叙事詩 人間賛歌

想像もできない力を持つ生命の素晴らしさを綴っています !

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人間賛歌 若い人の仏教教室 三十八

2007年05月30日 | 若い人の仏教教室

ジッチャン、
「ケイタくん、ありがとう。
なかなか朗読がうまいね、見直したよ。

それはそうとして、頼朝は法華経の功徳で源氏の再興をはたし、
念願をかなえたうえ、天下統一という偉業までなしたのだ。

大橋某の子息は仏門に入っていたのだが、父の行くえを案じる母の嘆きを
みかねて、山をおり父を探す旅にでたのだ。
人の集まる鎌倉に行けば、父の消息が分かるかもしれないと思い、
はるばる鎌倉にたどりついたのだね。


だが訪ねる父は罪を犯して牢に入れられ、
明日が処刑の日だ、と人づてに聞いたのだった。
絶望の底で、寺を出る時の師匠のせんべつのコトバ、

「あきらめるな、法華経で祈ればどんな願いでもかなう」

を思い出したのだ。
それが縁になっ天下人頼朝の心を動かし、父は処刑をまぬがれたうえ、
罪を許され、父子とも母の待つている九州え帰ることができたのだ。

法華経の力を知らない人は、
たまたま運がよかったのだ。と思うだろうが、
法華経の心は正義の心であり、宇宙は正義の人を好むからなんだ。
理解できないとは思うが..


「人間の最大の欠点の一つは、 
 理解できないことを信じようとしないことにある。
 ほんとうはあまりたいして理解していないくせに」

と言ったのは鉄鋼王と呼ばれた哲人事業家、アンドリウ.カーネギーである。


ところで仏教は因果の法を教えた経だ。
自分のする行為が因で、因は果となって現れるのだ。
因には身口意の三業といって、からだでする行為、口でする行為、
心でする行為の三つがある。

善い行為、たとへば思いやりがあって、人に親切にする利他の行為は、
善い果として現れるが、悪い行為の自己中心的で自分のことしか考えない行為は、悪因で悪い果をまねくのだ。

以上はフツウの因果で、善因が善果をよび、悪因が悪果をまねくのは当然ともいえよう。

法華経でいう因果はフツウの因果の次元を超えたもので、
法華経を信じることじたいが、最高の善因となり仏界という最高の果が得られるのだ。

いままでに少しも善因をつんでいない人であっても、法華経を信じるという
最高善が、過去の悪い因をゼンブ断ち切ってくれるのだ。

戦いを業とする武家に生まれた頼朝は、善因をつんでいるとは言えないが、
法華経を信じるという大善因が、
流罪人から天下人へと大転回をする因となったのだ。

つづく、


 


人間賛歌 仏界の境涯 四

2007年05月28日 | 仏界の境涯

 最終回、

自分のいのちに仏界という想像すらできない力強いいのちがある。
といっても、みなさんは、
「ああ、そうですか」と簡単に信じられないと思う。

私も含めて、いまこの信仰をしている人たちも、始はみんなそうだったから...
だが日蓮大聖人のお言葉を信じて、題目をとなえていけば必ず分かる時がくるのだ。

どんな人でも、一生のあいだに、自分のいのちに具わる仏界の生命を、必ず開くことができるのだ。

これが日蓮大聖人のお約束なのである。

仏界の反対が地獄界だ。
地獄界は自分の心も、自分をとりまく環境も苦しみの絶えない境涯であるが、

仏界は心も環境も喜びの絶えない境涯だ。
そして仏界の境涯は生きているあいだも、死んだあとも、
喜びの絶えない境涯が永久に続くのである。

地獄界のほうは、生きているときも苦しみの連続であり、死んだあとも苦しみの連続なのだ。
自分がこれに気づき、どこかで断ち切るまでこの状態は変わらないのだ。

断ち切るには御本尊に題目をとなえて、仏界を現すしか方法はないのである。


日蓮大聖人の二十六番目の後継者、日寛上人は、

 「この御本尊の功力、無量無辺にして広大深遠の妙用あり、
 故にしばらくも信じ、南無妙法蓮華経ととなうるならば、
 すなわち、祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、
 福としてきたらざるなく、理として現れざるなきなり」

と御本尊の功徳を讃嘆している。

人生におけるもろもろの苦難も、人類が経てきた悲惨な経験も、
人々が仏界にいたるために、破らなければならない壁であるからには、
避けて通ることはできない。

人々が仏界の境涯に達したとき、苦難の壁はなくなり、
争う必要もなく、世界不戦も実現できるのだ。
そして人々は、崩れることのない永久幸福の世界.
仏国土(安楽世界)に住めるのだ。

その時期は人々が思っている以上に、近づいていることを知らねばならない。
困難に挑戦する勇気と、明日えの希望があれば人間に不可能なことはない。これは生命編で、生きものの進化のなかで、なんども見たとおりだ。

この詩の読者のあなたにも、進化する時がやってきているようだ。

 終わり   




 


人間賛歌 若い人の仏教教室 三十七

2007年05月23日 | 若い人の仏教教室

 前回の続き、

十数年かけて法華経を八百回以上読みきったころ転機がきました。
北條の娘、政子との縁で北條一族をミカタにし、平家打倒の旗揚げをしたのです。

数百にもみたない兵で、平家でなくんば人にあらず。
といわれた数十万の平家軍に戦いを挑み、やがて平家を滅ぼして鎌倉幕府
を開くという、不可能を可能とする偉業をなしとげたのでした。

頼朝の逸話で記録に残っているものに、大橋某の話があります。
天下を統一したのちのある日のことでした。
頼朝が外出先から館にもどる途中、鶴が丘八幡宮の前にきたとき、法華経を
朗々と読んでいる声が聞こえてきました。

あまりにも美しい声なので、声の主をたずねてみるとまだ幼い少年で、
事情を聞けば、あす処刑される父に一目あいたくて九州からはるばる鎌倉え
きたのでした。

囚われの父に会うことができず、法華経で祈ればなんでも願いがかなう。
と聞いていたので、法華経を読んでいたのでした。

頼朝は少年をふびんに思い父子を対面させ、父大橋某の罪を許してやっ
たうえに父子を故郷の九州に帰してやったのです。


 緒戦の石橋山の戦いに敗れた頼朝が、わずかの配下とホラ穴のなかに
隠れていたとき、必死で法華経を念じていました。

山狩りをして頼朝主従を探していた平家がたの武将梶原某は、
発見されたら自害する覚悟を決めていた頼朝主従をホラ穴の中に見つけたのですが、わざと見逃してやったのです。

「こんなところに、いるはずがない海岸をさがそう」

という彼のコトバで追っ手は立ち去ったのでした。
頼朝が伊豆を逃れ、千葉に渡って再起するきっかけになったのです。

つづく

 


人間賛歌 仏界の境涯 三

2007年05月21日 | 仏界の境涯

 前回の続き、

否定のコトバをいくっつないでも、否定しきれない実在、
それが仏界のいのち、南無妙法蓮華経である。
 と言うのだ。

コトバで表現できず、心で思うこともできない、
では、ないのと同じではないか、と言いたくなるが、
 ちがうのだ。

小我(自己)にこだわる低い境涯では、わからぬが、
小我を超え大我の境涯に達したものには、
 自然に会得できるのだ。

小我は、むさぼる心、いかる心、おろかな心、
慢心する心、うたがう心、
邪見(誤ったものを正しいと思い込み、正しいことを
正しいと認められず、誤ったものに固執する心)

元品の無明(ガンポンのムミョウと読み、生命に元々ある
自己えの執着心で、個にこだわるあまり、生死はないのに
生死があると思い、本来宇宙生命と一体である自分の真実.
すなわち大我に気がつかない迷いの心)


大我の立場に立てば、生命は始まりもなく、
終わりもない、永遠のものだ。
と合点できるが、小我のカベが厚く破れないので、
みな小我にあまんじ、迷いの生涯を送るのだ。

日蓮大聖人は、竜ノ口で生死の束縛を離れ、
九界の生死を繰り返す、凡夫の境涯を超え、
常住不滅の、仏界の境涯を現された。
これをホッシャクケンポン(凡夫の仮の姿をはらって、
本来の仏の境地を現すこと)という。

法華経を経文どおり実践し、仏界を得、
竜ノ口でそれを証明されたのだ。


日蓮大聖人は未来のすべての人々を、自分が到達した境地に導くため、
ご自身の悟り「大我」のいのちを図に現し、御本尊としてのこされた。

私たちは、
 「宇宙即我、我即宇宙」を現した御本尊を信じ「南無妙法蓮華経」と、
となえれば、ほんらい己心にある仏界のいのち(南無妙法蓮華経)が、
呼ばれて現れるのだ。

苦悩にまみれた凡身が、なにがあってもビクともしない金剛不壊の仏身に
変わるのである。

続く、  

 




 


人間賛歌 若い人の仏教教室 三十六

2007年05月19日 | 若い人の仏教教室

ジツチャン、
「頼朝は熱心な法華経の信仰者であったとさっき言ったが、それには次のようないきさつがあるんだ。
私が書いた「幸運を呼ぶ人生」という本の中に、頼朝のはなしがあるが、そこを
ケイタくん読んでみてくれないか」

ケイタくん、
「はい、読ませてもらいます。

 ドイツの大政治家で鉄血宰相といわれたビスマルクは、
「凡人は自分の体験から学ぶが、賢人は歴史の体験から学ぶ」
と言っております。

伊豆の流罪人、源 頼朝の体験はみじめなものでした。
父義朝にしたがって初めて出陣した戦いに敗れ、東国をめざして逃走中、猛吹雪のなかで父一行と離れ離れになり、
やがて唯ひとり平家のとらわれの身となったのです。

安否を気づかい唯一の望みだった父義朝は、旧臣に裏切られ殺されていました。
なんの目当てもなくただ打ち首になる日を待っていました。十三、四歳ごろの出来事でした。

平 清盛の義母、池ノ禅尼の慈悲で仏門に入ることを条件に、いのちだけは助かりました。
以来二十年近いあいだ、湿気の多いヒルのすむ小島で不遇の日を過ごしてきました。

年頃になり比企の娘と恋をしたこともありましたが、
平家の目を恐れる父親に知れ、仲を引き裂かれたうえに、
娘はムリヤリ他家に嫁がされ、生まれたばかりのわが子は無残に殺されてしまいました。
頼朝は悲運を嘆き、無力を悲しむかわりに耐えることを学んでいったのです。

頼朝は父の菩提を弔うために法華経を読むことを日課とし、
法華経八万四千字を千回読むことを決意していました。

法華経には釈迦の体験した壮大な生命の世界が説かれていました。
死者のためではなく、どんな苦境にいるものでも奮い立たさずにはおかない、おおいなる希望が説かれていたのです。

今(結果)があるのは、過去にその原因があり、未来は今行っている行為(原因)で決まる。
すでに起こったこと(結果)ではなく、これから起こることを決定する原因の世界のことが説かれていたのです。

 原因を変えれば結果は変わる。
現状が厳しく惨めであればあるほど、頼朝の未来えの希望は大きく、
いかなる困難にも耐えることができたのです。

頼朝は自分の体験ではなく、歴史の体験を信じ学んでいたのでした。

 続く、

 


 






 


人間賛歌 若い人の仏教教室 三十五

2007年05月17日 | 若い人の仏教教室

ケイタくん、
「ジッチャン、上行ボサツというおかたはホントウに現れたのですか」

ジッチャン、
「そう、釈迦の言ったとおり現れるのだ。
末法の初めごろだがね、チョット長くなるが、上行ボサツが現れる時代と背景を話しておこう。

釈迦の死後二千年は日本でいうと、平安朝の終わりごろになるんだ。
朝廷の力が衰え、源氏、平家を中心にした武士階級が力を持ちだしたころだな。

熱心な法華経の信仰者であった源 頼朝が、平家を滅ぼして鎌倉に幕府を
開くのだ。
頼朝は朝廷にとってかわり、日本に軍事独裁政権をつくったのだね。

鎌倉幕府が始まって四十二年後、釈迦の死後二千二百年ぐらいたったころ、
安房の国(いまの千葉県)小湊という漁師村に、日蓮大聖人が漁師の子として誕生されるのだ。

成人して仏門にはいり三十二歳のとき、名前を日蓮とあらため、
法華経の題目、南無妙法蓮華経を人々にすすめて広めていったのだ。

これが末法万年から、未来永遠にわたって、世界中の人々を救済する日蓮仏法の始まりになるんだ。

日蓮大聖人は、ご自身を上行ボサツの誕生かどうかは別として、
上行ボサツが広めるべき、法華経の題目をほぼ広めたと言われている。


これはまだ竜ノ口の法難が起こるまえのことで、竜ノ口法難以後は末法の仏.日蓮とご自分で名乗られているんだよ。


横道になるが、法華経を信仰する人が受ける功徳(クドク)は、
功徳というのは、苦しみを除いて幸いを与えるという意味で、慈悲ともいうのだ。

不幸のもとになる宿命を転換し(苦を除く)、
自分の個性を最大に発揮して、価値を創造するのが徳(さいわい)というんだが、これを法華経の功徳というのだよ。

源 頼朝と九州の武士大橋某の子のエピソードが、当時の歴史書アズマカガミにのっているが、
法華経の功徳を証明する出来事としてちょうどよいので紹介しておこう。

続く、

 


人間賛歌 仏界の境涯 二

2007年05月15日 | 仏界の境涯
 注釈
他宗の邪義とは、万人が仏である法華経の真意を知ろうとせず、
仮の教えを信じ、架空の仏(超能力者)を立てて、救いを求める宗派のこと。

竜ノ口の法難は、幕府権力が日蓮大聖人を罪人として処刑しょうとしたもので、万が一も逃れることは不可能であった。

だが奇蹟は起きたのだ。

竜ノ口で処刑に失敗した幕府は、日蓮大聖人を佐渡に流罪し、
同年十月末に、佐渡塚原へ護送した。


このとき護送した兵や、日蓮の逮捕に向かった兵士らの中から、
かなりの数のものが、日蓮大聖人に帰依し、法華経の信仰に入った。

信者にならないまでも、「念仏は二度と申しませぬ」と、誓状をだしたり、
念珠をすてるものもかなりいた、と記されている。

生命には十のランクがあり、九つのレベルまで境涯編で述べた。

しまいの仏界の境涯は、ことばで説明することも、
心で想像することもできないが、このいのちを、
「南無妙法蓮華経」と教えたのが、法華経だ。

万物には名前がある。
無量の知慧と力を具え、万人を救済する仏界のいのちを、
南無妙法蓮華経と名づけたのも、仏界を悟った人、釈迦なのだ。


妙とは不可思議ともいい、言語をこえたものだ。
このいのちを釈迦は、

 その身は有に非ず(アラズ)  また無に非ず、
 因に非ず、  縁に非ず、  自他に非ず、
 方に非ず、  円に非ず、  短長に非ず、
 出に非ず、  没に非ず、  生滅に非ず、

 是に非ず、  非に非ず、  得失に非ず、
 彼に非ず、  此に非ず,  去来に非ず、

否定のコトバはまだ続くが省略する。最後に、
 ただ仏の知見より生ず、と説いて終わるのだ。

法華経の序文にでる三十四非で有名な経文である。

続く


人間賛歌 若い人の仏教教室 三十四

2007年05月11日 | 若い人の仏教教室
 悪世末法の時代になると、いままでのすべての思想(宗教を含む)が効力を失い、
人類が行き詰って、どうしょうもない状態におちいることが予想される。

そのとき、
法華経の肝心、「南無妙法蓮華経」の大法を広めて、地球と人類を根底から
救う人が現れるだろう。

そのお方は地涌(ジユ)のボサツといって、リーダーの名を上行ボサツ(ジョウギョウボサツ)というんだ。
そのお方に続いて、数え切れないほど無数の地涌のボサツが現れて、
人類の宿命を転換し、
世界の恒久平和のイシズエを築くであろう。

と法華経は予言しているのだ。

注釈

釈迦が悟った永遠の生命を明かした経典が、
法華経.如来寿量品(ニョライジュリョウホン)であるが、そのなかて釈迦は、

私は昔、ボサツになる修行をして悟りを得たとのべたが、なにを悟って仏の
境涯になったか明らかにしなかった。

だが法華経.寿量品の文の底に、自分が悟った南無妙法蓮華経の大法を
秘めておいた。

この大法を末法の衆生を救う地涌のボサツのリーダー上行ボサツにゆずって、世界に広めることを託すと宣告したのだ。

地涌のボサツは地から涌き出るように、どこからともなく現れるので、地涌の
ボサツというが、いま世界中に約二千万人の地涌のボサツが現れて、
この大法の広宣流布に尽力しているのだ。


そこで釈迦は薬王ボサツはじめ他のボサツたちに、こう呼びかけた。

「この経は地涌のボサツが広めるから、あなたたちはこの経を広めなくて
よろしい」

と、薬王ボサツに法華経を広めるようすすめたのを、訂正する場面が経典
にはあるんだよ。

山本さん
「どうですかねえ、せっかく釈迦にすすめられて、その気になっているのに、
薬王ボサツは気を悪くしませんかねえ」

ジッチャン
「まあフツウはそう思うところだが、それがちがうんだね。
あまりこれについて詳しく話すと専門的になりすぎるので、省略するが...

けっきょく、地涌のボサツのリーダー上行ボサツに、この経の広宣流布を
委託して、釈迦は法華経の説法を終わるんだ。
説き始めてから六年かかったといわれている。

つづく

 


人間賛歌 仏界の境涯 一

2007年05月09日 | 仏界の境涯

 仏界の境涯 一

日蓮大聖人は承久四年(1222)、安房ノ国小湊の漁師の子で生まれた。
自らを、海浜に生まれたセンダーラ(身分の低い家)の子、
と称したように、なんの後ろ盾ももたない庶民の出身だ。

成長して仏門にはいり、 天台宗に学んで、
法華経の真髄を悟ったが、 猛勉強して、
当時、日本に渡来していた経典のほとんどを、
読破した、 といわれる。


釈迦が法華経で明かした、 仏界の生命は、
生死を超えた、 無始無終の存在で、
仏界の生命に具わる、 智慧と力は、

無量無辺で、 数えることも、
想像することも、 できないほどだ。

その仏界の生命が、 凡夫のだれにでも、
平等に具わっている、 すなわち、
「万人が仏だ」 という画期的な教えなのだ。

しかし、このことは信じ難いうえに、理解しがたいので、
釈迦は種々の方便の教え(仮の教えで権教という)を説いて、

人々のレベルを高め、最期に真実の教えである、
法華経を説いた。

「凡夫が即仏である」 法華経の真髄を伝えて、
生涯をおえたのだ。

当時、日本では仮の教えである、
念仏、真言、禅などが、広くいきわたり、
法華経の正義を信じるものは、ほとんどいなかった。

その誤りを正すために、日蓮大聖人は、
念仏無間地獄、真言亡国、律国賊,禅天魔と、
他宗の邪義を、責めたてたので、

国中の人から、仏の敵とあだまれていた。
いのちがあるのが不思議という、状況だったのである。

続く

 

 

 


人間賛歌 若い人の仏教教室 三十三

2007年05月07日 | 若い人の仏教教室

ジッチャン
「問題なのは釈迦の死後二千年たったあとに来る末法(法末時代ともいい、
正法が滅する時代のこと)の時代なんだ。

いまは釈迦の死後三千年といわれるから、末法はちょうど今の時期にあたるんだね。
この時代を五濁悪世(ゴジョクアクセイ)といい、経典には次のように書いてあるのだ。

注釈
濁り(ニゴリ). 水や液体などにまざりものが入って透明でなくなることをいう。
人間の心、性質などがけがれて清らかでなくなることを意味する。

五濁について具体的にあげてみよう。

一  コウジョク
時代の濁り、環境や社会に悪い現象が重なって起こる、時代そのものの乱れをいう。

二  衆生濁(シュジョウジョク)
衆生とはすべてのイキモノのことだが、ここでは人間をさす。
人間そのものの濁り、人間が心身ともに衰えることをいう。

三  煩悩濁(ボンノウジョク)
人間が苦しむのは煩悩があるからで、次の五つの煩悩があるとされている。

 貧  トンと読み、むさぼること。
 ジン ジンと読み、怒ること。
 痴  チと読み、愚かなこと。
 慢  マンと読み、慢心すること。
 疑  ギと読み、生命の正しい見方である正見を疑い、邪見にこだわること
      
四  見濁(ケンジョク)
思想の濁り、イキモノの根本である生命(こころ)について正しい見方をせず、誤った考え方をする。

五  命濁(メョウジョク)
生命が濁り、生命力が弱くなって自分の利益の事しか考えなくなり、他人に奉仕する利他の生き方(生命本来の働き)を忘れてしまう。

「仏教哲学大辞典、参照」


以上の五濁がいっきに噴き出たのが現在であるといえよう。
いまみんなの身の回りに起きている出来事や、人命軽視、核兵器の拡散、
地球の破滅さえ予測する情報のハンランなどをみても、

経典に書いてあるとおりの五濁悪世であることが、分かるはずだ。
このままにしておいては、ホントウに地球も人類もダメになってしまう。どうしたらよいのだろう。

次回は末法を乗り切る法華経の教えについて学んでいこう。

つづく