FORZA世界史inBLOG

世界史の復習をサポートするブログです

中世封建社会

2024年02月19日 | 高2用 授業内容をもう一度

 中世西欧社会には「戦う人々(【騎士】)」と「祈る人々(【聖職者】)」と「働く人々(【農奴】)」とがいました。戦う人々を「【騎士】」といいます。騎士は広い領地を持っている「【領主】」でもあります。彼らは自分の領地を守るために、より強い者と主従関係を結びました。自分の領地を守ってもらうために主従関係を結び、その代わりに主人の命令に従って軍役の義務を負う。この関係を「【レーン制】(封建制)」と呼びます。 レーン制は日本の封建制と似てはいますが、大きく違う面もあります。レーン制の場合、主従関係は「【双務的契約関係】」で結ばれています。これは主従の関係が「契約」で定められたものであり、その契約が「双務的」だ、ということです。双務的というのは、一方方向ではないことを意味します。つまり、主人は家来が義務を果たさなければ(契約を違反すれば)、家来を保護する責任を放棄できるし、逆に、家来の側でも主人が自分を守ってくれなければ、主人に対する軍役を放棄し主従関係を解消できるというものです。 さらに、レーン制では、契約は年間40日間のみのものでしたから、一人の騎士が複数の主人を持つことも可能でした。その騎士が2箇所に分かれた領地を持っていれば、必要に迫られて、それぞれの領地を守るために二人の主人を契約を結んだはずです。以上のレーン制はあくまで「戦う人々」の間で結ばれた人間関係です。 次に領主が所有している「領地」の中には「【荘園】」という村がいくつかありました。荘園には「耕区」という農地があり、「働く人々」が耕していました。彼らのことを「【農奴】」といいます。農奴になったのはローマ帝国末期の【コロヌス】や【ゲルマン農民】、没落した【ローマ自作農】などでした。彼らはローマ末期の大混乱の中で生き抜くために、荘園に移り住んできた人々です。荘園で暮らしていれば、領主がならず者を追い払ってくれるでしょう。 しかし農奴は自分の土地を所有していたわけではなく、領主から土地を借りて食べ物を作っていました。この土地を「【農民保有地】」といいます。土地を借りている代わりに領主に対して地代を払う必要がありますが、8~9世紀ころの農奴たちは、農奴に配分されなかった良質な農地を耕して、そこで取れたすべての農作物を領主に献上する必要がありました。このように働いて地代を払ったので「【】労働地代」といいます。また、取れたものを領主がすべて受け取ることになる農地を「【領主直営地】」といい、農民保有地とは区別されました。農奴はまったく自分のためにならない農地を耕さねばならなかったので、生産性は非常に悪かったはずです。 農民保有地を借りていたので、農奴は自分の家族を養うために必要な収入を得ることができました。しかし、農民以外の者になることはできず(【転職の自由】がない)、他の土地に移り住むこともできません(【移住の自由】がない)。だから農奴を「【土地付き小作人】」といいまうす。このように基本的な人権を制限されていたわけです。さらに、【結婚税】や【死亡税】といった農奴だから払わねばならない「【身分上の税】」もあり、パン焼きの竈の使用税や森から薪を拾うことにも税を要求されました。


耕す人々と領主との関係

2024年02月19日 | 高2用 授業内容をもう一度
中世の人間関係は、土地を媒介にしたものである、と説明しました。今回は「中世」の前近代性についてです。 土地を媒介とした人間関係とは、自分が「所有」もしくは「保有」している土地を、「守ってもらう人」とその土地を「守ってあげる人」との人間関係をさします。
西欧においては、土地の所有者は「地主(世界史では領主)」ですから、自分がその土地を耕すわけではなく、農奴と呼ばれる農民を働かせるわけです。そのころは農業以外に産業はないですから、土地を所有できなかった人々(農奴)は、領主から土地を借りて生活しなければなりません。 さて、ここで問題なのは、有効な農地はごく限られていた、という点です。非常に貧しい土木工作器具しかなかったはずです。森や沼といった自然の前に、西欧の人々は大変無力でした。おそらくこの辺が日本の中世と違っていた点でしょう。ごく限られた農地を「所有」することに成功した「領主」が人口に占める割合は、5%~8%程度。理不尽な比率です。領主にとって、この理不尽さを「必然」にする必要があった。それが中世のもつ「前近代性」です。現在のわれわれにとって「理不尽」と感じられることですが、中世の人にとっては「必然」でしかなかったといえます。社会倫理が人々の思考をがんじがらめにしていたわけです。 このような窮屈さを打破する力が近代を志向したわけです。

中世社会の人間関係

2024年02月19日 | 高2用 授業内容をもう一度
土地を媒介にした人間関係が成立した時代を「中世」と呼びます。これは日本で言えば鎌倉時代の「一所懸命」の主従関係が該当しますし、イスラム世界では「イクター制」の成立(10世紀ころイラクで)をもって中世といいます。 また、多くの地域でこれら土地を媒介にした人間関係を成立させる基礎になる「精神」が存在しているといえます。西洋では「キリスト教倫理観」が社会を支配します。西アジアでは9世紀ころに完成した「イスラム倫理観」です。日本の場合「武士道」と言いたいところですが、「武士道」は江戸時代の中期以降でしょうか。「いざ鎌倉」という倫理観。まさに命がけで土地を守る為に、もしくは土地を新しく手に入れるために戦う。これが坂東武士たちの「一所懸命」の精神です。 一方、このような意味における中世は、中国ではあまり顕著ではありませんでした。10世紀前半の混乱がそうさせたのかもしれません。中国では地主階級が王朝に治安維持など、自分の土地を守る為の行為を委ねていたようです。その代わり彼らは「科挙」を通じて王朝の政治に関与していったわけです。この点についてはまたの機会に触れたいと思います。 「中世」は非常に興味深い時代です。「ダビンチコード」が西洋世界でベストセラーになるのもわかるように思います。21世紀の世界は中世に向かっていくと思います。世界史であつかうような「遅れた」時代では決してないのです。 

中世社会の農奴の義務

2024年02月19日 | 高2用 授業内容をもう一度

 中世社会は領主と農奴に大きく分けられます。領主のうち軍事関係者が諸侯・騎士で、教会関係者が大司教・司教です。また、当然のことですが、領主とは領地を持っている人のことを指します。その領地の中には荘園が点在しているわけです。そしてその荘園には農奴たちが住んでいて、領主から農地を借りる(この農地を「農民保有地」という)代わりに、自分が作った農作物の一部を領主に支払ったり(これを「貢納」という)、荘園内にある教会にも取れた農作物の10%を支払う(これを「10分の1税」という)義務を負っていました。しかし農奴の義務はそれだけではありません。領主が農奴に貸し出さなかった農地(これを「領主直営地」という)を耕すという義務(これを「労働地代」という)までも背負わされていました。


 


 


中世社会の特徴 その2

2024年02月19日 | 高2用 授業内容をもう一度

 土地を媒介とした人間関係とは、自分が「所有」もしくは「保有」している土地を、「守ってもらう人」とその土地を「守ってあげる人」との人間関係をさします。西欧においては、土地の所有者は「地主(世界史では領主)」ですから、自分がその土地を耕すわけではなく、農奴と呼ばれる農民を働かせるわけです。そのころは農業以外に産業はないですから、土地を所有できなかった人々(農奴)は、領主から土地を借りて生活しなければなりません。 さて、ここで問題なのは、有効な農地はごく限られていた、という点です。非常に貧しい土木工作器具しかなかったはずです。森や沼といった自然の前に、西欧の人々は大変無力でした。おそらくこの辺が日本の中世と違っていた点でしょう。ごく限られた農地を「所有」することに成功した「領主」が人口に占める割合は、5%~8%程度。理不尽な比率です。領主にとって、この理不尽さを「必然」にする必要があった。それが中世のもつ「前近代性」です。現在のわれわれにとって「理不尽」と感じられることですが、中世の人にとっては「必然」でしかなかったといえます。社会倫理が人々の思考をがんじがらめにしていたわけです。 このような窮屈さを打破する力が近代を志向したわけです。


中世社会の特徴

2024年02月19日 | 高2用 授業内容をもう一度

土地を媒介にした人間関係が成立した時代を「中世」と呼びます。これは日本で言えば鎌倉時代の「一所懸命」の主従関係が該当しますし、イスラム世界では「イクター制」の成立(10世紀ころイラクで)をもって中世といいます。 また、多くの地域でこれら土地を媒介にした人間関係を成立させる基礎になる「精神」が存在しているといえます。西洋では「キリスト教倫理観」が社会を支配します。西アジアでは9世紀ころに完成した「イスラム倫理観」です。日本の場合「武士道」と言いたいところですが、「武士道」は江戸時代の中期以降でしょうか。「いざ鎌倉」という倫理観。まさに命がけで土地を守る為に、もしくは土地を新しく手に入れるために戦う。これが坂東武士たちの「一所懸命」の精神です。 一方、このような意味における中世は、中国ではあまり顕著ではありませんでした。10世紀前半の混乱がそうさせたのかもしれません。中国では地主階級が王朝に治安維持など、自分の土地を守る為の行為を委ねていたようです。その代わり彼らは「科挙」を通じて王朝の政治に関与していったわけです。この点についてはまたの機会に触れたいと思います。 「中世」は非常に興味深い時代です。「ダビンチコード」が西洋世界でベストセラーになるのもわかるように思います。21世紀の世界は中世に向かっていくと思います。世界史であつかうような「遅れた」時代では決してないのです。


中世の特徴

2024年02月19日 | 高2用 授業内容をもう一度

土地を媒介にした人間関係が成立した時代を「中世」と呼びます。これは日本で言えば鎌倉時代の「一所懸命」の主従関係が該当しますし、イスラム世界では「イクター制」の成立(10世紀ころイラクで)をもって中世といいます。 また、多くの地域でこれら土地を媒介にした人間関係を成立させる基礎になる「精神」が存在しているといえます。西洋では「キリスト教倫理観」が社会を支配します。西アジアでは9世紀ころに完成した「イスラム倫理観」です。日本の場合「武士道」と言いたいところですが、「武士道」は江戸時代の中期以降でしょうか。「いざ鎌倉」という倫理観。まさに命がけで土地を守る為に、もしくは土地を新しく手に入れるために戦う。これが坂東武士たちの「一所懸命」の精神です。 一方、このような意味における中世は、中国ではあまり顕著ではありませんでした。10世紀前半の混乱がそうさせたのかもしれません。中国では地主階級が王朝に治安維持など、自分の土地を守る為の行為を委ねていたようです。その代わり彼らは「科挙」を通じて王朝の政治に関与していったわけです。この点についてはまたの機会に触れたいと思います。 「中世」は非常に興味深い時代です。「ダビンチコード」が西洋世界でベストセラーになるのもわかるように思います。21世紀の世界は中世に向かっていくと思います。世界史であつかうような「遅れた」時代では決してないのです。


中世の人間関係は、土地を媒介にしたものである、と説明しました。今回は「中世」の前近代性についてです。 土地を媒介とした人間関係とは、自分が「所有」もしくは「保有」している土地を、「守ってもらう人」とその土地を「守ってあげる人」との人間関係をさします。西欧においては、土地の所有者は「地主(世界史では領主)」ですから、自分がその土地を耕すわけではなく、農奴と呼ばれる農民を働かせるわけです。そのころは農業以外に産業はないですから、土地を所有できなかった人々(農奴)は、領主から土地を借りて生活しなければなりません。


 さて、ここで問題なのは、有効な農地はごく限られていた、という点です。非常に貧しい土木工作器具しかなかったはずです。森や沼といった自然の前に、西欧の人々は大変無力でした。おそらくこの辺が日本の中世と違っていた点でしょう。ごく限られた農地を「所有」することに成功した「領主」が人口に占める割合は、5%~8%程度。理不尽な比率です。領主にとって、この理不尽さを「必然」にする必要があった。それが中世のもつ「前近代性」です。現在のわれわれにとって「理不尽」と感じられることですが、中世の人にとっては「必然」でしかなかったといえます。社会倫理が人々の思考をがんじがらめにしていたわけです。 このような窮屈さを打破する力が近代を志向したわけです。


ノルマン・シチリア王国

2023年02月16日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【1130】年シチリア島【パレルモ】の都として【ノルマン・シチリア】王国が成立しました。もともとのルマン人は北フランスの【】ノルマンディー公国にいた人々で、シチリアには巡礼に訪れることが多く、その関係もあって移住したようです。北フランスの世界遺産モンサンミシェルと同じ大天使ミカエルを祀った南イタリアのモンテサンタンジェロへの巡礼がノルマン人も間で流行していました。ノルマン・シチリア王国建国以前、シチリア島を支配していたのはイスラム教徒でした。建国者【ルッジェーロ2世】は、イスラム教徒への迫害は行わなかったばかりでなく、【アラビア】語文献やビザンツ時代から残る【ギリシア】語文献を【ラテン】語に翻訳するなど、イスラム・ビザンツ文化を積極的に取り入れました。そのため、首都パレルモにはアラブ人学者やギリシア人学者が多く集まり、歴代の王もイスラム教徒女性によってハレムを作るなど、イスラム的暮らしを謳歌していたそうです。12世紀のシチリア島は世界にもまれなくらい異文化が共存・並存していた社会でした。
 しかし、13世紀になると国王の力が弱くなっていきました。そのため、それまで押さえられてきたイスラム教徒への迫害や攻撃が始まり、多くのイスラム教徒は迫害を避けて北アフリカに移住していきました。最終的にノルマン王は残ったイスラム教徒をイタリア半島難文ルチェーラという町に強制移住させました。こうして、異文化が共存する社会は消えていったのです。
 初代国王ルッジェーロ2世はモロッコ生まれアラブ人の【アル=イドリーシー】に世界地図を書かせています。それは『【ルッジェーロの書】』と呼ばれましたが、アラビア語で掛かれたためイスラム教世界に伝えられました。

都市の空気は自由にする

2023年02月16日 | 高2用 授業内容をもう一度
このドイツの諺には2つの意味が含まれています。キーワードは「自由」。すなわち教科書に説明されているように、農奴が荘園から都市に逃れて1年と1日都市で生活すれば、自由な身分になれるということをこの諺は示している。ここでいう自由とは、領主権からの「自由」であり、自治都市が領主権から自由を獲得しているため、都市の市民として認められれば、領主による人格的支配から自立することができる。
しかし、いっぽうで、ここで言う「自由」には限界があることも説明する必要がある。その自治都市内では、都市貴族が参議会を構成して市政を独占し、都市民を支配しているため、現在の我々が思い描くような自由な雰囲気は中世都市には存在しないという点。さらに商業活動もギルドが支配していて、自由な商業活動は認められていない。
つまり、領主に対して自由であるが、中世都市内では不自由である。

皇帝教皇主義

2023年02月16日 | 高2用 授業内容をもう一度

 東ローマ帝国で【皇帝】が東方教会を支配する「政教一致」の体制を【皇帝教皇主義】と言います。東ローマ皇帝が【東方教会】の指導者であるコンスタンティノープル教会の大司教(大主教)を任命したり、自分の言うことを聞かせたりできたので、政教一致なわけです。ここでいう教皇とは、実際の教皇ではなく、大主教のことです。皇帝が西欧の教皇を兼務しているようだ?!という意味の言葉といえます。
 【帝国教会制】という言葉と似ていますが、まったく違う内容の言葉です。


帝国教会制

2023年02月16日 | 高2用 授業内容をもう一度

 自分の領地内にある教会は、その領主の所有物である、という考え方を前提にしている制度です。この考え方を拡大すると、神聖ローマ帝国はその皇帝のものだから、その帝国内にある教会は皇帝の支配下にあるのだと、歴代の皇帝たちは主張したわけです。これを「帝国教会制」といいます。
 さらにこのことを、より具体的に話をすすます。帝国内にある教会を支配するとはどのようなことでしょうか。そもそも教会は、教皇を頂点として、各国にいる大司教が自分の大司教区内にある教会を管理しています。その大司教区は司教区に分かれ、司教がその司教区にある教会を管理しています。大司教や司教ももちもん、それぞれ教会に住んでいます。その教会は村にある教会に比べれば立派なわけです。
 神聖ローマ帝国の皇帝は教会を支配するといいましたが、つまり大司教や司教レベルの上位聖職者を任命して、自分に都合の良い人物にやらせようとしたわけです。そうすることで大きな利点があったからです。それは、彼らがいる教会は非常に大きな教会領を所有する大領主だったし、その教会領を全部あわせると、神聖ローマ帝国の土地の30%を占めるほどだったので、教会を支配することは帝国の30%を支配することができるわけです。
 


匈奴の分裂と消滅

2023年02月16日 | 高2用 授業内容をもう一度
 匈奴は【冒頓単于】の下、【モンゴル高原】と【西域】を支配して全盛期を迎えました。その後、匈奴は前漢に対して圧倒的優位を保っていましたが、前漢【武帝】は、【衛青】を【オルドス】地方に、【蒙恬】を【西域】(東トルキスタン)に遠征を行いました。匈奴と前漢の約50年間の抗争が始まったわけです。
 この長期の抗争の結果、漢は財政難となり、大土地所有が拡大して【新】の【王莽】に取って代わられます。一方、匈奴も内紛が発生し、複数の単于が即位する混乱を招きました。その結果、前54年モンゴル高原を支配する【東匈奴】と西域を支配する【西匈奴】に分裂。東匈奴の【呼韓乎単于】は前漢と結んで西匈奴を攻撃し、西匈奴を崩壊させています。そのため西域の地域は政治的に空白状態になったのです。
 その後、モンゴル高原の東匈奴は南北に分裂します。これは、【25】年に成立し、安定期に入っていた【後漢】に対し、匈奴がどのように付き合うべきか、という対応を巡って内紛した結果でした。後漢との隷属的友好関係を容認する勢力が【南匈奴】を建設しました。南匈奴は後漢の庇護を受けるようになります。一方、【北匈奴】は後漢と南匈奴に押され、モンゴル高原を捨てて「西走」し、4世紀【ハンガリー】の地で【フン】族として出現することになります。ユーラシア大陸の東の端から西のヨーロッパまで彼らは大きく移動したのです。この間、【後漢】和帝の時、西匈奴が滅んだ後の西域は、【班超】の【西域都護】が支配します。【後100】年ころのことです。
 その後、南匈奴は後漢末の混乱に乗じて【華北】に移住しました。彼らは戦乱が続く華北において【傭兵】として生活したのですが、しかし、その生活レベルは低く置かれました。【西晋】が中国を統一すると、彼らはその地位改善を求めて【永嘉の乱】を起こしましたが、やがて鎮圧されます。しかし、この乱をきっかけに、北方遊牧民族の【匈奴】・【鮮卑】・【チベット】民族などが華北に侵入し、晋は滅亡していきました。

皇帝と教皇

2023年02月16日 | 高2用 授業内容をもう一度

 【325】年【ニケーア】公会議で【コンスタンティヌス】帝が公会議を主導し議長を勤めたことは、後世にまで大きな影響を残しました。皇帝がキリスト教会の混乱に関与し、その問題解決を行ったわけです。
 キリスト教は【313】年に公認されていましたが、「イエスとは何者であるか?」という根源的な問いに対して、答えを1つに絞りきれずにいたわけです。すなわち、【アタナシウス】は「イエスは【神の子】」であると説き、【アリウス】は「イエスは【人間】である」と主張しました。このほかにも、「イエスを神」であるとする主張や、「イエスは神であり人間である」という主張もありました。ニケーア公会議では【アタナシウス】の主張を正統(カトリック)とし、【アリウス】派は異端として追放されました。
 教義内容に皇帝が関与したことは、皇帝がキリスト教を指導する立場であることを意味します。ここで問題になるのは、では皇帝と教皇ではどちらが優位なのか?という点です。もっと言ってしまえば、ヨーロッパの支配者である皇帝と、キリスト教世界の支配者であるはずの教皇との関係はどうなのか?という問題が生じたということです。西欧世界はこの問題を解決するのに1122年まで必要としました。


中世キリスト教史

2023年02月16日 | 高2用 授業内容をもう一度

キリスト教世界では,宗教界の権威(教皇)と俗社会の権威(国王)が並立し,いわば権力の二重構造とでも呼ぶべき状態が続いてきた。教皇は,【ローマ=カトリック教会】における最高権威であり,二大使徒の1人である【ペテロ】の後継者として位置づけられている。
 ペテロは,イエスの死後,ローマ帝国暴君と称される皇帝【ネロ】に迫害され殉教したのだが,彼の墓所には【聖ピエトロ大聖堂】が建立された。そもそも,キリスト教が帝国内部で迫害されたのは,キリスト教徒が,俗世間では絶対的な皇帝の権威を受容しようとしなかったからであった。
 時代は下り,教皇【グレゴリウス7世】と【ハインリヒ4世】皇帝の間で【聖職叙任権闘争】が激化した。この対立では教皇が皇帝を屈服させたが,【1122】年【ヴォルムス協約】では,新教皇【カリクストゥス2世】と新皇帝【ハインリヒ5世】の間で一定の妥協が図られた。
 教皇権の全盛期は,13世紀初頭を中心に統治した【インノケンティウス3世】の頃と考えられる。彼は当時の教皇権と皇帝権の関係を【】「教皇権は太陽であり,皇帝権は月である」という言葉で例えた。しかし,教皇権の絶頂期も長くは続かず,【教会の腐敗】や【十字軍の失敗】などが原因となり,14世紀に教皇権は衰退へと向かうことになった。とりわけ,【1378年から1417】年の【大シスマ】はその傾向に拍車をかけた。
 宗教改革の時代には,ドイツはローマ=カトリック教会に搾取されていると考えられており,自国の従属的な立場は【「ドイツはローマの牝牛」】という言葉に象徴されていた。そのような中,ルターは【贖宥状(免罪符)】の販売行為を問題視し,教皇特使と公開論争の末,教皇の権威に挑戦した。【ルター】は【1520】年【「キリスト教者の自由」】を著し,【「人は信仰によってのみ義とされる」】という【信仰義認説】を主張した。反宗教改革勢力と宗教改革勢力は鋭く対立しながら,次第に後者が力を得ていった。