バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

心を合わせ、祈りに専念する

2017-05-28 18:33:31 | 礼拝説教
2017/5/28礼拝説教
【テーマ】  祈り込む
【説教題】 「心を合わせ、祈りに専念する」
【聖書箇所】 使徒1:12-14
  1:12 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。
1:13 彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
1:14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

○ 新中野キリスト教会は祈祷会を大事にしています。木曜日の祈祷会では、仕事や家のことで出席できない方が多いので、月一の日曜日のリバイバル祈祷会、有志祈り会をもっていますが、その他にも自主的な祈りのグループが次々にできていることを感謝しています。皆さん、心を合わせて、祈りに専念してくださっています。

Ⅰ.屋上の間の祈り
A.危険なエルサレムだが
1.イエス様に言われたとおり、弟子達はオリーブ山からエルサレムに戻りました。そして、ここに留まって祈って待つことにしました。もともとガリラヤの人達でしたから、エルサレムではイエス様の弟子になった人達のところに泊まっていたのでしょう。
2.そこには「屋上の間」というのがあったので、わりと裕福な人の家だったかも知れません。命を狙われる危険なエルサレムではありましたが、色々なタイプの人がたくさんイエス様の弟子になっていたのです。

B.安心できる家
1.高槻で私が信仰を回復しようとして再び通い出した教会が高槻キリスト教会でした。そこは私もよく知っている古い「にこいち(二軒長屋)」の借家でした。この小さな家の持ち主はS教会の信徒さんだったのです。その方が安い家賃で貸してくださったので、伝道所ができました。そこに私も導かれたのです。
2.このようにエルサレムにいた信徒が家を貸してくれたので、弟子達は安心して祈ることができたのでしょう。キリストのために家を貸してくださる方があることで宣教の業が広まったといってもよいかと思います。

Ⅱ.心を合わせる祈り
A.試練によって心をひとつにした
1.エルサレム入城の時には誰が大臣になるかというようなことを思い、自分のことばかり考えているような弟子達でした。そんな彼らがこの場面では心を合わせることができるようになっているのです。
2.イエス様の十字架は弟子達にとっても大きな試みでしたが、このことでバラバラな気持ちが一つになっていくのです。試練は辛いですが、神の前に立つにふさわしく変えられていく大事な時でもあります。
3.教会も試練が押し寄せると普段の祈りよりも心を合わせるのではないでしょうか。

B.何を祈ったのだろう?
1.イエス様のおられない中で、彼ら11人は12使徒にするためにくじ引きをしてマッテヤを使徒に決めました。つまり、この屋上の間には他にも弟子達がいたということです。この使徒を決めることに関しても彼らは心を合わせることができたのです。
2.12使徒と他の弟子達、イエスの母マリヤを含む女性達が共に祈りをしました。どのような内容のことを祈ったのか知りたいところです。何しろ10日間あります。「主よ、来てください」だけの祈りではないはずです。「ユダの後、誰を使徒にしましょうか?」「マッテヤに決めました」「マッテヤを祝福してください」と、どんどん続いたことでしょう。
3.祈りの言葉の内容はわかりませんが、彼らの祈りの素晴らしさは心を合わせたことです。心を合わせる祈りはとても重要で大きな力を持っています。祈祷会が大事なのはこういうことです。

Ⅲ.専念する祈り
A.祈ることが中心の10日間
1.10日間、彼らは 祈りに専念していた のです。祈りに専念するとはどのような状態でしょうか? この間にマッテヤを選んだりしているということは、祈りだけでは無かったでしょう。話し合いをし、イエス様の言葉をみんなで思い起こし、語り合ったことと思います。つまり、分かち合いのようなこともしたと思います。
2.しかし、やはり何といっても祈ることが中心です。天に帰られたとは言え、彼らにはイエス様はいなくなった方ではないのです。見えなくても共におられることを実感して、このイエス様のお名前を通して父なる神に祈ったのです。

B.神を思う10日間
1.祈りに専念するとは神との時間をたくさん持ったということです。それは、神様を思い、神様を賛美し、御言葉からみこころを追い求め、感謝をささげ、願いを言い表していたのです。こうしたことに集中したのです。
2.なぜ10日間が必要だったのかわかりません。神様にはそういう時間は関係ないのですから。弟子達の側にイエス様が見えなくてもおられるという現実の中で10日間を過ごす必要があったと思うのです。彼らにこそ祈りに専念する10日間が必要だったのでしょう。

★ 心を合わせるには少しの努力が必要です。祈りに専念するにも少しの努力が必要です。しかし、イエス様が祈れと言われるから私たちは祈るのです。すると・・・