ブログ「かわやん」

森羅万象気の向くままに。

ナ・ホンジン監督「追撃者」について

2008年02月29日 13時47分17秒 | Weblog

「追撃者」の観客総員数が200万をこえたという。28,29日の韓国インターネットサイトを見ると関連記事が多い。

やはりそうかと納得した。映画を終えて若者に「面白しろかったか」と聞くと、「面白い」と即座に答えていたが、2月興業は正月興行ではないあまり陽が当たらない上演なのだが、すごい。

映画評に「法律で守られることがない人たちに光りをあてた」とあった。韓国で「ソンメメ」ということばがあり、最初何のことかわからなかったが「性売買」である。その世界を描くのだから、また殺人魔の事件だから、家族連れで観る映画ではない。

観客動員でも心配されたのが、このヒットというわけだ。単なるスリラー映画ではない。韓国社会の闇を描く作品だ。

悪人である「ソンメメ」手配師(キム・ユソク)が殺人魔(ハ。ジンウ)を追いかける。それに警察官僚のぶざまな姿が映し出される。行方不明の女性(ソ・ヨンフィ)の子ども(キム・ユジョン)がこの作品のカギだ。

これらのヒントは2006年に逮捕された死刑囚の事件に隠されたテーマでもある。

それにしても34歳のナ・ホンジン監督はよくやった。初めての長編作品だそうだが、スターを使うわけでもなく、制作費をとるわけでもない。宣伝をするわけでもない。良い作品には人が集まるのだ。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

韓国映画は健在

2008年02月27日 21時54分35秒 | Weblog
 2006年だったと思うが、20人以上の女性を殺害した「韓国の殺人機会」と呼ばれた現在死刑囚として服役している男性の事件がドラマの基本にある。

 しかしその死刑囚の事件を報じた日本のニュースステーションは非常に根源的な問い掛けをしていた。神と女性の問題である。

 ベトナム戦争帰り以降生活が荒れた父から暴力を受け、ママ母からも疎んじられた彼は、家を出た母を探しソウルの町をウロウロする。僅か5歳の時だ。しかし父に引き戻されるが、父が亡くなってから性格が明るくなり、成績も上がる。

 絵の才能がずばぬけていた彼は美術高校進学を希望する。しかし色覚異常であったため、高校は合格できなかった。以降、信じていた神(キリスト教)からも裏切られたと、事件判決のとき法廷で握りしめていた十字架を折る。

 こうした場面で構成されたニュースステーションは神との問題、そして絶対的な女性を求める心性など、実に根源的な問いをつきつけ、その問いが無惨にも狂気の行動に結びつく展開で報じたのだ。「神は見放すから」、教会近くの資産家を惨殺し、絶対的な女性信仰が「汚れた」女性とみる風俗嬢を次々と虐殺していくことにもなる。彼女らの人生のことなどどうでもいいのだ。本当に韓国であった事件なのだ。

 この事件をベースにした作品が「追撃者」である。いま述べた事件の事実で重要な点は「神」との関係であり、女性との関係である。この2つは映画に盛り込まれている。そういう意味では根源的な問いを発した映画だ。

 ソウル市の龍山駅上に建つ映画館。26日火曜日の夜だったが、観客は満員。アクション性からも根源的問いを投げかけている点からも、また警察の官僚制を皮肉る描き方も一級作品だ。多分今年の韓国映画の№1を争う作品ではないか。殺人犯を追撃する男性は元警察官で、いまは風俗嬢を送る手配師の役だ。彼の熱演は特筆ものだ。ソウル市痲浦区の下町を追い駆け回るアクションシーンはすごい。ひさしぶりに良い映画を観た。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2007年2月アクセス№。3記事-6者協議合意をどうみるか

2008年02月26日 09時35分33秒 | Weblog
6者協議での合意を伝える日本の新聞は、その内容のものを否定する論調は見当たらなかった。この報道論調の足並みのそろいは珍しい。つまり6者協議の合意の枠組みそのものは否定できないからだ。

ただ米朝の直接協議(対話)にはほとんど提言しなかったメディアが、今回の合意に至る前段からのアメリカの対応に何ら意義を申しだてするなりしていない。なぜこれまで提言するような社説を展開しなかったのか。アメリカが変われば日本も変わるという政治的状況が変わるのはわかるが、言論までそうなるのは本当にわからない。今回の6者協議合意でメディアの足腰の軟弱さに驚く。

さらに拉致問題に主軸をおいた社説(産経、毎日)が目立つことだ。拉致問題の解決なくしては日朝正常化なしーという原則は日朝関係を規定している。だから今回の支援に日本は加わらなかった。このことが日本の孤立化に結びつくなどと筆者は思わない。しかし朝鮮半島問題に今後どう対応していくのかが拉致問題の取組み以外の視点が見えない。はたしてそれでいいのか。

14日の「ハンギョレ」社説ではこう主張されている。

「南北関係も会談の進展に歩調をあわせて前向きに検討する時だ。先に南北当局者会談が開かれなければならないし、 北朝鮮への困難にある経済事情に相応する人道的サポート再開も考慮しなければならない。南北の間の各種経済協力もこれからは核廃棄以後まで眺めながら新しい次元での枠組みで取り組む時だ。不断の歩みで行う戦略的対北政策が要求される」

「ハンギョレ」がいう戦略的対北政策とは統一を見据えた政策である。日本の戦略的政策も朝鮮半島の統一を見据えるもので望むべきなのだが、これがまったく見えてこない。そこが「核廃棄以後まで眺めて」の先にあるものだろう。その論議がまったくない。

外交とは国益にかなうものとして展開されることは言うまでもない。拉致問題の解決は日本の主権の問題として当然国益にかなうものだし、拉致被害家族の高齢化を考えれば一刻も早く解決の道筋を示さねばならない。一方、朝鮮半島の統一を見据える戦略的施策、思索が求められ、憲法問題もリンクされるだろう。

問題はこれからである。合意は2段階に分かれている。共和国(北朝鮮)が寧辺の核施設を60日以内に閉鎖・封印し、国際原子力機関(IAEA)の査察を受け入れることを明記し、この実行で重油5トンが提供されるーというものが第一段階。次段階では重油95万トンに相当の追加支援が行われることになる。つまり重油合計100万トンというエネルギー支援である。

ただこの初期段階のエネルギー量支援量は北朝鮮がこれまで過去の交渉で示していた量に比べれば極端に低い。それよりもアメリカとの外交関係樹立のための協議が始まり、アメリカがテロ国家指定解除と対敵国通商法適用終了の作業が開始されること、日朝交渉の作業部会が開始されることの重要性をとったとみていいだろう。

結論から先に言えば、第2段階目が問題なのだが、60日後、つまり4月下旬、日米韓の3国とも選挙の季節のまっただ中にある。もし初期段階での履行が見なければ、また6者協議は後戻りする。まず初期段階の履行であり、そして平行して朝鮮半島の統一を見据える戦略的施策、思考が日本で表面化せねばならないだろう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベイシック・インカムとは

2008年02月25日 09時09分35秒 | Weblog
 ラファルグの『怠ける権利』もラッセルの『怠惰への賛歌』も絶版で手に入りにくいご時勢で、ベイシック・インカムについて論じることは日本では時代錯誤?的雰囲気がある。「働かざる者食うべからず」という勤勉思想は、21世紀に入っても不労所得なる用語が幅を効かせているくらいだから、ベイシック・インカムの市民権はなかなかである。

 そんな中でこの本は福祉社会をラディカルに再構築する提言が盛り込まれている。不本意な雇用関係にある人が社会的に排除されるとの悲劇はわれわれ幾度も報道で知っている。その解決方法としてベイシック・インカムがあるのだ。「ベイシック・インカムによってミニマムの所得が保障されれば、自らの意志によって自由に仕事を選択できるし、ボランティア活動など雇用の場以外で自らの役割を見いだすこともきできる」という朝日新聞読書欄の評者の見解はベイシック・インカムの基本。しかし、さまざまリアクションを生む。フリーライダー(ただ乗り)の発生、ジェンダー解放からは男性依存から女性を解放する、新自由主義者は最低賃金保障など考慮せず市場の自由な調整が可能だーなどのさまざまな反応だ。これまでの差別解消の日本の施策での何度も登場した経験をわれわれはもつ。

 こうした反響が予想される困難さを裏付ける根拠はベイシック・インカムの財政的保障。著者はなんと税率50パーセントの消費税に求める。「勤労所得税や法人税は、経済的富を生み出す過程に対する税全廃する。その一方、消費は経済的富を消失させる過程であるから課税さるべきだ」(評者)というのが著者の論だ。荒唐無稽なのか、ラディカルなのか。

 著者はヨーロッパ全土でドラッグストアーを運営する創業者として知られる。近年、カールスルーエ工科大学教授に就任した異色の経歴をもつ人。なぜベイシック・インカムに興味をもったかの問いには「ゲーテとシラーの世界に触れたから」とだけしか答えていないという。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「乗りなはんな」というせき立てる言葉

2008年02月24日 10時14分11秒 | Weblog
 「そんなところで乗りなはんな。はよしなはれ」

 続いて「なにしてまんにゃ」ときて、「はよしなはれ」とガードマンらしい人が西洋人にまた言っていた。

「あんさん、言葉が通じまへんがな」と私はつぶやいた。

「乗りなはんな」なんてややこしい関西弁は若者でもわからない、「乗りなはんな」とは、「乗らないでください」の意味。これは外国人はわからない。

人は慌てていると、状況など一切無視。用件だけをとにかく伝える、あるいは行動するものらしい。

 だいたいの様子がわかる観光客はそそくさとタクシーに乗り、大きな混乱にはならなかったが、その方はさぞかし慌てられたことだろう。
 関西弁はどうもせき立てるのに最適の言葉かもしれない。そうカドが立たないからだ。カドが立たない言葉が日本語か。論争には向いていないのも特徴だ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

未来志向が問うことー、韓国新大統領に李明博さん就任に寄せて

2008年02月23日 09時34分28秒 | Weblog
 近々のことだが、ある大学に行き、そこで在日外国人問題を研究されている先生に以下のことを質問した。言語習得の問題である。「母語のマスターがないと、新渡日して日本語を学んでも中途半端に終わると聞いたが、本当か」という内容である。

 その先生は「そういうケースが多いし、前から問題化している」と言われるのだ。「現に、彼、彼女は上手に話しているではないか。問題ない」と表面的に見て判断されるものの、事態はそう甘くはない。文化的、歴史的用語を駆使しなければならない込み入った日本語の展開となると、ついていけないというのだ。

母語日本語として生れ育った在日2、3世の外国人、あるいは自国(ブラジル、中国、韓国など)での母語を身につけた子どもとはケースがまったく違うようだ。母語習得が中途半端な状態で来日した場合、ポルトガル語にしても、スペイン語、朝鮮語にしても、それらをしっかり学べるサポート体制が確立しないと、日本語も十分マスターできない。実は教育的課題と大分以前に浮上しながら、何ら手が打たれてきていない、という。

手放しの状態だから、母語も、日本語もうまくできない。結果として学校生活は面白くなくなる。やがて中学に行かなくなる。中学校不就学、義務教育未修了のまま就労していく子どもたちを生み出している現実がある。

日本は朝鮮の植民地支配で田畑、森林、鉱物資源を奪い、朝鮮の言葉を奪い、文化を奪った歴史を刻んだ。その反省はどう未来に生かされようとしているのか。言語習得の問題で新渡日外国人のこの母語問題に率先して取組みをするのが実は他ならぬ日本ではないのか。日本の植民地支配の反省に立った未来志向とは、直面する在日外国人問題に有効な方法、懸命の取組みを生むのが本当だろう。

25日に新たに韓国大統領に就任する李明博さんに対する日本側の答えの1つではないのか。しかし問題に関心すら向かないとはどういうことなのか。われわれは自らに限界、囲いを設けて、あまりにも固定化したイメージで居座り続けているのではないか。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本語と表現の授業

2008年02月22日 11時05分01秒 | Weblog
 まず表現力を磨くには読まないといけない。国語学者の斎藤孝さんだと「声を出さないといけない」というのだが、まずはイメージのふくらむ魅力的な文を読むことが大事だと痛感した。

 しかしあの作家の大江健三郎さんですら辞書を手元に置くというのだから、辞書を手元におくこともなく、日本語をさも駆使できるように考えるのは間違っているだろう。

 三島由紀夫さんは小学校時代に辞書を読んだという。辞書への限りない信頼と日本語への探求心は基本にないといけないと思った。

 それと古典をわれわれは読まないでいることだ。大西巨人さんが文芸誌「文学界」2008年2月号のインタビューで菊池寛が「古典を読め」と講演した内容を紹介している。「諸君、文学について何かを話そうと思ったら、まず極め付きの古典を千冊、一冊を三回読め。すると、諸君は、極め付きの古典を三千冊読んだことになる。そこで初めて諸君は、文学について発言することができる」と発言したそうだ。その菊池寛の講演を実施に聞いたというのだから。

 「古典をたくさん読まんといかんと思った」と大西巨人さんは語っているが、「三回読む」というのは正解だろう。中上健次さんは雨月物語の魅力を語り、中村真一郎さんは源氏物語や江戸の戯作者の作品の魅力を、藤本義一さんは西鶴の作品を音っぽく語ってきたた。三回以上読んでいるのは言うまでもない。

 現代作家もこの機会に読み始めたが、若いというのはいい。感性も縦横だ。吉田修一さんの「悪人」では出会い系サイトのことが書かれ、個々人のつまらぬ虚栄心が物語の展開のカギにもなっている。大時代的な発想とは無縁なのがいい。どうもわれわれは大時代的すぎるのか。現代の文章と遊離しているかもしれない。携帯小説が面白いという学生がいた。わけのわからない時代になってきたと思うのが正直な感想だ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「沖縄密約」控訴審判決に失望

2008年02月21日 13時14分21秒 | Weblog
 当時の外務省高官も認め、アメリカ公文書でも明らかになっている「沖縄密約」問題。日本政府はいまだに「密約」を否定。当然立法府と独立した司法の番人、裁判官は真理をみつめ判決を下すだろうとみていたが、2審も西山太吉元毎日新聞記者の国家賠償請求を「除斥期間」20年を適用して敗訴判決を下した。20日の東京高裁で。「密約」には一切触れない判決は第1審と同じ。

 この日本の司法はどうなっているのか。西山さんの闘いに共感、支援の輪を広げたい。西山さんは刑事裁判の再審請求も検討すると伝えられている(毎日新聞21日付け報道)。いつも判決の報に接すると、どれだけこの国は三権分立になっているのかと疑う。めったに「これはすごい」という判決が出ない。最近では「写真集」の男性の裸体写真が猥褻ととわれなかった判決くらいか。

 西山さんの闘いは継続すうr。そのことでわれわれは報道の真実とは何か、司法の独立とは何かを求める尊さを学ぶ。その営みの尊さに感動する。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2007年2月アクセス№。2記事

2008年02月21日 08時38分04秒 | Weblog
舞台は地下鉄日比谷線。

中目黒駅から乗車した私は日比谷公園駅で下車するとこにした。それは、公園内にある地方新聞センター(?)であるジャーナリストに会うためだ。ホームからはエスカレーターで上がるから、私も人の流れに乗った。

ただ私のような肥満体は、エスカレーターに乗ったままという横着なことはしない。つまりエスカレーターに乗ったまま上がらない。

東京はエスカレーター右側が通路になっている。関西と反対。理由はわからない・用事のある人はこのエスカレーター階段を駆け上がるのは東西とも同じだ。

ご多分にもれず。私も右側の通路部分を歩き出した。誰も歩く人はいない。ここが関西との違いか? 私一人急いで歩き始めると、なんと目に飛び込んできたのは、若いカップルのディープキス。驚いたというか、あほらしいというか。

どういう具合にディープキスをしているかというと、これが最高? のセッテング。

背が高い男性が女性の一段下の階段に「陣取る」スタイル。ちょうど、これで2人の唇が背伸びせずとも重ねあう。挨拶程度のキスではない。ディープなのだ。大阪や奈良では見たことがない。エスカエレーターの接吻。

私はしばし横目で見て、立ち止まったが、そのカップルの横でじっとしているのも何なので、何事もなかったように改札口を出た。

私はてっき2人は改札口を出て別れるのかと思いきや、つまりお別れのキスと思いきや、10番出口下の券売機前で切符を買っているではないか。

ここで悟った。キスはお別れのためではなく、愛を深めるものであることを。いまさらながら。しかし東京の人は慣れているのか、2人に注目して券売機まで歩を進めるまで目で追う人もいない。なんとドライなことか。慣れているということか。

30段近い10番出口の階段を上がりきった時、私の額には汗がにじんでいた。やってられまへん。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憎悪の世紀は克服できるのか

2008年02月20日 00時09分25秒 | Weblog
気鋭のイギリスの歴史家である著者は、第1次世界大戦までの原理が戦争後に変化することをベースに本書を展開する。第1次世界大戦までは中華帝国やトルコ、ロシアを含めて緩やかな「帝国」分割があったのだ。ヨーロッパというと、血縁関係で結ばれた君主支配であったから、憎悪の対立は比較的少ない。「決定的な戦争にいたる可能性はほとんどなかった」と評者はいう。

第1次世界大戦の戦後処理は「民族自決」であったことが諸民族共存が崩れ、相互の憎悪が増す要因になるというのだ。ユダヤ人迫害(ポグロム)、西欧列強の帝国主義、日本によるアジア侵略、アメリカの原爆投下など生んだ。この憎悪の世紀ははたして21世紀克服されるのか。

書評を読む限り悲観的なのが気にかかかる。緩やかな関係を作れないものなのかと思うが、民族対立は深まり、20世紀の構図はなお克服されていない。国連という大きな枠組みがあるではないかと思うのだが。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

しょうもないこと

2008年02月19日 10時07分16秒 | Weblog
 しょうもないことだから気楽で、読む方がホッとする。そう思うのだが、どうか。

 今月の初めに書いたラーメン店内の熱き抱擁とキスなど、無視すればしょうもないが、しょうもないから注目すると面白い。

 昨晩、近鉄電車で乗客のいざこざがあり、「体がぶっかった」とか、「次ぎの駅で降りるか」とは穏やかではない会話。幸い大きなことにはならなかったが、実にしょうもないことでいざこざがおこるものだ。

 つまりしょうもないことを見逃さないことが、しょうもないことで大きくなる災禍を防ぐことになる。

 しょうもないことでけんかなどになるとするなら、しょうもないことを大きなことにしたわけだ。これはいかん。しょうもないことをしょうもないように処理するのも人間の知恵だろう。

 しかししょうもないことが大きくなりすぎる。なぜか。これは大きな問題もだ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2006年2月№1アクセス記事はいまもアクセスが

2008年02月18日 08時05分44秒 | Weblog
 凄いのと出会った。電車で化粧を完璧に仕上げる女性である。奈良の学園前駅から大阪・大正区の印刷所へ行くため午前9時すぎに飛び乗った。座れないから連結部分の車掌さんが立つ空間に移動した。すると同じく連結部分の空間に、年は20代後半くらいの丸顔の女性がドサッと化粧道具一式をおいたのである。

何をするかと見ているとスポンジのようなものをとりだした。そしてパレットのような長方形の箱をとりだし、盛んに顔に塗るのである。まるで画家ではないのか。

最初「肌が荒れた女性だなあ」と思っていたら、一種類ではなくいろいろ塗るおかげか、潤いある肌のように見えてくるから不思議というものだ。

鏡もいろいろもっておられて、次はどこを化粧されるのか思っていたら、まゆげであった。「頬や額、あごなど顔の次がまゆげとは知らなかった」と思わずつぶやいてしまった。だいたい化粧をする女性をまじまじと眺めることはなかったからだ。

彼女と私は6、70センチも離れていないが、一向に気にしない。こうなったら私は存在しないのと同じだ。化粧に「はまる」というのはこういうことなのか。

さらにまゆげで化粧は終わりではないのには、また驚いた。また別のパレットのようなものを出し、ゴールデンに見える粉を筆につけ始めた。最初金色がまぶたから眉毛で妙に光り、違和感があったが段々と白粉にまみれて沈んでくるから不思議というか、見事だ。

さらに別の筆で、今度はネズミ色の粉がまぶたに塗られていく。こんなに女性は苦労しておられると思うといとわしくなる。

電車は鶴橋に着いたが、彼女は降りない。次に睫(まつげ)を黒色の粉で塗り出した。また筆が違う。さらに鏡も違うからすごい。バックから手品のように筆入(?),鏡、パレットとでてくる。何種類もの筆が入が筆入れもある。

睫の仕上げはクルッと背を向け、これだけは秘密なのか、どう筆を走らしているか分からなかった。画竜点睛を欠いてはならない。

電車はほどなく次の上本町駅に着くと、彼女はサットと化粧七つ道具をしまい、何事もなかったようにほかのお客と一緒に降りていった。学園前-上本町間、約25分、計算したように化粧を仕上げた彼女に圧倒され、しばらく茫然としていた。男性は電車を化粧ジャックされて、ただただ沈黙するだけなのか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昨年2月№1アクセス記事

2008年02月17日 09時27分31秒 | Weblog
 当然の話だ。一等地で、新しいビルに入って、どうして一定期間1000円ほどのお金でやれるのか。冷静に考えれば、ポスターにある「1050円オフ」に気づくはず。なんと、私はその「オフ」を見落としていた。

1000円ほどで月額オッケーと勘違いするところに粗忽者たる粗忽者の所以がある。なんということか。

「申し込みはまた来ます」と言ってすごすご大阪まで、また引き返下が、ドット疲れた。大阪行きの電車の中ではひたすら居眠りに終始した。粗忽者は懲りずに繰り返すから救い難い。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

事件報道隆盛の背景に個の埋没が

2008年02月16日 09時47分52秒 | Weblog
 作家辺見庸氏が『たんぼ色の覚書―私たちの日常』(毎日新聞社)で「黙契」という言葉でジャーナリズムの敗退を指摘している。この指摘から炙り出されるのが、実は共同体の嗜好を続けることで生じる個の相殺なのだ。

 韓国・南大門消失の事件を報道した韓国メディアは、当然1面トップで報じた。実際に私が読んだ11日の「中央日報」は1面をほぼつぶす報道であった。当然だろう。民族的な精神支柱ともなっていた文化財だからだ。

 しかしそれが前時津風親方逮捕ニュースの1面トップ扱いとは異なることは自明。いくら「国技」の歴史で初めて逮捕された親方、相撲取りが出たとしても社会面サブか、最大トップだろう。1面トップはない。

 現代社会が「劇場型社会」と指摘されたのはロス疑惑報道のころからだ。すると20年近く前になる。その事件にテレビのモーニングショウは飛びつき、いまのワイドショー隆盛の原型を作った。
 
 ワイドショーは事件や芸能ネタを大きく取り上げる。それは視聴者の関心に添うからだ。つまりテレビは視聴率がとれることが「生命線」となる。必然的に番組編成は視聴率偏重になる。関西テレビの「あるある大辞典」の偽装報道もそのもとは視聴率を稼ぐためであった。橋下徹大阪府知事誕生もテレビの影響と劇場型社会の背景を考えないとそのスパー集票力は分析できない。

 しかしメディアが視聴者や読者の要求に軸足を移しすぎることは、ジャーナリズムでは決して良い方向ではない。「ジャーナリズム精神の劣化」とか盛んに言われるのは現状の反省、不満から言われることだ。

 ジャーナリズムの敗退は、共同体が「黙契」するタブーを報じることがない。それは天皇制問題、米軍再編問題などはテレビではやれないし、しない。この黙って結ぶ契り、「暗黙の了解」は日常を縛り、社会全体の中に溶解している。

 辺見氏はその著の中でハーンマン・メルヴィルが書いた『代書人バートルビー』が紹介されているが、個に立ち返ることで全体性を作り出す「黙契」を拒否する営みを説く。存在の敬意は何が発火点、震源地なのか。それは個人が他者に伝えることができない痛み、絶望が母体であり、他者の痛みへの共感を生む。

 求める個の徹底とはまったく正反対の位置にいる。米軍再編も、天皇制も、差別の酷烈さも報道から遠ざかる。相当の覚悟がないと、ジャーナリズムは「情報産業の総合商社」になってしまう。そういえばこのコマーシャルメッセージの広告を見た。最近のことだ。そういう時代なのか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沖縄の少女暴行事件

2008年02月15日 17時53分43秒 | Weblog
 しかし基地被害はいつまで続くのか。負担軽減とは名ばかりの日米再編に政治に対する不信感が一層つのる。

 7日の夜に地元記者3人とあった。うち全国紙支局長が2人。こんな空白の時間などない。ラッキーな時間がもてたが、3日後にこの事件である。

 沖縄で起こっているという切り離し思考が一番おかしい。教科書問題もそう。政権与党の大臣は日米再編があるから言葉に力がこもるが、声高にアメリカへの日米
地位協定改善をいわない。


 関西に帰ると支局長の署名入り記事が紙面で躍動していた。

 明日は米原で研究集会があり教科書問題を議論する。主催者の1人からお誘いをうけたが、どうも行けそうにない。書き直し原稿ができていない。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする