ブログ「かわやん」

森羅万象気の向くままに。

2007年10月アクセス№1記事 バスでの転倒事故で胸部を強打、出血

2008年10月31日 09時26分32秒 | Weblog
 帰国の日21日。大量のコピーを詰め込んだ鞄を押して(滑車が4コついているからもたずに押せる)、友人宅を出たのが朝の9時。12時20分初の日航便まで時間があるが、2時間前に仁川国際空港に到着しないといけない。懸命に滑車をガラガラと回して横断歩道を横切ろうとすると、なんとリムジンバスが。

日本なら停車などしてくれないが、韓国は実におおらか。わたしが手をあげるとドアを開いてくれた。「ラッキー」と思わず一人ごちた。

車内に入ると手荷物をブースにいれないといけない。途中で乗車したから空いているところがない。なんとか隙間を見付けて2コの荷物を詰め込もうとした瞬間、バスは急ブレーキをかけて、わたしは見事に料金投入口まで飛ばされた。

一体何事が起きたのか。

 胸部を強打していた。その痛さはガードレールに自転車ごとぶつかり一回転して道路にたたきつけられた時以来の衝撃が走った。つまり何事がおきたのかわからないという茫然自失の状態という意味で。

ガードレール衝突の時は頭部を強打してオッデカイたんこぶができたが、今回は胸部である。もし心臓付近直撃なら大変なことになったかもしれない。料金箱である強化プラスチックにヒビが入ったのだから、これは相当の衝撃である。わたしの体重がそうさせたのでは断じてない。急ブレーキの衝撃でわたしの体重が何倍にもなりそうした事態がおきたのだ。

胸に手をやるわたしが乗客をみやると、驚いて目をむく人。座席から立ち上がり心配そうに様子を見つめる人など、一様に言えるのは、いま起きたことへの驚きが車内にあふれていたことだ。

「クエンチャナ」(大丈夫)と運転手はわたしの顔を見て、すぐバスから飛び降りて、バスの前を横切った乗用車を追いかけた。急ブレーキをかけねばならなくなった無謀な運転は諌めるしかない。左折して道路横のガソリンスタンドに入った乗用車の運転手にバスの運転手は何か小言を言っていたかと思うと、再び戻ってきて携帯電話のようなものをとり再びガソリンスタンドへ。乗用車のナンバーフレートを写した。

すばやい対応とバスの運転手の有能ぶりを賞賛するなかれ。わたしは胸部の痛みに顔がゆがみ、上腹部から胸部中央上部まで痛みが走った。また運転手が「クエンチャナ」ときたから「クエンチャナ」と答えるしかなかった。しかし彼はヒビが入った料金箱を盛んに見ているではないか。私は何なのか!

ほどなくしてバスは走り出した。何事もなかったように。何事もないのではない。強打したわたしは平常な顔を装っているが胸部が痛いのだ。これはわたしにしかわらない。肌着をみるノド空き部分から血痕が染み込んでいるではないか。どうも胸部中央下部がスチルの料金箱にあたり、これが徐々に上部へと移動してノド下あたりまで順次追突していったようだ。血痕は胸部上部のところに集中しているが、胸部下部から痛みが走るのは下部にまずあたって衝撃が上部が一番強かったと考えられる。

とにかく胸部中央部が痛い。バスが仁川国際空港に着いたが、最後に残った客がわたしなのだ。運転手とは話すためだ。「もし帰国後、骨でも折れていたなら治療費で相談しますから」と告げた。「ナップンノムヌン キサニム アニゴ」(悪いのはあなたではない)と、無謀な運転をした乗用車の運転手であることはお互い了解した。運転手はわたしのキズをみながら、「これは仕方がない」とい表情もみせた。しかし災難である。一寸先は闇である。

機上でトイレに入り傷口をみると赤くはれ、内出血もあるようだ。やれやれ。なさけない。

バスが止まってくれてありがたいと思って乗り込んで、この有様だ。好事魔多しとはこのことか。

帰宅後とりあえず病院に行った。「息をして痛いところはありますか」とお医者さんが聞くので、「別に」と答えると、「骨は関係ないですな。とりあえず痛みとめと化膿止の薬を出しましょう」ということで薬を出された。またもや、やれやれ。しかし事故にあうのは1つ1つの行為の積み重ねがある。偶然ではない。そう、そう。反省すべきこともわたしにもある。「十分に時間とって飛行場に行きなはれ」という声が聞こえてきそうだ。秋の足音が早い韓国でのキツイ一発を頂戴した。
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腰痛は波及する

2008年10月29日 21時12分20秒 | Weblog
 重い物をもつ癖がぬけ切れず、とうとう腰が悲鳴をあげた。腰痛の取材をしたあとだったので、「妙なめぐり合わせ」と思ったが、これにまた余波がつき、先輩がきつい腰痛=ぎっくり腰になった。「腰痛はウイルス感染のように伝染するのか」と当人から問われたが、冗談で済ませられないほど、その症状はひどいものだ。杖をついて歩かれていた。

 昨日は階段を踏み外して転んだ。どうも腰痛が誘因のようだ。幸い足首を捻挫するわけでもなく、何のケガもなく、「奇跡的」だったが、まれなケース。転べばケガを必ずする。

 腰をかばうので歩き方もぎこちなくなる。だから転倒しやすい。どこか痛めると他に影響していく。「負の連鎖」は断たないといけないのだが。克服方法は体を鍛えることだ。それしかない。スローな方法でやる。年を考えて。
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報道されない怪

2008年10月28日 00時03分39秒 | Weblog
李さんについては25日に京都の集会が初めての証言ではない。今年も北海道で証言したし、何度も日本に訪れている。しかし新聞、テレビで証言が紹介されてわれわれが目にすることはない。また蓮池さんが語る拉致問題の視覚はテレビのコメントでもあらわれてもいいが、まずみかけない。

われわれは一定の情報操作を受けている。このことを薄々感じながらも、あまり「苦痛」ではない。ここがくせ者なのだ。「苦痛」なら声をあげるのだが、そう感じないから結果として沈黙する。

日本軍「性奴隷」問題は教科書から消え、新聞、テレビでもあまり報じられなくなった。問題が解決しているわけではない。未清算問題なのだが、メディアは報じない。未精算とは、真相究明、責任者処罰など韓国挺身隊問題対策協議会が求めたないようである。

 拉致問題は家族会の動向だけが報道の主流で、日本政府のこれまでの解決の遅れを批判する声は出ないし、蓮池さんのような日本政府の外交上の失敗を明確にし、また拉致問題解決のために活動する人たちの「従軍慰安婦」問題、強制連行の歴史を否定する姿勢があることを問い、「人権問題を語れるか」との指摘はついぞメディアでは出てこない。

 なぜメディアの報道は多様でないのか。多様であるためにどうすればいいのか。テレビのコメンテーターの偏った人選は目を覆いたくなる。公論なのか、その一方に偏した論議で。

 言論と権力は密接に結びついていいる。言論を監視しない我々にも責任がある。しかし、多様な言論を展開するには良い時代なのだ。何の肩書きもなく力もなくてもネットで自分を意見を言える。問題はやるか、やらないかだけなのだ。
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排除型社会と後期近代の眩暈

2008年10月26日 14時14分10秒 | Weblog
われわれはどうした社会に住んでいるのか。未来が過去よりも希望がもてるから生きる勇気が沸き起こる。しかし暗い影を落とすなら、それは宗教的価値観かすれば仏教でもキリスト教でも厭世的世界観が支配する。その厭世は救世主により救い出されるのが唯一神を抱くキリスト教に対して仏教は、原始仏教とは異なる唯一仏である阿弥陀仏への名号を称えることで救いの道に導かれる。江戸期に真宗門徒は妙好人なる理想の信仰者を生んだが、しかしキリスト教の唯一神と阿弥陀の名号は何と類似していることか。末世の世はとどのつまり信仰を突き詰めることを人間に課すとしか考えられない。
 現代は信仰者からすれば末世ということになろう。ジャック・ヤングは後期近代と名付けるのである。2007年に刊行された『排除型社会』(洛北出版、2800円)を読んだとき、犯罪学は現代社会をかくも的確に解析するのかと頷いたものだ。あの悲惨な「秋葉原事件」を分析した3人の社会学者の鼎談で「包括型社会」という用語が用いられて論が展開されていたのを読みジャック・ヤングの『排除型社会』で展開された「安定的で同質的な包括型社会から、変動と分断を推し進める排除型社会へ移行として捉えることができる」(序文)の視点が日本の論壇に大きな影響を与えていることを知った。犯罪学者のジャック・ヤングだから現代社会を分析できるところに現代の特徴があるのかもしれない。それは非常に不安定な、垣根のない変動社会であることの証しなのだ。
 現代社会のもうひとつのキーワードは消費社会だ。ボドリアールの分析は物の変容の分析をわれわれに迫ったが、ジャック・ヤングの著のベースはこの消費社会の副産物の分析なのだ。「消費社会が生んだ新たな個人主義は、多様な選択可能性なくして成り立たないものであった」として、そのおかげで「人々は現在と過去のあれこれを組み合わせ、新たな下位文化を自在に作りだすことができる」(41ページ)と書いている。下位文化に彼は分析の目を向けるのである。
 無論グロバリズムもある。移動社会の実現。しかし根底に近代物質文明に到達点である消費社会がある。そこで生じる犯罪の数々は過剰包摂という概念を生む。それは文化の画一化とも関係し、メディアの仮想現実造成とも関係している。仮想現実は社会的に押し込められた(階級的に)人であろうとも享受できるものだ。おsれだけに疎外感を味わうことがない。つまり錯覚に襲われるのだ。そうした錯覚の連鎖が後期近代の眩暈なのだ。
 著者は旧来の2分法を厳しく指弾している。支配的価値観の下支えというわけだ。本書はそういう意味では現代支配構造の分析である、有効な政治システムの探求なのだ。とっつきやすいのは第9章排除型コミュニテーィだろう。
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四三事件鎮魂のピアノ曲初めて披露

2008年10月25日 00時27分13秒 | Weblog
 東京のコンサートは「ハン・カヤ ピアノの世界」と名付けられたもので、東京文化会館小ホールで開かれる。4曲の演奏のうち1曲が「四・三事件」に題材にとったパク・ヨンヒさん作曲の「喉の渇き」と題したチクルス(連作として今後大作につながっていく曲のこと)の第1部が演奏される。演奏時間は約8分。

1948年4月3日に起きた済州島民虐殺の悲劇は「四・三事件」として共産主義者が引き起こした事件だとされて長い間タブー視されてきたが、過去一〇年間で犠牲者に対する名誉回復、真相糾明を行う特別法の制定、盧武鉉(ノ・ムヒョン)前大統領の「国家権力による過ちだった」とする公式謝罪(2004年)―など行なわれてきた。今年は事件から60年にあたり1万人が参加した慰霊祭が行なわれた。

「四・三事件」の数多くの悲劇のなかでも1949年1月19日におきた北村里の悲劇は500人以上の村人が殺害された。韓伽倻さんは犠牲者の遺家族の1人でもある。父である音楽家韓在淑 (ハン・ジェスク)さんー奈良県在住―の母と、祖母が殺害された。韓伽倻さんはいまはドイツでの大學教授をつとめているが、ヨーロッパ、日本、韓国でのコンサートを開くなかで、「四三事件の惨劇を繰返さない意味でも、鎮魂の曲を演奏して世界に訴えたい」と長年思い続けてきた。ドイツ在住の作曲家で、ブレーメン国立音楽大学教授パク・ヨンヒさんに作曲を依頼。パク・ヨンヒは「四・三事件」の悲惨な歴史を前にして曲として鎮魂曲を作ることに苦悩したといわれるが、依頼から一年余にして連作の第1部を完成させた。

 パク・ヨンヒさんは1945年、韓国で生れソウル大學を出てドイツに留学、敬虔なカトリック信者でもある。今回の「喉の渇き」は「ヨハネによる福音書 第19章、第28節より」とも名付けられており、聖書の一節と「四・三事件」鎮魂のピアノ曲が符合して作曲することができたといわれる。

 この曲は東京のコンサートが世界で初めての演奏になる。11月13日には韓国ソウルで「同時代音楽家たちとの出会い」と名付けられた演奏会でも披露される(会場はソウル市内のクムホアートホール)。

 東京のコンサートの問い合せは、主催のクラング03-3411-0745まで。午後6時半開場、7時開演。
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おっちょこちょい

2008年10月24日 21時26分16秒 | Weblog
 この記事のあとに紹介するが、済州島「四三事件」の鎮魂のピアノ曲が誕生して二九日に初めて披露されることを知った私は、「これはいい話だ」と、山とある仕事を側に置いておいて、今日の午後一時から四時まではそれにかかり切り。

 電話取材をしたり、過去のデーターを調べたり、確認の詰め取材をしたりして、三時間はつぶした。それがまた苦にならないのだから弱ったもんだ。

 その結果が「四・三事件の悲劇ー鎮魂のピアノ曲世界で初めて上演」の記事だ。内容は後続の二五日掲載の記事に譲るが、「これはいい」と思うと、腰がいたかろうと、他に仕事があろうと、お構いなし。

 好きな野球ももう関係ないからラジオも聞くことがない。阪神タイガース失速が読みごたえのある記事を生んだ。たぶんこの記事は他にも転載されるだろう。そういう広がりがある。一般紙にも書いてもらいたい内容だ。済州島「四三事件」の悲劇は世界に鎮魂のピアノ曲としても発信される時代に入った。
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輿論と世論

2008年10月23日 15時35分20秒 | Weblog

 佐藤卓己『輿論と世論ー日本的民意の系譜学』(新潮選書、1470円)ー毎日ーは朝鮮語に少しは親しんでいる読者なら本書の展開になるほどと膝を打つだろう。なぜなら「輿論」という漢字表記はあっても「世論」を見かけることがほとんどないからだ。「輿論」という漢字がたびたび登場する。どう訳せばいいのか。「世論」と訳してしまう。しかし厳密にいうと正しくないことが本書の説明でわかる。「輿論=公論と世論=私論を意識的に使い分け輿論の世論化に抗することがまず必要ではないか」と著者が指摘するように、「輿論」は公論を意味し、「世論」は私論をさすところで近代はスタートしたのである。実に「輿論」は五箇条の御誓文のなかの「万機公論に決すべし」の「公論」に、「世論」は明治15年の軍人勅諭「世論かに惑はず、政治に拘らず」に由来する。評者村上陽一郎はその違い指摘する本書の論の展開について「戦後史のみならず、日本的近代史の一断面を見事に切取ってくれる」と書いている。両者の混同にこそ現代日本社会の病巣が潜むという。しかし韓国の論文、新聞を読むと、たしかに「世論」はみかけないが、「輿論」と平行して「公論」という言葉が使われる。「公論場」という言葉もしばしば見かける。すると韓国でも「輿論」は著者がいう「世論」的な意味をもっているのではないかと考えてしまう。問題は日本に韓国のような「公論」が希薄ではないのかという結論につきあたる。たとえ1人の訴えでも「輿論」化する例を今年4月からのろうそく集会で見聞しているからだ。韓国の中高生の米産牛のBSEに対する不安を訴えた提起=輿論が公論化した。著者は、意見、意識、理想、言葉、正義感、戦略などの言葉に「よろん」とルビをふり、これに対して、感情、雰囲気、感情、ムード、気分、本音、情念、好奇心、心情などに「せろん」とルビをふっているという。評者はステレオタイプ的には腑分けはできないとする著者の論を紹介して「問題は、哲学的には振り出し戻り得るように思われる」と書いている。日本の民意の歴史を考えるには漢字圏の東アジアの人間には比較文化的材料も提供してくれる著ともいえる。
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あーあー

2008年10月10日 22時54分19秒 | Weblog
 家に帰りネットを見ると、巨人の優勝が報じられていた。なんということか。これでクライマックスシリーズで勝ち残れるなんて考える方がおかしい。

 全然というか、もう勝つことなど想像できない。

 「クライマックスシリーズがある」と脳天気なこと言う元気もない。元気がない大阪は元気を取り戻せるなど、夢の夢。

 4番バッターを並べた巨人に若手が育ってきたのが「誤算」。しばらく野球のことなど考えたくない。あーあー。
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なさけない、あーなさけない

2008年10月09日 00時28分09秒 | Weblog
 もうチームの勢いが違う。勝負は下駄を履くまでわからないというが、6連勝してきたタイガース戦が何よりも物語っている。

 案の定だった。仕方がない。

 多くの平等主義者は思うのではないか。4番バッターばかり集めたジャイアンツには負けてほしくなかった、と。シーズン最初は4番バッターのナインのつながりがなかったが、徐々にと生れてきた。これが終盤のジャイアンツだ。ヘビににらまれたカエルのように、タイバースには覇気がなかった。そう映るのだから仕方がない。

 側にいた友人が「あまり熱入れるなよ」と呆れていたが、そういうものなのだ。野球に別のものを見ていると熱がこもるものなのだ。ナベツネさんの高笑いが聞こえてくる。なさけない。あーなさけない。聞きたくない声なのに。
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とんだ連鎖反応

2008年10月08日 09時21分23秒 | Weblog
 取材で聞いたのは、①ギックリ腰の原因はわからない②レントゲンをとり調べるのは日本くらいで、海外では3週間ほどたっても症状が止まないときにレントゲン検査をする③風呂に入るのは治療方法としてはいい④男性の方が患者が多い⑤背筋、腹筋を普段から鍛えることーなどだが、ギックリ腰で悩むなど普段腰に負担をかけすぎるからだと思って取材を終えたのだが。それから3日後に他人事のように思っていた当人がギックリ腰になるとは、なんともはやなさけない。

 原因がわからないというのは不可解だが、少なくとも腰に負担がかかりすぎているのが問題だろう。私はカガン荷物をつめて重い物をもちすぎる。いつも引っ越しのようだ。これでは腰も音を上げる。

 10代ではギックリ腰はないそうだ。筋肉が柔軟だからだ。柔軟でないと災禍に見舞われる。思想も同じか。背筋。腹筋を鍛えて腰への付加を軽減させよう。そうは思うのだが。なかなか……。
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韓国・国民的スター崔真実さんの自殺とサイバー攻撃

2008年10月07日 12時30分25秒 | Weblog



日本と違い韓国はどこでもネットカフェーがあり、気軽に利用できるし、1時間利用しても1000ウオンと日本の4分の1の値段。ネット利用率は世界でトップクラスにある。一方サイバー暴力といわれるネットを通じたデマ、中傷が氾濫しており、崔真実さんをはじめ著名な芸能人が自殺したりする事態が頻繁に起きている。

インターネット実名制の実施が叫ばれているが法制化されていない。しかし日本にはないサイバー名誉棄損罪があり、デマによる犯罪と認定されれば懲役7年以下の刑が科せられる。ただ多くが罰金刑だという(中央日報電子版より)。今後は言論の自由の問題に関係してもいる法的な整備がどうなるのか。崔真実さんの自殺は社会問題化してきたわけだが、それほど彼女の死が衝撃的なのだ。

日本では学校裏サイトというのがあり誹謗・中傷で傷つけられる若者がいるし、自殺事件までおきている。だから韓国のサイバー暴力とは無縁だとはいえない。なぜ匿名で誹謗・中傷するのか。そこにメスをいれないで対処療法だけでは問題が解決しない。

匿名性とは身を隠すことである。なぜ身を隠すのか。正々堂々と顔を出せないからだということもできる。一方では匿名にすることにより攻撃から身を守ることができる。保護されるのだ。ネットの匿名性は電子媒体という特質を抜きにしては考えられない。初めから肉体性が関与しないから匿名であることに何等違和感もない。飛び交う電子は無数のデーターを担いながらあることばにまとめることで1つの情報として伝わる。

だからネット発信者が実名化することの困難さがある。法的整備をしてもし実名化を推進すれば利用率は落ちると思う。そうした可能性も考えて実名化をはかる法律を施行するのか。言論の自由の問題とともに実名化はネットの将来を占う課題を背負っている。匿名であるからこそ弱い人間が発言できるという利点は決して個人の誹謗・中傷となり現れてなならないことだけは肝に銘じないといけない。
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韓国・崔真実さんの自殺でネット言論批判と規制反対の論対立

2008年10月05日 10時20分54秒 | Weblog
 韓国のトップスター崔真実の自殺の衝撃が悪質なうわさ流布ネット言論論争へー。映画監督ネットワーク代表イ・ヒョンスンの崔真実さんの死を悼む文章を「中央日報」電子版に寄せている。

「私たち映画監督は今回の事態が正体不明のネチズンが過度な権力により世の中を追い込んでいること、偽り情報と無責任な人身攻撃で汚染されたインターネット空間が浄化される契機になるよう願います」

 彼は崔真実さんがネッと攻撃された事態に憤りを隠していない。さらに、崔真実さんへのネット攻撃を仲間、社会が守れなかったことをアメリカの芸能界しのスターのケース(守護できたこと)と比較して悔やんでいる。

 一方、ネット新聞「プレシアン」は朝鮮・中央・東亜の加熱する報道を紹介、ネット言論規制を加速させようとする論調があることを批判している。また「中央日報」電子版で記事批判で書き込みをしたものを削除した電子版に批判の目を向けてい。
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繰返される惨事ー大阪・個室ビデオ放火事件

2008年10月04日 09時15分07秒 | Weblog


 古くは愛隣地区の「ドヤ」火災で多くの方が亡くなられたことを思い出す。今回と同じような鉄格子で逃げられないから惨事を招いたと記憶している。30年以上経過しているのに少しも学んでいないではないか。

 旅館・ホテルではない宿泊所。惨事を招く構造の施設が野放しにされている。現場に取材に行ったが、細長い奥行きの個室ビデオ店は避難路など確保されている構造ではないことを目の当たりにした。

放火ということでは、韓国・テグ市の地下鉄火災を思い出すし、2001年の新宿の風俗店からの出火で30人をこえる方が亡くなられたが、放火とされるが、容疑者は捕まっていない。

秋原葉の無差別殺人も今回の容疑者と動機が似ている。自暴自棄になった容疑者。完全に社会に背を向けて、突然犯行に及ぶ。現代社会は安全地帯などなくなったのが特徴とされるが、それにしてもあまりに立て続けに無差別殺人事件がおこる。しかし、監視社会に一層傾斜することが恐ろしい。

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韓国のトップスター崔真実さんが自殺

2008年10月03日 10時52分10秒 | Weblog


 友人にあてた遺書も残されているという。18,9年ほど前の彼女の姿は清冽な印象を多くの人に与えたし、文字通り「清純」派女優の代表だった。

当時母親と暮らす彼女のドキュメントを見た。幸せそのもので、うらやましかった。光が射していた。

しかしこの9月に訪韓したときテレビドラマに出ている彼女を見て、あまりにもやつれているのにびっくりした。そのことと今回の自殺とは関係ないだろうが、あまりの変りように心配もした。

 単なるファンの一人だった私でもショックを受けた、中央日報電子版は3日に入っても彼女の自殺に関するニュースをトップで伝えている。子ども2人が残された。離婚して子どもを立派に育てていたのに。
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