次のように語っている。

「日本の勝利を聞いたときの感動を思い起こす。この勝利がアジア人の意識の底流に与えた影響は決して消えることがなかった。 それは全ての虐げられた民衆に、新しい夢を与える歴史的な夜明けであった。」

その他、トルコ、イラン、フインランド、エジブトなどの国々も驚嘆し、歓声をあげ、黒人の解放運動にも火がついていく。

アジアなどの独立運動は、日露戦争での日本の勝利が、一つの大きな原動力になっている。

他方、その後の欧州側でも、有色人種の独立運動が活発になり、植民地化、奴隷化することは、もはやできない! と意識するようになる。

 

日露戦争後の状況について少し述べてみる。

1914年(大正3年)第一次世界大戦(人類史上最初の世界大戦)が勃発する。

1919年(大正8年) アメリカ ウイルソン大統領の提唱により、人類史上初の国際平和機構である 「国際連盟」 が設立される。

日本は1919年(大正8年) 国際連盟の第一次世界大戦後のパリ講和会議において

世界で初めて人種差別撤廃を明確に主張する。

この日本の提案は、海外でも大きく報道された。 

西洋列強の圧力に苦しんでいた国々や人々から、感謝の言葉が日本に述べられている。

人種差別撤廃法案は賛成多数にも関わらず、議長(アメリカ ウイルソン大統領)の裁定で否決される。

賛成多数にも関わらずアメリカ 大統領裁定で否決されたことから、

アメリカのシカゴなど多くの都市で人種暴動が発生、100人以上の死者、数万人が負傷するなどの事件が多発する。

 

1924年(大正14年) アメリカで 排日移民法が成立する。

1929年(昭和4年) 世界大恐慌が始まる。 この経済危機により、共産主義が勢力を得てくる。

それに対抗するイタリアでは、ファシズムが、 ドイツではナチシズムが大頭する。

第一次対戦後の処理に関して、ベルサイユ条約(1919年6月)が調印され、

それに伴って、もたされた国際秩序であるバルサイユ体制がなされたが、ドイツは反感し、

日本へ親近感を強め、植民地大国である、イギリスやフランスに反感するようになっていく。 

このようなことが、その後の第二次世界大戦への呼び水になっていく。

 

 

欧米が望んでいたのは現存するアジア・アフリカなどの植民地を、そのまま維持し、収益を上げ国家財政を豊かにすることであって、自分たちの植民地を手放すことなど、夢にも考えてなかった。

そんな、折りに、日本というアジアの小国が現れ、人種差別撤廃やアジアの植民地解放のために活動してくる。

このように、欧米諸国が進出している北東アジアや東南アジア・インドなどへの影響力を高めていく日本に対して、欧米諸国は快く思っていなかった。

特にアメリカのルーズベルト大統領は、同盟国を集い、

1941年(昭和16年) 資源のない日本への貿易封鎖網(ABCD包囲網)を確立し戦争へと追い込んでいく。

A=アメリカ、B=イギリス(Britain),C=支那(china),D=オランダ(Dutch)

貿易封鎖の内容は以下のとおりである。

‘本資産の凍結、通商航海条約の廃棄、E換欟慷∩蔀屐覆覆でも石油はアメリカに依存しており、禁輸は日本存亡の危機であった)

1941年8月 ルーズベルト米大統領は、石油禁輸強化を発令する。(日本の石油備蓄量は約半年分であった)

 

さらに、アメリカ政府は1941年11月、日本に追い打ちをかけるような無理難題なハル・ノート(日米間協定の提案基礎の概要)を突き付ける。

内容は、「日清、日露戦争やその後の条約によって日本が獲得した正当な、すべての権益を放棄せよ」 (欧米諸国は植民地政策をそのまま続ける)

こういった内容のハル・ノートを日本は突き付けられてきた。

この時、日本は、アメリカとの外交交渉を、何とか関係修復を図りたいとの思いで必死の努力を続けていた、

日本にとって、ハルノートは、寝耳に水で、目のくらむほど絶望感が走る内容であった。

この「ハル・ノート」は、アメリカ議会も、アメリカ国民も全く知らないところで、ひそかに日本に突き付けられた。

ルーズベルト大統領と、幾人かの側近のみが知っていた。

ルーズベルトは、この内容を突き付ければ、「日本は、我々に牙を剥いて、襲いかかってくるだろう」 と思っていた。

そして、日本から、最初の一発がほしかった。

そうすれば、「アメリカ国民は怒り、戦争やむなし、と心を一つにして、日本との戦争に邁進できる」 と考えていた。

アメリカのルーズベルト大統領ハル国務長官も、当時の白人感覚で、有色人種を差別して、このような無理難題を持ち出し日本にせまってきた。

このような無理難題な通牒を突き付けられた日本には、開戦以外に妥協の余地はなかった。

 

戦後、このハル・ノートの件について、東京裁判で、日本の無罪を主張したインドのパール判事は

「ハル・ノートのようなものを突きつけられたら、モナコヤルクセンブルクのような小国であっても、矛(ほこ)をとってアメリカに立ち向かうであろう」と述べている。

また、アメリカのハミルトン下院議員(ルーズベルトのライバラル)は、ハル・ノートの存在を知ると 「恥ずべき最後通牒」 と批判し、こういったものを突き付けられた日本は 「自殺するか!、降伏するか!、戦うしかない」 と述べている。

日本占領連合軍の最高司令長官であるマッカーサーも、戦争が終結して日本に来るまで、ハル・ノートのことは知らなかったと述べている。

 

私も、日本人の心を深く傷つけるハル・ノートのようなものを受け取れば、

どのような状況を考えても、熟慮しても日本の進むべき方向は戦う道しか残されていないと思う。

仮に、相手側の要求を日本政府が受け入れても、明治以降、外国との正当な権益を手放すことは、軍や当時の日本国民が許さなかったと思う。

 

ハルノートから日本には、開戦以外に妥協の余地はなかった。

ハル・ノートにより日本の真珠湾攻撃が決定し、大東亜戦争(太平洋戦争)がはじまった! といっても過言ではない。

 

この時期のアジアは、ほとんどの国が欧米諸国の植民地であった。

植民地でないのは、日本とタイの2カ国といっていいような状況であった。

日本はかつてから大東亜共栄圏構想をもっていた。欧米諸国の植民地支配から、東アジアや東南アジアを開放し、

日本を盟主とする共存共栄の国際秩序建設を目指していた。

 

こんな状況のなかの、1941年(昭和16年)12月8日、 この日の早暁、日本軍はマレーシア東海岸のコタバルに敵前上陸を試みる。

 イギリスとオーストラリアの連合軍は、海岸沿いにコンクリート製のトーチカ(防御陣地)をつくり、上陸しようとする日本軍に、猛烈な砲火を浴びせてくる。

 中国戦線で戦ってきた命知らずの日本軍1万人は、それをものともせず上陸に成功し、交戦状態に入るが、日本軍の勢いに圧倒された連合軍は降伏する。

アジアの人々は、小さな日本軍が、世界に冠たる大英帝国の軍隊を降伏させたことでマレー人の目は開かれていく。

この時、マレー半島の多くの人達は、イギリスや華僑の支配からの独立を夢見て、積極的に日本軍に協力している。

 

反日的な華僑が日本軍政中に過酷な仕打ちを受けたことは事実であるが、

日ごろ私たちが目にする東南アジア史の書物の多くは、華僑の利害のみ基づいて書かれたものがほとんどだということを忘れてはならない。

 

 アジア植民地政策を推進するイギリスは、1623年にインドネシア東部のモルッカ諸島でオランダと交戦になり敗れる。

 その後、インド経営に力を注ぎ、それが軌道に乗ると、再び東南アジアに目を向けていく。

さらに イギリスは、1768年にペナン島、1819年にシンガポール、、1824年にマラッカを手に入れ、本国直轄の「海峡植民地」 を構成する。

 そして、内陸部も保護国化し、1895年にはマラヤ連邦をつくる.

植民地化に成功したイギリスは、スズ鉱山やゴム園の開発に力を注ぎ、中国人やインド人労働者を多数マレーシアに移住させる。

今日のマレーシア・シンガポールの複雑な民族構成の基礎を作ったのは、このことが原因である。

また、イギリスは、直接支配から、中国から連れてきた華人を中間搾取者として、マレー人の支配を強めていく。

このように植民地化されたマレー人は、イギリス人を憎むと同様に、中間搾取社の華人をも憎んでいた。

日本軍の侵攻によって華人は、これまで持っていたマラヤ連邦の利権を失うが、今度はゲリラ戦で抵抗してくる。

このゲリラに不意を突かれて命を奪われた日本兵がたくさんいた。

この時のイギリス軍は、植民地インドのグルカ兵やパンジャブ兵を主力としていた。

 

マレー半島のコトバルに上陸したあと、日本軍は地元の人達との協力を得ながら、シンガポールに向かって南下しして行く。

南下している最中にも現地の人達は日本軍によく協力したといわれている。

シンガポールには、アメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリア連合司令部がおかれていた。

日本軍は数的には互角であったが、制空権・戦車・歩兵戦術・戦闘経験において優越していた。

1942月2月 、日本軍はシンガポール攻略に成功する。

、シンガポールの住民たちも、難攻不落を誇っていたシンガポールの要塞が日本軍の攻撃で陥落したのを見て、日本軍に好意を持つようになっていく。

 当時のマレーシアの人達の悲願はイギリスからの独立であった。

日本は、欧米の列強からの貿易封鎖などの政策により苦難の状況に陥っていた。

この苦難な状況を打開するには、日本にとってもアジア諸国を、欧米からの独立を支援し、正当な経済関係の構築にあった。

その為に、日本は、植民地の全国民への教育、独立を勝ち取る強い心を持った青年たちの育成などに貢献している。

欧米諸国は、「植民地に一番先に造ったのは刑務所であったが、 日本は一番先に学校を造った」 といわれている。

 

パークロイヤルホテルに展示してあった三輪自転車(トライショー)、現在でも観光客を乗せて活躍している地域がある。

トライショーは人力車と自転車を組み合わせたような乗り物である。

 

さらに、帰国後色々な書物を読んでいると、次のような内容の記事があった。 

ある日本人の学校教師が、戦後、マレーシアを訪れました。

 かつて日本軍は大東亜戦争(太平洋戦争)中に残虐非道を尽くした、と思っていた彼は、マレーシアにおける日本軍の活動を調査しようと思ったのです。

 彼は、マレーシアの上院議員ラジャー・ノンチックに会って言いました。

 「日本軍はマレー人を虐殺したに違いありません。その事実を調べにきました」。

 すると、ノンチック議員は驚いて言ったのです。

 「日本軍はマレー人を一人も殺していません。

日本軍が殺したのは、戦闘で戦ったイギリス軍や、それに協力した中国系共産ゲリラだけです。

それに、日本の将兵も血を流しました」。


 そのような話が、『教科書が教えない歴史』 (扶桑社文庫)という本に紹介されている。

ノンチック議員は、その第一期生の一人でした。

彼は、同じように独立の熱意に燃えるアジアの青年たちと共に、留学生として日本に派遣されます。


 日本人教官たちは留学生たちを、わが子のように厳しく優しく指導し、

「独立を戦いとるためには、連戦連敗してもなお不屈の精神を持つことだ」

と励ましてくれたといいます。

 日本政府は食糧難の中にも、苦労して留学生の食糧まで集めました。

この日本留学の経験は、ノンチック議員の人生を変えるものとなったのです。

 そののち1945年、日本は敗戦を迎えます。

ノンチック議員は、そのとき決意を新たにしました。

 「日本はアジアのために戦い疲れて破れた。今度はわれわれマレー人が自分の戦いとして、これを引き継ぐのだ」

 ノンチック議員らは、祖国独立のための戦いを続け、ついに1957年、祖国独立を果たしました。

さらに、彼ら日本に来た南方特別留学生たちが中心となり、

現在のASEAN(東南アジア諸国連合)が設立されたのです。

 ノンチック議員は、こんな詩を残しています。

かつて日本人は清らかで美しかった。かつて日本人は親切で心豊かだった。アジアの国の誰にでも、自分のことのように一生懸命尽くしてくれた」。

 かつて日本軍は、東南アジアを舞台として戦いました。

しかし 日本軍は 東南アジア人を相手に戦ったのではなく、東南アジアを東南アジア人の手に取り戻すために、欧米人を相手に戦ったのです。

マレーシア歴代首相の画が展示してある独立広場

1994年、(平成6年) に当時の村山富一首相が、例によって日本の過去について謝罪したことをとらえて、

マハテイール首相は 「なぜ日本が謝り続けるのか理解できない」 と発言しています。

マハテイール首相

マ八テイール首相は、日英両国の支配を比較して、謝罪すべきはイギリスであると考えていました。(教科書が教えない東南アジア=扶桑社)

マレーシアは、日本が占領するまでの長い間イギリスの植民地でした。

 

旧連邦事務局ビルの隣にある国立織物(テキスタイル)博物館

この博物館はムガール様式で建てられ、その美しさから人気の高い建物である。 

1896年に建築され、その間さまざまな官公庁の使節として使用されている。 2012年に現在の博物館として開館している。

マレーシアの織物や染め物、手工芸品などを紹介する施設である。

マレーシアの伝統的な衣装や工芸品も展示され、その中には国宝級のものも有り、なかなかの見ごたえのある博物館といわれている。

独立(ムルデカ)広場横にある国立歴史博物館

国立歴史博物館では、マレーシアがたどってきた先史時代からイギリスの統治時代、日本による統治時代を経て、

独立までの歴史と文化が、数々の資料を基に展示して紹介されている。

かつて、銀行に使われていた白いコロニアル様式の建物を回想し1996年に開館する。

 

クアラルンプール シテイーギャラリーと奥にある市立図書館

このシテイギャラリー-は、クアラルンプール市内の歴史的建物などを含めて、クアラルンプールを案内するいわば観光案内所である。

独立(ムルデカ)広場の左側に隣接している。

上記写真の奥には市立図書館があり、独立(ムルデカ)広場地下への入り口の対面になっている。

 写真の奥にある市立図書館は、長い間かかって建設されていてようやく2004年6月中頃開館するが、

残念ながら蔵書が不十分であるとの声があり、図書館側も、今後、少しずつ増やしていくといわれている。

シテーギャラリー前で音楽に合わせてダンスをする若い女性たち

 

独立(ムルデカ)広場や周辺の建物などを、見学したり、写真撮影したあと、来た時と同じ駅であるマスジット・ジャメ駅に向かって行く。

マスジット・ジャメ駅からは電車に乗ってKLセントラル駅へ向かって、同じコースでモノレールに乗り、

宿泊するパークロイヤルホテル近くのブキツ・ビンタン駅まで行ってホテルに帰って行く。

ホテルの自分の部屋について、荷物などを置くと、私たちはすぐに、クアラルンプールきっての屋台街であるアロー通りに出かける。

アロー通りは、パークロイヤルホテルから、徒歩10分ほどで、モノレールのブキツ・ビンタン駅下の大通りを過ぎるとすぐであった。

黄昏時をむかえ、屋台の明かりが少しずつ輝きだしている。

アロー通りには大勢の人達が訪れ、通りの両サイドには中華料理店が並び、店の道路側には、多数のテーブル席が設置されている。

通りの中央には、大勢の人たちが行き交い、乗用車も通行、大変なにぎわいを見せている。

 

大勢の人達が訪れにぎわいを見せるアロー通りの屋台街

夜になると大変な賑わいを見せるアロー通りの大屋台街、これぞアジアといった南国の雰囲気が漂っている。

道路の上に、テーブルとイスを並べた屋台スタイルが人気を呼び、中華料理を中心に、フルーツや焼き肉の屋台なども並んでいる。

アロー通りにある屋台レストラン「西湖」 メニューは中華料理であるが、日本にもある大衆中華料理店のメニューとほとんど変わらない。

私たちも空いているテーブル席に座り、夕食をとることにした。

やはり星空を見ながら屋台で食事することは、解放感があって気持ちがいい。

日本語は通じないが、ビールや焼き餃子、酢豚などの料理をオーダーしクアラルンプールの夜を楽しむ。

このような大屋台街は、日本では見かけないが、台湾でも屋台街があり大勢の人達で賑わっていた。

やはり、屋台は、建物などの圧迫感なく、晴れ晴れとした気分にさしてくれ、どんな飲み物や料理も、屋内よりもおいしく感じる。

それに、アジア特有の南国のムードもあり、私たち旅行者を有頂天のような、ルンルンとした最高の気分にさしてくれる。

 

4月11日(土) 今日は インドネシア バリ島へ移動する日である。 午前7時30分頃、ホテルからタクシーでKLセントラル駅に向かって行く。 

15分程でセントラル駅に到着すると、クアラルンプール国際空港への切符と、バリ島への飛行機への搭乗手続きも、この駅ですべて行うことができる大変便利な駅である。

おかげさまで私たちは、小さな手荷物だけの手軽の状況で特急電車や飛行機に乗ることができた。

クアラルンプールセントラル駅からKL国際空港へ向かう特急電車内

出発前のマレーシア クアラルンプール国際空港

2015年4月11日(土)午前11時 私たちを乗せたマレーシア航空機は定刻にKL空港を離陸し、インドネシアバリ島のデンパサールに向かって行く。 飛行時間は3時間であるが、不思議なことに時差はなかった。

インドネシア バリ島 テンパサール空港に定刻の午後2時に着陸する。

9年ぶりに降りたったテンバサール空港、前回の時よりも空港が新しくなっているように感じる。

 

今回始めて訪れたマレーシア・クアラルンプール、 そこには日本との深い絆があった。

訪れた旅先での私たち日本人に対する反応は、極めて好意的な親日な態度であった。

この親日的なマレーシアの人達の態度は、私たちの先人達とマレーシアの人達の深い絆から生まれている。

色々な書物を読んでいると、私たちの先人を悪に仕立てて書かれている本もたくさんあり驚かさせられるが、

私にはどうしても解せない。 

 ほんとに日本が悪であるならば、現地でのこのような親日的な態度は生まれない。

朝日新聞が誤報と伝えた従軍慰安婦の虚報(吉田清冶著)のような報道が多い様に感じる。

今回の旅行を通じて、旅先での歴史やそれにまつわる書物などを調査したり、読んでいると、

日本って素晴らしい! と新たに感動の心が湧いてくる。

以前に訪れた台湾でも、インドネシアでも同じような体験が思い出されてくる。

また、いつの日かマレーシアを訪れる日が到来する日を夢見ながら

私たちは次の旅先であるインドネシア バリ島へ旅立って行く。

 

 

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バリ島への行き立ち寄った初めてのマレーシアー

2015-06-19 21:47:17 | 思い出

 2015年4月9日(木) 今日はマレーシアの首都、クアラルンプールと娘たちが生活しているインドネシア バリ島への出発の日である。

 朝早くから南大阪にある自宅で出発準備を整えて、待っていると、近くに住む友達(女性)が車で訪れ、関西空港まで見送ってくれた。

 この友達とは、南大阪に住むようになって10余年の付き合いで、何かと私たちの力になってくれる。 今回も荷物が多く、思案していると自ら私が 「送って行きましょう」 と言ってくれた。 非常にありがたく助かった。

 今回の旅行日程に関しては、近くの旅行会社JTBと打ち合わせていると、当初、4月10日出発を予定していたところ、いざ出発となって見積もりをとると、当初予算よりも10万円前後、高くなっていた。 

 詳しく話を聞いてみると、出発する日によって航空運賃は変わるとのこと、それでは出発日を4月9日に繰り上げるとどうなりますか!

 早速、再見積もりをしていただいた。  驚いたことに、当初予算通りの金額で、10万円前後安くなっていた。

 このことから 出発日を4月9日、帰国日を4月20日に決定する。

 途中、マレーシアを経由することから、首都クアラルンプールで2泊して、インドネシアバリ島に向かう予定をたて、バリ島の娘宅で8泊、帰りの機内で1泊のスケジュールが決まってくる。

 マレーシアのホテルもJTBにお願いしたところ、宿泊費は最低でも一人15,000円はするとのことで、インターネット予約を勧めてくれた。

 ネットでは、日本語の分かるスタッフがいるのを優先して、宿泊ホテルを検索した結果、クアラランプールの 「パークロイアルホテル」 が浮かび、条件も合うことから、予約することにした。  料金は二人で1万円/泊である。

 インドネシア バリ島では、バリ島に住む娘家族のほかに、ドイツに在住する末娘家族(4人)と、アメリカからは、次女がやってきて再会する予定である。

  4月9日(木) 午前9時前に関西空港に到着すると、すぐにマレーシア航空の搭乗手続きを行った。 30分程で手続きは完了。

 すぐに近くのカフェーで簡単な朝食を済ませて、マレーシア航空の出発ゲートに向かって行く。

 午前11時00分 私たちを乗せたマレーシア航空は、関西空港を定刻に離陸し、マレーシアの首都クアラルンプールに向かって飛び立って行った。

 マレーシアまでの所要時間は、約7時間の空の旅で、日本との時差は1時間である。

                          

                                       搭乗するマレーシア航空機 登場して間もなく 午前11時00分、定刻に関西空港を離陸する。

離陸した直後、関西空港を眼下に見ながら、マレーシア航空機は上昇して行く。

関西空港を離陸して6時間余の時間が経過する。 下を見るとごらんのような島が見え美しい景色が広がっていた。 

 

暫くしてクアラルンプール空港へ着陸体制に入り高度を下げて行く。

航空機の真下には、ココナッツなど大きな葉をつけた、緑豊かな樹木が、視界一面に広がっている。

樹木の葉などがはっきりと目に入ってくると、間もなく私たちを乗せたマレーシア航空機は、クアラルンプール国際空港に着陸する。

丁度、定刻の午後6時00分(現地時間午後5時)であった。

 

マレーシアの国土は、南シナ海を挟んでマレー半島とボルネオ島北部にまたがっている。

古くは大航海時代から、帆船でできた貿易船が集まり、アジアとヨーロッパを結ぶ、交通の要所であった。

国土の60%を熱帯雨林がしめる自然豊かな国である。

民族的にもマレー系、中国系、インド系などの他民族が調和のとれた社会を形成し共存している。

宗教的には、イスラム教や仏教、ヒンドウ教、キリスト教など多岐にわたっている。

人口は約3000万人、首都は東南アジア有数の都市で、国をリードするクアラルンプールである。

マレーシア クアラルンプール国際空港

この国際空港は、世界の著名な建築家からアイデアを募集、

その結果、日本の黒川紀章氏の「森と空港の共生」 をコンセプトにしたプランが高い評価を受けて選ばれた。

空港のメインターミナルビルなどの主要施設の建設は、日本の円借款により支援され建設された。

1998年6月にマレーシアの玄関口として、クアラルンプール国際空港は開港する。

クアラルンプールから約50km南の緑豊かなセバンに位置している。

 クアラルンプール国際空港メインターミナルビル 「森と空港の共生」 のコンセプトらしく、空港の屋内からも緑が多くさわやかな空港である。

 

定刻に到着したマレーシア航空機の私たちは、クアラルンプール国際空港の国際線専用サテライトビルゲートに到着する。 

航空機から降りと、それぞれのターミナル間を結ぶ、エアロトレインに乗ってメインターミナルに移動する。

メインターミナルには5分ほどで到着するすると、人の流れに沿って進んで行く。 

その先には、エスカレータがあり、そこに入国審査場がある。

15分ほどで入国審査をパスした後、荷物を受け取り、クアラルンプール市内の予約しておいたホテルに向かうことになるが、

どのルート(鉄道か、タクシー)で行くか!  まだ、決めていなかった。

空港で荷物を受け取る時に、日本語が分かる女性のスタッフがいて、どのルートが良いか聞いてみると、

私たちの荷物を見て、鉄道は何回か乗り換えがあるから、タクシーの方が良いと勧めてくれた。

その言葉で、タクシーで行くことに決め、乗り場に行くと、

「タクシーは前払いクーポン制で、50m程離れた所にある販売所でチケットを購入するように」 といわれた。

早速、チケットを購入し、タクシーでクワラルンプール中心部にある、パークロイアルホテルに向かって行く。

空港からクアラルンプール中心部までは、高速道路があり、所要時間は約1時間である。

タクシーの車窓からの光景を楽しんでいた。 

空港周辺の道路沿いに、大きな葉をつけたココナッツの樹木が生い茂っている。

暫くの間、その光景が続き、その広さには驚かされるが、

タクシー運転手に訪ねると、この樹木の実からココナッツオイルを抽出し、世界に輸出されているとのことだった。

高速道路は渋滞もなくスムーズに走行していると、ほどなくして、高層ビルが林立するクアラルンプール中心部に入って行く。

交通量の多い道路をしばらく走ると、私たちが宿泊する 「パークロイアルホテル」 の玄関に到着する。

手元の時計では、午後9時、マレーシア時間では午後8時であるが、まだ、明るく黄昏時の心地よい時間帯に入っている。

 

宿泊した21階建てのパークロイアルホテル(クアラルンプール市内)

 

フロントでチェックインを済まして15階の部屋に入る。 部屋から外を見ると、真下には道路があり、その向こうには、小さなモノレールが行き来している。

このホテルは、建築年数はかなり建っているものの、立地条件の良いクアラルンプール中心部に属している。

私は、その利便性を第一に考えて、このホテルを選んだ。

ホテルの部屋に荷物を運び終えると、私たちは、当ホテルの地下にあるレストラン街に出かけて行った。

幸いにして、日本食のレストランがあった。

ウエイトレスに、日本語で話しかけると、すぐに日本人シェフの若い男性が来て、簡単な会話と食事メニューについて質問する。

お勧めの日本定食と3点ほどの料理を注文して、暫くすると、日本酒と一緒に料理が運ばれてくる。

味もほとんど日本とは変わりはなく、私や妻にとっては、なじみやすものであった。

シェフと日本語でマレーシアのことや料理などについて会話をしていると、なんとなく気持ちが落ち着いてくる。

料理の味も、まずまずで、日本と比較してもあまり変わらなかったが、少し料金的には高く感じた。

 

4月10日(土)朝、7時半ごろに目覚める。 

ホテルの窓から外を見ると、まだ夜が明けていなく真っ黒であったが、ライトを点灯した数多くの車がせわしく往来している。 

どこの国でも見られる朝の交通ラッシュである。 8時になっても、まだ、夜が明けていなかった。 やはり、時差の関係は大きいと感じる。 

私たちは、ホテルで朝食を済ませると、すぐに、カメラを持って妻と二人でクアラルンプール市内観光に出かけて行く。

宿泊したホテルからKLモノレールのブキツ・ビンタン駅に向かう途中での撮影。

 

  ホテルから5分程歩くと、モノレールブキツ・ビンタン駅がある。

 そこから クアラルンプールの交通の要所であるKLセントラル駅に向かって行く。

 

  マレーシアのクアラルンプールは、180万人が暮らすアジアを代表する大都市のひとつである。

 クアラルンプールとは、マレーシア語で 「泥の川の合流地」 という意味で、国内では通称 「KL」 の呼び名で親しまれている。 

 マレーシアの首都として、貿易、商業、政治など国の中心的な役割を果たしている。

 クアラルンプールは、スズ鉱山の採掘拠点として栄えていた。

 19世紀中ごろクラン川とゴンバック川が交わる合流地点で、スズが見つかり、スズの町として開拓された。 

そして、掘り出されたスズを川の水で洗ったため、川には泥水が流れるようになった。 

それが、この町の地名 「クアラルンプール(泥の川の合流地)」の由来である。

 

  KLモノレールのブキツ・ビンタン駅でコインのようなチケットを購入する。 

当初、チケットをどのように買うのか! よくわからないために、駅員に話をすると、発券機まで来てくれて、親切に教えてくれた。

KLモノレール  ブキツ・ビンタン駅から乗車しKLセントラル駅に向かう。 全線が高架で市内の眺望がよかった。クアラルンプールは緑が多く美しい街である・

クアラルンプールのKLモノレール 色々な車体の色がある。

KLモノレールの車窓からのクアラルンプール市内、道路もよく整備されている。 所々に大きな樹木の森があり、緑と近代的な高層ビルが調和したの美しい街並みを形成している。

15分ほどでKLセントラル駅に到着する。

 KLセントラル駅は、鉄道の玄関口で、バンコク〜シンガポール間を走るマレー鉄道の国際列車や、クアラルンプール国際空港へもこの駅から発着している 

クアラルンプールの交通の要所であるKLセントラル駅へ行き交う人たち。

私たちは、KLセントラル駅を外に出たりして、写真撮影や街並みを見学をした後、通常の電車に乗って、この駅が出来るまで、活躍していたクアラルンプール駅に向かった。 KLセントラル駅からは5分ほどの距離にある。

クアラルンプール駅に到着した美しい車体の電車

クアラルンプール駅に到着すると、長いプラットホームがあり、ホームの一番端には、出口に向かう階段があった。 乗降客はまばらである。

一番端の階段を上って、改札を出た後、出口の駅舎中央の正面に向かって行くためには、降りた隣のホームをUターンするように、階段を上り下りする必要があった。

クアラルンプール駅構内 かつてこの駅がマレーシアの中心な役割を果たしていた時代の雰囲気が漂い、イスラーム調の造りになっている。

 

クワラルンプール駅構内の意匠デザインの素晴らしさを感じながら、駅舎を出て行く。

外に出て、駅舎を振り返ると白い白亜の建物になっている。

その上空には、数か所から天に突き刺さるような槍のような塔が、ドームの上に造られ、聳え立っている。

窓も大小のアーチ形をした開口を、左右にバランスよく配置し、頂上部の塔と共に洗練された美しさを見せている。

 

 1886年に開業したクアラルンプール市内の最古の駅である。 

現在の駅舎は海峡植民地時代の1910年に建築された、イギリス風の建築様式で、観光名所の一つになっている。

細部にまでこだわって建築され、美しい姿を見せる白亜の駅舎 クアラルンプール駅

 白く、天に突き刺さったような、堂々たるムーア建築の白亜建築の駅舎、設計はイギリス人建築家ハボックによるもので、13〜14世紀のオスマントルコ、ムガール帝国、ゴシック建築などやインドのダージ・マハルの影響を受けている。

 KLセントラル駅が完成するまでは、クアラルンプールの中心駅として活躍していた。

ムーア建築物のクアラルンプール駅、白亜の建築物の上にあるドーム形の塔が、イスラーム調のエキゾチックな雰囲気を一層高めている。

※ ムーアとは、イスラムの影響を受けた、スペイン地方のことを指し、イスラーム様式をヨーロッパから見た場合の表現である。

 

クアラルンプール駅の向かい側には、重厚な雰囲気が漂うマレーシア鉄道公社ビルが見えている。

屋上部には、クアラルンプール駅と同じように白いドームがあり、その周りには数本の丸い柱を配置している。

さらに、その上には、小さなドームがあり、中央には尖がった白い塔が、天を突き刺すように配置され、イスラーム建築の雰囲気を醸し出している。

マレーシア鉄道公社ビル(KTMコミューターなどを運営するマレー鉄道(マラーシアとシンガポ−ルを結ぶ鉄道)の本部ビル(政府系の会社)

イギリスの植民地時代に建てられ、ムーア建築の美しさが漂っている。1983年に歴史記念物に指定されている。

クアラルンプール駅の向かいにあるマレーシア鉄道公社ビル。

中央にははみ出した玄関があり、その上には、白い円形のドームと塔が聳えている。

この重厚感のある鉄道公社ビルは1917年に完成。 アジアやヨーロッパ各地の建築様式が巧みに融合されているといわれている。

 

クアラルンプール駅やマレーシア鉄道公社ビル見学した後、5分程歩いた所にある国立のモスクに向かって行く。

小高い丘にあるモスクの周りは公園のように美しく整備され、四方に見えるクアラルンプール市内の高層ビルと調和した光景を見せている。

国立モスクは、図書館や博物館のような白い格子の壁があり、その下には、近代手法の池を配置している。

建物に沿った池の中央には、噴水が真っ白い泡を見せながら幾数か吹上げ、美しいモスクを醸し出している。

近代的な建築と池や噴水のバランスの良さから、その美しさと心の癒しを感じさしてくれる国立のモスク

1965年に完成したマレーシア最大級のモスクである。

このモスクは、マレーシアの13の州と、クアラルンプールを表した14の角屋根で造られている。

全体としてバランスよく設計された近代の建築に、目を奪われそうな美しさを感じさしてくれるモスクである。 

1965年に完成したマレーシア最大級の国立モスク。

 

 このモスクについて、さらに調査すると次のように案内されている。

このモスクは、貝殻や星を思わせる幾何学的な形状の青い屋根、高さ73メートルのミナレット(礼拝時刻の告知に使われる塔)など、

現代イスラム建築の代表作としても知られている。

 8000人を収容できる礼拝堂があるほか、図書館や国の独立に貢献した人々の霊廟なども併設されている。

 

さらに、 国立モスクを眺めながら歩いていると、大樹の下で、昼の食事を販売する出店があった。 

大樹の向こうにはテーブルが並べられ、数人の方々が美味しそうに食事をしている光景も目に入ってくる。

 時間も、昼を回り、12時半ごろになっていて空腹を感じていた。 

食べ方や味は全く分からないが、マレーシアの食事に、急に興味が湧いてきて、食べてみることにした。

 店には3人の女性がいる。

 「料理は何にしますか!」 と聞かれたが、全く分からない。 

店の方に 「お任せします」 店の方は、私たち外国人に対して、にこっと微笑みながら 「まかしなさい」 といった表情で、お皿に料理をもってくれた。

 隣でフルーツジュースなどのドリンクを購入して、近くのテーブル席で昼食を摂りはじめる。

 

モスク横では食事や飲み物などを販売している。どれもが日本と比較すると格安の値段である。

私たちもこの国立モスク横の公園で昼食をとる。 大樹の下ではそよ風があり、涼しく心地が良かった。

私たち食べた昼食、マレーシアの一般的な料理なのか! 基礎味はしっかりしていて、お美味しい食事であるが、どれもカレーのようなスパイスがよくきいている。 食事後には飲み物が欠かせない。

 

昼食の後、モスクの入り口の方に進んで行くと、大勢の方が礼拝に訪れて来る。

イスラム教徒にとって一日5回の儀式は欠かせない。

イスラム教のメッカ(カーバ神殿)の方向に向かって礼拝をしなくてはならない。

毎日、‘の出前 ∪妓畫宛紂 ´8畍2時〜3時の間 て没後 ソ⊃価亜,鳩茲瓩蕕譴討い襦

多くのイスラム教徒が訪れ、国立モスク内の礼拝堂に向かって行く。

 

私たちは国立モスク内には入らず、反対方向に進んで行く。

そこには祭りのように露店が並び、大勢の人達が行き交ったり、周辺の草むらに座わり、食事したり、休息したりして過ごしている。

毎週、金曜日はイスラム教徒にとって大切な意義のある日とされている。

露店は100mほど続き、甘いお菓子や飲み物などの食料品や、お土産、衣類なども販売され、訪れた多くの人達でにぎわっている。

この露店街で、マレーシアの方々と目があったりすると、相手の方から にこっと笑って挨拶してくれる。

私がカメラをもって観光している状況から、日本人であることがわかるのか! ほとんどの方が笑顔で挨拶してくれる。

私たちも 「こんにちわ」 と答えていく。

旅をしていて、地元や行き合う人達が、「にこやかに接してくれる」 こんなにうれしく、楽しいことはない。

モスク前にある露店街、果物や飲み物などの食料品や、衣類など様々な品物が店頭に並び、大勢の人達が訪れている。

 

国立モスクの見学を終えた後、私たちは、タクシーに乗って、マレーシアを代表する高層建築物のペトロナス・ツインタワービルに向かって行く。

国立モスクから、近代的な建築物が建ち並ぶクアラルンプールの市街地を15分ほど走行すると、見上げるような高層ビルが立ち並ぶ一角に到着する。

ペトロナス・ツインタワービルを下から見上げると圧巻の大きさである(左の建物が日本、右の建物が韓国が建設する)

 

 このペトロナス・ツインタワービルは、高さ452メートル、88階建ての超高層ビルで、現代クアラルンプールを象徴するランドマークである。

 設計は、アメリカ人建築家シーザー・ペリー氏がイスラムの教えからイメージして設計したもので、2つのタワーはそれぞれ日本建設会社ハザマがタワー1を、韓国のサムスン物産建設部門がタワー2を建設した。 

 なお、41階と42階の二箇所に設けられた2本のタワーを結ぶ連絡橋(スカイブリッジ)は、フランスの建築会社による施工である。

 この建物は、国営の石油会社ペトロナスのオフィスビルとなっていて、コンサートホールやショッピングセンターなども入り、大勢の人達で賑わっている。

1階から見るペトロナスツインタワービルの地下にあるショッピングフロアーと地上階にあるフロアー

 

1階のフロアーを通り抜けると、大きな池があり、幾つかの噴水が真っ白い水を、形を変えながら吹上げ、訪れた人たちを楽しませてくれる。

池の周辺はKLCC公園として美しく整備されている。 まさに都会の中のオアシス的な存在で、市民憩いの癒しの公園になっている。

 

ツインタワービルの敷地内にある噴水広場、様々な噴水が時間がたつごとに変わる水の芸術品で訪れた多くの人達を楽しませている。

ツインタワービルは 左がタワー1(日本=ハザマ)、右がタワー2(韓国=サムスン)と名付けられている。

 

このKLCC公園は、広大な敷地(20ヘクタール=東京ドーム4個分)に緑と水がバランスよく配置され、

熱帯の情緒わ高めるマレーシア原産の樹木が1900種類も植えられている。

公園内にできた遊歩道は1.4kmもあり、訪れた多くの方たちが、ツインタワービルをバックに撮影したり、

芝生で寝そべったして、思い思いに過ごして楽しんでいる。

私たちも公園の遊歩道を散策しながらツインタワービルを中心に写真撮影をしたりして楽しんでいた。

ツインタワビルーのあるKLCC公園にあるクジラのような巨大モニュメント、見ていると巨大ビルに囲まれた都会の中で、美しい緑と水などが心を癒してくれそうである。

ペトロナスツインタワービルをバックに記念の写真撮影

このツインタワービルをKLCC公園から散策したりしていると、この二つのビルのよからぬ話題が思い出されてくる。

それはペトロナスツインタワービルの、片方のビルが

国立マレーシア大学の建築研究チームが調査した結果、韓国側が建てたタワービルが傾いてことが判明し、倒壊の危険性が指摘されたからだ。

そのような結果から、日本側の建てたータワービルは、テナントが埋まっているのに対し、

韓国側の建てた方は、テナントがほとんど埋まらない状況が続いている。

 

KLCC公園を散策した後、地下一階のショッピング街に入って行く。

トヨタ自動車の展示会場を行き過ぎると、果物店やカフェーなどの飲食店があった。

ツインタワービル構内では日本のトヨタ自動車のブースがあり、訪れた人が展示された高級車に触れながら係員の説明に熱心に耳をかたむけている。

ツインタワービル内にある果物店。 リンゴや南国の果物が並んでいる。

カフェーの前にはケーキや和菓子のようなものが陳列されている。

ペトロナスツインタワービルの地下一階のカフェー、手前には甘いお菓子などが陳列されている。

私たちも一時間近くの散策で、何か水分を摂りたくなっていたところに、陳列台のお菓子に 「どんな味だろう!」 と、急に興味が湧いてくる。

カフェーでコーヒーと共に食べた甘いお菓子

コーヒーと甘いお菓子を購入して食べてみると、 日本のお菓子に良く似ているような感じがする。

ほんとに甘いお菓子で、コーヒーの味は、くせのない飲みやすいものだった。

しばらくカフェーで休息した後、地下鉄に乗って、マレーシアの歴史の中心的な場所であるマスジット・ジャメに向かって行く。

 

私は、何度も海外行っているが、ほとんどがツアー旅行や、行き先の現地に家族がいる場合が多かった。

今回のマレーシア旅行は、ツアーでも、現地に家族や知人がいるわけでもなく、満足に外国語が話せない私にとっては、

大変意義深い旅行であった。

マレーシアやクアラルンプールの予備知識もなく、行き当たりばったりの気ままな旅であった。

言葉が分からなくても、現地の人達は、大変親切で、困っていると、すぐに対応してくれる。 それも笑顔で接してくれる。

今回も、旅の楽しさが、心の奥どころから、静かに湧いてくるようなマレーシアの旅である。

 

 

 

 

 

 

 

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砂鉄から鉄や日本刀を・・・中世からの日本を支えた 『たたら製鉄』

2015-05-16 23:23:20 | 気ままな旅

  2014年(平成26年)5月2日(金) 晴 午前中は近くにあるコーヒーショップで妻と二人コーヒーを楽しんだ後、郵便局などで所用を済ませて、車中泊旅行の出発準備をする。 

 今回の旅行は、山陰方面のたたら製鉄関連施設や石見銀山・津和野、山口県の秋芳洞などや萩方面を予定している。

 私は、まだ、島根県出雲市から先にある西方には行ったことがなく、長年の課題でもあったが、今日までそのチャンスは訪れてこなかった。

 

旅行目的のひとつである和鋼博物館(島根県安来市) 砂鉄を原料とした鉄の生産や日本刀などの資料を展示している。

(上記はたたら製鉄の絵図)

 

今までの車中泊旅行は、トヨタエステイマを利用していたが、一昨年11月にハイブリッド車のプリウスα(7人乗り)に乗り換えて利用している。

2013年11月に購入したトヨタプリウスα(アルファ) 7人乗りハイブリット車。

 

2013年10月、長年(10年間)乗用した思い出深いエステイマを手放し、ハイブリット車で燃費の良いプリウスαに乗り換える決断をした時期であった。 

 私にとって慣れ親しんだエステイマは、ドライブを楽しみながら自由に旅行ができる最適の車であった。

 私たちは 本ブログの 「気ままな旅」 で紹介しているように その日の天気や状況次第で、自由気ままに旅を続けている。 

 しかも、カメラ好きの私は、山でも、野でも、景勝地などの観光地でも、その日の天気次第で、自由気ままに移動して旅を続けている。 

エステイマはミニバンであるが乗用車感覚の車で、しかも車中泊のできる車として、私たちにとっては最適な車であった。 

たとえば ホテルを予約して、車旅を続けるスタイルの旅行は、夕方の5時頃にはホテルに到着したいとの意識が常にある為、午後からの旅行予定が短縮され、時間に束縛されてしまう。  

特に夕日など、美しい景勝地での観光は難しくなる。

そんな理由から、車中泊の旅を続けられる車探しをしていたところ、プリウスαの7人乗り(3列シート)があることを知った。

当初は、この車の大きさで車中泊ができるのか! と思っていたが、

販売員の説明で、車の寸法や、座席を倒して寝てみるなどの体験を通して、車中泊ができることを確認して購入することにした。

プリウスαを購入して初めての車中泊を体験すると、当初予定していた2列目のシートを倒し、3列面の座席と平行にする。

その上に分厚いベニヤ板を寸法を測定し、加工してベットを造る。

加工した板ベットをいざ利用しょうとすると、3列シートは倒れるが前後に移動できなく、荷物が収納できない問題点がでてくる。 

車中泊の必需品であるクーラーボックスが3列シートの後ろ側のスペースが小さく入らない。

3列シート後ろに荷物の収納ができないと、車中泊旅行には適さない。 

この点、エステイマは十分なスペースがあり、荷物を収納するのに、あまり苦労はなかった。

 仕方なく、運転席と助手席を倒し2列シートの座席と平行になるようにシートを調整すると、身長170CMの私でも、何とか体を真っ直ぐにして寝れそうであった。

 3列シートは起こさずに折りたたんで収納すると、ライトバンのようにスペースが確保でき、車中泊に必要な荷物を収納することができた。

 勿論、窓ガラス面には、気泡性のあるプラスチックボードを、それぞれの大きさに加工し、その両側には、断熱性能の高いプチプチ(気泡緩衝材)を貼り付けている。

 この特性のシートを、睡眠時には全ガラス面に、はめ込む。 そうすると、外からは車内は全く見えなくなり、プライバシーが確保できる。 

それに、冬場でも睡眠時には、エンジンを停止するが、この緩衝パネルがあると、車内は温暖で外気温ほどの寒さを感じなくなる。

 

5月2日(金) 午後4時00分頃、出発準備も整い、南大阪の自宅を出発し、阪神高速道路湾岸線から大阪市内に入り、池田線から中国自動車道池田ICに入って行く。

 高速道は渋滞もなくスムーズに車は流れている。 

中国自動車道も、車はスムーズに流れ、黄昏時の車窓を楽しみながら走行して行く。 

落合JCTから米子移動車道に入って行く。

この自動車道は標高の高い蒜山(ひるぜん)高原を走行している。 

その為、落合ジャンクションからは曲がりくねった高速道路をどんどん高度を上げながら走行して行く。

そして、暫く走行すると、蒜山高原SAに到着する。 

ゴールデンウイークのせいか、SAの広い駐車場は満車で、空きスペースがなく、隅の方まで行ってやっと駐車することができた。

今日はこのSA(サービスエリア)で車中泊する予定で、時間も丁度午後8時を迎えようとしている。

米子自動車道蒜山(ひるぜん)高原SA

5月3日(土) 晴 車中泊をしていた蒜山SAで午前7時頃目覚め、外に出ると、高原特有のひんやりとした心地よい空気が漂い、清々しい気分にしてくれる。 

SAの駐車場には、車中泊をしたり、朝早くからの移動中に立ち寄った車で満杯になっている。

蒜山高原SAからの光景を、記念のために撮影しょうとカメラを持ち出して数枚撮影する。 

特にここのSAは景色が美しいことからも人気がある。  

中国地方の主峰で、地元の人達からは伯耆(ほうき)富士と呼ばれ親しまれている大山(だいせん、標高=1729m)が見えるはずであるが、残念ながら厚い雲に覆われて見ることができない。 

それでも、移動しながら撮影場所を探す。 

SAの南側には、小さな公園のような休憩場所があり、その中心にアーチ状にできた、2段鉦のモチーフがある。

 鉦のモチーフの中央からは大山(だいせん)が見えるはずであるが、ご覧のように厚い雲に覆われてその姿を現していない。

蒜山高原SAから大山方面を見るが 雲にすっぽりと覆われて見ることができない。

本当はこのような大山(だいせん)が見えるはずであったが・・(2010年10月撮影)

西側から見た富士山のような山容をしていることから、地元では伯耆富士と呼ばれ、親しまれている大山・・(2010年10月撮影)

 

蒜山SAで写真撮影をした後、妻と二人で軽い朝食を済まして、午前8時過ぎに出発する。 

高原にあるSAからは、暫くの間、下りカーブが続いて行く。 

このあたりの右車窓からは美しい大山が見えるはずであるが、残念ながら雲の覆われ全く見ることができない。 

 ほどなくすると米子ICに到着し、山陰道に入り、15分程走行すると安来ICに到着する。 

さらに、一般道を10分程走行すると、古代から鉄を生産していて、たたたら製鉄に関する資料などを展示している和鋼博物館に到着する。

和鋼博物館(島根県安来市安来町)

平成5年(1993年)に、古代からこの地方に伝わる砂鉄を原料にして、木炭燃料で鉄を 「たたら」 という製鉄方法で生産する、技法や技術、製鉄方法などに関して、映像や模型、資料などで紹介している博物館である。

和鋼博物館前に保存されているD51蒸気機関車

D51蒸気機関車は、1935年(昭和10年)からの本格的な製造から、1115両が製造されている。 

貨物が主であったが、牽引力が強いため、急こう配の旅客用機関車として使用されるなど、日本の代表的な蒸気機関車である。

博物前に展示されている院覆韻蕁瓩燭燭藾犇箸砲茲辰届内に生成される鉄・鋼を含む鉄塊のことをいう)

ペーパーナイフの体験コーナー

私も時間的に余裕があることから、急に興味が湧いてきて体験することにした。

最初に担当の方から五寸釘を渡され、鉄ハンマーでたたき ナイフのように平らにする。

ごらんのような大きな鉄の土台があり、その上に釘を乗せては鉄ハンマーでたたくと、鉄土台とハンマーの反動で、力をあまり入れずにハンマーを連続的にたたくくことができるのには驚かされる。

鉄ハンマーたたいて出来たナイフをグラインダーで少し削り、最終段階の砥石で研いで仕上げていく。

初めての体験で出来上がったペーパーナイフ。 最終仕上げは砥石で研ぎ、持ち手の部分に糸を巻いていく。 思わずうれしさがこみあげてくる。

ペーパーナイフを体験した後、博物館内に入って行くと、下記のような天秤ふいごが展示してあった。

博物館の中に展示されいる天秤ふいご(人力で火を起すときに用いる。風を炉内に送る道具)

 

ただ、残念なのは、管内のほとんどが写真撮影禁止で、ブログで映像をお伝えできないことである。

 かつて、私は鉄に関して、鉄の生い立ちや、鉄用具、鋳物の建築物などに興味を持っていた。

特にたたら製鉄に関して、どうしてこの出雲地方で、鉄の生産が日本全国の80%に達していたのか!

古代から中世や近代まで、出雲地方を含む中国山地周辺で日本の鉄生産量の80%が 

「たたら」 と呼ばれる伝統技法で、良質な鉄を生産する製造法が盛んに行われていた。

このことは、この地方に、鉄の原料である砂鉄が豊富にあったことや、砂鉄から鉄を取り出すためになくてはならない、

燃料になる木材の山林資源に恵まれていたことが大きな要因であった。

このことから、この地域は、日本における先端技術地域であったはずである。

日本において、鉄との出会いや、生産が何時頃から行われていたのか!

 誰しも高い興味が湧いてくるはずである。

日本列島内の遺跡から、縄文時代末期(紀元前3~4世紀)〜弥生時代初期(紀元前3世紀〜3世紀) 頃には、大陸から輸入した鉄素材を様々な道具に加工する鍛冶の痕跡が確認されている。

次の段階である鉄の生産時期に関しても、弥生時代に鉄素材の大陸からの輸入に頼りながらも、小規模な製鉄が開始されている。

そして、古墳時代(4世紀〜6世紀)の後期には、日本列島内でも、鉄生産が本格的に行われれるようになっていた。

さらに、鉄生産の初期の頃は、原料が鉄鉱石の場合が多かったが、徐々に砂鉄が加わり、主流になっていく。

このことから、土製の炉に木炭と砂鉄を装入して、鉄を取り出す製鉄方法である 「たたら製鉄」 が中国山地を中心に盛んになっていく。

その結果、江戸時代後期には、出雲地方は鉄の生産日本一を記録し、明治時代の近代的な製鉄方法が導入されるまで続いている。

古代製鉄の遺構図(6世紀後半の製鉄遺構をモデルに制作した模型)

出雲国風土記(西暦732年)には、この地域(島根県)における川砂から、砂鉄をとり、鉄生産が行われていた記述があり、8世紀前半には、この地域一帯が鉄生産の拠点であったことがうかがわせる。

たたら製鉄の原料である砂鉄と木炭、そこから造りだされた玉鋼(たまがね)、鍛冶屋などは、この玉鋼を購入、熱処理して色々な鉄道具を造る。

たたら製鉄の炉を壊して院覆韻蕁砲鮗茲蟒个杭邏函放院覆韻蕁砲世掘法⊆淒の院覆韻蕁砲忘燭かけられ引き出される。 丸太のコロやテコも高熱で一気に燃え上がる。

 

たたら製鉄は、当初、原料を鉄鉱石あるいは砂鉄、燃料を木炭として始まった。

熔融温度を上げる送風装置が鞴(ふいご)で、中でも 炉の左右に設置された天秤ふいごは、炉内の燃焼を良くして熔融温度が上がり、生産性を大きく高めた。

たたら製鉄の主に、高殿と呼ばれる大きな建物内で行われた。

高殿での操業は、秋から積雪の多かった乾燥期の冬場に行われていた。

たたらの工房建物「高殿=たたら(大きな建物の意味)」たたら操業模型

 

近世のたたらの炉の地下には、深さ3mを超える、巨大かつ精密な地下構造が築かれていた。

 炉の温度を高温に保つには、下記図のような大掛かりな設備が必要であった。 

近世のたたら製鉄、天秤鞴と地下構造の図 炉が出来上がると、天秤鞴を設置し、炉と鞴を送風管で連結すると完成する。 

たたら製鉄炉の上部の土をたたいて締める。(地下構造模型)

 

炉を造る地下構造模型図 この段階では、本床左右の小舟は燃えつくされ、空洞となっている。この部分が創業時の保温効果をもたらす。

 

鋼の良否が決まる築炉が完成すると、塩で清められ、約70時間に及ぶ過酷な作業が始まる。

炉には一杯の木炭がくべられ、鞴から風が送られると、炉内の木炭は燃え盛っていく。

そして、砂鉄と木炭の装入が開始される。 

砂鉄と木炭は、ほぼ30分おきに装入、時間の経過とともに量は増やされていく。

約5時間を経過すると、炉内から真っ赤に熔けた不純物であるノロ(鉄や炉の熔滓(ようさい)が排出されてくる。

さらに、この作業を続けていくと、炉底には、砂鉄が熔け、熔融した院覆韻蕁砲溜まり続け、不純物である真っ赤に熔けたノロを、どんどんと炉外に排出していく。

炉内一杯に院覆韻蕁砲噺討个譴觜檗覆呂ね)の塊ができると、リーダーである村下(むらげ)の判断で、送風は停止し、操業は終了する。

そして、炉は壊され真っ赤な院覆韻蕁砲蓮∀С阿飽き出されていく。

院覆韻蕁砲硫硬戮下がり、常温になると加工しやすいように小さく割られ、各地区の鍛冶屋さんなどに販売される。

販売された院覆韻蕁砲蓮△修譴召譴陵囘咾鳳じて加工され、農具や生活用品の工具などとして使われていく。

 

私たちが一般に 「鉄」 と呼んでいるものは、大きく分けて二つに分類される。

現在では、製鉄所などで作る鋼(スチール)と、鋳型さえあれば自由に形が造られる鋳物である。

基本的には、鉄の素材に含まれる炭素(C)の量によって、鉄の性質が大きく変わり用途も変わってくる。

炭素量は、スチールの方が低く、素材は柔軟である。

 鋳物の方は炭素量が高く性質はもろく壊れやすい。 

一般的に鉄は、炭素量が増えるほど硬くなり、もろくなる性質を持っている。

 

このたたらの鉄は、主に和鉄・和鋼・和銑に分類される。

砂鉄から造られる日本古来の製鉄法である 「たたら」 には、主に二つの製法がある。

院覆韻蕁鵬,桂 ,帆(ずく)押し法である。

●院覆韻蕁鵬,桂 瓠〆重瓦ら直接鋼の製造を目的とするが、鋼以外に鉄や歩院覆屬韻蕁砲覆匹でき、和鋼や和鉄になる。

∩押し法=この方法の産物である、銑は、鋳物などの原料になる場合もある。 これが和銑である。

ただ、どちらの方法でも、院覆韻蕁鵬瑤里Δ噌檗覆呂ね)を取り除いた他のもの(銑、歩院覆屬韻蕁砲蓮大鍛冶場(おおかじば)で、

鍛練(高温で熱してハンマーで叩いたりしながら形を整え、炭素量の調整や不純物を除去)され、包丁鉄として刃物の心鉄や諸道具の素材になっていく。 

各地域の鍛冶屋さんなどは、この素材を購入して、包丁や鍬などの農具などに加工して商品化される。

鋳物は、鍋や釜などの鋳型を作り、炉で熔湯した鉄を流し込んで造られ、商品化される。

 

たたら製鉄は、江戸後期から明治初期頃にかけて最盛期を迎えていくが、その後は鉄の需要増大に対し、生産効率から洋式製法(当時は八幡製鉄)には太刀打ちできず、1925年(大正14年)に、その役割はいったん終焉する。

現在は、日本刀素材として欠くことのできない和鉄や和鋼(玉鋼=たまがね)の、安定供給の国庫補助事業としてたたら製鉄は復元され、年に数回操業されている。

 

 

この会館では、たたら製鉄に関しての映像や展示資料から、製造法などは理解できるが、私の場合、鉄に関して、当時の人々の生活と鉄がどのように関わっていたのか!

また、日本一の鉄生産量を誇る、この地域が、日本国内の中でどのような位置づけであったのか! などの興味が湧いていた。

イギリスの産業革命以後に、「鉄は国家なり」 という言葉がでてくる。

これは、鉄鋼の生産量が、国力の指標にもなっていることからで、現在でもこのことは変わりがないと思われる。

私は。金属の中で、人間の生活に多いの関わっているものは、鉄を置いて、他にはないと思っている。

それは、鉄が強度的に強い金属であり、比較的加工がしやすく、製品化しやすいからである。 

それに、資源も地球上に無尽蔵といわれるほど豊富であることが起因している。

私は、見学した後、こういった製鉄法や鉄への思いを深めながら和鋼会館を後にしして、石見銀山方面へ向かって行く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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