小耳はミーハー

小耳にはさんだことへの印象批評

「M-1 PR番組」は好き?

2004-12-26 01:47:52 | ドキュメント
クロちゃんは泣いていた。小沢さんも叫んでいて、南海キャンディーズは嬉し泣きをしていた。そんな中で、平然と笑いをとっていた笑い飯はやっぱモノが違うけど、嬉しかったことに違いはないと思う。
クリスマスイブの深夜3時過ぎに「まもなく開幕 M-1グランプリ2004」を放送したテレビ朝日はどーいうつもりだったんだろう。関西ではもっと前に、もっと長い番組を放送していたのだろうけど、クリスマスの夜に見る漫才師の涙は新鮮だった。よくタレントはテレビの中で涙なんか見せちゃ駄目って言われる。その理屈もよく解る。でも、M-1に出ている彼らの多くは正確にはまだタレントではないもんね。泣いてもいいと思うんだ。
確かに、PR番組としてはとてもよく出来ていたし、芸人もさすがに協力的だったんだけど、「情熱大陸」が同じ素材で作る番組を見てみたいと思ったの。絶対ありえないんだけどさ、小沢さんが叫ぶところなんかをどう使ったかなって興味があるのね。「二回じゃ駄目なの、何回も出たいの、もっと出たかったよー、面白い漫才がしたいですー」と突然スイッチが入り、電話の向こうの誰かに涙ながらに叫んだシーン。事前情報だとスピードワゴンは敗者復活には出ないみたいなんだけど、惜しいなあ。
決勝の審査員は紳助に続き、松本人志も欠場するということなんだけど、この人は好き嫌いが激しいように見えて、過去の大会を振り返ると一番公平に審査していたと思われるのね。「公平」っていう言い方は誤解を招くかもしれないけど、どんなタイプの漫才にもそれぞれの基準を設けて審査していた感じかな。だから、松ちゃんの欠場は誰かにとって有利・不利ということにはならないと思う。
『勝利の女神は、誰に爆笑するのか』結果が出るのはいよいよ明日だ。

「情熱大陸」は好き?

2004-11-16 03:08:36 | ドキュメント
知らないことをやっている知らない人を知る。このことは場合によっては、良いこと。でも、逆もあるよね。でも、どうやって知ったかによって良い場合も悪い場合になり、悪い場合も良い場合になると思うんだ。
それだけ、どうやって知ったかという事を大切だと思うのね。
で、「情熱大陸」という番組は、どうやってその人を知るかという事が、とても大切であるということを解っている番組だと思うの。最近では、小倉優子にまで手を出していて、少しずつ変わってきてはいる。決して、小倉優子のような存在にすら何かを求めようとしている態度をあさましいと思っているんじゃないんだ。ただ、世間はすでに小倉優子って最近少し印象変わったな、となんとなく思っているってことなのね。以前の「情熱大陸」は世間の二歩くらい先を行っていた気がするんだ。そして、その二歩先っていうのが絶妙だなと思っていたのね。私を含めた世間を無視していない感じがして。
でも、この番組がよく考えられている番組であることには違いないと思うのね。確かに、たかが30分の番組では、その人の何にも解らない。でも、ただその人を紹介するだけには終わらない。その間には、基本的にはタブーであるはずのカメラの意思が入ってるんだと思う。ヤラセ?演出?の議論は置いておくとして、この番組のカメラはその意思を強引にでも通そうとする。すると、その意思を嫌がったり、恥ずかしがったり、歓迎したりと、被写体である人間の素の部分がチラッと見えたりすることがある。
加えて、「情熱大陸」は時折行き過ぎるその方法で、見る側に勝手にドラマを作ってもらおうとしている。数年前に一時間スペシャルで放送された「松坂世代」は、まさにそうだった。「夜空ノムコウ」を流すあたり、行き過ぎた例だし、彼らだって「俺たちはあんなに美しいドラマを作るためだけに生きてるわけじゃない」と言いたいかもしれない。でも、私は感動した。情熱大陸のホームページでコラムを書いている重松清も感動してた。それはいいように乗せられていると言われるかもしれないけど、草刈民代さんがリメイクされた「Shall we ダンス?」を見て、映画の出来にではなく、ハリウッドに忠実にリメイクされるような映画を作った旦那さんに感動して上映中泣いたように、人は同じものを見てもそれぞれの「点」で、それぞれの感じ方をするよね。で、「情熱大陸」は、その「点」を意識的に多く散らばしてあると思うんだな。