小耳はミーハー

小耳にはさんだことへの印象批評

「か弱い花びらたち」は好き?

2006-02-22 00:27:44 | ドラマ
集団が個人化する。
というよりも、誰しもが「自分以外」という集団を個人化しているのだけれど、その精度が高く、密度が濃いものに対して人は熱狂する場合がある。
例えば、「日本代表」。
例えば、「合コン相手」。
そして、例えば「AKB48」。

彼女たちの歌う唄は実にくだらない。
彼女たちの容姿は取り立てて美しくない。
彼女たちのパーソナリティにはとてもタレントがあるとは言えない。
しかし、48人を目標にしていて、いまはまだ21人しかいない彼女たちではあるが、十二分に精度高く、密度濃く集団を個人化することに成功している。

彼女たちの新曲「桜の花びらたち」。
このタイトルを秋元康がどのようなつもりで付けたもかは解らないが、桜の花には一葉の花弁としての存在感はないはずである。
四月、ただ一葉の花弁を見るために、人は上野公園や井の頭公園に集まりはしない。まさに「花びらたち」を見に行くのである。
だが、桜の花が複数形で語られることはない。
桜、もしくは桜の花というとき、それはみな満開に咲き誇る「花びら」たちを指しているのである。
つまり、集団が個人化している。

AKB48はまさにそーいう図式での集団の個人化を達成している。
みなが秋葉原ドンキホーテ8Fにある彼女たちのステージに向かうとき、彼らは一葉のアイドルを見に行くわけではない。
満開に咲き誇るアイドルたちを見に行くわけだ。
そこに個人の区別はなく、また区別された瞬間に価値はなくなり、凡庸なものになる。

タレントとは、アイドルとは、本来個人で集団を代表・象徴するほどの圧倒的な存在であったはずである。
それがもはや集団でしか個人になれないほど脆弱なアイドルが立派に存在している。
「会いにいける」アイドルというコンセプトのAKB48だが、彼女たちは誰かが会いに行って存在を確認してあげなければこの世に存在することすらできない。ひどく儚い。
だからこそ、新しい形での金を生んでいるのだ。
そこにおいても、今までのアイドルビジネスとは一線を画している。


「女」は好き?

2006-02-09 23:45:11 | ドラマ
男はたいがい誉められたものではない。
これは周知の事実。羞恥の事実。
でも、女は、誉められたものであることが多々ある。

それは、女が「誉められたものではない男」に対して、本気で恋に落ちることができるからである。
女も、その男が誉められたものではないということはよく解っている。
でも、彼女は「恋は恋だ」と割り切ることが出来る。

そんな女によって、「誉められたものではない男」は、時に増長するが、時に成長もする。
でも、女は自分で勝手に結論を出す。
「もうお目にかかることはないでしょう」

追いかけてもいいかもしれない。
怒ってもいいかもしれない。
受け入れてもいいかもしれない。
男がどんな行動に出たとしても、女はドラマを作ってくれる。
そこに女の頭の良し悪しは関係ない。
どんなに頭の悪い女でも、男よりは頭がいい。
男にペニスがついている限り。

「ずっと好きでした」
男も言う台詞だけれども、あんまり言わない方がいい。
そんなわけないからだ。
こと、男に限っては。
初めから嘘をついてどーする?という感じである。
「ちょっと好きかもなー。ま、いいや。とにかく明日も会おう」
てな感じでも、そのうちキスもしてみたくなるし、エッチだってしたくなる。
キスして「やっぱ好きくない」と気づくかもしれないし、エッチして「おお!すごい好き」ってな具合に羽化するかもしれない。
とても危ういけど、「恋は恋だ」と割り切ってくる凛々しい女たちに対抗するには、この方法しかない。

-俺はバカ 私もバカよと 抱き合って うまくイケずに もう一回-   

「エッチ、スケッチ、ワンタッチ」は好き?

2006-02-04 00:01:54 | ドラマ
マイクロフォン1、マイクロフォン2!
キング・オブ・ステージ!

「エッチ、スケッチ、ワンタッチ」って何だったっけ?
子供の頃、身の周りにあった言葉を思い返す。
「お前のかあちゃんデベソ」そりゃ、出産経験してるんだし、多少はねえ。
「イチ抜けーた」もうイチ抜けたいことばかりです。
「社会の窓開いてるよ」開けたい、開けたい。
「会心の一撃!」いやー、≪改心≫の一撃を食らうことはあるけどさ。
「先生、トイレに行ってもいいですか?」子供って偉いね、ちゃんと断りを入れてから、用を足しに行くんだから。久々に言ってみようかな、「部長、トイレに行ってもいいですか?」とか。
「今日、○○くんが、××ちゃんにデブって言ってましたー、そーいうことってイケナイことだと思います」イケナイと感じたことを、きちんとイケナイと言う。すばらしい。「今夜、○○くんが、××ちゃんにエッチしようって言ってました。そーいうのってイケナイことだと思います」あれ?イケナイコトかい?

子供のころに身の周りにあった言葉って、フォーマットの問題に見えて、実はとても大切なことをいろいろと表している。
例えば、「社会の窓開いてるよ」という言葉、別に意味もないし、面白がって使っていただけだけど、好きな女の子が、たとえば家ではお転婆なのに学校では殻を被っていたリエちゃんが、一瞬教室で家の自分になってしまったとき(先生のことをママって言っちゃうようなとき)にうっかり「パパの社会の窓が、、あっ」なんて言ったとき、まだ射精したことのない男子たちでも絶妙に恥ずかしくなる。これ、本当の意味を隠しすぎたことによって生じる本当らしさって奴ね。
例えば、「○○くんが、××ちゃんのことをデブって言ってました、、」ってのも、そう発言している子は○○くんが女子に対して「デブ」と言ったことを真剣に糾弾しているのだろうけど、「デブ」という粗暴な言葉を、きれない主張の中で使ってしまえることが、××ちゃんを余計にみじめにするのね。これ、真性Sね。

つまるところ、ナニが言いたいのか。
子供ってのは、かなり曖昧であやふやな世界で生きているのよ。まだこの世界の人間ではなく、半分、あの世の人間みたいなところがあるから。世の中のことを「これってこんな感じかな」とか「えっ、なんで、そーいう展開になるの?」なんてことを毎日毎日繰る返してるのよね。

て、つまりつまるところ、ナニが言いたいのか。
エクスキューズではないが、社会人一年目も、そんな感じかもしれないと。
「えー、そこで『やります!』(子供でいうところの「デブ」)って言っちゃうの?お前?バカ!」とか「家とか仲間うちでは、四六時中『合コン、合コン』(子供でいうところの「社会の窓」)とか言ってんだろ?」とか、そーいうことを上司・先輩から言われる感じね。きっと。

でも、だ。
ぼくたちは大人になった。
そーだよね。
さあさあ、時は二月。一年で一番短い二月、儚い二月。

ノンストップDJ、朝まで!