西村さんの「異種の考えを認め尊敬する社会の構築を」を読んでいただけましたか。僕はほぼ全面的に西村さんの考えに同意します。異なった考えを認め尊敬するということは、自分の考えを絶対化しないということです。他流試合をしながら自己の考えの普遍性を高める努力をつづけていくことですし、だから、間違っていたことが解ったら潔くそれを認めなければなりません。これは、当たり前のようで実はなかなか難しい生き方です。しかし、そのような努力をつづけようとする一人一人の存在が民主主義を支えているのであり、それが消えていけば民主主義は成り立たなくなって、「一神教」が猛威をふるいます。
さて「三年自然災害」です。この事典(岩波現代中国事典)の文字を写しながら、出会ってきたあの方この方のお話を思い出しました。短い文章の中にひとびとの受難の実態と背景がよくわかるように書かれていると思います。
しかし、恐ろしいことに、このおぞましい「人災」の、殉難者数をはじめ肝腎なことが、中国の社会では今日に至っても何一つ明らかにされていません。共産党の独裁政治が連綿と続き、大躍進を主導した毛沢東が今日なお建国の父であり、その権威を否定するわけにはいかないからでしょう。社会のタブーとなって調査や研究の対象にならないようです。
大躍進の頃、僕は高校生で何の記憶もありませんが、教員になったのは1966年で文化大革命が始まった年です。いつのことか、岩波映画社が制作した『夜明けの国』を授業でみせたことがあります。中国東北部の人民公社などが紹介されているのですが、僕がそれを肯定的にとらえていたことは間違いありません。紹介されているひとびとの言葉に「人類の希望」を感じたのかもしれません。(今、改めて見てみたいと思っています)。
大躍進は「人民公社の設立、また大衆動員によって、鉄鋼・穀物生産などをきわめて短期間に、急激に増産しようとし、急進的な理想社会の実現を目指した運動」で毛沢東らはこれによって共産主義社会への移行は間近であると述べていたそうです。
この映画が作られ始めた66年は4000万人(?)の死からまだ数年しか経っていません。しかし、映画のどこにも悲劇の痕跡はなく、希望だけが語られていたのです。やがて僕は遠くから聞こえてくる文革のニュースに耳を澄ますようになり、共産党の独裁を否定する人民の共同体(コンミューン)が生まれるかと期待を寄せたりしました。
文革に疑問を持つようになったのは残留孤児の帰国が始まり、都立高校の定時制に二世の生徒たちが来るようになってからではないかと思います。誘われてハイキングに参加したりしているうちに、日系人の受難に関わる話を聞いたりするようになったのです。
岩波書店は、『事典』の中でこそ大躍進についてこのような記事を載せていますが、その膨大な出版活動ではどうでしょうか。『事典』の中でこんな記述をしているなんて、よっぽど関心のある人でないと知らないでしょう。僕は同じ学校に勤めていた忠幸さんに教えられて初めて知ったことです。
岩波の発行する月刊誌『世界』は大躍進も文革もそれを積極的に評価し、日本の知識人に影響を与えてきたメディアですが、その舞台裏の人民の受難について何かを伝えているのでしょうか。気づいた方は教えてください。『世界』の前の編集長が、金日成の談話やそれをたたえる美濃部亮吉都知事などの記事は載せても、世の中の人が普通に疑問に思う事にはふれないということを知って以来、僕は長い間この雑誌を読んでいないのです。
驚いたことに、その編集長は、植民地統治をしたことのある日本人は朝鮮の政治を批判する資格が無いと言っていたのです。韓国の「独裁政治」に対しては容赦のない批判を繰り広げていましたから、言っていることのつじつまが合っていません。中国に対してはどうだったんでしょうか。同じようだったかもしれません。
60年代から70年代にかけて僕に影響を与えた日本のメディアや学者たちのほとんどが、いまだに中国共産党に遠慮してか、真実を追究する努力を放棄しているようです。なんで「中国社会のタブー」に日本のメディアや学者が同調しなくちゃならないんですか。浮かばれないのは中国の民衆です。本当にこんな事でいいのでしょうか。
オリンピックが近づくにつれ、「日中友好」の声が高まるに違い有りません。それはそれで結構なことですが、中国では今も共産党の独裁が続いており、ひとびとに真実を追究する自由がないこと、人権を確立するたたかいで数知れないひとびとが獄中にあることなど厳しい現実に対する想像力を失わないでいたいものです。そのためにも、僕にとって、身近に住む中国から来たひとびととの交流を深めることはとても大事なことなのです。僕はそういうことこそが「日中友好」の内実だと思っています。
さて「三年自然災害」です。この事典(岩波現代中国事典)の文字を写しながら、出会ってきたあの方この方のお話を思い出しました。短い文章の中にひとびとの受難の実態と背景がよくわかるように書かれていると思います。
しかし、恐ろしいことに、このおぞましい「人災」の、殉難者数をはじめ肝腎なことが、中国の社会では今日に至っても何一つ明らかにされていません。共産党の独裁政治が連綿と続き、大躍進を主導した毛沢東が今日なお建国の父であり、その権威を否定するわけにはいかないからでしょう。社会のタブーとなって調査や研究の対象にならないようです。
大躍進の頃、僕は高校生で何の記憶もありませんが、教員になったのは1966年で文化大革命が始まった年です。いつのことか、岩波映画社が制作した『夜明けの国』を授業でみせたことがあります。中国東北部の人民公社などが紹介されているのですが、僕がそれを肯定的にとらえていたことは間違いありません。紹介されているひとびとの言葉に「人類の希望」を感じたのかもしれません。(今、改めて見てみたいと思っています)。
大躍進は「人民公社の設立、また大衆動員によって、鉄鋼・穀物生産などをきわめて短期間に、急激に増産しようとし、急進的な理想社会の実現を目指した運動」で毛沢東らはこれによって共産主義社会への移行は間近であると述べていたそうです。
この映画が作られ始めた66年は4000万人(?)の死からまだ数年しか経っていません。しかし、映画のどこにも悲劇の痕跡はなく、希望だけが語られていたのです。やがて僕は遠くから聞こえてくる文革のニュースに耳を澄ますようになり、共産党の独裁を否定する人民の共同体(コンミューン)が生まれるかと期待を寄せたりしました。
文革に疑問を持つようになったのは残留孤児の帰国が始まり、都立高校の定時制に二世の生徒たちが来るようになってからではないかと思います。誘われてハイキングに参加したりしているうちに、日系人の受難に関わる話を聞いたりするようになったのです。
岩波書店は、『事典』の中でこそ大躍進についてこのような記事を載せていますが、その膨大な出版活動ではどうでしょうか。『事典』の中でこんな記述をしているなんて、よっぽど関心のある人でないと知らないでしょう。僕は同じ学校に勤めていた忠幸さんに教えられて初めて知ったことです。
岩波の発行する月刊誌『世界』は大躍進も文革もそれを積極的に評価し、日本の知識人に影響を与えてきたメディアですが、その舞台裏の人民の受難について何かを伝えているのでしょうか。気づいた方は教えてください。『世界』の前の編集長が、金日成の談話やそれをたたえる美濃部亮吉都知事などの記事は載せても、世の中の人が普通に疑問に思う事にはふれないということを知って以来、僕は長い間この雑誌を読んでいないのです。
驚いたことに、その編集長は、植民地統治をしたことのある日本人は朝鮮の政治を批判する資格が無いと言っていたのです。韓国の「独裁政治」に対しては容赦のない批判を繰り広げていましたから、言っていることのつじつまが合っていません。中国に対してはどうだったんでしょうか。同じようだったかもしれません。
60年代から70年代にかけて僕に影響を与えた日本のメディアや学者たちのほとんどが、いまだに中国共産党に遠慮してか、真実を追究する努力を放棄しているようです。なんで「中国社会のタブー」に日本のメディアや学者が同調しなくちゃならないんですか。浮かばれないのは中国の民衆です。本当にこんな事でいいのでしょうか。
オリンピックが近づくにつれ、「日中友好」の声が高まるに違い有りません。それはそれで結構なことですが、中国では今も共産党の独裁が続いており、ひとびとに真実を追究する自由がないこと、人権を確立するたたかいで数知れないひとびとが獄中にあることなど厳しい現実に対する想像力を失わないでいたいものです。そのためにも、僕にとって、身近に住む中国から来たひとびととの交流を深めることはとても大事なことなのです。僕はそういうことこそが「日中友好」の内実だと思っています。
うちの親は、たしか「大躍進」時代にアジアの某国で当時の中国の中堅幹部と会い、「土製高炉でそんなに製鉄ができるのか」と訝しく思ったと(後になって)いっていた記憶があります。うちにも「人民中国」だったか「中国画報」だったか忘れましたが、奇麗なカラー写真がたくさん入った雑誌が、いくつか送られてきていたように思います。それは、その15年後くらいに見た「朝鮮画報」と同じような印象でした。
しかし、物心ついた頃から「文化大革命」が始まっていたので、そのおぞましい姿(三角帽子・ジェット機姿勢など)に拒絶反応がありました。当時輸入されていた人民帽は、安かったし作業時に便利だったので、中国製の万年筆「HERO」とともに愛用していましたが、あの「文革」での「修正主義分子連行」の姿からは、戦前の天皇制政府が、共産党の被逮捕者を、菅笠をかぶせて腰縄付きで連行する姿を連想していました。
学者の中には、いろいろと「文革」を賞賛する方々もいらしたようですが、あの「三角帽と市中引回し」を見た当時の庶民の大多数の素朴な受け止めはそういうものだったように思います。
89年の天安門事件を受けて、「干渉を受けた文化大革命時代から、中国共産党がいかに反民主的であるかは、骨身に沁みていた」と、これを厳しく批判していた某政党も、いつの間にか中国は「市場経済を通じて社会主義をめざす」国であるとして、その「遅れた側面」にも、好意的・同情的な姿勢をとるようになってしまいました。残念なことです。
「人災」といえば、中国政府が発表している炭鉱での事故による労働者の死亡者数は、ここ数年減ってはいるものの、6・7千人から3千7百人台(昨年)で推移しています。一つの産業で1年間にこれだけの労働者が死ぬということ自体、いくら人口が多い国でも異常だと思えます。基幹産業の健全な育成のテンポを超えて、経済成長を進めている歪みの表れだとしか思えません。それでも、「成長のテンポを緩めて、人民の安全を最優先にする」とはいわないのです。
世界同時株安で「政府がいっていた『調和政策』はゴマカシだ」と憤る「市民投資家」の姿を、一昨日のテレビで見ましたが、あれは資本主義社会の姿そのものだと思いました。関志雄さんなどは、「中国が発展したのは、社会主義市場経済が発展したからではなく、資本主義がいっそう進んだからだ」といっています。
メディア・リテラシーということはたしかに大事ですが、現代ではこれだけ豊富な情報が提供されているのですから、「事実誤認」を維持する方がむしろ困難だと言えるでしょう。それは、「多様な考えを認める」という「考え方」の問題だというよりは、事実に誠実に対応するという、いわば民主主義の共通の前提の問題だとは言えないでしょうか。
先日の定期受診でも、日本名で呼ばれた年配の婦人患者が、待合室でその娘さんとおぼしき人と終始中国語で話していました。「僕にとって、身近に住む中国から来たひとびととの交流を深めることはとても大事なことなのです。僕はそういうことこそが『日中友好』の内実だと思っています。」というけいすけ先生の言葉には、まったく同感です。
あのサイトは見たのですが、「西村さん」という認識がありませんでした(「けんちゃん」しか頭にありませんでした」)
けんちゃんの「異種の考えを認め尊敬する社会の構築を」についてですが、「唯一絶対と信じていた当時の革命主義(毛沢東主義であるとかブント)が間違っていたということでしょうか。」とあります。
赤い毛語録を振りかざした人たちに、高校時代から殴られていた私にとっては、当時の「三角帽とジェット機姿勢での市中引回し」に異常感を懐かなかったことを、思想のせいにしてほしくはありません。当時の素朴な庶民の受け止めは、あれを「正しい」というものではなかったと思います。
問題なのは、そうした庶民の即自的な受け止めが、たとえ「ブルジョアマスコミ」に「洗脳」されているものだったとしても、その感性への相続力を欠いていた「思想」の持主のあり方に、もっといえば、その非民主性にあったと思っています。
私とて、「つくづく青少年時代を振り返り、間違っていたと思う」ことはたくさんありますが、信奉していた思想自身の間違いだったとは思っていませんね。自分の理解が、とても浅かったという認識なのです。
それと、肝心の言葉が誤植、「相続力」ではなく、「想像力」です。
>私とて、「つくづく青少年時代を振り返り、間違っていたと思う」ことはたくさんありますが、信奉していた思想自身の間違いだったとは思っていませんね。自分の理解が、とても浅かったという認識なのです。
そのあたりが私と違うところです。
わたしは早熟な政治少年でした。中学時代に日本語の北京放送を聞いていました。文化大革命に憧れ「人民中国」という雑誌も取り寄せていました。
田舎町に私が中学生の頃ですので、1968年ごろ、ちょうど40年ほど前に、日中友好協会の展示会を農協会館でしていました。中国の物産とともに当時の中国の映画を見ました。
インテリは農村へ下放する。とか言うテーマで高校生や大学生がトラックに乗り、農村で農作業をしに行くストーリーでした。そのほか1964年だかに中国が原子爆弾を開発した映画もしていました。
係りの人たちは日本共産党山口県委員会だと言っていました。「君も革命戦士ににらないといけない」と言われたものでした。
ベトナム戦争や公害問題などもあり、毎日テレビや新聞を見ていまして、社会科学系の本を読んだりしていました。特にだれかに影響を受けたとは思いませんでした。
最近になって「一元的な思想ではなく、異論を認め尊重する社会にならないと平和は保てない。」と真剣に思うようになりました。
それは「社会を解放する思想や政治集団」なのに、結果として人々を支配し、抑圧するしくみにはなっていたのではないか。
毛沢東思想もブントも対立していた共産党なども、多少の違いはあれど、異論は認めず排除し、人々を支配する排他的な思想ではないのか。そう思います。
今日は宗教の原理主義が台頭しています。イスラム教、キリスト教、ユダヤ教なども原理主義では妥協の余地がありません。相手を許容しなければ永久に争い続けないといけないのです。
毛沢東思想もブントも対立していた共産党なども、多少の違いはあれど、異論は認めず排除し、人々を支配する排他的な思想ではないのか。そう思います。
今日は宗教の原理主義が台頭しています。イスラム教、キリスト教、ユダヤ教なども原理主義では妥協の余地がありません。相手を許容しなければ永久に争い続けないといけないのです。
去年は体調不良もあり、仕事を離れ読書をしたり、考えたりする時間が多少ありました。「ローマ人の物語」も全巻飛ばし読みですが読みました。ローマ人は征服地には寛大であり、宗教や民族的習慣も尊重した。属州にも本国と訳隔てなく公共施設を建設した。という歴史的事実を知りました。
過去のイギリスやアメリカ、日本などの帝国主義の小ささ。ロシアや中国の覇権共産主義の間違いに気がついたと思います。自分の思想回路に、他人を無自覚に抑圧してしまう考え方が忍び込んでいたと思いました。
学業を疎かにし、高校も卒業できず、大学でも殆ど授業を受けずに打ち込んだ社会運動が間違いだったと認めることはとても辛いことでした。
でも他人の言い分、考え方に根気よく耳を傾けることは悪いことではないと思います。最近いままで見えなかったことが、見えるようになったのではないか。そう思いますから。
長文失礼いたしました。けんちゃんこと西村です。
ここは「他流試合」の場ではないとは思うのですが、けいすけ先生が当面私が論評の対象としている「西村さんの意見」に全面的に賛成だとおっしゃったために、成行きでもう少し、語らせて下さい。
どの思想、あるいは自分独自の(まったく独自の思想というものは、おそらくありえないでしょう)思想を持つかどうかということは、各人の最も基本的で絶対的な自由に属することですから、ある人がかつて「信奉」していた思想を完全に捨て去ることをとやかく言うつもりはありません。
ただ、それが「共産党」(常識的に考えて、現在の日本共産党がその理論的基礎としている「科学的社会主義」を指していると考えてよいでしょう)の「思想」も同じだ、と十把一絡げにしていわれる時には、その点について一言言っておきたくなるのです。
仮に、これを広く「マルクス主義」だと考えてみると、毛沢東思想は、「現代のマルクス・レーニン主義が到達した最高の発展形態である」と、その信奉者らは主張していたように記憶しています。その規定が後から「間違っていた」と認めることがどんなに辛くても、認められたことには敬意を覚えます。しかし、当時からその規定を認めていなかった人たちにまで、自分の「誤り」と同じ誤りをしていたと指摘するような、雑な考えはしてほしくありません。
また、「ソ連・東欧の崩壊」が起きたからといって、それは、「マルクス・レーニン主義」を指導思想として標榜していた政権党が、人民からその抑圧的政治を糾弾されて政権から追われたというのが本質であって、「マルクス・レーニン主義」が「思想」として誤っていたことの証明になるのかどうかは、そんなに簡単なことではないはずです。既に、歴史学の分野では、「資本主義社会」という経済的社会構成体の性格規定は、ほぼ共通の認識になっているように見ているのですが、それまで「誤りだと判った」というところまで、行かれるのでしょうか。あるいは、人間の思惟とは独立の客観的な存在の実在を承認する「唯物論」の立場まで、「誤りだと判った」とされるのでしょうか。
ところで、私が「一言言っておきたくなる」のは、こうした立ち入った議論ではありません。
私が言いたいのは、あの「文化大革命」当時から、日本の一般の民衆の受けとめは、「三角帽を被らせてジェット機姿勢で市中を引き回すなど、あまりにもひどすぎる」というものでした。
そうした、日本の多くの民衆の受止め方に対して、毛沢東思想を「信奉」していた人たちは、どのように見ていたのか。
はっきり言えば、「資本と権力のマスコミ操作に踊らされて盲目となった愚かな人間だ」と、蔑んでいたように思います。「毛沢東思想とは、マルクス・レーニン主義とは縁もゆかりもない、極左日和見主義分派思想である」と批判していた人々に、「日共宮本修正主義集団」などと悪罵を投げつけていたのも、記憶に新しいところです。私は、この民衆蔑視の感覚は、実はファシズムの裏返しの感覚だと思っているのです。2005年9月の小泉「郵政民営化」選挙で自民党が圧勝した時にも、「政治的意識の比較的高い人たち」の間から、「日本の民衆の多くは馬鹿者だ」という形で、この感覚があちこちで噴出しました。この「感覚」の持主の反民主性・非民主性を改めない限り、日本社会の民主主義的発展の展望は出てこない、と私は思っています。
ヘーゲルは、「存在するものは合理的である」といったといいます。マルクスはそれを逆転させて、「存在するものは合理的であらねばならない」といい、哲学を社会変革に結合させたといわれています。
私は、マルクスの意図はともあれ、ヘーゲルが言った命題にも、真理が含まれていると思うのです。つまり、「存在するもの」がどんなに自分にとって不都合なものであっても、必ず、それを「存在」させているところの客観的な根拠がある=合理的だ、ということです。
ただ、その「存在させているところの客観的な根拠」それ自体が、万古不変なものではなく、矛盾を内包して発展していくものである、だから、その矛盾の構造を人間の思惟の力で客観的に把握し、その「発展」に自ら能動的主体的に関わっていかねばならない、マルクスはそれをいったのだと思っています。
では、これを「文化大革命」に対する日本の多くの民衆の受けとめに適用したときに、その「矛盾」はどのように把握されるべきだったのか。現在から見る限り、その肯定的側面の中核に、「どんなに思想的に正しくないと思う人であっても、あのような『糾弾』の仕方をすること自体が、人間の尊厳に反する」という、民主主義の根本思想の素朴なあり方があったことは、容易に見て取れるのではないでしょうか。
「毛沢東思想が誤っていたと判った」というとき、この点をさりげなく「通過」して、他人事のようにあれこれ実際の不合理な「事件」をあげつらう人たちに対しては、私は、「誤っていたのは『思想』ではなくて、ご自分の認識ではなかったのですか?」と、どうしても「突っ込み」を入れたくなるのです。
もとより、毛沢東思想の「非民主性」はご指摘のとおりでしょう。しかし、その「誤り」は、歴史の検証の中で、日本では、比較的短期間に明白になっていたはずなのです。それは当時からいわれていたことです。
もちろん、いまの日本共産党に対して、日本の民衆の受け止めがかなり厳しいものであることも、同じように分析できますが、結論は同じではありません。それは「偽装請負」「生活保護申請拒否餓死事件」のいち早い告発にも見られるように、「非民主性」で全面的に塗り潰せるものではないと思うからです。むしろ、いまの共産党は、ファシズムの危険に対して広範な民衆の協力共同を実現する上で、ひじょうに狭い一致点を押しつけるセクト主義・例えば「社民主要打撃論」とでも言えるような政治的観点に、その「誤り」を指摘できるように思っています。その「誤り」を内部的に是正するシステムが整備されていない点で、「民主集中制」が問題であることも、そのとおりであると思います(「さざ波通信」はご存知ですか?)。
しかしそれらは、けっして思想的「一神教」などというレベルで雑駁に概括されるような事柄ではないと、考えているのです。