気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

満開のあじさいが咲き誇る大阪蜻蛉(とんぼ)池公園・・・岸和田市

2016-06-23 19:17:57 | 

 平成28年6月18日(土) 晴れ 私たちは、南大阪の自宅から30分ほどの距離にある蜻蛉(とんぼ)池公園に妻と二人で出掛けた。

 今回の目的は、蜻蛉池公園内にあるアジサイの花である。

かつて私は、この公園のある岸和田市と隣接する和泉市に住んでいた。

その折に、妻と二人でサイクリング用の自転車で、この蜻蛉池公園を何度も訪れている。

しかし、この公園がアジサイの名所になっていることは、全く知らず、ネットで初めて知った。

どんなアジサイなのか! 胸がワクワクするような思いで、この公園を訪れる。

近くの駐車場に車を止め,蜻蛉池公園内に入って行く。

公園内に入って行くと、幾つかのテニスコートから、大会が開かれているのか、時々大きな歓声が聞こえてくる。

さらに進んで行くと、左に大池が見えてくる。 正面には小さな橋があり、

その向こう側には、柱のような白い角柱が数本立てられ、それぞれに、根元からつるバラの緑の葉が巻き、よく整備された庭が見えてくる。

バラ園では、シーズンを過ぎたバラが、モニュメントと共に所々でさびしく咲いている。

 

ここで、蜻蛉池公園の概略について触れておきたい。 

蜻蛉池公園は、大阪府岸和田市の緩やかな丘陵地の、変化に富んだ地形を、最大に活用した大阪府営の自然公園である。

広大な緑豊かな公園内は、大人から子供までが楽しめる、数々のゾーンが造られている。

「水と緑の音楽広場」の芝生の前には大池があり、白鳥やカモ、アヒルなどがのんびりと泳いでいる。

春と秋のシーズンには2500本のバラの花が咲き乱れ、周辺のギリシャ建築を思い浮かぶような大回廊や、

数々のモニュメントと共に多くの人達を楽しませてくれる。

6月には、40種の10,000株の色とりどりの花を咲かせるアジサイ園がある。

小さな家族連れの人たちが楽しめる遊具も、たくさんあり、充実している。

子供たちを楽しませる長いすべり台など、45種類の遊具があるフィールドアスレチックスや、

お弁当などを広げたり、バトミントンのような簡単なスポーツが楽しめる広場なども整備されている。

その他にも、フジ棚や花ミズキなど季節の花を観賞できる「花木園」もある。

スポーツ施設も充実しており、16面のテニスコート、野球場、球技広場、スポーツハウスなどがあり、

老若男女や、車いすを利用する方々など、全ての方々が楽しめるように造られた公園である。

蜻蛉池公園案内図

トンボ池公園の周辺は、太古の昔から、大きな河川がなく、農業用水が不足するために、多くのため池が造られていた。

ため池は、稲作の栽培などに農水として利用され、多くの人々の生活を支えていた。

また、ため池は、人間の生活だけではなく、トンボをはじめとする水辺の生き物たちにとっても、大切な命を育む所でもあった。

そんな多くのため池がある中で、周辺の池は「たんぼ池」や、「トンボ池」と呼ばれ、

江戸時代にゴロの良い「トンボ池」に改名されたのが、この公園の名前の由来になっている。

 

開花時期のずれたポケット広場のバラ、水辺にはガセホという施設がある。この広場は、1994年(平成6年)に開設された。

バラは春と秋のシーズンには、約200種・2300株のバラが楽しめる。 

バラの広場から大池を望んだ施設や、広場周辺には、たくさんの彫刻が施されたモニュメントがあり、ヨーロッパの雰囲気が醸し出されている。 

この場所では、シーズンを過ぎたバラが、大池を臨みながら静かに咲いている。

バラが植樹されている、ポケット広場を過ぎると、ギリシャ建築を思わせる回廊風のシエルターが、

広場に敷き詰められた芝生と共に、美しい姿を見せている。

この先には大池があり、水辺にはステージが造られ、緑の芝生広場と共に、調和のとれた、安らぎの雰囲気を醸し出している。

古代のギリシャ建築を思い浮かべそうな回廊風のステージ、と緑の広場が美しい「水と緑と音楽広場」

 

回廊の中に造られた石のベンチには、若い二人が思い思いに過ごしているが、

ギリシャ建築が思い浮かぶアーチ形の回廊から、水辺にあるステージや大池方向の眺望は抜群である。

私たちは、野原広場を通り、アジサイ園方面に進んで行く。

 

野原の広場からのアジサイ園と左上にある展望台、私たちはこの広場を通りアジサイ園に向かって行く。

約40種10,000株の色とりどりのアジサイの花が咲く「あじさい園」の入口

 

アジサイ(紫陽花)は6月から7月にかけて開花し、白、青、紫または赤色の萼(がく)が大きく発達した装飾花をもつ花である。

原種は日本に自生するガクアジサイである。 

日本、ヨーロッパ、アメリカなどで観賞用として広く栽培され、多くの品種が作りだされている。

ヨーロッパで品種改良されたものは、セイヨウアジサイと呼ばれている。

アジサイの歴史は古く、万葉集などでもうたわれ、花の色がよく変わることから 「七変化」 「八仙花」 と呼ばれていた。

アジサイの群生

アジサイは土壌のPH(酸性度)によって花の色が変わる。

一般的に 「酸性土壌なら青」 「アルカリ性土壌なら赤」 の花が咲くといわれている。

 

入口付近にあり、アジサイに囲まれたあずま屋で休憩する人達

 

入口の近辺には、以下のような看板が掲示されている。

(あじさい園魅力 UP プロジェクト)

綺麗に咲いていたのに何で工事したの? とのお声が聞かれます。

入り口付近のアジサイは、木陰が全く無く、数日の日照りや、一度の寒風で全く花が咲かなくなる場所もあり、過去には、花がほとんど咲かない年もありました。

そこで、今回の改修では、近年の急激な天候の変化にも耐えうるよう、木陰をつくる樹木をたくさん植え、アジサイの生育に適した環境を創りました。

小さな苗が以前の大きな株に育つまでは数年かかりますが、もう一度満開の花が咲き誇るまで温かい目で見守ってください。

このように書かれている。

あずま屋からのアジサイ、この近辺が「アジサイ園魅力 UPpロジエクトの区域」

入口付近の近くには、アジサイの花々に囲まれた東屋があり、ベンチに座りながら、ゆったりとした気分でアジサイが鑑賞できるように造られている。

東屋では、何人かの方々が、アジサイを鑑賞しながら、談笑している光景が見られた。

若いアジサイ「アジサイ園魅力 UPプロジエクトの区域」

あじさい園を訪れた方々の中で、多くの女性のカメラマンが見られた。

カメラマンと云えば、比較的年配の方が思い浮かぶが、最近は若い女性の方が多くなってきているように感じる。

園内の色とりどりのアジサイの花が、訪れた人々をひきつけるのか! 

こまめに構図を描き、シャッタを切っている姿が至る所で見られた。

若い色とりどりのアジサイ「アジサイ園魅力 UPpロジエクトの区域」

赤いアジサイの群生(西洋アジサイ)

赤い可憐な花をつけたアジサイ

紅白のアジサイ(白=アナベル)

赤いアジサイ(西洋アジサイ=コエルレア)

色とりどりのアジサイの花

変わった小ぶりのガクアジサイの花

大木の枝間に寄りそうように咲く、色とりどりの可憐なアジサイの花

ガクアジサイは日本が原種である。可憐に咲くガクアジサイ(隅田の花火)

変わった花弁をつけるガクアジサイ(城ケ崎)

あじさい園の中央には、石組みされた川が曲線を描くながら流れ、アジサイ園の最奥部まで続くように造られ、アジサイの花とうまく調和している。

石組みされ、曲線を描きながらアジサイ園を流れる川には、日本庭園を思わせる大きな石や石橋が架けられ、東屋と共に庭園情緒を一層高めいる。

川の畔に造られたあずま屋からのアジサイ、小高い丘の頂上部までアジサイの花が咲き、そのスケールに驚かされる。

あじさいの花が咲く頂上部まで、あじさいの花を縫うように遊歩道が造られ、それぞれの角度や、手に取るように身近な場所からアジサイを鑑賞できる。

上部から流れ落ちてくる水が溜まると、竹筒が反転し定期的に「カコン」と音を発生し、庭園の情緒を高めてくれる。

これは、東屋方向から小高い丘一面に咲いているアジサイの花を、かき分けるように遊歩道の側に造られた添水(そうず)の装置である。

添水(僧都、そうず)は、水力により自動的に音響を発生する装置で、竹筒の中央に支点を作り、上向きになった竹筒に水がたまると、

その重みで竹筒が頭を下げ、竹筒の水がこぼれる。 竹筒が空になると、その反動で竹筒が元に戻り、下に置かれた石をいきよいよくたたき、音響を発生させる仕組みである。

日本庭園やお寺などで良く見かける。「ししおどし」ともいわれている。

大木の森林委囲まれ、小高い丘一面に咲くアジサイの花

あじさいの花が咲く、小高い丘の頂上部から東屋方面のアジサイ園の眺望

小高い丘の頂上部から東屋方面のアジサイ園の眺望

小高い丘の部分からのアジサイ園の眺望、川の側では若い女性たちが戯れている。

あじさいの鑑賞を終えた後、私たちはあじさい園からの階段を少し登り、駐車場方面に帰って行く。

帰路についた道路の脇には、子供たちが喜びそうな遊具が見えてくる。 中でも滑り台には、その長さに驚かされる。

秋になると、池周辺のもみじが真っ赤に染まり、美しい風景を醸し出してくる「かえで池」

 

さらに道路を進んで行くと、左下には池があり、そのそばには、展望台が造られている。 これが、美しい紅葉で知られている「かえで池」である。

このように 蜻蛉池公園のアジサイを鑑賞した跡、新鮮な地元野菜の販売で有名な「愛彩ランド」に立ち寄って家路につく。

 

アジサイ園の鑑賞を終えたあとも、見事なアジサイが次から次へと頭に浮かんでくる。

私は10数年前に、弁当を持参しながら、何度も自転車で蜻蛉池を訪れていたが、このようなアジサイ園の記憶はない。

蜻蛉池公園のバラや、大池を臨む大回廊、広場、遊具などは鮮明に記憶に残っているがアジサイに関してはない。

今日、アジサイ園を訪れて、そのスケールの大きさや、日本庭園の趣向を生かして、アジサイを植樹していることが印象的で、

多くの種類のあじさいが、数多く色とりどりに咲いている光景は圧巻である。

 

入口近くには、多くのアジサイが植樹され「魅力UPプロジエクト」が進行中であるが、

個々のアジサイは、まだ若く小さく、数年後には、立派なアジサイに育ち、アジサイ園そのものをグレードアップすると思われる。

その時の、あじさい園の光景を想像し、楽しみにしながら家路について行く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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清流日本一・仁淀ブルーの安居渓谷(仁淀川=高知)

2016-06-10 14:12:44 | 思い出

 2016年5月5日(木)晴  かつてNHKで仁淀ブルーとして報道された安居(やすい)渓谷(県立自然公園)を目指して妻と二人で出かけて行く。

私たちは、現在、大阪に住んでいて、年に2~3回、先祖の墓参や掃除のために、実家のある高知県佐川町に帰省している。

実家は現在、空き家であるが、今回は半年ぶりの帰省である。

ゴールデンウイーク中であることから滞在期間もながく5泊6日を予定している。

実家のすぐ下には仁淀川の支流である柳瀬川が流れ、子供の時から魚とりや水泳など、大変思い出深く、親しみのある川である。

地元では柳瀬川とは呼ばれず尾川と呼ばれ、川名が地名にもなっている。

柳瀬川は、佐川町を流れ、越知町で本流の仁淀川と合流する。 その後、伊野町、土佐市、高知市へと流れ、土佐湾(太平洋)に注いでいる。

仁淀川(によどがわ)は、国土交通省の発表によると、全国一級河川の水質ランキングで、平成24年、25年、26年、27年に第1位を獲得している。

私たちの行こうとしている安居渓谷は仁淀川の支流である安居川にある。

仁淀川の本流は、その源を西日本最高峰で、愛媛県にある石鎚山(標高1982m)におき、愛媛県から高知県の7市町村を経由して土佐湾(太平洋)へと注いでいる。

流路延長124km、流域面積1560平方kmの清流で、四万十川(しまんとがわ=全長196Km)、吉野川(よしのがわ=全長194Km)と並ぶ四国三大河川の一つである。

仁淀川源流の石鎚山(標高=1982m・2011年7月撮影)愛媛県久万高原町の面河川(おもごがわ)から仁淀川に流れ太平洋に注ぐ。

仁淀川山系の瓶ケ森(かめがもり=標高1897m)UFOライン(2013年8月撮影)

石鎚山を背景に伸びる全長27kmの町道、標高1,300m~1,700mを走るルートで、仁淀川山系の山々が抜群の眺望で臨める。

 

私の実家のある佐川町を流れる柳瀬川沿いの県道を5~6分程走行すると国道33号に出る。

国道33号は高知と松山を結ぶ主要国道である。 

この国道を松山方面に走行して行くと、すぐにトンネルがあり、越知町中心部に下って行く。

越知町は高知県の中西部に位置する自然豊かな町で、町の中心には、仁淀川、坂折川、柳瀬川の3河川が合流する場所にある。

越知町の中心部には、商店や住宅が立ち並んで賑わっている。

越智町は、コスモスの名所でもあり、近くには植物博士で佐川町出身の牧野富太郎が研究のためによく訪れていた 「横倉山県立自然公園」 が広がっている。

また、この地には、源平合戦の後、安徳天皇が逃れてきたという伝説も残っている。

美しい山間部の谷間を流れる仁淀川に架かる浅尾沈下橋(越知町=2010年8月撮影) 夏場には多くのアユ釣りの人達で賑わう。

沈下橋は、大雨などによる増水時に橋が流されないように、橋の両側に欄干を造らない構造になっている橋で、橋そのものが沈むことを前提として造られている。

 

私たちは、越知町を過ぎると、仁淀川沿いに造られている国道33号を松山方面に走行して行く。 信号機もなく、風光明美で快適なドライブを楽しめる道路である。

 

 安居渓谷は、高知と松山を結ぶ国道33号線、旧仁淀川町役場近くの交差点を、右方向の国道439号線を池川町方面に走行して行く。

走行する車窓からは、山の上空に山林や斜面を利用した茶畑などが広がって見えてくる。

南国土佐のお茶どころとして知られる仁淀川町  山の斜面を利用した茶畑が広がっている。

さらによく整備された道路を走行すると、山岳風景の中に開かれた街並みが見えてくる。 旧池川町の中心部である。

 

旧池川町の風景 道路脇には、「池川ふれあい公園キャンプ場」の施設の屋根が見え、安居渓谷のある安居川が流れている。

国道438号線と平行して流れる安居川と、川沿いにある 「池川ふれあい公園キャンプ場」、 夏場には多くの人たちで賑わう。

調理施設やトイレなども完備されており、夏には大勢の人達で賑わいをみせるようである。

さらに、このキャンプ場脇の道路(国道439号)を5分ほど走行すると、下記の安居渓谷の案内図があり、左方向に行くと安居渓谷である。

仁淀川の支流、安居川にある安居渓谷案内図

私たちは、国道439号線から安居川沿いを走る県道382号線の狭い道路を北上して行く。

そうすると左側の眼下に安居川千仞峡(せんじんきょう)と呼ばれる、安居渓谷屈指の切り立った絶壁が続き美しい渓谷美を見せている。

ただ、残念なのは、木の枝が伸び、少し見づらいことである。 時々車から降りて絶壁の眼下を流れる渓谷の眺望を楽しむ。

川幅の狭い安居渓谷の絶壁を清流が流れ、渓谷の美しさを見せている。

安居渓谷の絶壁の下には、段差の凹凸や、青みがかった、色彩豊かな岩場を真っ白い泡をたてながら流れ、際立った美しさを見せている。

 渓谷の眺望を楽しみながら少しずつ車を進めて行くと瀑布の轟音が耳に入ってくる。

 その個所には小さな駐車があり、その真向かいには広沢谷という支流があり、二段の滝となって安居渓谷の谷間に流れ込んでいる。

 

支流の広沢谷から安居渓谷に2段になって流下する見返りの滝

見返りの滝名には、「立ち去る時に思わず振り向いて、もう一度見たくなる」 ということから名付けられたという由来がある。

広沢谷から2段になって流下する 見返りの滝、この一帯は、断崖絶壁が続き美しい渓谷美を見せる「千仞峡」と呼ばれている。

美しい奇岩の谷間を透き通った清水が美しい渓谷美を醸し出している。

安居渓谷を流れる仁淀川の支流、安居渓谷は、流れる川の透明度の高い清流で、青みがかって見えることから「仁淀ブルー」とも

呼ばれ、NHKをはじめTV番組等で紹介されている。

色彩豊かな岩間を真っ白な泡を立てながら流れる安居渓谷の清流

美しい渓谷を流れる清流を楽しみながらゆっくりと走行していると、駐車場のある 「安居渓谷 宝来荘」に到着する。

目の前には、宝来荘の名前の由来になった宝来山が聳えたっている。

安居渓谷沿いに聳え立つ宝来山(標高=1051m)

渓谷の谷間に造られ、しっとりとした落ち着いた雰囲気が漂う「安居渓谷 宝来山荘」宿泊設備やバンガローなども整っている。

宝来山荘は地元の豊かな自然環境から、素朴な山の幸や、川の幸が味わえる人気のスポットになっているようである。

私たちは、愛車を駐車場にとめると、すぐにカメラを持って妻と二人で渓谷の散策に出かける。

安居渓谷の美しい清流の側に建つ宝来山荘、宿泊棟のほかにファミリーやグループに人気のあるバンガローの施設もある。

食事や宿泊もできる宝来荘の前を通り過ぎると、美しい渓谷をまたぐ紅い吊り橋の逢菜橋が架けられている。

新緑につつまれ、美しい山容を見せる宝来山と、渓谷を流れる透き通った清流が、岩場と緑と一体となって見事な風景を醸し出している。

渓谷沿いの遊歩道近くに咲いていたアザミの花, 何とも言えない紫色の美しさが伝わってくる。

紅い吊り橋の逢菜橋から上流側にある滝を撮影する。

私たちは安居川に沿った道を渓谷美を楽しみながら上って行くと、乙女河原という美しい河原に出てくる。

日本一の清流といわれる仁淀川、その支流である安居川の上流域にあたる乙女河原、新緑の山々と共に高い透明度を誇っている。

透明度の高い清流に、太陽の光や空の青さが入り混じって神秘的な色合いを見せる、これが仁淀ブルーと名付けられた。

仁淀ブルーは、時期的に8月中旬頃から1月中旬頃まで見られるようである。

従って、私が撮影したのは、今年の5月上旬である為に、仁淀ブルーの色とは時期的にずれている。

仁淀ブルーが良く見られる場所として、「にこ淵」 「安居渓谷」 「中津渓谷」が有名である(いづれも高知県)

仁淀川が 「仁淀ブルー」として、知られるようになったきっかけは2012年3月25日に放映されたNHKスペシャル 「仁淀川 青の神秘」からである。

2015年10月9日 日本TV系 「沸騰ワード10」 では、日本一の清流が生み出す奇跡の光景「仁淀ブルー」が紹介されている。

仁淀川の原流域には広大な原生林があって、豊富な雨と共に原生林から流れ出る川は、当然、透明度が高くなってくる。

安居渓谷の美しさは、清流のほかに、青みを帯びた美しい石がたくさんあり、これらが緑の森と共に、渓谷の美しさを引き立てている。

安居渓谷は、山と山に挟まれ谷間の絶壁を育みながら渓谷を形成しているが、乙女河原は渓谷内唯一の広い河原である。

この乙女河原は、訪れた人達の憩いの場として古くから親しまれている。

写真上部の橋を渡ると飛龍の滝へと続く遊歩道の入口になっていて、二つの川が合流している場所でもある。

河原には青い美しい色の石が、ころがっており、清流と共にその美しさを見せている。

川の中央では、母と娘が岩にすわりながら、渓谷を流れる清流を見たり、川水に触れたりしながら一時の余暇を楽しんでいる。

川底には色々な石や岩があり、清流とともに美しさを見せている乙女河原の流れ。

乙女河原からは小さな沈下橋が架けられている場所があり、その場所から支流に沿って10分程歩くと飛龍の滝がある。

透き通った清流が、小さな段差のある滝に流れ落ち、渓谷の情緒を一層高め、私たちを楽しませてくれる。

安居渓谷の支流にあるこの道は、原生林のような森におおわれ、朽ち果てた枯れ木が、横たわったり、枝間にあったりしている。

そういった状況が、まるで、もののけ姫のような雰囲気を漂よわしている。

こうした雰囲気のある川と森に囲まれた遊歩道を進んで行くと、目の前に乙女の像が見え、私たちを出迎えてくれる。

私たちを出迎えてくれる乙女像

乙女象の裏側には、 「乙女の象ー泉ーは山紫水明の地の象徴として、多くの方々の御好意により建立する」 と書かれている。

つまり、「この地は自然の風景が清浄で美しく、谷間に射す日の光の中で、山は紫にかすみ、川は澄みきった美しい所である」 の意である。

山の谷間にある渓谷には、大木が生い茂り、その緑の枝間が太陽光線を遮っているが、

青い色彩の岩や、石・清流が見事に調和し、美しい風景を生み出している。

奇岩の谷間を清流が流れ落ち、周辺の風景になじんでいる。 奥行きの木立のある風景から、もののけ姫の世界を感じさしてくれる。

緑と茶色い枝の幹、でこぼことした岩間から、幾筋かに分かれて滝のように流下している、美しい光景を見せている。

その先からは、安居渓谷のシンボル的な存在である 「飛龍の滝」 が見えてくる。

 落差25mの2段の滝、龍が身体をくねらせ飛び立つような姿から 「飛龍の滝」 との名前がつけられている。

滝の流下する水流が風を伴い、しぶきとなって少し離れていても私たちに向かってやってくる。

滝流独特の冷気が、滝つぼ周辺に漂い、この冷気がマイナスイオンを発生させ、心地よさを感じさしてくれる。

滝はひとつの流入口の岩場から、真っ白な泡を立てながら豪快に流下し、下の段差の部分にあたり、左右に分かれて滝壺に落ちてくる。

滝壺の右側には、小さな虹が発生している。

その前では、犬を連れた女性が、90度に右手を上に折り曲げて、写真のポーズをつくっている。

豊富な水量をもった滝が、途中の岩場にあたり、豪快に流下している光景は、まさに圧巻である。

清らかな清流が真っ白な泡を立てながら流下し、下の段から二つに分かれて、ひとつの滝壺に流下している飛龍の滝。

滝の側は、マイナスイオンが豊富に発生し、訪れた人達を心地よい環境の中においてくれる。

私たちを、暫くの間、豪快に流れる滝の姿を楽しんだ後、元来た道を駐車場の方に帰って行く。

日本一の清流として名高い仁淀川。

その支流にあたる安居渓谷県立自然公園の水や、渓谷の美しさは、私の想像以上の美しさであった。

この時期は、仁淀ブルーといわれる水色は、時期が違うようで見ることはできないが、

秋の紅葉した渓谷や、青い空などから想像すると目に浮かんできそうである。

また、違う季節に訪れてみようと、思いながら帰路について行く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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伏見稲荷大社 外国人に大人気の朱塗りのトンネルが・・・娘たちとの京都旅行・・・その③

2016-05-25 22:30:25 | 思い出

 2016年(平成28年)3月15日(火)晴れ、インドネシアバリ島に住む娘や孫たちと、昨日から京都旅行に来ている。

昨日はあいにくの天気であったが、今日は一転し青い空が広がり、観光には申し分のない天気である。

午前中は宇治にある平等院を見学、浄土庭園の中島に造られた鳳凰堂(ほうおうどう)の建築様式や色鮮やかさに感動していた。

鳳凰堂の見学を終えた私たち家族4人は、JR宇治駅から伏見稲荷大社のある稲荷駅に向かった。

宇治駅から15分ほどで稲荷駅に到着すると、駅には多くの外国人が家族連れで訪れている。

伏見稲荷大社の第一鳥居の前でにある稲穂をくわえている狐の像、稲荷社では、神様の使いとして狛犬に代わって狐が入口におかれる。

稲荷大社は商売繁盛や五穀豊穣の神として多くの人たちから崇敬されている。 

狐が稲穂をくわえている姿は、五穀豊穣を強く祈願する当時の人々の気持ちが理解できそうである。

 

伏見稲荷大社は、JR奈良線稲荷駅の目の前にあり、道路を挟んで大きな朱色の鳥居が立てられ、

大理石で敷かれた参道が真っすぐに稲荷大社本殿方向に延びている。

参道の奥には、朱色の鳥居や伽藍が立てられ、訪れた多くの人たちで賑わっている。

 

ここ京都にある伏見稲荷大社は、境内に朱色の鳥居が1万本以上あり、

朱色の鳥居はトンネルのようにどこまでも続く、圧巻の光景が外国人を魅了する、大人気の観光スポットになっている。

2013年の「外国人に人気の観光スポット調査では2位を、2014年では「広島平和記念資料館」を抜いて1位を、

2015年も連続で一位となっている。

これは、紅い鳥居が続く風景が非常に日本的なことと、拝観料不要や、閉門時間もないことと、

稲荷山の山巡りが、欧米人が好むウオーキングができることなどが理由としてあげられている。

私たちも駅前の第一鳥居をバックに記念撮影した後、家族4人で楼門の方に向かって行く。

 

伏見稲荷大社は、全国に三万余りある稲荷社の総本社である。

京都市伏見区の稲荷山の山麓に本殿があり、稲荷山全体を神域としている。

稲の神、農耕の神として信仰され、時代とともに商売繁盛、家内安全、芸能まであらゆる神徳を持つとして、多くの人々に厚く信仰されている。

鳥居は、私たちの住む領域と、神様の住む神域を結ぶ入口の部分に建てられ、鳥居ををくぐると、そこは神様の住む神域である。                    

伏見稲荷大社の案内図

伏見稲荷大社の祭神は、宇迦乃御魂大神(うかのみたまのおおかみ)、佐田彦大神(さたひこのおおかみ)、大宮能売大神(おおみやめのおおかみ)、田中大神(たなかのおおかみ)、四大神(しのおおかみ)である。

創祀は、元明(げんめい)天皇の和銅4年(711年)で、稲荷山の三ケ峰に神が鎮座したのが始まりと伝えられている。

もとは渡来系の秦氏の氏神だったと云われ、明治まで秦氏の子孫が神職として奉仕していた。

豊臣秀吉によって建立された楼門(重要文化財)

 

 戦国乱世に終止符をうち、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、文禄3年(2594年)伏見に大城郭の建築と城下町造りを開始し、伏見の街一帯は大きく変容していった。

稲荷大社の出世開運、商売繁盛など、現世の招福が多いことから、秀吉は稲荷大神に深い崇敬をよせていた。

そんな折、秀吉の生母大政所の大病平癒を稲荷大神に祈願し、大がかりな祈祷を執行した結果、大政所の大病は平癒していく。

これによって、秀吉は稲荷大神への信仰を益々深め、稲荷大社の本格的な修復を行っていった。

この楼門はその折に建立されたものである。

多くの人たちが訪れ、鮮やかな建築美を放つ第二鳥居からの楼門(重要文化財)

手水舎(ちょうずや)で参拝の前に自分の身体である口や手を清める人達。

多くの人達が訪れる楼門、鮮やかな着物姿の女性や外国からの観光客が多く見られた。楼門の前の両側には、狛犬に代わって狐の像がおかれている。

楼門に掲げられている 色鮮やかな 「伏見稲荷大社」

訪れた多くの人たちはこの楼門をくぐり抜け、外拝殿(げはいでん)・参拝する内拝殿へ向って行く。

 

私たちは、楼門をくぐり抜けると、その後には、外拝殿(げはいでん)がある。そのうしろには、内拝殿(ないはいでん)と本殿があり、その方向に進んで行く。

これらの伽藍は、第一鳥居からは本殿まで、直線状に並んで建てられている。

下拝殿は、楼門の後ろ側にあり、内拝殿の前にある。 きらびやかな美しい建築美を見せる外拝殿(げはいでん)(舞殿)

外拝殿(げはいでん)、後ろには内拝殿があり、多く人たちが参拝する姿が見えている。 本殿は内拝殿の後ろに建てられている。

外拝殿は楼門と同時期に建立され、1840年(天保11年)に改築される。

外拝殿の軒先には12基の釣り灯篭が下がり、黄道12宮の星座を表したデザインが施されている。

きらびやかなで美しく飾られた外拝殿(舞殿)の舞台から内拝殿(ないはいでん)方向を見る。

毎日のように舞いや琴、笛などの優雅な音楽が奉納される神楽殿

1882年(明治15年)能楽殿として建造される。 神楽殿では祈祷に訪れた人々のために毎日のように神楽が奉納されている。

神楽女の舞や、神鈴や琴、笛の優雅な音楽が境内に鳴り響き、人々を楽しませてくれる。

この石段を上ると内拝殿(ないはいでん)の拝殿があり、本殿は内拝殿の後ろ側に建てられている。

 

内拝殿は、1694年(元禄7年)の建立の時に、本殿に付け加えられた唐破風朱塗向拝を、1961年(昭和36年)に本殿から切り離して現在の形にしている。

 内部は祈祷拝受座になっている。

本殿は内拝殿の後ろ側にあり、内拝殿は本殿の前に建てられて、本殿と内拝殿を一緒にされる場合もあるようです。

訪れた多くの人達が内拝殿の拝殿から各々の願い事などを秘めて参拝している。

本殿をバックに記念撮影、本殿と内拝殿は部分的にはつながっているが別個の建物である。 左側が本殿、右側が内拝殿である。

左側にあるお守りやお札などの受与所があり、買い求める若い人達で賑わっている。

私たちは、内拝殿で参拝した後、賑わう お守りやお札の授与所の前を通り鳥居千本に向かって行く。

私たちもこの鳥居をくぐり、大勢の人たちと一緒に鳥居千本へ向かって行く。

鳥居千本までの途中にある玉山稲荷社(祭神は玉山稲荷大神)

この神社の前を通ると右側に石段があり、鳥居千本に向かって一段一段と登って行く。

鳥居千本の入り口、ここから参道には一寸の隙間もなく鳥居が立てられ、鳥居のトンネルが続く。

 

朱塗りの信者から奉納された鳥居がトンネル状に隙間なく立ち並ぶ千本鳥居。

願い事に御利益があった信者が、お礼の意味から鳥居を奉納する習慣が江戸時代以降に広がる。

その結果 「鳥居千本」 誕生するが、現在では一万基以上の鳥居があると云われ、

稲荷山の参道全体に林立している。

朱色で塗られた鳥居が立ち並ぶ参道は、ゆりやかな坂道になっているが 私たちも訪れた大勢の人達と一緒に参道を上って行く。

鳥居千本の参道も 二つに分かれるが 途中で また 合流する。

誰もいなくなった鳥居トンネル、ゆりやかな曲線を描きながら、色鮮やかな鳥居と太陽光線が独特のコントラスを描いて美しい光景を見せている。

鳥居千本の鳥居トンネル内の参道は道幅が狭く、通行する多くの人同士のぶつかりあいがあって、時々よろけたりする時もある。

鳥居トンネルが続く参道をしばらく上って行くと、鳥居トンネルがなくなり、小さな祠が無数に建てられている場所に出てくる。

参道沿いには多くの塚と呼ばれる祠が林立しているが、私たちはそのまま参道を進んで行く。 

私たちは塚の横にある石段の参道を登って行くと、山に囲まれた小さな池があり、その周辺には鳥居や小さな伽藍が建てられている。

新池、 谺ケ池(こだまがいけ)の別名があります。 

行方不明になった人の居場所を探す時、「池に向かって 手を打ち こだまが返ってきた方向に手掛かりがつかめる」 という云い伝えがあります。

当初私たちは、鳥居トンネルの続く稲荷山の山頂まで登る計画をしていたが、

新池近くの人に、稲荷山までの登頂時間を尋ねると、まだ、この場所から30分はかかるとのことであった。

京都駅から関西空港行の特急電車「はるか」の予約時間が16時45分である。 稲荷山まで登ると間に合わない恐れが出てくる。

みんなで相談した結果、この場所から下山して、京都駅に向かうことにした。

下山ルートは、途中までは同じであるが、別ルートで下山を始める。

鳥居トンネルの続く別ルートから下山を始める。

下山する参拝道から、鳥居トンネルの様子が一望できる場所にでてくる。 それにしてもすごい鳥居の数で、その多さには驚かされる。

 

私たちは、内拝殿や楼門の横を通り、JR奈良線稲荷駅まで下って行く。

初めて訪れた伏見稲荷大社、さすが外国人の人気ナンバーワンだけの見ごたえのある神社である。

どこまでも続き、きわめて日本的で、紅い鳥居でできたトンネルがどこまでも続く光景はまさに圧巻である。

今回の京都への旅でも、外国人の多さにはお驚かされるが、ここ伏見稲荷大社では、日本人よりも外国人が多いようにさえ感じる。

それに、鳥居トンネル以外でも、伏見稲荷大社の多くの伽藍が、きらびやかな紅い色で統一された美しさを、神社全体的を引き立てるように見せている。

特に楼門などの細かい細工や鮮やかな色彩は、いつまで眺めていても飽きることがなく、日本木造建築技術の伝統と美しさや奥深さを感じさしてくれる。

特急はるかで車内で談笑しながら、車窓から見える日本の美しい風景を楽しむ。

特急「はるか」は速いもので午後6時ごろには、日根野駅に到着する。

昨日の出発前には、かなり強い雨が降り、午前中の東寺などの観光はあいにくであったが、午後からの清水寺では、天気は回復してくる。

今日は、朝から観光には申し分のない天気で、平等院や伏見稲荷大社の観光を楽しむことができた。

娘や孫たち初めて観光に訪れた平等院の日本建築の素晴らしさや、圧巻の紅い鳥居トンネルの続く伏見稲荷大社を見学出来て満足そうであった。

また、娘たちは明日から、孫の要望で長野県の野沢温泉へスキーに行く予定になっている。

私たちは、仕事の関係で、明日の午後から東京へ車で出発する予定である。

娘の提案で実現した今回の京都旅行は、ほんとに思い出の残る、いい旅であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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平等院 きらびやかな平安の色彩が・・娘たちとの京都旅行・・その②

2016-05-19 22:26:07 | 思い出

 

平成28年(1916年)3月15日 バリ島から来た娘と孫、私たち夫婦の4人は、京都駅前のホテルをチエックアウトした後、

京都駅構内で軽いモーニングを済まして、JR奈良線で、平等院のある宇治市へ向かった。

JR宇治駅までは25分程で到着する。 

お茶の産地として有名な宇治は、古くから名勝の地として知られ、平安時代には公家や貴族の別荘が多く建てられていた。

私たちは駅前の観光案内所で平等院に関する情報を確認した後、ゆっくりと平等院に向かって歩いて行く。

しばらく歩くと左側に宇治川があり、擬宝珠を冠した美しい宇治橋が自然の景観に調和するように架けられている。

伝承では、646年(大化2年)初めてかけられたと伝えられ、京都府宇治市に属している。

現在の橋は、1996年(平成8年)に架け替えられたもので、長さ155m、幅25mの橋である。

橋が宇治川の自然や周辺の歴史遺産に調和するように擬宝珠を冠した木製高覧という伝統的な形状を使用している。

宇治橋は、瀬田の唐橋、山崎橋とともに日本三古橋の一つに数えられている。

また、宇治橋は昔からの物語にもたびたび登場する。

古今和歌集や紫式部の源氏物語、能の「鉄輪」で登場する橋姫伝説、狂言のモデルになった通圓茶屋、小説「宮本武蔵」などで登場している。

 

宇治橋の右方向が、平等院への表参道で、橋のたもとには、源氏物語の作者として知られている紫式部の像が建てられている。

私たちは紫式部の像の前で記念撮影を済ますと、参道の両側に食堂や御土産店などが並ぶ表参道を平等院に向かって行く。

私はかつてから、平等院に対しては写真を見るたびに、「なんという細かい細工をしたきれいな建物だろう!」

「京都に行ったら見に行こう」 と思っていたが、どういうわけか、今日まで実現することはなかった。

ようやく、今回 バリ島に住む娘が、「京都へ 一泊旅行に行こう!」 と言い出し、実現することになった。

JR宇治駅に降り立ったところから、私は平等院に対して興味が深々と湧いていた。

「どんな場所に建てられているのか!」 「周りとの景観や平等院を取り囲む池などの景観は、どうなっているのだろうか!」 楽しみであった。

宇治橋からの参道を5分ほど歩くと、前方にこんもりとした公園のような森が見えてくる。

さらに 進んで行くと、右側に平等院と書かれた石柱が立てられている。

平安時代からの景勝地だった宇治川のほとりにある平等院の入口

 

平等院は、平安時代に貴族の頂点を極めた藤原道長の別荘があった宇治川を臨む景勝の地に造られている。

道長の息子 時の関白であった頼通(よりみち)によって最初に開かれたのが平等院の始まりである。

平安時代の後期、末法の世に入るといわれていた永承7年(1052)、末法思想が、貴族や僧侶らの心をとらえていた時代に、極楽往生さながらの美しさを平等院はほこっていた。

その影響から浄土信仰が社会の各層に広く流行するようになった。

 その翌年の天喜元年(1053)には、平等院の阿弥陀堂(鳳凰堂=国宝)が落慶し、堂内には、平安時代の最高の仏師「定朝」によって制作された丈六の阿弥陀如来坐像が安置され、華やかさを極めたとされている

 

※末法思想とは、釈迦が説いた正しい教えが世で行われ、修行して悟る人がいる時代(正法)が過ぎると、次に教えが行われても、外見だけが修行者に似るだけで悟人がいない時代(像法)が来て、その次には、人も世も最悪となり、正法が全く行われない時代(末法)とする歴史観のことである。

平安時代末期に災害、戦乱が頻発したことにともない、終末論的な思想が定着し、世界の滅亡と考えられ、貴族も庶民も、その末法の到来に怯えていた。

 さらに、末法では現世における救済が否定され、死後の極楽浄土への往生を求める風潮が高まり、浄土教が急速に広まった。

※浄土教(じょうどきょう)とは、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し、成仏することを説く教え。 浄土とは、一般に阿弥陀仏の西方極楽浄土をさす。

 

※浄土信仰は、阿弥陀仏の救いを信じ、死後、この世の穢土(えど=けがれた世界)を去って、仏の住む西方(せいほう)極楽浄土に往生することを願う信仰のことである。  浄土三部経での教えをもとに、中国で発達、日本でも平安時代後期に末法思想が強まると、貴族や庶民の間で広まった。

この時代には、法然(ほうねん)が浄土宗、親鸞(しんらん)が浄土真宗、一遍(いっぺん)が時宗を確立、法華信仰とともに、日本仏教の大きな思想的な流れを形成している。

 

約1000年前に建立された建造物や仏像が今に伝えられ、世界遺産にも登録されている。

 

平等院の配置図 右下に宇治川が流れ、宇治橋は右斜め上の方向に位置している。

 

平等院の世界遺産登録は、平安時代の後期・11世紀の建築、仏像、絵画、庭園などを今日に伝え、「古都京都の文化財」として登録されている。 

平等院は、京都の南、歴史的な文化遺産を残す宇治川のほとりに建てられる。

浄土式庭園である平等院庭園では、中心に阿字池(あじいけ)を据え、池の中島に人々を救済するという阿弥陀如来像を設置する鳳凰堂が建てられた。

 

 

表参道から進んで行くと右側に受付にて拝観料(大人=600円)支払って、この表門から入場して行く。

 

よく手入れされた庭園の樹木を眺めながら、進んで行くと、左側に観音堂が見え、その先には季節的にはまだ早い藤棚が見えている。

さらに進むと、池に囲まれた美しい平等院の鳳凰堂が、その手前には紅い二つの小さな橋が見えている。

よく整備された庭園の池に浮かぶ、初めて見る平等院鳳凰堂の紅い建物、池に逆さに映りながら、庭園と左右のバランスのとれた歴史的な木造建築物、

あまりの美しい建築様式の建物に、我を忘れたようにしばらく見とれていた。

 

鳳凰堂は平成24年9月から行っていた修理が、平成26年3月に完工して、紅い漆塗りの美しい外観が蘇っている。

平等院の庭園は、池の中島に鳳凰堂が建つ阿字池を中心とした浄土式庭園で、国指定の名勝に指定されている。

池の側から紅く修復された鳳凰堂を見ていると感動が湧いてくる。

阿字池(あじいけ)の中島に建てられ、二つの橋が架けられた平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)。

鳳凰堂は中心の中堂と、その左右に連なる南北の翼廊、中堂の背後に繋がる尾廊の、四棟の建物から構成されている。

 

平等院鳳凰堂 1053年(平安時代)に藤原頼道が造立し無量寿院と号した。

建物全体が、鳳凰が羽を広げたような形状であることと、屋上にある銅製の鳳凰があることから鳳凰堂と呼ばれるようになった。

鳳凰堂の中堂には、本尊として祀られている阿弥陀如来が安置されている。

 

 池の中島に建つ平等院鳳凰堂は、10円硬貨のデザインでも有名で日本国民に広く知られている。

宇治池の中島に建てられた中島にある鳳凰堂をバックに家族全員で記念撮影する。

宇治池の中島に建てられた平等院鳳凰堂

建物の構造は、木造入母屋造りで屋根は本瓦葺となっている。 構造形式も中央と左右同じ建物から構成されている。

建物の機能は、中堂だけが、人々を救済する阿弥陀如来像を祀っているが、両翼廊は中堂を引き立てるための装飾的な建物で実用性はないと言われている。

中堂の背後に繋がっている尾廊も、中堂に渡る通路としての役割に過ぎない。

 

湖面にも逆さに映り、バランスのとれた美しさを見せる平等院鳳凰堂

鳳凰堂の建物は、阿弥陀如来を祀る中堂と、それに連なる両サイドの南北翼廊・さらに中堂の後方に繋がる尾廊から構成されている。

中堂の南北の翼廊は、形式が等しく造られ、切妻造り、本瓦葺き、一重二階建てで、中堂の側面から南北方向に延び、、途中で東方向に折れ曲り、平面的にはL字型になっている。

直角の曲がりの部分には隅廊(3階部分)は宝形造り、本瓦葺きで、屋根頂上部には宝珠を乗せている。

鳳凰堂は中心の中堂とその左右に重なる翼廊、中堂の背後にある尾廊から構成されている。

中堂の正面に人々を救済する阿弥陀如来が祀られている。

外観的には2階建てに見えるが、建築構造は一重裳階付き(いちじゅうもこしつき)である。

※裳階(もこし)とは、身舎(もや=母屋、身屋)建物の主要部分の周囲に差し掛けられた屋根の部分。

身舎は入母屋造り、本瓦葺きで、棟上には、一対の銅製の鳳凰を置いている。 

阿弥陀如来像が祀られている中堂正面、

外側の扉を開けると、内側の格子には軍配形の窓が開けられ、阿弥陀如来の面相が見えるようになっている。

※軍配(ぐんばい)=現在では大相撲の行事が持っている物

鳳凰堂は、東向きに戸を開き、阿弥陀如来像を安置している。 拝礼に訪れた人々は、池の対岸から西向きに阿弥陀如来を拝むこととなる。

これは、阿弥陀如来のある極楽浄土は、西方にあるという浄土の世界観を表現したもので、平安時代には、このような極楽浄土が信じられ、浄土式の庭園が多く造られた。

阿字池(あじいけ)南西方向から望む平等院鳳凰堂

平等院は平安時代の浄土寺院の形を、そのまま残す寺院としても、貴重な価値があると評価されている。

 

平等院鳳凰堂の屋根の上にある鳳凰

保存上の観点から、1968年以降は、棟上げにはレプリカの鳳凰が設置され、実物は別途保管されている。

鳳凰堂の屋上にある鳳凰

平等院の鳳凰堂の屋上にある鳳凰から採用されたといわれる一万円紙幣の鳳凰

 

私たちは鳳凰堂のある阿字池の周りに造られた参道を、時計回りで写真撮影をしながら進んで行く。

どの角度から鳳凰堂を見ても、前には池があり、枝ぶりの良い樹木が植えられ、趣のある建築様式と色彩が鮮やかである。

鳳凰堂は中堂を挟んで左右対称の建築様式や、紅い色彩の柱、組物と本瓦葺きの屋根などと、阿字池や庭園と見事に調和された美しさを放っている。

阿字池の南西方向から見る鳳凰堂、屋根と紅い柱や組物と池とのバランスが素晴らしい建物である。

南翼廊の三階部分に当たる隅廊、宝形造り、本瓦葺き、で屋根の頂上部には、瓦製の宝珠を乗せている。

南翼廊の一階部分は建具や壁はなく開放された床も張られていない。 左の白い壁のある建物が中堂と繋がる尾廊である。

中堂の後ろ側に繋がっている尾廊も、切妻造りの本瓦葺きである。 池をまたぎ通路としての役割を果たしている。

尾廊方向から見た中堂、北翼廊 庭園の反り橋があり、鳳凰堂への入堂も池の北岸から、2つの小橋を渡るように造られている。

阿弥陀如来を祀っている中堂を中心に北翼廊と尾廊が、平面的にL字形で造られている。

庭園の北岸から二つの小橋を渡り鳳凰堂の北廊へ渡って行く。 反り橋は大改修の折に州浜に復元される。

阿字池の中島に建つ鳳凰堂の北岸からの入り口にあたる北翼廊、阿弥陀如来を安置している中堂とつながる尾廊

 

平等院鳳凰堂を阿字池の周りからゆっくりとした見学を終えた後、隣接している 「平等院ミュージアム鳳翔館」を見学する。

この館では、写真撮影が禁止されているために、国宝などの展示物を紹介できないのが残念である。

国宝の梵鐘、国宝雲中供養菩薩像26躯(全52躯のうち)、国宝鳳凰、重文十一面観音立像などが展示されている。

中でも驚いたのは、雲中菩薩像の姿である。 

琵琶や琴などの楽を奏でる菩薩、笛や太鼓などの菩薩、柔らかの表情で楽しそうに踊る菩薩など、

極楽浄土との往生を願った平安の人たちの強い信仰心と来世への憧れが感じられる。 来世の天国での楽しさを現しているようである。

 

平等院の平等とは、どういう意味でつけられたのだろうか!

私はかつてから、地球上の人間も、動物も自然環境も、お互いに依存しあい、助け合いの精神で付き合うべきだと考えている。

地球は 決して人間だけのものではない。 人間のみで考えていると、大災害などのしっぺ返しを食らってしまう。

人間同士でも、本来は平等であるはずが、いつの間にか差別のある階級が造られてしまう。

人間の本質は、一人では生活ができず、社会という単位で集落や村、町、国といった組織体を築かなければ生きていけない。

その折に衣食住など生活していく上で、欠く事の出来ない大切な物を作らなければならないという役割が生じてくる。 

この役割が仕事で、社会全体で必要なものは誰かが、必ずやらなければならない。

食をつくる人、住をつくる人、衣をつくる人、それを束ねたり、指導する人、法などが、社会を公正に運営する上では必ず必要である。

人間は本来生まれながらにして平等であるが、子供や老人などを除いて必ず、社会的な役割である仕事をしなければならない。

仕事をする上でも、一生懸命頑張る人、怠ける人たち、あるいは自分のことしか考えない人、泥棒などルール守らない人たちが、出てくるのも社会である。

平等院が建立された平安時代の末法が信じられ時代には、社会秩序が乱れ、「自分たちの努力や力ではどうにもならない!」と考える人が多く出現している。

阿字池の中島に建てられた平等院の鳳凰堂にある阿弥陀如来を拝むこと、来世の浄土信仰を信じ、希望のある日常生活を生き抜いていくことが必要であったと考える。

そういった意味で、平等院の「平等」の名前は、多くの人々に大きなインパクトを与えたと思われる。

 

私たちは、平等院の見学を終えた後、駅前のレストランで昼食を摂り、次の目的地である、伏見稲荷神社に向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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娘たちとの京都旅行(東寺・清水寺)・・・その①

2016-05-13 17:58:37 | 思い出

  平成28年3月9日 インドネシア・バリ島に住む娘が15歳になる孫を連れて関西空港に降りたった。

 半年ぶりに見る娘も顔色も良く、元気そうであった。15歳になる孫も、見るたびに大きく成長しているようで、娘も子供の成長を実感、微笑ましさが、伝わってくる。

 今回の日本滞在は、12日間と短いが、長野県の野沢温泉でのスキーや、いとこの住む浜松訪問など、内容的には忙しい日程となっている。

 そんな折、娘が急に家族4人で一泊二日の予定で京都に行こうと言いだし、3月14日と15日に行くことになった。

 14日(月)は雨であいにくの天気であったが、自宅からマイカーでJR日根野駅近くの駐車場まで行く。

日根野駅からJR関西空港駅始発の特急「はるか」9時25分発に乗り込み京都へ向かった。

車窓から見る日本の景色を娘たちと楽しんでいると、早いもので10時35分には京都駅に到着する。

京都ー関西空港特急「はるか」の前で 京都駅

多くの人達で賑わうJR京都駅の中央コンコース

京都駅に到着し、1階の改札口からコンコースに出て上空を見上げると、広大な吹き抜けになっていて、その巨大さに驚かされる。

今日は自宅を出てから、まだコーヒーを飲んでいなかった。 京都駅構内のコーヒーショップを探すとすぐに見つかった。

やはり、朝のコーヒーはおいしい。 今日一日のエネルギーが湧いてきそうである。

娘もコーヒーが大好きであるが、必ずミルクをたくさん使って飲んでいる。

私と妻はいつもブラックコーヒーである。 孫はジュースを飲んでいる。

コーヒーを飲み終えたあと、世界遺産に登録され、五重の塔として国内最大の高さを誇る「東寺」に行くために近鉄京都駅に向かった。

東寺の五重の塔は、京都の近代的な都市イメージの中で、ひときわ目立った存在で、京都独特の景観を作り出している。

新幹線からも、高速道路や周辺の山容からも、東寺の五重の塔が京都らしい風景を醸しだし、古都「京都」のシンボルとしての都市景観を構築している様に思える。

 

近鉄京都駅から東寺までは一駅で、駅から東寺は目の前に見え、真っ黒で荘厳な五重の塔が聳え建っている。

 

 

雨の降りしきる堀のある東寺、土塀を前に五重の塔が聳え建っている。

東寺は、唯一残る平安京の遺構で、創建からおよそ1200年が経過している。1994年(平成6年)に世界遺産に登録されている。

境内からの東寺五重の塔

この五重の塔は国宝に指定され、高さ55mの日本国内最高の塔で、1644年(寛永21年)に、徳川家光が再建奉納したものである。

 

小雨の降る中の東寺五重の塔

どこから見ても美しい、小雨の降る中で1200年の歴史を感じ差す五重の塔

 

雨の中の東寺を見学した後、近くのレストランで簡単な昼食を4人で摂る。

昼食のあと、次は「どこに行こうか!」と

みんなで話をしていると、レストラン前にあるバス停に、「清水寺行」のバスが次から次へとやって来ている。

「丁度いい 清水寺に行こう!」 と、話がまとまり、やってきたバスに乗車する。

 

多くの人で賑わう清水寺への参道

清水寺略図

清水寺の伽藍(施設)名

清水寺の仁王門(左側)と西門、三重塔をバックに記念撮影

バックには紅く美しい三重の塔が聳えたっている。

多くの観光客で賑わう清水の舞台、ここからの京都市内の眺望は抜群。

本堂にある拝殿前、訪れた多くの方がここで参拝する。

清水寺からの京都市内の眺望

清水の舞台に立つ着物姿の若い女性、着物もそれぞれに華やかな衣装であるが、みんな晴れやかな表情をしている。

本堂清水の舞台から奥の院方面へ向かう人達

 

清水寺本堂と出張った舞台

昔の人達の話の中で 「きよみずの舞台から飛び降りるつもりで・・・・」 とよく言われる。

これは 思い切った決心をする時に使われた言葉で、 この場所が語源になっている。

本堂から張り出した舞台は、4階建てビル相当の高さにあたり、面積は190㎡、410枚以上のヒノキ板が敷き詰められた桧舞台である。

京都市内の眺望が抜群で、訪れた人たちの記念写真のスポットで大変人気の高い場所である。

この舞台は元々、御本尊の観音様に芸能を奉納する場所で、平安時代から雅楽や能、狂言、歌舞伎、相撲などが奉納されてきている。

現在でも重要な法会には、舞台奉納が行われている。

清水寺本堂と舞台

寛永10年(1633年)再建、正面36m、側面30m、棟の高さ18mの大堂で、西国三十三観音霊場 第十六番札所である。

清水の舞台を支える釘を一本使わずに組み上げられた柱

急な崖に、最長12mの巨大な欅(けやき)の柱を並べて組み上げられた木造建築物

本堂横の石段を下りる着物姿の女性

清水寺のパワースポットと言われる音羽の滝の前で記念撮影する人達

右側の奥にあるのが音羽の滝で三筋に分かれて流下している。

この滝は、音羽の山中から湧き出る清らかな水で、これが「清水寺」の名前の由来になっている。

水質は素晴らしく、お茶やコーヒーなどに入れれば大変美味しいとの評判である。

三筋に分かれて流下する滝の水は、向かって左から「学問成就の水」「恋愛成就の水」「延命長寿の水」とされている。

この滝のご利益から、若い人たちが、それぞれの筋から流れ落ちる水を求めて長い列をつくっている。

私たちは、音羽の滝の前を通り入口の方に進んで行く。

音羽の滝から進んで行くと池があり、そこからは、ご覧のような三重の塔が池とともに美しい景観を見せている。

私たち家族は清水寺の観光を終えると、清水の坂を下り、バス停に向かった。

清水寺下のバス停から、JR京都駅行に乗車すると15分ほどで到着する。

今日はJR京都駅近くのホテルを娘が予約していて、徒歩で5分ほどの場所にホテルはあった。

宿泊した京都駅前のホテル

ホテルに到着すると、すぐにチエックインして部屋に荷物を運ぶと、私たちはすぐに、夕食を摂るために近くにある居酒屋に出かけた。

時刻も午後6時を少し回っている。 居酒屋を選んだのは、好き嫌いのある孫でも、居酒屋のメニューは種類も多く、好きなものを選別できるからである。

私も京都の居酒屋は、初めてであったが、娘も居酒屋を希望していた。

家族4人で捕る夕食もまた楽しく、娘と一緒に杯をともにすることは、また格別であった。

 

3月15日(火)午前8時半、ホテルでチェックアウトして、外に出ると青い空が広がり、申し分のない天気になっている。

今日は、平等院と伏見稲荷の観光を予定している。

JR京都駅構内のコインロッカーに荷物を預けると、同じ駅の中のコーヒーショップで軽い軽食とコーヒーで朝食をすますと、

JR奈良線で宇治市にある平等院に向かった。 約25分ほどで平等院のある宇治駅に到着する。 

宇治駅前には観光案内所があり、平等院の場所や周辺の観光施設などを確認する。

平等院方向に歩いて行くと、宇治橋があり、その畔に源氏物語を書いた紫式部の像が立てられている。

平等院と紫式部はどんな関係があるのかわからなかったが、源氏物語の中でこの場所が出てくるようである。

源氏物語の作者である「紫式部の像」

十一世紀の初め頃につくられた 「源氏物語」夢浮橋ひろば この地とのかかわりを説明している。

 

夢浮橋ひろばの解説文を読んでいると、平等院とは全く関係がなさそうである。

私たちは、標識に従ってゆっくりと歩いて平等院に向かって行く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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熊野三山と伊勢神宮への初詣

2016-04-04 16:10:05 | 思い出

 2016年(平成28年)1月3日 私たちは、昼過ぎに南大阪にある自宅を出発し、熊野三山と伊勢神宮への初詣に向かう。

 南大阪の自宅からは、犬鳴温泉経由の曲がりくねった粉川街道を走行し、和歌山県の紀ノ川ICに30分ほどで到着する。 

 紀ノ川ICからは、整備が進められている京奈和自動車道(和歌山→奈良→京都までの延長120km)に入り、奈良方面に走行すると、30分ほどで奈良県の五条ICに到着する。

 そこから国道168号に入り、五条市内から吉野川を渡って行くと山岳道路に入って行く。 

トンネルや急こう配の坂道やカーブの多い道路で、登り切った所に下記写の道の駅「吉野路大塔」がある。 

国道168号道の駅 「吉野路大塔」から・・・奈良方面を望む

道の駅「吉野路大塔」で小休憩した後、再び出発すると、今度は下り坂の急こう配や急カーブが続いていく。

 さらに走行するとダム湖があり、愛車は湖畔にできた狭い道路に入って行く。 

道路の対岸では、新しい道路工事が至る所で進められている。 

そのまま狭い道路を進んで行くと日本一面積の広い十津川村に入って行く。 

道路は相変わらず狭く、対向車が来るたびに、道路幅の広い場所を見つけ、対向車を通過さしてから走行して行く。

この道路では、常に対向車を意識して運転する必要性がある。

特にカーブの手前やトンネルの手前では、対向車を意識していないと、狭い場所では対向車と鉢合わせになり、

どちらかの車がバックしなければならず、無駄な時間がかかってしまう。

 道が狭い割には通行量も多い。

正月休暇の為か大型車の通行はなく、ほとんどがマイカーで大きな渋滞はなくスムーズに流れている。

この国道168号は、国道169号と共に、紀伊半島を南北に縦断する幹線道路で、京阪神から多くのレジャー客が訪れる地域でもある。

土津川村中心部を過ぎてしばらくすると奈良県から和歌山県に入り、熊野本宮大社のある本宮町に到着する。

今日は本宮町にある小さな食料品店で、夕食の買い物をして、近くにある道の駅 「奥熊野古道ほんぐう」 で車中泊する予定である。

車中泊した道の駅「奥熊野古道ほんぐう」

1月4日(月)晴れ 1月にしては暖かい朝である。道の駅の周りには朝もやがかかり、遠くを見渡すことができない。

出発の準備を整え、簡単な朝食をすますと、直ぐに出発する。

10分弱で熊野本宮大社に到着、駐車場も朝早いせいか車は少ない。

駐車場を出ると、妻と二人ゆっくりと熊野本宮大社参道に向かって行く。 

熊野三山の中心的な存在の熊野本宮大社の入り口

左側には、八咫烏(やたがらす)が描かれた幟が立ち、熊野本宮大社の大鳥居と杉木立の参道が、本殿に向かって真っすぐにのびている。

 ここは、2004年に「紀伊山地の霊場と参拝道」として世界遺産に登録されている。

 紀伊山地は、自然信仰に発する日本人の宗教心を育んだ原郷でもある。

 蜿蜒(えんえん)と連なる峰々、巨木や奇岩を抱えて生い茂る深い森、渓谷を走り瀑を懸けて、大小の川を作りながら海に注ぎ、天空が一体化するような海原を形成している。

 ここは、熊野三山と呼ばれる自然環境から生まれた聖地で、伝統的な信仰を積み重ね、伽藍や墓所、修行の場を併せ持っている場所でもある。

 熊野三山は、熊野川を遡上した所にある「本宮(ほんぐう)大社」、熊野川河口近くの「速玉(はやたま)大社」と、

滝をご神体とする「那智大社」が、熊野灘に注ぐ那智川流域にあり、 これらの3つの神社をまとめた呼称である。

 熊野本宮大社では、熊野三山の三神に共通する神を祀っている、熊野三山の中心的存在で、日本全国3000を越える熊野神社の総本社である。

 

  本宮大社は「家都美御子神(けつみみこのかみ)=阿弥陀如来」、速玉大社は「速玉大神=薬師如来」、那智大社は「夫須美神(ふすみのかみ)=千手観音」をお祀りしている。

 平安時代から鎌倉時代にかけては、皇族や貴族などの「熊野詣」が大流行し、

後白河院 {1122~1192年=第77代天皇、即位の翌年、保元の乱が起こり、譲位して法皇となって院政をしき、広大な荘園を所領した。

梁塵秘抄(りょうじんひしょう=平安時代末期の歌謡集、後白河法皇編、当時流行していた今様(いまよう)が集められている)を著したといわれる} の参詣は34回に及んでいる。

 それに伴い熊野街道が発達し、各地から熊野への道も発展していった。

 日本各地へも熊野信仰が広がり、一般民衆の間でも熊野は「日本第一霊験所」として考えられ、「蟻の熊野詣」と言われるほど盛んになっている。


 その昔、熊野三山を参詣する人々は、必ず山を登り、川を越え、森を抜け、太陽を拝し、水に感謝することになる。

 これを体得することによって、霊験あらたかになるといわれている。

 熊野に行くには中辺路(なかへち)・小辺路・伊勢路などのルートが開発されていたが、どのルートから来ても、最初に参詣するのが熊野本宮大社であった。

熊野本宮大社に掲げられた年頭あいさつ

1月4日で朝早いせいか、参拝する人はまばらで、境内には、神社独特の静寂な雰囲気が漂っている。

私たちは、杉の木の大木に覆われた参道をゆっくりと本殿に向かって進んで行く。

 しばらく進むと真っすぐな158段の石段が、 両脇に杉木立を並べ本殿に向かってのびている。

石段を登り切ると、謹賀新年のあいさつ文と、本年を一文字で表した「気」が掲げられている。

 

2016年(平成28年)の一文字の「気」 = 「元気」・「やる気」・「強気」・「気迫」

しばらく、気の文字と説明文を見ていると、「なるほど」と思えてくる。

何事も「気」をなくせば、そこから先は、惰性、マンネリ、病気などが蔓延してくるように感じる。

逆に、「気」を しっかりと持てば、前向き、希望、夢、健康など明るい未来が見えてくる。

私たちにとって、すべての第一歩は、この「気」を どのようにもつのか! にかかっている。

かつて、経営の神様と言われた 松下幸之助は、著書の中で、

「青春とは心の若さである。

夢と希望に満ち溢れて、生活しているかぎり、

青春は永遠にあなたのものです。」

このようなことが書かれていたことが思い出されてくる。

 

参拝者が少ないためにか、巫女たちがいつものような厳粛なふるまいではなく、女子高校生のような戯れている姿があった。

この厳かな門をくぐると熊野本宮大社の本殿の境内である。 参拝を前に自然と身が引き締まってくる。

朝もやがかかっている熊野本宮大社本殿、趣のある社殿が立ち並び、私たちは左側の相殿から第一殿へ、さらに第二殿、第三殿、第4殿へと順次参拝する。

 

熊野造りの社殿が堂々と立ち並び重要文化財に指定されている熊野本宮大社、年間を通して多くの人たちが訪れる。

 

熊野造りと言われる建築様式で建てられている熊野本宮大社、多くの参拝者が訪れる熊野信仰の総本宮で家津美御子大神(けつみみこのかみ)を祀っている。

 

朝もやが立ち込める静寂な雰囲気のなか、心静かに熊野本宮大社に参拝する人たち。

熊野本宮大社は、本宮大社の家津美御子大神、那智大社の夫須美神、速玉大社の速玉大神の三神を共通の神として祀る熊野三山の中心的存在で、

日本全国3000を超える熊野神社の総本社である。

熊野本宮大社の参拝をすました私たちは、駐車場に隣接する、コーヒーショップで軽い朝食をすまして、那智大社に向かって行く。

 

 

急斜面に造られた那智大社、本殿にはこのような急斜面の階段を息を弾ませながら、ゆっくりと登って行かなくてはならない。

 何度も訪れている那智大社であるが、何度訪れても安らぎを感じさしてくれる那智山。

急斜面に建てられた伽藍や参道の石段、奥深い森から流れ落ちる大きな滝と三重塔など、

ここでしか味わえない大きなポイントが幾つかあり、その一つ一つが、心に安らぎを感じさしてくれる!  

 古の世界で上皇や多くの人たちが訪れた信仰の深さが伝わってきそうである。

 那智山は、平安末期から鎌倉時代、現生浄土を求めて多くの参拝者が訪れた熊野信仰の聖地である。

一年中を通じて多くの人たちが訪れる那智大社本殿

熊野那智大社の境内から社殿を観る。江戸時代に大改修された権現造りの社殿で、日本で最初の女神、夫須美大神を主神に12柱の神々を祀っている。

那智大社に掲げられている本年の干支 丙申

那智大社で参拝をすました後、隣にある那智山青岸渡寺(西国観音霊場第一札所)にも参拝する。

那智の滝と三重の塔ををバックに記念の撮影、何度来てもこの場所で撮影する。

私たちは、写真撮影をしながら、三重の塔方面に下って行く。ここからの景色は、三重の塔と滝が一体となった、那智山を代表する風景である。

滝と三重塔とが写ることによって、趣きを益し、那智山を代表する風景になっている。

写真などでこの風景が紹介される旅に 「一度は行ってみたい」 と思わすような! 人々に強い印象を与えているように感じる。

  

            代表的な風景の三重塔と那智の滝           本殿から那智の滝への 石段の参道 古の歴史を感じさしてくれる。

 三重塔の前を通り過ぎて滝方面に下って行くと、写真のような杉の木の大木に包まれた石段の古道があり、

数百年前に熊野詣で訪れた、古の雰囲気をそのまま伝えている。

 大木が生い茂る参拝道をさらに下って行くと、滝に直結する道幅の広い参拝道に出てくる。

豪快に流下する滝の爆音が大きく聞こえている。

滝の前には広場があり、多くの参拝者や、外国から来た観光客で賑わいをみせている。

滝前の写真スポットでは、訪れた人たちが順次交代するような形で記念撮影をしている。

 

石段の参道と那智の滝、ここでは滝そのものがご神体であり、滝に向かって鳥居が建ち、参拝できるような施設も造られている。

那智山一帯が、滝に対する自然信仰の聖地であり、滝が飛瀧神社のご神体である。

私たちも、この場所から滝に向かって参拝をする。

那智の滝、落差133mの日本一の滝で、華厳の滝、袋田の滝と共に日本三名瀑に数えられている。

那智山の参拝と観光を終えた後、私たちは、駐車場に戻り、新宮市内にある、速玉大社に向かって行く。

時間もお昼回っていることから、新宮市内のレストランで昼食を摂ることにした。

昼食をすました後、愛車で10分ぐらいの距離にある速玉大社に向かって行く。

熊野三山のひとつである熊野速玉神社

ここ熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)は、熊野三山の一つとして全国に祀る数千社の熊野神社の総本山である。    
 約2000年ほど前の熊野三所権現が最初に降臨された、元宮である神倉山(新宮市内)から現在の鎮座地に御遷りになった。
 これにより神倉神社の「旧宮」に対して「新宮」と号した古書に書かれている。
 現在の「新宮」と言う地名も、この事から呼ばれている。
 御祭神は、熊野速玉大神(いざなみのみこと)・熊野夫須美大神(いざなみのみこと)を主神に、十二柱の神々を祀り上げ、新宮十二社大権現として全国から崇敬を集めている。

多くの人が訪れる熊野速玉神社の神門から境内を望む・速玉神社は平成16年には世界遺産に登録されている。

 

華麗な美しさを見せる速玉神社拝殿と鈴門(右側)

速玉神社拝殿へ参拝する人たち

熊野三山の中で現在の社殿は熊野川の畔に位置する場所にある。

私たちは、河原にある臨時駐車場に車を止め、歩いて5分ほどで拝殿まですすむことができた。

色鮮やかな大変美しい神社である。

何回も訪れているが、境内に入ると、伽藍の美しさと繊細さが、自然と心に落ち着きを与えてくれる。

大きなしめ縄で飾られた神門をくぐると、色鮮やかで美しい社殿全景が見渡される境内にでる。

何度訪れても、社殿の美しさは抜群で、その壮麗さには強く印象付けられる。

早速、拝殿に行って、妻と共に参拝する。

 

参拝を終えると、私たちは愛車に戻り、伊勢神宮方面に出発する。時間も午後3時30分になっている。

通常だと国道42号を走行、し松坂方面から伊勢市に入ると5時間程度の時間を有すると考えられるが、

最近は高速道が開通しているらしい、が私は通行したことがなく、わからなかった。

国道42号を走行して行くと、バイパスが所々に出来上がっており、車はスムーズに走行できる。

途中熊野市内のスーパーで夕食の買い物をすまして、風光明媚な七里御浜の海岸を尾鷲方面に走行して行く。

さらに走行して行くと、真新しい熊野尾鷲道路に入って行く。

ほとんどがトンネルであるが車はスムーズに流れ、尾鷲がこんなに近かったのか! と、さえ思えてくる。

さらに走行して行くと、紀勢自動車道尾鷲北ICに入って行く。

この道路をそのまま走行し、紀伊長島、多気JCTから伊勢自動車道多に入り多気PAまで走行して行く。

多気PAに午後6時30分ごろの到着時間であった。

予定時間よりも大幅に短縮されたように感じ驚きであった。

到着すると早速車中泊の準備をして、妻と二人で少し早い夕食を摂った。

新年早々の車中の中で、カーナビのテレビを見ながら摂る夕食も、茶の間の雰囲気があり、

杯を傾けながら、ゆっくりと過ごしながら摂る夕食も、それなりの趣きがあり、楽しいひと時であった。

 

1月5日(火) 晴れ 朝、7時頃起床すると、早速、寝具などを片付け、簡単な朝食を摂る。

朝食を終えると、直ぐに伊勢自動車道を伊勢方面に出発しして行くと、まもなく伊勢西ICに到着する。

伊勢神宮方面に向かって行くと、新年の交通規制があり、神宮方面へはマイカーで入ることができなくなっている。

近くの駐車場に愛車をとめて信号を渡ると、伊勢神宮内宮へ通じるおはらい町がある。

五十鈴川沿いに沿って続く800mの通りには、江戸時代を思わすような、

切妻や入母屋の様式を取り入れた日本の伝統的な木造建築が並んでいる。

おはらい町の通りには、たくさんの土産物店・飲食店や商家が立ち並び、多くの人々が立ち寄ったりして賑わいを見せている。

10分程歩いて行くと、大きな賑わいを見せている場所に出てくる。

伊勢神宮、内宮の入口である宇治橋で前には、大きな鳥居が立てられている。

皇学館の女子学生も宇治橋を渡り内宮に進んで行く。

太陽信仰の象徴とされる天照大御神、この天照大神を祀っているのが伊勢神宮である。

冬至の日には、この宇治橋の真ん中から朝日が昇り、神々しい光景が見られる。

夏至には伊勢神宮の近くにある二見浦の夫婦岩の真ん中からしめ縄を潜って朝日が昇ってくる。

 

宇治橋は五十鈴川に架かる全長102mの橋で、橋を渡ると内宮の神域へと入って行く。

伊勢神宮内宮に掲げられ青空の下、風になびく日の丸。 

やはり、新年早々に日の丸を見ると、日本人として身の引き締まるような思いがする。

 

 伊勢神宮には、内宮と外宮があり、内宮は皇大神宮(こうたいじんぐう)、外宮は、豊受大神宮(とようけだいじんぐう)からなり、

内宮は天照大御神(あまてらすおおのかみ)、外宮は豊受大神宮をお祀りしている。


 農業の神様である御饌殿(みけでん)は、内宮の天照大神が、豊受大神と毎日の御饌(食事)をなさる所だという。

 つまり、農業の神様を重んじることによって、人間の生活の安定を祈願するという信仰の表現だそうだ。


 神宮内の古い記録によると、雄略天皇(ゆうりゃくてんのう=21代天皇、西暦456年~479年)の枕元に立った天照大神が
「五十鈴川のほとりの一人ぼっちは寂しい、丹波の豊受大神と一緒に住みたい」
 とおっしゃってから「丹波国比冶乃真井原=たんばのくにひじのまないはら」(京都府)から移されたものだといわれている。

 
 皇大神宮(内宮)は日本の神々の親だという天照大御神を祀り、御神体は八咫鏡(やたのかがみ)である。
 この鏡は代々天皇の皇居内にあったが、崇神天皇(すじんてんのう=第10代天皇 紀元前97年~29年)の頃、もったいないと大和の国の笠縫邑(かさぬいむら)へ、

その後、垂仁天皇(すいにんてんのう=第11代天皇、紀元前29年~紀元後70年)が、

五十鈴川のほとりに内宮を建てて、大和の国からここへ移して祀ることになったと伝えられている。

宇治橋を渡って神宮の神域に入って道なりに進んで行くと、大正天皇の御手植松などの立派な松が私たちを迎えてくれる。

さらに進んで行くと、手水舎があり、鳥居をくぐると、右側に五十鈴川の御手洗場が見え、大勢の人達が訪れている。

大きな樹木の中にできた参道を鳥居をくぐり、内宮御正宮方面へ道なりに進んで行く。

聳え立つ大木の枝間から木漏れ日が射す参道を多くの参拝者の方々と共に進んで行く。

数百年、あるいはもっと、昔から夢にまで見た伊勢参り・・・伊勢神宮内宮の御正宮(ごしょうぐう)が、その場所である。

日本の地方の村には、必ずと言っていいほど氏神様が祀られている。 

伊勢神宮は、その氏神様の総氏神様であり、天照大御神がご鎮座されている。

私たちも、石段を登り、御正宮でお参りした後、元来た道を駐車場まで戻り、外宮に向かって行く。

内宮から外宮までは、車では10分ほどで行けると思うが、渋滞があり、40分ほどで到着する。

駐車場からは近くに北御門(きたみかど)の入り口がある。 

そこから入って行くと、正面に広場があり、その向こうには、手水舎と橋(火除橋)が見えている。

私達は手水舎で身体を清めた後、火除橋を渡り、外宮の神域に入って行く。

伊勢神宮外宮(衣食住や産業を司る豊受大御神(とようけおおみかみ)をお祀りしている)

5分ほど進むと両側に神楽殿と九丈殿の場所にでると、多くの警察官が出て、歩行規制を実施している。

やがて参道に沿って縄が通され、外宮の御正宮に進むことができなくなった。

警備の警察官に、何事かと尋ねると、もうすぐ安倍首相一行が参拝に訪れるので、その場で 「しばらくお待ちください」 とのことであった。

間もなく安倍総理一行が参拝に訪れるとのことで、警備の警察官に指示されて位置で待つ多くの人たち。

私も、隣り合わせにいた30代ぐらいの男性と30分ほど談笑していると、神官に案内された安倍総理一行が多くの人たちを連れてやってくる。

伊勢神宮外宮を新年の参拝に訪れた安倍総理一行が神官に連れられてやってくる。

外宮の参拝を終え、元来た参道を戻って行く安倍総理一行の大勢の人たち

安倍総理一行が私たちの前を通り過ぎて、15分ほどで参拝を終え戻ってくる。

その間は全く身動きができなかった。

首相一行が戻られてすぐに歩行規制は解除されて、外宮の御正宮に向かって行くが、多くの人たちでごったがやしていた。

安倍総理が参拝を終えた後、外宮の御正宮に向かう多くの参拝者たち

木塀に囲まれた外宮御正宮へ向かう参拝者たち(御正宮の中には、御正殿があり、その後ろには、御餞殿(みけでん)と外幣殿(けへいでん)がある。

外宮御正宮へ参拝に向かう人たち

外宮の御正宮での参拝を終えた後、近くにある、風宮(かぜのみや)、土宮(つちのみや)、多賀宮(たがのみや)にも参拝する。

 

思いもかけない、伊勢神宮外宮で安倍総理一行と出会った。 

7年前の参拝の折には、麻生首相一行と内宮で出会ったことがあった。 

このときは確か1月4日であったはずで、今日は1月5日であることから、昨日参拝されたと思い込んでいた。

どうやら国会の関係で今日になったようである。

外宮も何度か訪れているが、風宮・土宮や多賀宮は初めてで、外宮の奥深さを感じる。

 

今年の正月妻と二人だけの静かな正月であった。

毎年、近くにある大森神社と水間観音には初詣を例年通りに行っている。

今年は急に熊野三山と伊勢神宮の参拝を思い立ち行くことにした。

今年の道中は雪もなく、天候も上天気で大変スムーズに走行できた。

それに、熊野から伊勢までの道路が大変良くなっているのには驚かされ、大変近くなっているように感じる。

 

外宮の参拝を終えると時間も午後3時を過ぎていた。

駐車場に戻るとそのまま伊勢自動車道に入り、関JCTから名阪道、西名阪・阪和道に入り午後6時過ぎに帰宅する。 

 

毎年、初詣は自宅近くの神社や寺、寺院などに行って、昨年の感謝や、本年の平和や安定を祈願することが 習慣になっているが、今年は熊野三山と伊勢神宮に出かけた。

自然災害や悪質な事件、目を塞ぎたくなるような国際的なテロや紛争など、私たちを取り巻く安全保障環境が様変わりしている。

こうした環境の中で、世界中の人々が安定した平和的なな暮らしを願うと共に、こうした紛争地域などで、平和的な活動をされている方々に対して、

感謝の気持と、健康に留意され安全に活動できますことを祈願せざるを得なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年(平成28年)謹 賀 新 年・・・・・気ままな旅(希間々兼行) 

2016-01-03 00:27:39 | 今日の出来事

2016年(平成28年)

明けましておめでとうございます。

 

昨年はgooブログ 気ままな旅 へお立ちより頂きありがとうございます。

昨年も大きな自然災害やフランスのテロなど、心をしめつけるような出来事が多い年でしたが、

ノーベル賞を二人の方が受賞するなど、明るいニュースもありました。

本年はスポーツの最高式典であるオリンピックが、

ブラジルのリオデジャネイロで開催されるなど、私たちを楽しませてくれるイベントや

伊勢志摩サミット・米国大統領選挙などの年でもあります。

本年が自然災害やテロなどの凶悪な紛争や犯罪が少なく、

世界の人々にとって平和で希望に満ちた年であります様にお祈り致します。

私たちは天地摂理のなかで活かされています。

自然摂理をよく理解し、自然との共存共栄を図りながら、豊かな自然環境を築いていく大切さも求められています。

自然や人間の本質に向かって順応していければ、必ず 平和で幸せな社会が訪れると信じています。

本年が皆様方のご健康とご多幸の一年であります様にお祈り致します。

また、お時間にゆとりのある時などに gooブログ 「気ままな旅」に

お立ちより頂ければ幸いに存じます。

平成28年(2016年)             元 旦

 

希 間 々 兼 行   

 

 

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中山道の馬籠宿・妻籠宿・濁河温泉(混浴)の旅と道中感激の対面

2015-10-04 16:17:50 | 気ままな旅

2015年7月12日(日)朝6時00分頃 近所に住む夫婦が車でやって来る。

今日は岐阜県と長野県の県境にはさまれた秘境「濁後温泉」と「新穂高温泉」への2泊3日の旅に出る予定である。

ここのところ台風の影響で雨天の日が多くなっている。

今回の旅行も台風の進路によっては、中止せざるを得ないと思っていたが、幸いにして進路がはずれ、旅行先の天気予報も良好のようであった。

今回、同行する夫婦とは、10年来の交友で日頃から何かとお世話になった夫婦で、気心もお互いに知り尽くしている。

この夫婦が自宅にやって来て、休憩や荷物の積み込みなどを終えると、私の愛車、プリウスα(7人乗り)で、6時30分頃4人で自宅を出発する。

南大阪の自宅から阪和自動車道水間ICに入り、松原JCを走行、西名阪道から名阪道に入って行く。

名阪道も車は渋滞もなく、スムーズに走行している。 ほどなくして4人を乗せた愛車は東名阪道に入り、御在所SA(三重県)に近づいて来た。

出発して、2時間近くたち、時間も8時30分頃に達している。 

朝食も摂らずに出発したことから,御在所SAで食事と休憩を摂ることにした。

 

最初の休憩をとった東名阪道 御在所(ございしょ=三重県)SA(サービスエリア)

御在所SAに到着するとすぐにで4人で麺類の朝食を摂る。このSAも近年改装され、近代的な意匠を施している。 改装前とは様変わりして、魅力ある商品が展示販売されている。

30分ほど休憩したあと出発し、名古屋方面に走行して行く。

愛車は、程なくして木曽三川の揖斐川・長良川の河川橋を渡ると、すぐに木曽川にかかっていく。

ゆったりと流れる大河、木曽川を渡ると田園風景の中に、工場や住居の建物が散乱している光景が目に入ってくる。

こうした車窓からの光景を楽しんでいると、愛車は名古屋西ICに入り、そのまま、名古屋環状自動車道を走行して行く。

その時、わたくしが同乗している女性に、「そういえば、この近くに子供さんが住んでいるのでわ! 電話してあげたら・・」と話をする。

すると、女性はすぐに息子さんに電話をかける。 「電話口の息子さんが、子供も今、一緒にいるので、是非、会いたい」 とのことだった。

私が、「現在、名古屋環状自動車道を走っている。10分後には、一宮南ICに到着できます。」 との話をする。

こうして、一宮南IC近くのお店で、女性の息子さんと、女性の孫娘に初めて会うことになった。

同乗している夫婦と孫は、色々な理由が会ってか、まだ、一度も合ったことがなかった。

同乗の女性は、「孫に会いたい、合いたい」と切望しながらも、今日まで会えることはなかった。

女性には、思いもがけない孫に、突然、会えることになって、大きな感激が湧いてきているようであった。

車がレストランに到着すると、すぐに、女性は孫の乗っている車に向かって行く。 

この孫娘は、おばあちゃんを見つけると、初対面のような感覚はなく、すぐに抱きついてきたようであった。 

突然に訪れた、念願であった息子さんの孫に初めて対面し感激し、大喜びをするおばあちゃん。

女性は、常時、孫娘を膝に乗せ、食事などの世話をする。孫もおばあちゃんの居心地がいいのか離れることはなかった。

偶然の出会えた孫との楽しいひと時も、旅の予定から40分程しか時間の余裕はなかった。

「孫と別れた後も、会えるとは夢にも思ってなくて、会えてほんとによかった」と

車中の中で感慨深く話をする姿が印象的であった。

私たちは国道22号から近くにある一宮ICに入り、名神・東名高速道路を走行し、中央道を中津川方面に走行して行く。

中央高速道も、渋滞もなくスムーズに走行し、快適なドライブが続いている。

やがて、かつて私が住んでいた岐阜県多治見市の、懐かしい丘陵地の風景が見えてくる。

さらに走行し、車窓からは土岐市、瑞浪市の風景に代わって行く。

中央高速道の車窓からの風景を楽し見ながら走行していると、愛車は間もなく中津川ICに入って行く。

中津川ICから国道19号に入り、長野方面に10分程走行し、江戸時代に宿場町として栄え、

その名残を今日まで伝えている馬籠(まごめ)・妻籠(つまご)方面に入り口に差し掛かってきた。

国道から山間部に通じる曲がりくねった道路をゆりやかに上って行くと、15分ほどで中山道宿場町「馬籠」に到着する。

愛車を近くの駐車場に止めると、私たちは4人は、すぐに馬籠宿の見学に出かける。

駐車場の周辺にも、当時の建物など、今に残る江戸時代の風情が漂っている。

宿場の北側には、青々とした山間部の美しい田園風景が広がり、宿場町の情緒を、時代の木造建築物と共に醸し出している。

そして、その中心には、江戸時代の情緒を醸し出す、中山道(なかせんどう)馬籠宿と書かれた石碑が立っている。 石碑には、下方には「江戸 80里半・京52里半」と書かれている。

当時のイメージを損なわないように造られた、入り口にある馬籠館とバス停留所

私たちは、馬籠宿入口の看板を横に見ながら、ゆりやかな坂道をゆっくりと上って行く。

道路の両側には、江戸時代の家屋が立ち並び、歴史的な情緒豊かな街並を醸し出ししている。

 

歌川広重の浮世絵(馬籠峠(標高801m)からの馬籠宿や、中央の高い山が恵那山(標高2191m)方面が描かれている。

 

馬籠宿は69次のうち木曽には11の宿場があり、江戸からは43番目の宿場である。 距離は332km(83里六町)である。

馬籠宿は、街道が山の尾根に沿った急斜面を通っていることから、その両側に石を積んで屋敷を造る 「坂のある宿場」が特徴となっている。

宿場の中央には、高貴な人の宿泊に備えた「本陣」や「脇本陣」、荷物運搬を差配をする「問屋」などが置かれている。

一般の旅人は、通常、「旅籠」を利用する。 馬篭宿には18軒あった。

この他「飯屋」や「馬宿」などがあって、中山道(なかせんどう)を利用する多くの旅人で賑わっていた。

明治22年(1892年)に、木曽川沿いに国道が開され、さらに明治45年(1912年)には、国鉄中央線が全線開通することにより、宿場としての使命を終えていく。

 

東海道に次ぐ主要な街道で会った中山道の馬籠宿、江尾時代の趣きを、そのまま、今に伝えている。

江戸時代の面影を残す馬籠宿には、相変わらず多くの旅行者で賑わっているが、なかでも、外国人旅行者の多さには驚かされる。

わたしは、何度もこの馬籠宿を訪れているが、こんなに外国人が多いのは初めてである。

私たちは、江戸時代の情緒豊かな宿場の光景を楽しみながら、ゆっくりと街並みが続く坂道を進んで行く。

 

両側に江戸時代の街並みがあり、石畳みが敷かれ、情緒を高めている坂道のある中山道馬籠宿。多くの観光客が訪れて 賑っている。

(馬籠宿はかつては長野県木曽郡山口村に属していたが、平成17年に長野県から岐阜県中津川市へ越県合併している)

  

ここで、少し江戸時代の道路について触れておきたい。

江戸時代には、各地区と江戸を結ぶ道路が整備されている。 

一里(約4km)毎に一里塚(=土を高く盛った道しるべ)や、一定間隔ごとに宿場が造られた。

主要な道路として江戸を起点として造られた五街道がある。

○東海道(日本橋から京都三条大橋まで 53次の宿場、492kmの街道)多くの大名が利用した主要街道だが、大井川などの川止がある。

○日光街道(日本橋から日光東照宮まで 21宿、143kmの街道)

○奥州街道(日光街道の宇都宮追分から別れ、福島県白河まで11宿の85kmの街道であるが、青森県三厩(みんまや)まで続いている。

○中山道(日本橋から京都三条大橋まで69次の宿場、534kmの街道)

東海道に次ぐ主要街道である中山道は、碓氷峠や和田峠、木曽の山中の難所が多い街道であったが、川止が少ないことから利用者が多かった。

○甲州街道(日本橋から中山道下諏訪宿までの 44次219kmの街道)

また、五街道以外にも各地区を結ぶ主要な街道が整備されている。

馬籠宿水車の前で(この地は、桝形と呼ばれる宿場の入り口にあたる地で、道路を直角に二度曲げたもので、軍事的な目的で作られている。

 

私たちがさらに進んでいると、上記写真のように石畳の道路(右側)と、石段の道路(左側あ)が並行して造られている場所があった。

右側が新道で左の石段が桝形になっていて、突き当りには水車小屋がある。

その先で直角に二度、折曲げてあり、この部分の山手側は桝形になっている。

これは、城郭建築の桝形を模したもので、これが「桝形」といわれていた。 

れは本来、宿場が軍事的な目的をもって造られたことを示している。

桝形は、敵方の騎馬などに攻められた折に、道路が直角に曲がっていると、騎馬はスピードを落とさざすを得ず、防御しやすくなることから造られている。

桝形になっている水車小屋の前で記念写真をとる。

さらに、石段を登って行くと、先ほど石畳の道路に出る。 両側には江戸時代の街並みが保存され、店先では、お土産品や、民芸品・飲み物などが販売されている。

 

私たちは、真夏の太陽が照り続ける中、さらに坂道を上って行く。すると、近くにある民芸品や飲み物などを販売している店から、妻たちがアイスクリームを買ってくる。

汗をかいた時に食べるアイスクリームの味は格別で、4人とも食べながら体と心を癒している。 

さらに、坂道を上っていくと、和風建築物の馬籠郵便局の建物が見えてくる。

その先には、石垣の上から萩の花の群生が、赤い可憐な花をつけ、道路側に美しく垂れ下がり、訪れた人たちの目を楽しませてくれる。

さらに、その先には、黒い板塀に囲まれ、大木を鳥居のように加工して造られた門のある建物が見えてくる。 ここが「藤村記念館」である。

馬籠宿にある藤村記念館、(私たちは時間の関係から入館はできなかった)

明治・大正・昭和の三代にわたって活躍したの文豪「島崎藤村」の文学館である。 

藤村がこの地の出身であることから、藤村にまつわる資料など、6,000点が所蔵されている。

島崎藤村(本名=島崎春樹)明治5年(1872年)馬籠で生まれる。

生家は江戸時代、本陣、庄屋、問屋をかねた旧家である。

作品には、破壊、夜明け前など数々の作品がある。

作品以外でも初代ペンクラブ会長など日本文学界のリーダー的な活動をもする。

昭和18年(1943年)大磯の自宅で死去 71歳

馬籠の菩提寺 永昌寺では命日の8月22日、藤村忌が執り行われている。

江戸時代の馬籠の風景や情緒に魅せられてか! カメラのシャッターを切る外国から来た旅行者の女性と左側の男性。

 

私立ちは藤村記念館を少し過ぎた所からUターンして、もと来た道を下り、駐車場まで戻って行く。

駐車場に戻ると、時間も丁度、お昼頃になっていた。 空腹も感じていたことから、みんなで相談して昼食をとることにした。

隣にあるお食事処で、信州そばを食べることにする。

やはり、木曽で食べるそばは、おいしく、店員の方の笑顔もよかった。

昼食を終えた後、私たちは次の訪問地、中山道「妻籠宿」に向かって行く。

馬籠宿から妻籠宿までは、馬籠峠(標高801m)を挟んで隣接している、距離にして7kmである。

馬籠峠には、情緒豊かな一軒の茶屋があり、中山道と現在の車道が交わっている。

 

歌川広重の浮世絵にも描かれているように、峠道まで上ってきて、人休憩する人と、それを気遣う人との、心の触れ合いが描かれている。

この浮世絵には、馬籠峠から妻籠宿方向が描かれている。

 

ほどなくして、妻籠宿の駐車場に着いた私たちは、すぐに江戸時代にタイムスリップしたような街並みが残る宿場方面に向かって行く。

妻籠宿(つまごじゅく)は、中山道69次の中で42番目の宿場である。現在は長野県木曽郡南木曽(なぎそ)町に属している。

隣接する馬籠宿は、馬籠峠を超える旧中山道史跡と合わせて木曽路を代表する観光名所になっている。

江戸時代の文献によると、妻籠宿には、宿内家数は31軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠31軒である。

私たちは江戸時代の情緒を醸し出している街並みを楽しみながらゆっくりと歩いて行く。

里山を感じ出すような小さな水車小屋があり、木の樋から流れ落ちている流水によって水車がゆっくりと回転し、妻籠宿の情緒を一層高めている。

 

江戸と京を結ぶ中山道は、山深い木曽路を通ることから木曽街道とも呼ばれていた。

中山道69次のうち、江戸から数えて42番目となる妻籠宿は、中山道と伊那街道が交叉する交通の要衝として、古くから賑わいをみせている宿場街であった。

  

江戸時代の情緒ある宿場を、そのままに伝える中山道42番目の宿場「妻籠」の街並み。

妻籠宿は、全国で初めて古い町並みの保存を始めたと伝えられる宿場で、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

木造建築物の出梁造りや格子など江戸時代の建築様式を、そのままに伝える町並みが特徴で、300年の江戸時代へタイムスリップしてしまったように感じる。

中山道妻籠宿人馬会所の様子、本陣前で出発または到着した折、旅の侍や、侍のお供、荷物、馬指役、馬役や籠の人夫など、当時の宿場状況が分かりやすく描かれている。 

公家や大名など身分の高い人が宿泊した妻籠宿本陣

 

宿駅が制定されると妻籠宿本陣には島崎氏が任命され、明治に至るまで本陣、庄屋を兼ね勤めていた。

島崎藤村の母の生家であり、最後の当主は藤村の実兄で、馬籠から伯父の所へ養子にきた広助(ひろすけ)であった

 本陣は明治に入り取り壊され、その後明治32年に御料局妻籠出張所が建設される。

 本陣の復原は、妻籠宿の保存が始まった当時からの念願であり、島崎家所蔵の江戸後期の絵図をもとに、平成7年4月に復原される。

妻籠宿の中では、このように木のボールペン造りなどの民芸品を実演する店もあり、多くの見学者で賑わっていた。

妻籠の宿内には、このような水車小屋があり、小川から樋で水をひっぱり、水車を回転さしている。この風景が江戸時代の妻籠宿の情緒を一層高めている。

整備がいきとどき、趣のある入口の、妻籠宿脇本陣 奥谷(林家住宅・歴史資料館)

妻籠宿の脇本陣をつとめた林家が、明治になって建てられた豪邸を、林家伝来の家宝とともに、南木曽町営資料館として公開されている。

林家は、隣接する馬籠宿出身の文豪 「島崎藤村」 の詩 「初恋」 の少女といわれる「おゆう」 の嫁ぎ先であり、展示室には彼女の愛用した品々も展示されている。 

美しく整備された日本庭園のある妻籠宿、脇本陣前にて

江戸時代の街並みが残る妻籠宿

妻籠宿は、江戸時代から営々と続く暮らしを守りながら、宿場の景観を今によみがえらせ、伝える宿場の街並みである。

江戸時代の旅篭風情をそのままに、出梁造り(だしばりつくり)や竪繁格子(たてしげこうし)の質素な家並みが私たちを迎えてくれる。

2階の出梁りや竪繁格子が、江戸時代の街の情緒を一層高める、歴史的な街並みが保存されている中山道妻籠宿

 

時代が変り、明治になり、交通網が次第に整備されていく。鉄道や道路が新たに造られてくると、宿場としての機能を失い妻籠宿は衰退の一途をたどっていった。


やがて昭和になり、経済成長の中、江戸時代の宿場の姿を色濃く残している街並みが見直され、ここに全国に先駆けて保存運動が起こっていく。


妻籠の人たちは町並みを守るために家や土地を、 「売らない・貸さない・壊さない」 という3原則をつくり、

ここで生活しながら、江戸時代の街並みという貴重な財産を後世に伝えている。

江戸時代の街並みをそのまま伝える中山道馬籠宿や妻籠宿は、外国からの観光客にも大人気で、日本の侍の情緒を感じさしてくれるようである。

 

江戸時代にタイムスリップしたような街並みが保存されている中山道馬籠宿や 妻籠宿の見学を終えた後、私たちは、国道19号に入り、木曽福島方面に向かって行く。

日本の伝統的で地味な木造家屋が立ち並ぶ街並みを見ていると、何故か心が落ち着いてくる。

特に竪繁格子の家屋には、風情を感じるとともに、2階にある出梁造りは、映画の時代劇でよく見られるように、

浴衣姿の若い娘さんが、団扇をもって出梁に腰を掛け、賑わっている道路の状況を眺めていたり、声をかけているシーンが目に浮かんでくる。

当時の旅人たちも、賑わう街並みの様子を、出梁から楽しんでいたのでわ! と想像する。

 

国道19号は長野と名古屋を結ぶ交通の要所である。

木曽の深い谷間に木曽川が流れ、それに沿って国道が造られている。 中央高速道の開通によって、主役を取って代わられたが

、道路は整備され、走りやすく、車は渋滞もなくスムーズにながれている。 ドライブを楽しむのには、もってこいのコースである。

30分から40分ほど走行していると、木曽の景勝地 「寝覚の床(ねえざめのとこ)」に到着する。

 

中山道や木曽路で 木曽八景 として数えられる景勝地「寝覚ノ床(ねざめのとこ)」

木曽の名勝「寝覚ノ床」は、中山道の上松と須原の間の道沿いにあり、県歌「信濃の国」にも歌い込まれ紹介されている風光明媚な景勝地である。


写真は、展望所を兼ねたレストランの土産物店からの撮影した光景で、手前にはJR中央線が走っている。

寝覚ノ床は、木曽八景随一の名勝地であり、花崗岩の岩盤を木曽川の激流が長い間に水触して出来たものである.

景勝地「寝覚の床」の眺望を楽しんだ後、私たちは愛車に戻り、国道19号を木曽福島方面に走行して行く。

出発して10分程で、木曽福島の国道19号バイパスを通り、トンネルを通過して行く。

通過して直ぐに近くにある交差点から、開田高原方面の国道361号に入って行く。

開田高原は御嶽山の裾野に広がる高原で、標高は1000m以上の高地にあるため、その気候は一年を通して冷涼である。

また、開田高原は木曽馬の里として、リゾート地としても知られている。

開田高原から見る御嶽山の眺望は抜群であるが、残念ながら、雲に覆われて見ることはできなかった。

私たちは、開田高原の、雄大な自然と懐かしい農村風景を楽しみながら、さらに走行して行く。

長野県側から岐阜県側に代わり、しばらく行くと濁河温泉の標識が左方向方面と案内されている。

標識に従って走行して行くと、白樺やから松などの樹木が多く見られるような光景に代わってくる。

濁河温泉の上部に聳える御岳山の最北端にある継子岳(標高2859m)

 

愛車は曲がりくねった道路に従って高度をどんどん上げ、30分ほど走行すると、今日の宿泊先である 濁河(にごりご)温泉 旅館「御岳」に到着する。

標高1800mに位置する濁河温泉、7月だというのに愛車から外に出ると肌寒さを感じるほどであった。

早速、旅館のフロントで、宿泊手続きをすますと、4階の10畳程の広い和室に案内される。

 

 濁河(にごりご)温泉は、霊峰御嶽山の飛騨側登山口として知られ、標高1,800mでの通年営業温泉街としては、日本でも有数の高所温泉地である。

 明治20年ごろから温泉宿地として開拓され、登山者が宿泊できるようになったといわれている。

昭和30年に久々野から秋神温泉を経て濁河温泉までの車道通行が可能となり、宿泊温泉地となる。

 昭和33年には岐阜県の小坂側からの道路も完成し、より多くの観光客が訪れるようになってくる。

御岳山麓に位置し、主要道路からも離れていることから、秘湯ムードが漂い、原生林が生い茂る自然情緒豊かな温泉である。

また、濁河温泉は、標高1800mの御嶽山7合目あたりの高さに属することから、登山基地としても親しまれている。

 

この旅館には、脇を流れる濁河川の谷底へ160段(高低差50m)の階段を下りた所には、混浴の渓谷露天風呂がある。

私たちは30分ほど部屋で休憩した後、4人で館内にある混浴の渓谷露天風呂に出かける用意をする。

混浴の露天風呂に対する興味が深々と湧いてくる。

旅館の浴衣に着替え、ゆっくりと長い通路を渓谷露天風呂に向かって回廊を下りて行く。

絶壁の渓谷に造られた下り階段を露天風呂に向かって下りて行く。 渓谷には清流の流れる音や野鳥たちの鳴き声が、心地よく聞こえ、癒される気分である。

しばらく回廊を露天風呂に向かって下りて行くと、このような「金勢大明神」が祀られている。

 

金精神は勃起した男根の形をしており、金は金色に輝くような、精は勢であり、精力絶倫な男根を意味しているとされている。

金精神は、豊穣や生産に結びつく性器崇拝の信仰によるものから始まったとされている。

子宝、安産、縁結び、下の病や性病などに霊験があるとされるが、他に豊穣や生産に結びつくことから商売繁盛にも霊験があるとされている。

祈願者は石や木や金属製の男根を奉納して祈願する。

 

旅館の回廊にある階段を160段下りるて行くと、男女に分かれた粗末な木造の脱衣小屋があった。

小屋の中も、粗末な造り付けの棚が2段造られ、脱衣用のかごが置かれている。

この温泉は、混浴のためにバスタオル巻きや水着の着用も許されている。

脱衣室のドアを開けると露天風呂は目の前にあり、緑の林の中に見事な巨石を組み合した温泉である。

温泉の奥には、樋で導かれた温泉が滝のように勢いよく、流水音を発しながら注ぎ込んでいる。

自然美豊かな渓谷の中に巨石を組み合わせてできた露天風呂、秘境の温泉ムードが漂っている。

秘境の混浴露天風呂に大喜びしながら体験する。湯加減も丁度良く、長旅の疲れをも癒してくれる思い出の温泉である。

秘境の渓谷に造られた混浴の露天風呂に浸っていると、せせらぎの音や野鳥の鳴き声が心地よく聞こえてくる。

向かい側の断崖絶壁の岩肌には、小さな白糸の滝が流れ、岩肌に寄生するように生えている緑の樹木が温泉の情緒を一層高めている。

渓谷にある露天風呂の湯に、のんびり浸りながら過ごしていると、体が癒され、時間も忘れるほどであった。

露天風呂のある渓谷の風景、自然の迫力ある風景に思わず時間も忘れるほど見とれていた。

  

               秘境の旅館にて湯上りの乾杯 味も格別である。  翌朝の朝食。      朝食後の旅館 ロビーにてコーヒー。

 

旅館御岳からの眺望

 

7月13日(月) 晴れ 御岳山の7合目あたりの秘境にある濁後温泉。 

昨日は南大阪から長野県と岐阜県にまたがる濁後温泉までやってきた。 楽しく良い旅であった。

今日もよい天気になりそうで、上高地と新穂高温泉を予定している。

朝食を済ました後、コーヒーでリフレッシュした後、午前8時半ごろ、旅館御岳を後にし、愛車プリウスアルファーで出発する。

 

御岳山継子岳をバックに記念の撮影

濁後温泉からなだらかな高原の道を下って行くと、素晴らしい御岳山北側にある継子岳2859mが美しく聳えたっている。

さらに走行しながら開田高原方面に下って行くと、頂上部に雲のかかった御岳山が見えてくる。

御岳山麓、白い泡を立てながら流れる川、散在する家や農地、その脇を大きなカーブを描きながら走る道路が、独特の農村風景を醸し出している。

御岳山をバックに記念の撮影、残念ながら頂上部は雲に覆われてしまった。

御岳山全景, 右側が継子岳(2859m)左側が摩利支天山(2959m)、最高峰のっ剣が峰(3067m)は、さらに左側にある。

雲で覆われている御岳山最高峰剣が峰(3067m)方面、頂上部は、昨年(2014年)9月27日に噴火した折の灰で覆われている。

この風景を見ていると2007年8月に登った御岳山が思い出されてくる。

また、今回の噴火で数十人の方が犠牲になられた。 まだ、5名の方が行方不明になられているとのこと。

一日も早く発見され、ご家族のもとへかえられます様に願わずにはいられなかった。

以下の3枚の写真は、2007年8月に妻と二人で登った時のものです。

 

             妻と二人で登った田の原登山口からの御岳山 八丁ダルミからの御岳山最高峰、剣ケ峰3067m、 剣ケ峰から二ノ池方向を望む。

 

 私たちは、御岳山をバックに写真撮影した後、開田高原の中心部に向かって行く。 すると、公園のような緑地に、白樺が林立して、高原の情緒を醸し出している。 

 しかも、御岳山も見え、絶好の撮影ポイントになっている。

開田高原で白樺が林立し、そこから御岳山が眺望できる、高原情緒、豊かな場所があった。

 

撮影が終了した後、私たちは開田高原から木曽福島に出て、国道19号を北上、途中の藪原から県道に入り、上高地や乗鞍高原方面に向かって行く。

通りがけに信州そばの店があり、そこで、昼食を4人ですます。その後、愛車に戻り、走行して行くと、松本からの国道158号に入り、上高地への中継地、沢渡まで走行する。

私たちは、沢渡の駐車場に愛車を止め、タクシーで上高地へ行くことにした。

上高地へのシャトルバス乗り換え欺地沢渡駐車場

 

しばらくタクシーを待っていると、黒塗りのタクシーがやって来る。

 15年ほど前に、上高地は訪れているが、その後どうなっているのか! 

何度訪れても、あきることのない、魅力を持っている上高地!

私の胸がワクワクしながら、みんなと一緒にタクシーに乗り込んで行く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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平成の大修理で見事に蘇った姫路城

2015-08-09 21:53:06 | 気ままな旅

 2015年(平成27年) 5月2日(土)晴 ゴールデンウイークのさなか、私たちは南大阪の自宅を午前10時半頃 愛車プリウスα(アルファー)で出かける。

 今回の旅は、平成大修理によって白く蘇った姫路城や,香川県の観音寺・

愛媛県の別子銅山跡地を旅して高知へ向かう予定である。

自宅を愛車で出かけた後、いつもと同じようの阪神高速湾岸線から神戸線に入り、第二神明道路、加工川バイパス、姫路バイパスと走行して行く。

姫路バイパスからはJR姫路駅近くを走行すると、すぐに姫路城前の地下駐車場(大手前公園地下駐車場)が見つかった。

すぐに愛車を駐車させ、カメラを持って地上に出ると、公園があり、新緑の緑に覆われら一角から、姫路城が美しい姿を見せている。 

スクランブル式の交差点を渡ると、大天守閣に聳える鯱瓦を左右対称に展示している。

左右対称の鯱瓦の真ん中からは、緑に浮かぶ美しい姫路城が威容を放っている。

鯱瓦(姫路城の大天守閣の屋根にそびえる鯱瓦と同じもの)と真っ白に蘇った姫路城

 

 今回の姫路城の修理は、「平成の大修理」 と呼ばれ、2009年から5年半の歳月をかけて行われた。

姫路城は、白鷺が羽を広げたような美しい姿から 「白鷺城」 とも呼ばれていた。

完成した白いお城は、まさに 白鷺城の名前に ぴったりのように感じる。

今回の大修理は、柱や壁を塗りなおしたり、屋根の瓦を葺き直したりしている。

瓦は、一枚一枚剥がして、チエックし、傷みの激しいものは新しい瓦に取替える工事を行った。

修理前の姫路城と修理後の姫路城を比較して、白く見えるのは、どうしてか!

それは、石灰石や貝殻などから作る、白い「漆喰=しっくい)を壁に塗ったり、瓦と瓦の継ぎ目に使ったいる為に、お城全体が白く見えてくる。

ただ、数年たてば、修理前の城のように、少しづつ黒味を帯びて、落ち着いた色に見えるくるようである。

姫路城の配置図

世界文化遺産であり、国宝の姫路城は、1993年(平成5年)12月、奈良県の法隆寺と共に、日本で初めて世界文化遺産に登録された。

姫路城は、17世紀初頭の日本の城郭建築を代表する史跡建造物として評価を得ている。

評価の理由として

①その美的完成度が我が国木造建築物の最高位にあり、世界的にも、他に類のない優れたものである。

②17世紀初頭の城郭建築の最盛期に、天守群を中心に、櫓、門、土塀等の建造物や石垣、堀などの土木建築物が良好に保存され、防御に工夫した日本独自の城郭の構造を最もよく示した城である。

喜斎門跡方面から大天守閣を望む

私たちは、緑の林に浮かぶ姫路城を見ながら進んで行くと、喜斎門跡(きさいもん)から、堀を渡り三の丸広場方面に向かって行く。

目の前には、幾数もの城壁があり、その上空には真っ白い天守閣が聳え、堂々とした姿を見せている。

私たちは城壁を横に見ながら、三の丸広場方面に向かって行く。

幾重にも重なる城壁や白い塀や櫓、その上に建つ真っ白に蘇った大小連立式の天守閣が美しい姿を見せている。

 

姫路城は、この地の姫山に初めて城が築かれたのは1333年頃の、赤松氏の時代といわれている。

以来、13氏・48代が城主を務め、戦塵にまみれることなく今日に至っている。

赤松氏の後、西国統治の重要拠点として羽柴秀吉、池田輝政、本田忠政が城に夢を託して拡張、

いま見られる全容が整ったのは、戦乱の世が落ち着いた1617年のことである。 

多くの人達で賑わう三の丸広場と 堂々とした城壁の上に建つ土塀や櫓、さらに、その上に建つ連立式の天守閣が他に類を見ない美しさを誇っている姫路城

 

姫路城は日本一の名城といわれている。

それは、城の要塞としての機能性、防御する堀などの線が3重の螺旋形になった複雑巧妙なもの。

それに、美しい連立式天守閣をもっている。 5重6階の大天守閣と、三つの小天守閣が、渡り櫓でつながり、幾重にも重なる屋根。

白の漆喰塗りの外装などが、全体としての調和と華やかさをもった城である、。

また、姫路城は、築城400年の歴史の中で、戦火や近代の戦災に遭うことがなかったたぐいまれな城である。

そのことから、天守閣や櫓、門などの保存状態や、遺構も数多く貴重な文化遺産となっている。

姫路城の城内見学に通じる歩道、この通路には多くの見学者が訪れ、200mほどの列をなしている。

この時も入場するのに2時間ほどの時間を要するとのことであった。

私たちは三の丸広場を通り、姫路城の撮影ポイントを確認しながら前に進んでいく。

すると60歳代のボランチアガイドの男性が見え、姫路城のことについて色々と教えていただいた。

写真のことだけでなく、姫路城の歴史やエピソードなどに詳しく、その造詣の深さは驚くほどであった。

撮影ポイントを聞くと、西側の高台にある千姫ぼたん園方向から三の丸広場を見おらせる場所が良いと、教えてもらった。

早速、行って下記3枚の写真を撮影する。

教えてもらった撮影ポイントからの大小の連立式天守閣をもつ姫路城と庭園のように整備された花木などの樹木が美しい。

真っ白に蘇った連立式の大小天守閣と城壁や白い土塀が、うまく調和し、独特の美しさを見せる姫路城。

城壁の上に建つ白い櫓、さらにその上に建たつ、整然とした城壁、白い連立式の大小の天守閣が、うまく調和し、奥行のある美しさを見せる姫路城。

大手門をくぐると国宝姫路城と書かれた石碑と三の丸広場があり、その向こうには、城壁とともに連立した天守閣をもつ美しい姫路城が威風を放っている。

 

千姫ぼたん園のある高台からの姫路城を撮影しながら進んで行くと、三の丸広場に出てくる。 

三の広場や大手門から城内に通じる遊歩道近辺では多くの人たちが、眺望を楽しんだり、写真撮影をしたりして思い思いに楽しんでいる。

私たちも姫路城をポイントに撮影してして進んで行くと大手門に出てくる。

逆方向からは多くの人たちが三の丸広場方面に入って行く。

大手門をくぐるとお濠があり、桜門橋が架かり、多くの人たちが行き交っている。

国宝「姫路城」の石碑と桜門橋、姫路城を観る。

大堀に架かった桜田門橋の上に立つと、石垣に囲まれた清らかな清水の中を一層の遊覧船が向かってくる。

和船によるお濠巡りの遊覧船、間もなく大手門に通じる桜門橋の下を通りぬけて行く。

お濠と桜門橋、大手門方面からの姫路城、桜門橋を渡って大手門をくぐると三の丸広場があり、目の前に天守閣がそびえたっている。

 

私たちは、2時間近く平成の大修理で真っ白に蘇った姫路城を見学した後、愛車を止めてある大手前公園地下駐車場に帰ると、国道2号線の姫路バイパス方面に向かって行く。

姫路バイパスから国道2号を30分ほど走ると風光明媚なブルーラインを走行し、岡山県の宇野港まで行って、フェリーで高松へ渡る予定である。

 

       私の若い頃、何度も訪れている姫路城であるが、今回、三十数年ぶりに訪れる。

平成の大修理の後だけに、お城のイメージは全く違っているが、周りの公園や施設もきれいになったように感じる。

世界遺産に登録されたことで、多くの人たちが訪れ、管理費なども違っているのかもしれないが、お城の基本スタイルは全く変わっていない。

修理前の落ち着いた雰囲気の城壁や天守閣をもつ姫路城は、独特の雰囲気があり、味のある美しい城である。

私は、姫路城の連立する大小の天守閣と、それをささえる白い塀や櫓、土台の石垣がバランスよく調和して築城され、

独特の優しさがあり、他に類を見ない魅力一杯の城であると思えてならない。

姫路城は、姫路市の周りの景観の中で、広い広場を持ち、市民からも親しみのある、なくてはならないお城である。

今後、地元はもとより、日本や、世界の観光客か愛され続けるお城への地位や魅力を、だんだんと高めてきているように感じた今回の旅であった。

 

 

 

 

 

 

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バリ島への行き 立ち寄った初めてのマレーシアー②

2015-07-03 18:10:02 | 思い出

2015年(平成27年) 4月10日(土) マレーシアの首都クアランループにある、ペトロナスツインタワービルの見学を終えた後、

コーヒーと甘いマレーシア独特のお菓子を食べながら30分ほど休息する。

日本の和菓子と似ていておいしい。

 休息をおえた後、私たちは、電車を利用して、歴史的な施設の多いマスジット・ジャメを予定している。

地図を見ると、近くに電車のKLCC駅がある。

 ビル構内にある案内看板にしたがって、地下商店街をKLCC駅に向かって歩いて行くとすぐであった。

券売機の前で、チケットを買おうとしたが、よくわからず困っていると、近くにいた30歳前後の女性が、買い方を教えてくれて、改札口まで案内してくれた。

親切な女性であった。何度かお礼を言って、私たちはマスメジット・ジャメ方向の電車改札機に向かった。

ところが改札機を通過しょうとした時にトラブルが発生する。 

チケットを改札機の所定の場所に置くと、ドアーが自動的に開いて通行できるようになっているが、

妻が何度チケットをおいてもドアーは、閉じたままで開かない。

後ろにいた40代位の男性が、見かねて、妻の持っていたチケットをもって駅員の所に行ってくれた。

駅員がフォーマットして、再び改札機に置くと、ようやく開いて通行することができた。

私たちは、この男性にお礼を言って、到着した電車に乗り込んで行く。

この電車は、LRTという路線を走る電車である。

乗車して三番目の駅が目的地のマスジット・ジャメ駅で、10分程の所要時間である。

駅に到着して外に出ると川があり、その向こうに、マスジット・ジャメという KL(クアラルンプール)最古のモスクが、堂々とした威風を放しながら見えている。

下の写真のように目の前の川と、その向こうにある川が、すぐ近くで合流している。 

ここがクワラルンプール、都市名の由来になった場所である。

少し先の川がクアラルンプールの名前の由来になったクラン川と、ゴンバック川の合流地点、水間にマスジット・ジャメといわれるモスクが建てられている。

川越しに威風を放つマスジット・ジャメの建物を見ながら入口の方に向かって行く。 

入口で建物の中に進もうとしたが、ガードマンから、手を横に振り、これ以上は入れないと停止させられた。 

仕方なく、道路を真っ直ぐに進んで行く。

 

1909年に建設されたKL(クアラルンプール)最古のモスクで、クアラルンプール駅と同じハボックが設計している。 

ムーア時代の様式に影響を受けたタマネギ形のドーム屋根やアーチ形建物、塔と曲線などと、

使用されている大理石やレンガ壁などが、バランスよく設計され、独特の美しさを醸しだしている。

クアラルンプールの歴史的な建築物が多いマスジット・ジャメ周辺の街並み

駅から真っ直ぐに進んで行くと大きな通りがあり、緑の多いクアラルンプールの美しい街並みが見え、往来する車や訪れる人たちで賑わっている。

マスジット・ジャメの周辺に建つ 市立劇場(旧市庁舎)と白亜の旧高等裁判所

マスジット・ジャメ周辺には多くの歴史的な建造物が集中し、かつて、この地域がマレーシアの中心であったことがうかがえる。

駅から進行してきた道を曲がると、イスラム様式でレンガ造りの市立劇場(旧市庁舎)や旧高等裁判所がある。

100年以上の昔にできたとは思えないような美しいレンガ造りと、細部にこだわった外観や色彩が独特の美しさを醸し出している。 

その上に建つ真っ黒なドームと、さらにその上に建つ真っ白い塔が、イスラム様式の個性的な景観を見せている。

外観的にもムーア・イスラム様式独特のアーチ状の白い窓が、赤い煉瓦と共にうまく調和し威風を放つ市立劇場(旧市庁舎)

マスジット・ジャメの隣接地にある市立劇場、以前は市庁舎として使用されていた。 右の白い建物が旧高等裁判所である。

市立劇場は、国立織物博物館と同様、1896年にA、B、フバックによって設計された建物である。

白の外壁とレンガ壁がイスラムやムーア建築の特色を生かしいる。 

この場所から見る建築物、独特の形状からくる色彩やコントラスが、120年前に立てられたと思えないほどの美しさを魅せている市立劇場の建物。

旧高等裁判所、この建物は1915年A、B、ハボックによって設計された。  

白亜の色彩にイスラムやムーア調の形状が美しく、屋上にある白と黒のドームが建物全体の重厚な雰囲気を漂わしている。

現在は民事など軽微な裁判所として利用されている。

スルタン・アブドウール・サマト・ビル(旧マラヤ連邦事務局ビル)

イギリスの統治時代には行政の中枢となったビルで、国の重要な行事が行われてきた。現在は最高裁判所になっている。 

 

私たちは、マスジット・ジャメや市立劇場・旧高等裁判所の建物を見学したあと、横に長くひときわ威風を放つ、旧連邦ビルを見ながら、その前にある広大なグリーン広場(独立広場)に向かって、道路を横断して行く。

独立広場の前に建つ、スルタン・アブドウール・サマト・ビル(旧マラヤ連邦事務局ビル)

イギリス人建築家A.C.Normanの設計により1894年~1897年に建てられた。

イギリスのビクトリア様式、イスラムのムーア様式の融合したデザインになっている。

左右対称の中央には40mの高さのある時計塔と、その下には玄関が建築され、左右の塔と共に威容を放っている。

 

私たちは独立広場の隅にある花や噴水などを見学していく。 

そこから、美しく整備された広大な旧マラヤ連邦事務局ビルが良く見える。 ここからの光景は、いつまでたっても、飽きることがなかった。

それにしても美しい建物である。

中央の塔の上部にある時計台や、さらに、その上にある銅製の丸いキュポラが、建物全体の調和を図り、強く引き付ける役割を果たしている。

左右の同じ形状の小さなキュポラと、建築様式の建物がバランスよく配置され、中央の塔と共に存在感を一層高めている。

いつまでたっても飽きることのない歴史的な美しい建築物である。

また、どこか、歴史ある大国の宮殿のようなムードを醸し出しているようにも思える。 

独立広場からの スルタン・アブドウール・サマト・ビル(旧連邦事務局ビル)でマレーシアに現存する植民地時代を代表する建物として知られている。

小さな池があり、ギリシャの神殿のような柱の上から滝のように落ちる水が流れ、その水間から見るスルタン・アブドウール・サマト・ビル(旧連邦事務局ビル)

 

この場所周辺には近代的な建築物や歴史的な建築物が多く存在している。

それに、美しい公園のように整備された独立(ムルデカ)広場のグリーンや

噴水や滝などの水の芸術品が、うまく調和し、独特の美しい景観を造り出し、マレーシアの歴史的情緒を高めている。

さらに、私たちは独立広場のグリーンの上を、国旗掲揚塔のある方向に向かってゆっくりと歩いて行く。

独立広場(ムルデカ・スクエア)と正面に近代的なビルを見る。 この広場は1957年8月31日の独立宣言された歴史的な場所である。

なぜか、この広場に立って周りの景観を見ていると、当時のマレーシアの志ある方々が、

小さなことにこだわらず、大志を抱きながら、国造りに邁進、心の中に新たなる決意を強く秘めていったであろう! との様子が目に浮かんでくる。

独立広場の南端にある国旗掲揚塔、世界一の高さを誇る100mの国旗掲揚塔にはマレーシア国旗がはためいている。 

下層の位置には、独立宣言するラーマン首相のモザイク画がおさめられている。

 

1945年、現在のマレーシアと呼ばれる地域はマラヤと呼ばれていた。

第二次大戦終了後、再び、イギリスが攻め込み、イギリスの植民地のマラヤ連邦となったが、1949年マラヤ連合へ移行する。

ラーマン初代首相

その後、ラーマンは幾度となく、独立のための使節をイギリスに派遣するが拒否される。

1956年、独立のための使節を再び、イギリスに派遣し、交渉した結果、独立のためのマラヤ連合憲法が施行され、1957年8月31日、民族の念願であった独立を勝ち取った。

  

 1957年8月31日 独立宣言するラーマン マラヤ連合初代首相のモザイク画 (独立広場の国旗掲揚塔に掲示されている)

 

かつてのマレーシアやアジアのほとんどの国は、長い間、欧米諸国の植民地であった。

植民地を持った欧米諸国は、繁栄をつづけ、栄華を味わっていた。

逆に植民地にされたアジアなどの国々は、衰退し、国民生活はきわめて困窮していた。 

そんな植民地時代の状況が数百年続く中、アジアのある国が、彗星のごとく現れ、白人国家の強国 ロシアを戦争で破ったというニュースが流れてくる。

世界中の人々は、この報道に驚き、圧政に苦しむアジアの人々にも、大きな喜びが湧き上がってくる。

西洋文明の強大な軍事力や工業力には、絶対にかなわないと思っていたことが、 自分たちにも やればできるのではないか! 

独立への道が開かれるのではないか! との希望の炎が芽生えてくる。

 

日露戦争での日本の勝利は、日本だけの勝利に終わらず、世界の植民地地図を塗り替えるほど、大きな影響力のある出来事であった。

インドの初代首相 ジャワーハルラール・ネルー は次のように語っている。

「日本がヨーロッパで最も強い国の一つであるロシアに対抗できたなら、どうしてインドにできないことがあろうか」

また、初代ビルマ首相 バー・モウも次のように語っている。

「日本の勝利を聞いたときの感動を思い起こす。この勝利がアジア人の意識の底流に与えた影響は決して消えることがなかった。 それは全ての虐げられた民衆に、新しい夢を与える歴史的な夜明けであった。」

その他、トルコ、イラン、フインランド、エジブトなどの国々も驚嘆し、歓声をあげ、黒人の解放運動にも火がついていく。

アジアなどの独立運動は、日露戦争での日本の勝利が、一つの大きな原動力になっている。

他方、その後の欧州側でも、有色人種の独立運動が活発になり、植民地化、奴隷化することは、もはやできない! と意識するようになる。

 

日露戦争後の状況について少し述べてみる。

1914年(大正3年)第一次世界大戦(人類史上最初の世界大戦)が勃発する。

1919年(大正8年) アメリカ ウイルソン大統領の提唱により、人類史上初の国際平和機構である 「国際連盟」 が設立される。

日本は1919年(大正8年) 国際連盟の第一次世界大戦後のパリ講和会議において

世界で初めて人種差別撤廃を明確に主張する。

この日本の提案は、海外でも大きく報道された。 

西洋列強の圧力に苦しんでいた国々や人々から、感謝の言葉が日本に述べられている。

人種差別撤廃法案は賛成多数にも関わらず、議長(アメリカ ウイルソン大統領)の裁定で否決される。

賛成多数にも関わらずアメリカ 大統領裁定で否決されたことから、

アメリカのシカゴなど多くの都市で人種暴動が発生、100人以上の死者、数万人が負傷するなどの事件が多発する。

 

1924年(大正14年) アメリカで 排日移民法が成立する。

1929年(昭和4年) 世界大恐慌が始まる。 この経済危機により、共産主義が勢力を得てくる。

それに対抗するイタリアでは、ファシズムが、 ドイツではナチシズムが大頭する。

第一次対戦後の処理に関して、ベルサイユ条約(1919年6月)が調印され、

それに伴って、もたされた国際秩序であるバルサイユ体制がなされたが、ドイツは反感し、

日本へ親近感を強め、植民地大国である、イギリスやフランスに反感するようになっていく。 

このようなことが、その後の第二次世界大戦への呼び水になっていく。

 

 

欧米が望んでいたのは現存するアジア・アフリカなどの植民地を、そのまま維持し、収益を上げ国家財政を豊かにすることであって、自分たちの植民地を手放すことなど、夢にも考えてなかった。

そんな、折りに、日本というアジアの小国が現れ、人種差別撤廃やアジアの植民地解放のために活動してくる。

このように、欧米諸国が進出している北東アジアや東南アジア・インドなどへの影響力を高めていく日本に対して、欧米諸国は快く思っていなかった。

特にアメリカのルーズベルト大統領は、同盟国を集い、

1941年(昭和16年) 資源のない日本への貿易封鎖網(ABCD包囲網)を確立し戦争へと追い込んでいく。

A=アメリカ、B=イギリス(Britain),C=支那(china),D=オランダ(Dutch)

貿易封鎖の内容は以下のとおりである。

①日本資産の凍結、②通商航海条約の廃棄、③鉄鋼禁輸措置(なかでも石油はアメリカに依存しており、禁輸は日本存亡の危機であった)

1941年8月 ルーズベルト米大統領は、石油禁輸強化を発令する。(日本の石油備蓄量は約半年分であった)

 

さらに、アメリカ政府は1941年11月、日本に追い打ちをかけるような無理難題なハル・ノート(日米間協定の提案基礎の概要)を突き付ける。

内容は、「日清、日露戦争やその後の条約によって日本が獲得した正当な、すべての権益を放棄せよ」 (欧米諸国は植民地政策をそのまま続ける)

こういった内容のハル・ノートを日本は突き付けられてきた。

この時、日本は、アメリカとの外交交渉を、何とか関係修復を図りたいとの思いで必死の努力を続けていた、

日本にとって、ハルノートは、寝耳に水で、目のくらむほど絶望感が走る内容であった。

この「ハル・ノート」は、アメリカ議会も、アメリカ国民も全く知らないところで、ひそかに日本に突き付けられた。

ルーズベルト大統領と、幾人かの側近のみが知っていた。

ルーズベルトは、この内容を突き付ければ、「日本は、我々に牙を剥いて、襲いかかってくるだろう」 と思っていた。

そして、日本から、最初の一発がほしかった。

そうすれば、「アメリカ国民は怒り、戦争やむなし、と心を一つにして、日本との戦争に邁進できる」 と考えていた。

アメリカのルーズベルト大統領ハル国務長官も、当時の白人感覚で、有色人種を差別して、このような無理難題を持ち出し日本にせまってきた。

このような無理難題な通牒を突き付けられた日本には、開戦以外に妥協の余地はなかった。

 

戦後、このハル・ノートの件について、東京裁判で、日本の無罪を主張したインドのパール判事は

「ハル・ノートのようなものを突きつけられたら、モナコヤルクセンブルクのような小国であっても、矛(ほこ)をとってアメリカに立ち向かうであろう」と述べている。

また、アメリカのハミルトン下院議員(ルーズベルトのライバラル)は、ハル・ノートの存在を知ると 「恥ずべき最後通牒」 と批判し、こういったものを突き付けられた日本は 「自殺するか!、降伏するか!、戦うしかない」 と述べている。

日本占領連合軍の最高司令長官であるマッカーサーも、戦争が終結して日本に来るまで、ハル・ノートのことは知らなかったと述べている。

 

私も、日本人の心を深く傷つけるハル・ノートのようなものを受け取れば、

どのような状況を考えても、熟慮しても日本の進むべき方向は戦う道しか残されていないと思う。

仮に、相手側の要求を日本政府が受け入れても、明治以降、外国との正当な権益を手放すことは、軍や当時の日本国民が許さなかったと思う。

 

ハルノートから日本には、開戦以外に妥協の余地はなかった。

ハル・ノートにより日本の真珠湾攻撃が決定し、大東亜戦争(太平洋戦争)がはじまった! といっても過言ではない。

 

この時期のアジアは、ほとんどの国が欧米諸国の植民地であった。

植民地でないのは、日本とタイの2カ国といっていいような状況であった。

日本はかつてから大東亜共栄圏構想をもっていた。欧米諸国の植民地支配から、東アジアや東南アジアを開放し、

日本を盟主とする共存共栄の国際秩序建設を目指していた。

 

こんな状況のなかの、1941年(昭和16年)12月8日、 この日の早暁、日本軍はマレーシア東海岸のコタバルに敵前上陸を試みる。

 イギリスとオーストラリアの連合軍は、海岸沿いにコンクリート製のトーチカ(防御陣地)をつくり、上陸しようとする日本軍に、猛烈な砲火を浴びせてくる。

 中国戦線で戦ってきた命知らずの日本軍1万人は、それをものともせず上陸に成功し、交戦状態に入るが、日本軍の勢いに圧倒された連合軍は降伏する。

アジアの人々は、小さな日本軍が、世界に冠たる大英帝国の軍隊を降伏させたことでマレー人の目は開かれていく。

この時、マレー半島の多くの人達は、イギリスや華僑の支配からの独立を夢見て、積極的に日本軍に協力している。

 

反日的な華僑が日本軍政中に過酷な仕打ちを受けたことは事実であるが、

日ごろ私たちが目にする東南アジア史の書物の多くは、華僑の利害のみ基づいて書かれたものがほとんどだということを忘れてはならない。

 

 アジア植民地政策を推進するイギリスは、1623年にインドネシア東部のモルッカ諸島でオランダと交戦になり敗れる。

 その後、インド経営に力を注ぎ、それが軌道に乗ると、再び東南アジアに目を向けていく。

さらに イギリスは、1768年にペナン島、1819年にシンガポール、、1824年にマラッカを手に入れ、本国直轄の「海峡植民地」 を構成する。

 そして、内陸部も保護国化し、1895年にはマラヤ連邦をつくる.

植民地化に成功したイギリスは、スズ鉱山やゴム園の開発に力を注ぎ、中国人やインド人労働者を多数マレーシアに移住させる。

今日のマレーシア・シンガポールの複雑な民族構成の基礎を作ったのは、このことが原因である。

また、イギリスは、直接支配から、中国から連れてきた華人を中間搾取者として、マレー人の支配を強めていく。

このように植民地化されたマレー人は、イギリス人を憎むと同様に、中間搾取社の華人をも憎んでいた。

日本軍の侵攻によって華人は、これまで持っていたマラヤ連邦の利権を失うが、今度はゲリラ戦で抵抗してくる。

このゲリラに不意を突かれて命を奪われた日本兵がたくさんいた。

この時のイギリス軍は、植民地インドのグルカ兵やパンジャブ兵を主力としていた。

 

マレー半島のコトバルに上陸したあと、日本軍は地元の人達との協力を得ながら、シンガポールに向かって南下しして行く。

南下している最中にも現地の人達は日本軍によく協力したといわれている。

シンガポールには、アメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリア連合司令部がおかれていた。

日本軍は数的には互角であったが、制空権・戦車・歩兵戦術・戦闘経験において優越していた。

1942月2月 、日本軍はシンガポール攻略に成功する。

、シンガポールの住民たちも、難攻不落を誇っていたシンガポールの要塞が日本軍の攻撃で陥落したのを見て、日本軍に好意を持つようになっていく。

 当時のマレーシアの人達の悲願はイギリスからの独立であった。

日本は、欧米の列強からの貿易封鎖などの政策により苦難の状況に陥っていた。

この苦難な状況を打開するには、日本にとってもアジア諸国を、欧米からの独立を支援し、正当な経済関係の構築にあった。

その為に、日本は、植民地の全国民への教育、独立を勝ち取る強い心を持った青年たちの育成などに貢献している。

欧米諸国は、「植民地に一番先に造ったのは刑務所であったが、 日本は一番先に学校を造った」 といわれている。

 

パークロイヤルホテルに展示してあった三輪自転車(トライショー)、現在でも観光客を乗せて活躍している地域がある。

トライショーは人力車と自転車を組み合わせたような乗り物である。

 

さらに、帰国後色々な書物を読んでいると、次のような内容の記事があった。 

ある日本人の学校教師が、戦後、マレーシアを訪れました。

 かつて日本軍は大東亜戦争(太平洋戦争)中に残虐非道を尽くした、と思っていた彼は、マレーシアにおける日本軍の活動を調査しようと思ったのです。

 彼は、マレーシアの上院議員ラジャー・ノンチックに会って言いました。

 「日本軍はマレー人を虐殺したに違いありません。その事実を調べにきました」。

 すると、ノンチック議員は驚いて言ったのです。

 「日本軍はマレー人を一人も殺していません。

日本軍が殺したのは、戦闘で戦ったイギリス軍や、それに協力した中国系共産ゲリラだけです。

それに、日本の将兵も血を流しました」。


 そのような話が、『教科書が教えない歴史』 (扶桑社文庫)という本に紹介されている。

ノンチック議員は、その第一期生の一人でした。

彼は、同じように独立の熱意に燃えるアジアの青年たちと共に、留学生として日本に派遣されます。


 日本人教官たちは留学生たちを、わが子のように厳しく優しく指導し、

「独立を戦いとるためには、連戦連敗してもなお不屈の精神を持つことだ」

と励ましてくれたといいます。

 日本政府は食糧難の中にも、苦労して留学生の食糧まで集めました。

この日本留学の経験は、ノンチック議員の人生を変えるものとなったのです。

 そののち1945年、日本は敗戦を迎えます。

ノンチック議員は、そのとき決意を新たにしました。

 「日本はアジアのために戦い疲れて破れた。今度はわれわれマレー人が自分の戦いとして、これを引き継ぐのだ」

 ノンチック議員らは、祖国独立のための戦いを続け、ついに1957年、祖国独立を果たしました。

さらに、彼ら日本に来た南方特別留学生たちが中心となり、

現在のASEAN(東南アジア諸国連合)が設立されたのです。

 ノンチック議員は、こんな詩を残しています。

かつて日本人は清らかで美しかった。かつて日本人は親切で心豊かだった。アジアの国の誰にでも、自分のことのように一生懸命尽くしてくれた」。

 かつて日本軍は、東南アジアを舞台として戦いました。

しかし 日本軍は 東南アジア人を相手に戦ったのではなく、東南アジアを東南アジア人の手に取り戻すために、欧米人を相手に戦ったのです。

マレーシア歴代首相の画が展示してある独立広場

1994年、(平成6年) に当時の村山富一首相が、例によって日本の過去について謝罪したことをとらえて、

マハテイール首相は 「なぜ日本が謝り続けるのか理解できない」 と発言しています。

マハテイール首相

マ八テイール首相は、日英両国の支配を比較して、謝罪すべきはイギリスであると考えていました。(教科書が教えない東南アジア=扶桑社)

マレーシアは、日本が占領するまでの長い間イギリスの植民地でした。

 

旧連邦事務局ビルの隣にある国立織物(テキスタイル)博物館

この博物館はムガール様式で建てられ、その美しさから人気の高い建物である。 

1896年に建築され、その間さまざまな官公庁の使節として使用されている。 2012年に現在の博物館として開館している。

マレーシアの織物や染め物、手工芸品などを紹介する施設である。

マレーシアの伝統的な衣装や工芸品も展示され、その中には国宝級のものも有り、なかなかの見ごたえのある博物館といわれている。

独立(ムルデカ)広場横にある国立歴史博物館

国立歴史博物館では、マレーシアがたどってきた先史時代からイギリスの統治時代、日本による統治時代を経て、

独立までの歴史と文化が、数々の資料を基に展示して紹介されている。

かつて、銀行に使われていた白いコロニアル様式の建物を回想し1996年に開館する。

 

クアラルンプール シテイーギャラリーと奥にある市立図書館

このシテイギャラリー-は、クアラルンプール市内の歴史的建物などを含めて、クアラルンプールを案内するいわば観光案内所である。

独立(ムルデカ)広場の左側に隣接している。

上記写真の奥には市立図書館があり、独立(ムルデカ)広場地下への入り口の対面になっている。

 写真の奥にある市立図書館は、長い間かかって建設されていてようやく2004年6月中頃開館するが、

残念ながら蔵書が不十分であるとの声があり、図書館側も、今後、少しずつ増やしていくといわれている。

シテーギャラリー前で音楽に合わせてダンスをする若い女性たち

 

独立(ムルデカ)広場や周辺の建物などを、見学したり、写真撮影したあと、来た時と同じ駅であるマスジット・ジャメ駅に向かって行く。

マスジット・ジャメ駅からは電車に乗ってKLセントラル駅へ向かって、同じコースでモノレールに乗り、

宿泊するパークロイヤルホテル近くのブキツ・ビンタン駅まで行ってホテルに帰って行く。

ホテルの自分の部屋について、荷物などを置くと、私たちはすぐに、クアラルンプールきっての屋台街であるアロー通りに出かける。

アロー通りは、パークロイヤルホテルから、徒歩10分ほどで、モノレールのブキツ・ビンタン駅下の大通りを過ぎるとすぐであった。

黄昏時をむかえ、屋台の明かりが少しずつ輝きだしている。

アロー通りには大勢の人達が訪れ、通りの両サイドには中華料理店が並び、店の道路側には、多数のテーブル席が設置されている。

通りの中央には、大勢の人たちが行き交い、乗用車も通行、大変なにぎわいを見せている。

 

大勢の人達が訪れにぎわいを見せるアロー通りの屋台街

夜になると大変な賑わいを見せるアロー通りの大屋台街、これぞアジアといった南国の雰囲気が漂っている。

道路の上に、テーブルとイスを並べた屋台スタイルが人気を呼び、中華料理を中心に、フルーツや焼き肉の屋台なども並んでいる。

アロー通りにある屋台レストラン「西湖」 メニューは中華料理であるが、日本にもある大衆中華料理店のメニューとほとんど変わらない。

私たちも空いているテーブル席に座り、夕食をとることにした。

やはり星空を見ながら屋台で食事することは、解放感があって気持ちがいい。

日本語は通じないが、ビールや焼き餃子、酢豚などの料理をオーダーしクアラルンプールの夜を楽しむ。

このような大屋台街は、日本では見かけないが、台湾でも屋台街があり大勢の人達で賑わっていた。

やはり、屋台は、建物などの圧迫感なく、晴れ晴れとした気分にさしてくれ、どんな飲み物や料理も、屋内よりもおいしく感じる。

それに、アジア特有の南国のムードもあり、私たち旅行者を有頂天のような、ルンルンとした最高の気分にさしてくれる。

 

4月11日(土) 今日は インドネシア バリ島へ移動する日である。 午前7時30分頃、ホテルからタクシーでKLセントラル駅に向かって行く。 

15分程でセントラル駅に到着すると、クアラルンプール国際空港への切符と、バリ島への飛行機への搭乗手続きも、この駅ですべて行うことができる大変便利な駅である。

おかげさまで私たちは、小さな手荷物だけの手軽の状況で特急電車や飛行機に乗ることができた。

クアラルンプールセントラル駅からKL国際空港へ向かう特急電車内

出発前のマレーシア クアラルンプール国際空港

2015年4月11日(土)午前11時 私たちを乗せたマレーシア航空機は定刻にKL空港を離陸し、インドネシアバリ島のデンパサールに向かって行く。 飛行時間は3時間であるが、不思議なことに時差はなかった。

インドネシア バリ島 テンパサール空港に定刻の午後2時に着陸する。

9年ぶりに降りたったテンバサール空港、前回の時よりも空港が新しくなっているように感じる。

 

今回始めて訪れたマレーシア・クアラルンプール、 そこには日本との深い絆があった。

訪れた旅先での私たち日本人に対する反応は、極めて好意的な親日な態度であった。

この親日的なマレーシアの人達の態度は、私たちの先人達とマレーシアの人達の深い絆から生まれている。

色々な書物を読んでいると、私たちの先人を悪に仕立てて書かれている本もたくさんあり驚かさせられるが、

私にはどうしても解せない。 

 ほんとに日本が悪であるならば、現地でのこのような親日的な態度は生まれない。

朝日新聞が誤報と伝えた従軍慰安婦の虚報(吉田清冶著)のような報道が多い様に感じる。

今回の旅行を通じて、旅先での歴史やそれにまつわる書物などを調査したり、読んでいると、

日本って素晴らしい! と新たに感動の心が湧いてくる。

以前に訪れた台湾でも、インドネシアでも同じような体験が思い出されてくる。

また、いつの日かマレーシアを訪れる日が到来する日を夢見ながら

私たちは次の旅先であるインドネシア バリ島へ旅立って行く。

 

 

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