集団が個人化する。
というよりも、誰しもが「自分以外」という集団を個人化しているのだけれど、その精度が高く、密度が濃いものに対して人は熱狂する場合がある。
例えば、「日本代表」。
例えば、「合コン相手」。
そして、例えば「AKB48」。
彼女たちの歌う唄は実にくだらない。
彼女たちの容姿は取り立てて美しくない。
彼女たちのパーソナリティにはとてもタレントがあるとは言えない。
しかし、48人を目標にしていて、いまはまだ21人しかいない彼女たちではあるが、十二分に精度高く、密度濃く集団を個人化することに成功している。
彼女たちの新曲「桜の花びらたち」。
このタイトルを秋元康がどのようなつもりで付けたもかは解らないが、桜の花には一葉の花弁としての存在感はないはずである。
四月、ただ一葉の花弁を見るために、人は上野公園や井の頭公園に集まりはしない。まさに「花びらたち」を見に行くのである。
だが、桜の花が複数形で語られることはない。
桜、もしくは桜の花というとき、それはみな満開に咲き誇る「花びら」たちを指しているのである。
つまり、集団が個人化している。
AKB48はまさにそーいう図式での集団の個人化を達成している。
みなが秋葉原ドンキホーテ8Fにある彼女たちのステージに向かうとき、彼らは一葉のアイドルを見に行くわけではない。
満開に咲き誇るアイドルたちを見に行くわけだ。
そこに個人の区別はなく、また区別された瞬間に価値はなくなり、凡庸なものになる。
タレントとは、アイドルとは、本来個人で集団を代表・象徴するほどの圧倒的な存在であったはずである。
それがもはや集団でしか個人になれないほど脆弱なアイドルが立派に存在している。
「会いにいける」アイドルというコンセプトのAKB48だが、彼女たちは誰かが会いに行って存在を確認してあげなければこの世に存在することすらできない。ひどく儚い。
だからこそ、新しい形での金を生んでいるのだ。
そこにおいても、今までのアイドルビジネスとは一線を画している。
というよりも、誰しもが「自分以外」という集団を個人化しているのだけれど、その精度が高く、密度が濃いものに対して人は熱狂する場合がある。
例えば、「日本代表」。
例えば、「合コン相手」。
そして、例えば「AKB48」。
彼女たちの歌う唄は実にくだらない。
彼女たちの容姿は取り立てて美しくない。
彼女たちのパーソナリティにはとてもタレントがあるとは言えない。
しかし、48人を目標にしていて、いまはまだ21人しかいない彼女たちではあるが、十二分に精度高く、密度濃く集団を個人化することに成功している。
彼女たちの新曲「桜の花びらたち」。
このタイトルを秋元康がどのようなつもりで付けたもかは解らないが、桜の花には一葉の花弁としての存在感はないはずである。
四月、ただ一葉の花弁を見るために、人は上野公園や井の頭公園に集まりはしない。まさに「花びらたち」を見に行くのである。
だが、桜の花が複数形で語られることはない。
桜、もしくは桜の花というとき、それはみな満開に咲き誇る「花びら」たちを指しているのである。
つまり、集団が個人化している。
AKB48はまさにそーいう図式での集団の個人化を達成している。
みなが秋葉原ドンキホーテ8Fにある彼女たちのステージに向かうとき、彼らは一葉のアイドルを見に行くわけではない。
満開に咲き誇るアイドルたちを見に行くわけだ。
そこに個人の区別はなく、また区別された瞬間に価値はなくなり、凡庸なものになる。
タレントとは、アイドルとは、本来個人で集団を代表・象徴するほどの圧倒的な存在であったはずである。
それがもはや集団でしか個人になれないほど脆弱なアイドルが立派に存在している。
「会いにいける」アイドルというコンセプトのAKB48だが、彼女たちは誰かが会いに行って存在を確認してあげなければこの世に存在することすらできない。ひどく儚い。
だからこそ、新しい形での金を生んでいるのだ。
そこにおいても、今までのアイドルビジネスとは一線を画している。