ジッチャン、
「ケイタくん、ありがとう。
なかなか朗読がうまいね、見直したよ。
それはそうとして、頼朝は法華経の功徳で源氏の再興をはたし、
念願をかなえたうえ、天下統一という偉業までなしたのだ。
大橋某の子息は仏門に入っていたのだが、父の行くえを案じる母の嘆きを
みかねて、山をおり父を探す旅にでたのだ。
人の集まる鎌倉に行けば、父の消息が分かるかもしれないと思い、
はるばる鎌倉にたどりついたのだね。
だが訪ねる父は罪を犯して牢に入れられ、
明日が処刑の日だ、と人づてに聞いたのだった。
絶望の底で、寺を出る時の師匠のせんべつのコトバ、
「あきらめるな、法華経で祈ればどんな願いでもかなう」
を思い出したのだ。
それが縁になっ天下人頼朝の心を動かし、父は処刑をまぬがれたうえ、
罪を許され、父子とも母の待つている九州え帰ることができたのだ。
法華経の力を知らない人は、
たまたま運がよかったのだ。と思うだろうが、
法華経の心は正義の心であり、宇宙は正義の人を好むからなんだ。
理解できないとは思うが..
「人間の最大の欠点の一つは、
理解できないことを信じようとしないことにある。
ほんとうはあまりたいして理解していないくせに」
と言ったのは鉄鋼王と呼ばれた哲人事業家、アンドリウ.カーネギーである。
ところで仏教は因果の法を教えた経だ。
自分のする行為が因で、因は果となって現れるのだ。
因には身口意の三業といって、からだでする行為、口でする行為、
心でする行為の三つがある。
善い行為、たとへば思いやりがあって、人に親切にする利他の行為は、
善い果として現れるが、悪い行為の自己中心的で自分のことしか考えない行為は、悪因で悪い果をまねくのだ。
以上はフツウの因果で、善因が善果をよび、悪因が悪果をまねくのは当然ともいえよう。
法華経でいう因果はフツウの因果の次元を超えたもので、
法華経を信じることじたいが、最高の善因となり仏界という最高の果が得られるのだ。
いままでに少しも善因をつんでいない人であっても、法華経を信じるという
最高善が、過去の悪い因をゼンブ断ち切ってくれるのだ。
戦いを業とする武家に生まれた頼朝は、善因をつんでいるとは言えないが、
法華経を信じるという大善因が、
流罪人から天下人へと大転回をする因となったのだ。
つづく、