限りある日々の記録

70代の生を前向きに生きて

三宅の友を偲んで-優しさ-排除しない-共生

2017-12-07 09:06:33 | 日記

三宅の友Nさんの旅たちて哀しみでいっぱいです。 でも そばにいるようです。

Nさんと出会ったのは半世紀も前でしょうか?三宅島で育ち家庭科中学教師として調布に赴任してきたのです。サ-クルで出会いました。

 「いい人いないかな。」と言われて「いるよ。二人 一人は背が低いが生き方が良い人 もう一人は音楽の先生でかっこはいいよ。」と言えばNさんは生き方のいい人を選んだのです。Hさんは、体育の教師 背は低いので中学生の中にいると見失うことがあります。身体からの威圧感がなく 生徒が からかっても 聞き流し体育の実技で見本とユ-モアを教えてくれていたのです。

 見合いの日 女子高育ちのNさんは、男性との会話ではすぐ固くなり 話が進まないのに気楽に話ができたと知らせてきたのです。翌日 速達で「交際したい」とHさんの手紙 Nさんからは、「好きとか書いてないから どうなの?」と 心配顔 翌日の速達ガ「好き」を証明しているのに焦っていたのです。数か月後 のみ夫婦の二人はめでたく結婚したのです。結婚式場で Nさんは鬘の日本髪が重いと 低い履物で 夫は高い履物 でも 宴が始まりました。婿さんも活動している体育同志会のメンバ-達の参加 それぞれの祝いの言葉 そのあと 嫁さんより小さいHさんの民謡の声が朗々と式場いっぱいに広がったのです。三宅島の嫁さんの父親が「娘はえらい 背は小さいがHを選んだことは大変えらい。」と式場で話されたのです。表面的な婿選びの中で 娘の選択を喜んだ父親の言葉が印象的でした。

 Nさんは同僚の保健担当教師の0才の保育園児が1歳過ぎても歩かないからと 保育園退園をせめられていたのです。0才児6人に担任Ⅰ人 保母は手がかかる子の退園を迫っていたのです。私の娘も同じクラスでしたから、「あなたは同じクラスなのに力を貸してあげないのか」と怒りの電話をかけてきたのです。「成長の遅い子がいたら災難のとき大変」排除の考えでした。クラスの6人の保護者達と納涼市民の相談のゆうべに行き保母の増員を陳情したのです。「入れただけでもありがたく思え」が市の答えでした。美濃部都政ができ保母の定員増がやっと実現したのです。弱者を排除するのでなく「この子らが世の光に」の言葉 誰でも老いれば障碍者 弱きものが生きていける社会こそ平和な社会と言えるのでしょう。

 三宅島には何回も行きましたが、半世紀前の訪問で驚いたのはた、牛乳のおいしさでした。丘の上で放牧された牛の乳の濃度は濃く甘いものでした。調布でも生まれたばかりの牛を三宅で育ててもらっていたそうです。三宅のNさんの母親のチヨばあちゃんがスイカを抱えて丘をどんどん登る体力にびっくりしました。30代の私はやっと上るのです。自給自足の島は有線放送で「○○牛が死んだ」と肉の欲しい人に知らせていました。雨水の使用 とれたての魚 海でのトコブシと自然の贈り物で共生でした。

 夜の星は手でつかめそう 浜辺の窪地に温泉がわきでています。照明のない星明りでスッポンポンになって温泉を楽しんだのです。若者の旅人が恥ずかしげにもじもじしていると チヨばあちゃんが「さっさとはいれ」と声をかけ 若き男たちも入り、自己紹介 みんなで輪になってチヨばあちゃんの民謡を聞いたのです。素のままになる島の自然と人達でした。

 三宅噴火で避難してきたチヨちゃんは「東京は刑務所 つまらない 三宅ならトコブシ取りに行くべや 天草取りに行くべやと声がかかるのに」と1日も早く帰ることを望んでいました。

 三宅島に軍事基地をと言われた時 チヨちゃんたちは村を挙げて反対したのです。安保と言うのは安全のためにと言うけど 憲法9条の上に安保条約があるみたい。三宅の人の生活や自治などお構いなし 適地とは 自然豊かな島で爆音をまき散らす適地ではない。

 三宅の自然と同じように沖縄の自然 人情の島を壊そうと辺野古基地を計画している安倍政権 沖縄の人たちの反対をつぶそうとする国家権力 でも 沖縄の自然を守ろうとする「さらばんじの会」退職したおじん おばんが普天間基地ゲ-トでピケをはっているのです。未来の子らのために 平和のために「いまが旬」と子育てを終え 時間が自由な年寄りが「新設基地反対」と 戦っているのです

 近くの公民館で「自分史の会」が行われ90代の方の「なんだか昔に帰っていくみたい。戦争は絶対だめ」の従軍看護婦の体験を聞きました。ここにも「今が旬」と生きている人がいるのですね。

 

 

 


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