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ブログ「かわやん」

森羅万象気の向くままに。

日曜新聞読書欄簡単レビュー

2010年02月28日 11時35分11秒 | Weblog
 今日は現在への不満を評者と同じ位置にいると感じた書から始める。とうしてヒステリックな社会なのかという点だ。そのカギは才能ではなく器量なのだ。そのことを説いたのが、福田和也『人間の器量』(新潮新書、680円)-読売ーだ。例の腰パン姿のオリンピック選手へのバッシングには驚いた。入場行進でならわかるが、カナダの空港に現れた彼になぜああしたバッシングが生まれるのか。私の分析では、われわれの世界は才能、能力主義の世界だ。無能な者は去れというわけだ。電子メディア時代になり一層加速した。コンセントもつなげないもの、スイッチすら入れられないもの、キーボードをたたけないもの。次々と除外されていく。電子が飛び交い交流するものは、そこでこうした除外したものへの視点などまるっきりない。私にもあるかもしれない。次の展開だ。画面に映し出される文だけで対峙、物事を判断する。一点集中する。人間同士のコミュニケーションが損なわれることはいうまでもない。それに匿名性が高じて、いままで感情の一部として当然処理されていたものが煽られていく。すぐたたき出す。キーボードで。それが日常生活でも出るからおかしくない。少し気にくわないものへの異常なバッシングがその代表事例だ。言葉の乱れもはなはだしくなる。言葉とは、若者言葉の乱れを言わない。相手を批判する言葉に節操を欠いていることだ。人間としての尊敬の念など感じさせないという意味だ。思慮深さということだ。よくこれほどひどいことを言うと思わず感じさせる場面によく出くわすようになった。発する人はその言葉の刺を知らないのだ。無言の相手にキーボードをたたく習慣が人間としての節操も奪いかけている。自覚すべき現代的課題なのだ。本書はそのことにふれているわけではないが、著者は人間の最大関心事は才能ではなく器量にあると説く。明治以降の日本人に求める。器量からまず見渡そうこの世をというわけだ。文明批評の書だ。評者は本郷和人。

 宗教関連の書では、藤本龍児『アメリカの公共宗教』(NTT出版、2940円)ー毎日ーがある。宗教社会学といわれる分野の若手研究者の注目の書である。ブッシュ大統領時代に耳にしたネオコンとキリスト教の結び付きはよく知られたことだ。カウンターカルチャーの隆盛による危機感は外交の中立的価値観外交を弱腰と責め、ブッシュ大統領の「悪の枢軸」発言を生む。福音派は宗教右派となりアメリカの政治に圧力を加えた。神と直接交われる「回心」体験を得られるとする流行は、千年王国説を奉じる原理主義を盛んにする。聖書批判に対しては聖書無謬説を唱えるのも原理主義だ。著者の主張はこうした多様な宗教の共存が「最大多数として共有され愛や救済よりも秩序や法を重視する、公共宗教への道を育んだ」(評者松原隆一郎)と主張だ。日本ではそれでは天皇制は公共宗教なのかとの疑問を評者は投げかけるのだが、公共宗教とは心の習慣ということだが、それでは儒教がそれだし、神道や仏教的日常的所作を求める年中行事や、そのおおもとは先祖崇拝に突き当たる。私がこの書で是非読みたいのは先住民であるネイティブ・アメリカンなのだ。そこがどう書かれているのか。近代化の中で蹴散らかされきたのではないか。そのことと、アメリカの聖書的伝統はどうした整合性をもっているのかということだ。

 おもしろい歴史書は文芸評論を書いてきた野口武彦『鳥羽伏見の戦いー幕府の命運を決した4日間』(中公新書、903円)ー毎日、日経ーだ。以下は毎日の書評から。鳥羽伏見の戦いでは新政府軍と旧幕軍双方で約400人の死者を出した。そこで野口が問うたのは徳川慶喜の人間像である。本意でなく旧幕府軍が京都を目指したとする渋沢栄一の説は無言の死者たちの悲哭に対する敬虔さが欠けると批判的視点から歴史研究に入る。いかにも文学者だからできる歴史への視角だ。慶喜は強そうな相手に恐怖を感じる指導者としてはとてもふさわしくない人物であり、旧幕府軍のおしとよしぶりは薩摩藩と接触したときに開戦に踏み切れなかった史実をあげている。ひとえに慶喜の指揮官としての卑怯さを問う。歴史に「もし」はないが、慶喜がもう少し勇気ある人なら天皇の政治利用も薩長中心専制体制もない、別の展開があったと。それは明治維新を評価しない妄想かもしれない。評者は山内昌之。日経は歴史の法則はなく「歴史は生き物だ」という立場に立つ野口の考え方を中心にまとめた書評だ。

 アマンダ・リプリー『生き残る判断 生き残れない行動』(光文社、2200円)ー日経ーは9・11テロで生き残った人と出会いから誕生する。生存者は意外にも経験を伝えてほしいと望んでいる。どう感じどうした行動をとったか。そこには生死をわかつ判断があった。現状認識を拒む「否認」という災害心理学の説明があるが、その「否認」から抜け出せるかがカギなのだ。貿易センターから2687人の社員を救い出したモルガン・スタンレー社警備主任モリック・レスコラーの感動的エピソードが紹介されている。レスコラーは上司の不満をものともせず地上まで歩いて降りる避難訓練を励行させてきた。テロ当日、レスコラーの指揮の下、社員はそれに従った。説得に応じない上司のためビルに上がり犠牲になったという。著者は災害報道で全米雑誌賞を受けている。評者は滝順一。

 まだなおわれわれは核戦争の危機から脱していないのを痛感させるのが、アミール・D・アクゼル『ウラニウム戦争』(青土社、2400円)ー日経ーである。ウランの発見から核分裂が起こるまでの歴史がまず書かれている。イレーヌとジョリオ・キュリー夫婦は核分裂を起こさせながら気づかなかった。物理学者マイトナーの協力でハーンが突き止める。ナチスドイツに留まり原爆開発に協力したハイゼンベルグの姿を先ほど公開された未投函書簡から明らかにしている。評者池内了。

 日経では小学館刊行の『伊藤若冲 動植物●(糸へんに采)絵 全30幅』が紹介されている。1999年から6年にわたり行われた大規模な修復に伴う科学調査による。裏彩色という手法は知られているが、どの部分を拡大しても絵になると言っていいという出版プロデューサーの弁が紹介されている。素材にも絵の対象で異なることもあげている。B4判で2分冊、5万円。

 後藤正治『奇蹟の画家』(講談社、1700円)ー読売ーは石井一男を描いた作品だ。名が知れてからも棟割り長屋に一人で住む石井を描くと同時に、石井の絵を愛する人たちも描く。
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金曜インタビュー I(アイ)女性会議なら事務局長垣渕幸子さん(下)

2010年02月26日 09時42分37秒 | Weblog
<form mt:asset-id="403" class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;">IMGP3798.JPG</form>


 ――奈良県では今年は男女共同参画社会推進奈良県条例制定10年の節目の年です。その10年間を検証し、これから10年の計画策定のために行動計画見直しがされますね。
垣渕さん そうです。この2月9日に発表された奈良県意識調査では、県内女性の就業率は30年近くも全国最下位を続けています。県は背景を探るために昨年8月にアンケート調査を行いました。その結果、「奈良の女性は『家庭に入って満足している』と思われてきたが、そうではなく、働きたいと思っている」と、男女共同参画課は調査結果を分析しています。この調査結果に対し、奈良大学の宮坂靖子教授は以下のように分析しています。

「自宅近くで育児・介護をこなせる職場を持つのは難しい。職場環境整備が不可欠。ただ、育児や介護は女性の役割という意識変革が必要だ」

教授の指摘のように、雇用政策や、子育て支援事業、介護の社会化、そして何よりも、あらゆる場でのジェンダー平等教育や意識づくりなど、多くの課題が山積しています。ならば、女性センターの縮小ではなく、女性のエンパワーメントの拠点でもある女性センターは拡充を、そして県は、女性政策の強化こそが重点的な課題ではないでしょうか。

 ――縮小という話しが出るのはおかしいですね。
垣渕さん 多くの女性たちは、女性差別撤廃条約や、男女共同参画社会基本法、同県条例に励まされ、女性センターの各種講座や事業に参加し、エンパワーメントしてきました。そして、ジェンダー平等の社会を願うようになっているのです。節目の年である今年は、なんとしても行動計画見直しに積極的にかかわって政策提起をし、この10年の事業を検証しながら、向こう10年の県行政の女性政策づくりにコミットし、センターの将来像、内容について女性の声を直接届けるようかかわっていきたいと思っています。
 
 ――今回の対応を人権の観点からどうとらえられますか。
垣渕さん 女性センターをしょうがい者施設に転用さす施策は、被差別者同士を相対立させる施策としかいいようがありません。私は、しょうがい者と共に暮らすことを否定はしていませんし、ノーマライゼーションの社会実現を願っています。しょうがいを持つ子どもの介護を担うのは多くの女性(母親)です。しょうがい者問題は女性問題であるととらえ、微力ですがしょうがい者問題に向き合ってきました。
山下力県議が、12月議会でこの件について知事の態度を質問しました。山下県議は「女性問題の取り組みの拠点にしょうがい者施設を割り込ませ、被差別者相互の利害を対立させかねない行政の手法は、差別行政だと断罪するしか評価のしようがない。同立地条件でしょうがい者施設の場所を探すべき。知事の所見を求める」と質問されました。知事は、「女性としょうがい者が対立することのないよう慎重に検討したい」と答弁しましたが、現実には何ら改善はみられず、当初予定通りに着々と計画はすすんでいます。
 こうした県の態度は、奈良市の男女共同参画センター・あすならにも飛び火し、2010年度であすならも廃止となり、女性センター機能を他の市の施設に移行する予算案が3月議会に提案されています。3月議会はそうした意味で山場です。市議会議員へのロビーングや市長との直接対話を模索しています。
 2010年は奈良の女性にとって大変厳しい年となります。男女共同参画社会の実現には大きな変化が必要です。変化を妨げている大きな力を変える力は、小さな変化の積み重ねです。一人ひとりは弱いですが、共感を求めて多くの人とつながり、「女性政策は、人権政策のバロメーター」と、小さな力ですが、その輪を今年もまたボチボチ広めていきたいと思います。

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300字コラム 「友の共同態」提起から15年

2010年02月25日 14時25分44秒 | Weblog
 昨年なくなられた今村仁司さんが『現代思想の源流』という96年に刊行された本の中で「友の共同態」ということを書いておられる。人類が目指す社会のあり様を提起されたものだ。
 
 今村さんの単著ではなく、フロイト、フッサール、ニーチェの解説する論者とともに書かれたマルクスの中でまとめで論じた視点だ。

「家族関係でもなく、利害中心の社会関係でもなく、ましてや幻想の国家共同体でもなくて、民族的、人種的同一性、あるいは市民的身分証明の要求すらない形の「友の共同態」をどう構築するか」と書かれてから15年になろうとする。

 根っこをどこに見出すのか。人間的な信頼だろう。市民的身分証明すらこえるというのだからすごい。亡くなられるまでの今村さんに思想の軌跡をたどることで、この高き理想に一歩でも近づくことができるかもしれない。
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 普天間基地問題でメディアの「ジョブ」パンチでへこたれるな

2010年02月20日 22時50分07秒 | Weblog
 普天間米軍海兵隊基地移設でメディアは「何をもたもたしているのか」と批判し、「連立での不協和音」と騒ぎ立てる。ひどい新聞では「社民が足かせ」という趣旨の報道をする言説まであらわれる。

 メディアが世論をつくるし、自社の世論調査で「鳩山首相は不支持率が上回る」と政治家を追い込む。

 そうしたなかで、平野官房長官は1月24日の名護市長選後に「民意とは思わない」発言をして予防線を張ったかと思うと、頻繁に沖縄を訪れ、今回の陸上案を小出しにする。どうも雲行きがおかしい。

 一方、鳩山首相は沖縄県外を模索を言い続けている。

 それでいいのだ。県外移設を確固とした方針で貫くべきだ。もし5月末にもまとまらないなら、延ばせばいい。それくらいで日米の信頼関係や同盟が崩れるはずはない。
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金曜インタビュー I(アイ)女性会議なら事務局長垣渕幸子さん(上)

2010年02月19日 10時40分43秒 | Weblog
<form mt:asset-id="401" class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;">IMGP3800.JPG</form>

  奈良県女性センターが生まれて四半世紀たつ。ところが今年4月からは1階部分が女性センターの活動で使用ができなくなる。男女共同参画社会推進の営み推進からすれば、同センターの縮小は確実に奈良県の女性政策の後退局面を意味する。センター機能の縮小に反対しているI(アイ)女性会議なら事務局長の垣渕幸子さんに聞いた。

― 奈良県女性センター一階フロアー問題についてですが。
垣渕さん センターは1986年に建設されたものですが、私たちは、1991年から、平和と女性の人権を一体的にとらえた「戦争と人権展」を毎年8月15日を中心に3日間、開くようになりました。これまで18回を数えた取り組みで、場所が奈良の中心街・東向き商店街にあり、一般市民が訪れてくれる意味で、不特定多数の人びとに私たちの思いを直接発信できる場として何よりも重要な立地条件の場所でした。
 ところが今年の4月から女性センター1階の多目的ホールがしょうがい者の雇用促進をはかる設備になると突然通知を受けました。2階以上は従来のまま女性センターとして使用されますが、1階は「戦争と人権展」など開けなくなるのです。今回のこうした決定は女性センターの縮小であり、女性センター利用者の声を聞かず県の独断で変更することは許されないと考えて、県の方針に異議を申し立てているのです。
 
――奈良県の方針についてどうとらえられますか。
垣渕さん 1点目としては、行政の財政危機から費用対効果ということでの判断が働いているのでしょう。人権施策の多くは意識改革が中心で、目に見えて効果がないと見るソフトの部分が切られることに危機感を覚えます。また、昨今、各地でも起こっているジェンダーバッシングの風潮と財政危機のなかで女性政策が切り捨てられることは許されませんし、何よりも平等への世界的な潮流を後戻りさせることはできません。
 2点目としては、昨年9月県議会で補正予算として事業実施額が決定されました。議会ではあまり議論がなく補正予算が可決されたことは、奈良県議会のジェンダー意識の欠如の表れとしかいいようがありません。

――議会での議論はどうだったのでしょうか。
垣渕さん 予算委員会レベルでは「利用者にとってはどうか」との質問が出たと聞いていますが、大きな反対もなく議会を通ったのです。県議会には女性議員が5人存在しますのに、誰一人ジェンダーの視点で県の政策をチェックできていないことがよくわかり、なんとしても残念なことです。
 さて、奈良県の方針の分析ですが、3点目としては、男女共同参画社会推進のためには拡充こそあれ、縮小など考えられないわけです。昨年10月27日に奈良県知事、奈良県議会議長宛てに奈良県女性解放共闘とI女性会議ならの2者で要望書を提出したのは、このあたりに首をかしげるからです。
県議会で予算措置で工事が始まるというときに要望書を出したのは遅すぎたのですが、私たちが、この決定を知ったのが10月中ごろだったのです。県議会で決定されるまでに、誰からも、どこからもこの情報が入らなかったことは返す返す残念です。私たちの願いがどうなるのか、先行きは見えません。
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 編集局からの手紙 夜間中学生の学びを奪う愚行について

2010年02月16日 10時06分36秒 | Weblog
吉田智弥さんの寄稿文では夜間中学のことをとりあげておられたが、大阪の波が奈良にもきたようだ。というのは、大阪で始まった就学援助費カットなどの夜間中学に対する緊縮財政施策が奈良にも及んだからだ。

しかし、近々始まったことではない。絶えず夜間中学の存在を軽視する行政側の発言、方針が相次いできた。御所市教育長の発言は新聞と吉田さんの指摘で知るかぎりの判断だが、「夜間中学の役割はほとんど終わっているのではないか」―①、「今、サロンになっている」―②、「交通費も出してくれ、食事も出て、遊んでくれる。これは学校ではない」―③と語ったという。

①は1966年の行政管理庁の「夜間中学廃止勧告」と相似形である。本当に役割を終えているのか。終えているなら在籍生徒はゼロのはずだ。歴史の悪しき繰り返しが40余年経てまた頭をもたげた。1978年の奈良・うどん学校公立化以降、奈良県内では計3校の公立夜間中学の開校、自主夜間中学3校運営という夜間中学運動の積み重ねられた歴史をまのあたりにしながら何をこの行政マンは学んできたのか。首をかしげる。
 
②は橿原夜間中学公立化の運動の中で、当時の橿原市長も同様の趣旨の発言をして批判を受けた。その非を市長は改めて畝傍夜間中学が開校したわけだが、20余年前の歴史をまた臆面もなく繰り返すことに、限りない失望感を覚える。


③では、本当に「遊んでくれる」と言ったのか。信じられない。しかし、ここに夜間中学を義務教育の一つであると認識していない本音が覗く。極めて醜悪な発言である。教育の専門家ならわかるはずだ。夜間中学は昼間中学校の二部授業として位置づけられ、学級増か分校かの形式で運営されている義務教育である。法の執行官である行政マンがまさかご存知ないはずはなかろう。

御所市の方針で在籍年数3年(最大4年)に変更され畝傍夜間中学生6人が除籍になった。「生殺与奪」という言葉は少し激しいが、夜間中学の教育的意味を理解しない市により切り捨てられたのだから、学ぶことを奪われ、夜間中学生として生きることを殺されたといってもいい。費用対効果で夜間中学教育が、生徒の学びが裁断されていいはずはない。こんな不条理、不義なことに黙ってはおれない。まずは支援団体「橿原に夜間中学をつくり育てる会」を支えねばならない。
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日曜新聞読書欄簡単レビュー

2010年02月14日 11時29分25秒 | Weblog
 日経、毎日、読売の3紙から紹介しましょう。文中敬称略

 まず、五木寛之『親鸞』上・下(講談社、各1500円)ー日経、読売ーは、これまでの親鸞像とは大きく異なる。日経の評者川村湊が書いているように、伝記よりはるかに伝奇といえるものだ。いかにも作家らしい。伝記の枠外におかれてきた登場人物が自由に登場するからだ。牛頭王丸、黒帽子、黒面法師などだ。それは作家がこの本で書いているように非僧非俗の親鸞の視点を徹底させたものだ。社会の最下層で生きる人々に支えられる生き方を描く。吉川英治、丹羽文雄、三國連太郎、津本陽、清沢満之、金子大栄、暁烏敏、吉本隆明などの親鸞との違いは、五木らしいといえるか。最下層の人々とともに生きる視点で書いた三國の作品との違いは最下層として登場してくる層の違いだろう。乞食の聖、遊女、遊芸人、狩人、悪僧、、印地打ち、牛飼い、傀儡、人買いなど多様だ。読売の書評では評者本郷和人が平安貴族が平等を知らなかった例を清少納言の「にげなきもの。下衆(げす)の家に雪の降りたる」の文章を紹介し、平等に気づいた鎌倉幕府御家人の僧との問答を紹介している。「私は領民から多くの税をとるが、仏は喜ぶだろうか。僧は答える。喜ばない。あなたはまず民を愛しなさい。同じことを北条重時が説く。民に納めさせた金品で仏事をしても、あの世のご先祖様は喜ばない」と。本郷はここに「罪」という言葉がでてくると次の文章を紹介する。「百姓をいたわれ。徳もあり、罪もあさし」。ここに平等という概念の発生を見て、その延長線上に親鸞と説く。本書の紹介ではないが、平等思想の歴史を読売書評では知ることができる。五木の『親鸞』は越後流罪までの親鸞を描く。続編が求められる。

 、傀儡などに関しては映画監督篠田正浩『河原者ノススメ』(幻戯書房、3780円)ー毎日ーがある。それは文献でさぐるのではなく、篠田が壬生寺に幕末に再建された「獣台」という狂言台があることをたしかめる探求の書でもある。「獣台」は門付けの放浪芸が定着した劇場の祖形と篠田はみる。なぜ表に出なかったのか。「排除された雑技芸」だからだ。排除されたものとは、卑視され、差別された雑技芸者のことにほかならない。篠田は洛中洛外図屏風での壬生寺を凝視する。3匹の猿が天井からぶら下がり芸をみせている。本物か、人間が縫いぐるみを着たものか。散楽の古いものには「褌脱(こだつ)舞」と呼ばれたものがあったと書く。「動物の骨や内臓を取り払った皮をかぶって、その獣のまねをする芸」(評者池内紀)だが、褌と脱の字をあてるところにも強烈な侮蔑と差別がみてとれると評者。そうした基層を求めた視点が縦横にあふれたのが本書であり、たどり着くのは、「錦着て畳の上の乞食かな」の句である。ススメルべきのテーゼとしている。篠田が「心中天網島」「写楽」などの作品をものにした内面のエネルギーは背負い込んだ芸能、人間の表現の源がここにある。篠田の集成ともいえる本かもしれない。

 評者佐野眞一が「これほど後味が爽やかなノンフィクションとは、めったに出会えるものではない」と称賛させたのが石村博子『たったひとりの引き引き揚げ隊』(角川書店、1600円)ー日経ーだ。満州から10歳で引き揚げ少年を描いたものだ。戦争の被害者という領域なら暗いイメージで書を開くが、ところがこの作品は違う。なぜか。佐野が書いているように、死と隣り合わせになり故郷を目指す少年の逞しさを称して、「少年が自分を信じ、他人を信じるところから生まれている」ところが最大のカギなのだ。だいたい混乱した満州から10歳の少年が引き上げるという話になると、読む側、話を聞く側は、優位さ、安逸さに、贖罪意識をもち、その作品、人と対峙するだけで対等な関係が損なわれてしまっている。つまり暗い気分がまず心を覆う。本書を開く前まで佐野はその気分にあったと書いている。しかし明暗を分ける分岐点がある。人間の信頼である。信頼があるか否かなのである。信頼が根本のところにないと人間関係は不安定になる。こうした一般的な意識ー贖罪意識、人間不信-のありようははじめから対等感が希薄だから克服せねばならないし、この書が迫る一番のところかもしれない。日露のダブルのこの少年は戦後、ビクトル\古賀というリングネームでロシアの格闘技・サンボの世界チャンピオンになり、柔道山下泰裕を指導した。日露スポーツの懸け橋になった生き方に人間の信頼を教える書だ。

 鶴見俊輔『言い残しておくこと』(作品社、2400円)ー読売ーは、鶴見のオーラル・ヒストリーである。「お前は悪い人間だ」と言われ続けて育った鶴見は、子ども心に「悪い人間として生きる」ことを選んだという。鶴見の「入門」であると同時に「集成」の趣をもつ構成と評者野家啓一は書く。注釈の充実は鶴見の著作の関連箇所が抜き出されているからだ。これは大変な作業だ。丸山眞男の限界についても語る。思想史的向き合いとして原爆を生んだヨーロッパ思想の限界にまで辿れなかったという苛烈な発言だ。今年88歳の「思想的遺言」にほかならないと野家は書く。

 秋山駿が隆慶一郎の3作を毎日で選んでいる。『吉原御免状』(新潮文庫、700円)、『一夢庵風流記』(集英社、700円)、『花と火の帝』上・下(講談社文庫、各680円)である。小林秀雄の弟子であった隆は小林が逝ってから作品を書いた。それが『吉原御免状』である。小林と歴史を見る目が違った。女の世界、社会の下層を生きる人々。小林が書かないものを隆は書いた。小林亡きあと。師への礼儀ゆえ、書いたのは60を越えていた。『吉原御免状』を読みその才能に秋山は歴史小説の魅力を知る。毎日の「この人・この3冊」から。

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『戦争と平和 朝鮮半島1950』

2010年02月11日 05時52分56秒 | Weblog
朴明林『戦争と平和 朝鮮戦争1950』(社会評論社)を読んでいる。

 670ページをこえる大著だ。この本で気づいたことは、以下のことだ。

 1つは序論がいい。繰り返して読むべき内容である。そこには南北朝鮮が和解と平和に向かう視点が強烈にあり、反北と親北という白黒の考えを排した普遍性に至ろうとする強烈な意志が全編にみなぎっていることだ。

 事実確認を怠り意見発表の研究は百害あって一利なしと言っていい厳しい先行研究批判がある。

 また、統一に向かう視点は、統一を目的論的に把握するのではなく、統一のために必要な課題を抽出しようとする実践的意味をもつ(37ページ)と書く。

 序論は朝鮮半島研究の総括的思考の原点ともいえる力作論文だ。

 翻訳では、原文の漢字語表現を韓国語のニュアンスを活かし訳していることだ。たとえば、北の動員についてのくだりでは、「牛馬匹」を「ママ」をつけて訳している(160ページ)。変に日本語訳していない。こちらの方が原文を正確に反映している。

 監訳者の森善宣さんは地名の表記のため何度も韓国を訪れたというから、渾身の訳といえる。

 出版社はよくこの大作を世に送ったものだ。

 
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300字コラム 出版界の不況は底なしか 「妙案」でしのぐのか

2010年02月09日 19時32分41秒 | Weblog
出版界の不況は、もう巨大な構造不況だ。だいたい本は読まないし、読んでも図書館が近年充実してきたからすぐ貸りられる。こうした傾向に対して、出版社は本の刷り部数を控えてしまう。当然、定価が高くなる。すると買う人が限られる。

出版界でいまおきているショックなことを聞いた。たとえば、4000部印刷しても、2000部しか製本しないというのだ。4000冊まるまる出して売れない場合、損失が大きい。だから半分だけ製本して、あとは売れ行きながめということらしい。

売れないとなると、製本代が助かるし、倉庫代が助かるというわけだ。著者は3000とか4000が流通していると錯覚しているが、本当はそうではないのだ。

ただ4000部印刷しているから、刷り部数はごまかしていないことになる。なんというせこい話か。せこくしないと生き残れないのか。ビジネス本、タレント本隆盛の折には、そういう手をつかい良書を送るしかないのか。

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鄭早苗さんを偲ぶ

2010年02月07日 09時53分44秒 | Weblog
 鄭早苗さんの叔父さんにあたる方とは20年以上も前から存知あげている。

 通夜の席で久しぶりにお会いしたが、鄭さんを「武士のようなこころをもった方だ」と評された。本当にそうだ。

 闘病中であってもそのことを微塵もみせられなかった。昨年、九州の歴史家の本をつくることになり、売り込みもあり先生に長文の推薦文を書いてもらった。病魔に襲われているなどまったく知らなかった。私のメールに送っていただいたのは依頼してすぐのことだ。

 結局、その出版社はだめになり、ついでほかの出版社にあたることになったが、私はその出版社とはルートがないため先生が動かれた。

 10月のワンコリア・フェスティバルでは「孫が生まれました」と紹介された。そして11月。済州島に私が滞在していたときに携帯電話で「本のことで連絡します」と掛けてこられたが、長電話ができないので、「帰国後電話します」と言って、一旦電話を切った。帰国後しばらくして電話をしたのだが、なぜか通じなかった。病に倒れられていたのである。

 それから1ケ月後、退院されたことも聞いたが、2月2日、上田正昭先生の宝塚市での講演会に出かけて、そこで先生のことをよく知る方に病状を聞くとかなり深刻なことがわかった。あまりにも知らないことが多かった。 

 しかし先生の生き方は自分の弱さをみせないということではなく、いらぬ心配をかけないということだった気遣いだと思う。そういう意味で実に甘えを排した生き方をされた。それは在日コリアンとして決して後ろ指をさされないという在日コリアン共通にある厳しい生き方であったと思う。
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後の祭りー朝青龍の引退:川瀬俊治

2010年02月06日 12時37分18秒 | Weblog
相撲ファンを自認するコラム子だが、朝青龍の引退には驚きもし、相撲協会の無策ぶりには腹だたしかった。

▼朝青龍の相撲には土俵に上がると、何といっても華があり、制限時間前に左手でまわしをたたく所作は、彼独特のものだった。感情を表にあらわすのも彼には御法度ではなかった。モンゴル相撲の勝者の舞いが体内から沸き立つことをとどめることができなかったのかもしれない。

▼土俵は浮き立つようにスポットがあたり、力士の肌がほんのりと赤みがさすように映るの中で、静から動に移るが、朝青龍は常に動であった。ただ、最近は場内の証明を明るくし、以前より土俵が浮き上がらなくなった。静と動の対比、明と暗のコントラストは次第に影を潜めた。それは動が、明が勝つ相撲界の趨勢と関連しているのかも知れない。その延長線上に朝青龍がいた。

▼そこで今回の引退騒動だが、識者の中で最もコメントで冴えていたのが、河内音頭の河内家菊水丸さんだった。『スポーツニッポン』でのコメントで、相撲協会が朝青龍の教育について、「高砂親方がだめなら、同じ高砂一門の九重親方に預けてやれば、ああいう暴走を食い止めることができたのでは」という趣旨の発言を載せていた。つまり協会の対応のなさにしびれをきたし。後の祭りだが、具体的な方法を提言されたわけだ。

▼厳重注意を重ねても結局、効果がなかった。それなら注意できるであろう大横綱千代の富士のところ、つまり九重部屋預かりにしてもよかったのではないかという話なのだ。

▼一門とかの係累を重んじる角界では考えられない発想だが、不出生の横綱ともいえる人物を何の対応もせず引退に追い込んだ責任は、朝青龍だけにきせられるものではない。横綱審議会も具体案を出していろいろいうのならいいが、横綱の「品格」、「品格」だけで済むとは私は思わない。

▼その「品格」だが、日本文化をわずか10年たらずで理解せよという方がまちがっている。徐々にしかわからない。形から入るのが日本文化の大きな特徴だが、その形からの様々な所作は習得した横綱である。相撲前の一礼。終えたあとの一礼。悪霊を封じ込める四股などなど。そうした形をものにして「品格」は円熟するなかで身に付けていくものだ。そのことと、日ごろの素行は別である。

▼別とは、条件を出して指摘できることだ。素行をただす人がいないといけないことを意味する。それがいなかったことが最大の失敗だ。ようは親方不在であったのだ。親方を差配する相撲協会が力不足だった。外部委員も第三者的ではだめだ。メデイアは本当に第3者的で無責任だった。なんとも残念な結果が朝青龍の引退ということになる。

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 日曜新聞読書欄書評簡単レビュー

2010年02月04日 23時11分11秒 | Weblog
 地方紙で読んだ読書欄と本日の新聞書評を含め紹介する。まずは日本の南と北の新聞書評欄から紹介しましょう。琉球新報と北海道新聞です。1月17日の読書欄からです。(文中敬称略)

 琉球新報では上原成信編著『那覇軍港に沈んだふるさと』(「那覇軍港に沈んだふるさと」刊行委員会、1575円)が目を引く。東京に根をはり平和運動を支援した上原の半生記を中心に編纂されたもので、県立二中卒業を目前に上京、電波関連技術を東海高等通信工学校で学び現在のNTTに入社、電話の末端機器開発に従事した。労働運動での活躍、平和運動の献身的努力はウチナンチュウとしてヤマトで生きる姿を強烈に示した。それは1956年の島ぐるみ闘争に呼応した東京県人会の結成や、「沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック」の代表世話人となり奔走(1983年)したことなどがある。評者の新崎盛暉が「生涯をほとんどをヤマトで生活しながら、ウチナンチューとしての自らの課題を主体的に受け止めて生き抜いている人は少なくない。それもまた、沖縄現代史の重要な側面である」と書いている。

 北海道新聞書評から。酪農学園大学ほか監修『食の安全は北海道から 1』(中西書店、1470円)は酪農学園大学食品流通学科で行われた「食の安全」をテーマにしたコープさっぽろによる寄付講座を収めたもの。「輸入食品の安全性確保について」「公衆衛生の観点から見た食の安全」など13回の講座に加えて「清算者から提言」と題したパネルディスカッションも加えられている。添加物のリスクと安全性との関係の基礎知識が得られる本だ(評者中館寛隆)。

 大川公一『無欲越えー熊谷守一評伝』(求龍堂、2520円)は道立釧路美術館主任学芸員五十嵐聡美が評者。無欲、無頓着で通した画家熊谷守一の本格的評伝。文化勲章も拒否描いた絵も「大概アホらしい」と言ってのけた人だ。97歳で1977年亡くなった。初代岐阜市長をつとめた父。裕福だった家庭。しかし3歳で実母から引き離される。そうした幼少期の苦汁も描かれる。青木繁ら友人からも恵まれたが、一向に絵を描かなかった。しかし後押しする人に恵まれた。瑞々しい作品を描くのは70代と評者は書いている。

 さて本日の読書欄だが、『週刊文春』最新号でもとりあげられていた荒川洋治『文学の門』(みすず書房、2625円)ー毎日ーでも紹介されていた。ただ週刊誌は詩人が書評しただけあり、文学がなぜ読まれなくなったかを荒川が渾身をこめて書いていると記述し、新たな知識欲の減退を探り当てる。ハウツーものの隆盛の背後に荒川は文学と知的関心の関係を読み解いてる。文学に困難な時代だからこそ文学だと、いささか自己撞着ながら結んでいる。毎日はその点、本の概要紹介に終わっているのは記者が書く24行の短評だから仕方がないのか。しかし荒川の最新作が取り上げられたのはよかった。

 毎日では2009年にダーウィン生誕200年で世に出た研究成果の1つとして、ダーウィンが黒人奴隷制度への関心を抱いてきたという内容の本、A・デズモンド、J・ムーア『ダーウィンが信じた道』(NHK出版、3255円)を紹介している。「動植物の進化、人間の進化のプロセスを説明しようとするダーウィンの脳裡に、黒人と白人の関係が、奴隷解放の問題がずっとあり続けたことを明らかにしたのだ」と評者(富山太佳夫)が書いている。進化論=ダウィーンの単純化は差別意識を逆様に植え付けてしまい、黒人奴隷解放とダーウィーンはなかなか結びつかない。しかし本書はダウィーンと黒人の関係を追い、妻の実家が熱心な奴隷制度の廃止論者であったことも紹介している。

 東京新聞はパット・セイン編『老人の歴史』(東洋書林、5040円)を載せている。老人の歴史をたどるこの本は絵画、文芸作品などから西洋の歴史をたどる。「古代ギリシャから中世末までは確たる悲劇であり、来世での幸せを祈願することで現世に耐えるもとの考えられていた」(評者川成洋)が、17世紀になると、次第に躍動的な老いおnイメージが形成される。20世紀になると社会保障の充実から老年期は単に重ねてきた歳月の長さを意味せず、個人の生き方を重視するようになったーと評者は紹介している。230余点おn絵画、彫刻、写真が載る。レンブラント、ミレー、ゴッホ、ピカソ、ゴヤの絵画作品も。そういえば本日早朝のNHKの100歳で現役の宮城県在住のおじいさんは、なんと電柱によじ登り防犯灯交換をしている姿が報じられた。朝5時に起床し、すぐ作業着に着替え、2合のご飯を毎日食べる。月1、2回は夜、防犯灯が正常化どうか点検に町内を自転車で回る。老眼鏡はいらない。すごい!

 東京新聞は長部日出男『「阿修羅像」の真実』(文春新書、819円)そ短評で掲載している。像のモデルを求めるこの作家は天平の世を生き抜いた1人の皇后を思い浮かべてその生涯をたどる。
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訃報 朝鮮古代史研究で知られる鄭早苗(チョン ジョンミョ  Chung Jyo-Myo)さん逝去

2010年02月04日 15時52分46秒 | Weblog
 朝鮮古代史研究で知られる鄭早苗(チョン ジョンミョ  Chung Jyo-Myo)さんが4日未明亡なられた。65歳。大阪市立大学 修士( 文学研究科 日本史学) 1973 (修了) 、朝鮮古代史研究で業績をあげられ、大谷大学教授をつとめられていた。在日コリアンとしての人権問題で市民活動を続けた市民運動家としても活躍した。著者に『韓国の歴史と安東権氏』、『三国史記』訳注 第4巻、『朝鮮三国と古代日本の文学』、『中国周辺諸民族の首長号』、『韓国・朝鮮を知るための55章改訂』など多数。数年前から体調を崩されていて、昨年11月に入院、一時退院されたが、回復しなかった。『韓国の歴史と安東権氏』(2005年8月刊 A5判 512頁 新幹社)は体調が思わしくないなか、500ページをこえる膨大な書を2005年夏上梓された。
 私との思い出は、九州・筑豊炭鉱の歴史研究の本をつくるため鄭先生が奔走され、11月に「本のことで話しがあります」と電話を受けたが、ちょうど韓国にいたので「帰国後電話します」と返事をして、詳しい連絡をとれないままになっていた。元気でおられたので、突然の訃報に驚いている。
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