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尾籠とは?(烏滸蠻・烏滸の沙汰・夜郎自大)

2013年01月06日 13時25分59秒 | 故事成語

尾籠とは -- 烏滸蠻・烏滸の沙汰 --

 それは「三国志」の時代。『後漢書』の記述に「熹平七年(西暦178年)正月に交阯郡と合浦郡の烏滸蠻がそむいた」とあるそうだ。交阯郡とか合浦郡というのは「交州」に属し、今の地図では中国・ベトナム国境付近にあたるらしい。

 その「烏滸蠻」(オコバン)というのは、いわゆる「蛮夷戎狄」(バンイジュウテキ)のひとつ。漢民族からみて「未開」とされた地域の民族である。

 当時、漢民族は自分たちと同じ文化を持たない人々を「未開人」だといって差別していた。中原(チュウゲン)から遠く離れ、民俗・文化を異にする集団として、「東夷(トウイ)、西戎(セイジュウ)、南蛮(ナンバン)、北狄(ホクテキ)」があげられる。

 孔子は、「微管仲、吾其被髪左衽矣」(管仲微(な)かりせば、吾(われ)其れ被髪左衽(ヒハツサジン)せん)と言った。

 管仲は桓公を補佐して覇者とし、天下をまとめさせた。そのおかげで野蛮人に征服されることもなく、今の私たちも恩恵を受けているではないか。もし管仲がいなかったら、我々は「頭髪はザンバラ髪」、「衣は左前」という野蛮人の風習を受け入れさせられていたことだろう・・・というのだ。

 要するに野蛮人か文明人かを分けるのは、文化・風俗なのであった。ということは、漢民族と同じ服装をして、同じ言葉を使い、漢民族の礼儀作法を身につければ「野蛮人」ではなくなるのである。そこが、人種差別などとは大きく異るところ。

 とはいうものの、ことはそんなに簡単ではない。この「風俗を同じくする」ということが、どれだけ困難なことかという例は、中国戦国時代に武霊王「胡服騎射」を採用するのにどれだけ苦労したかをみるとわかる。

 戦国時代といえば当然「富国強兵」の時代。北方地方の遊牧民族のように軽快な服装で馬に直接乗り、馬上から弓を射る戦法で戦おうではないか。という武霊王の提案に対して、家来たちは猛反発した。「ズボンなどはけるか!そりゃ野蛮人の服装だ」ということ。当時の漢民族は「寛衣」というゆったりとして、袖や裾が長く、下部がスカート状の着物を着ていた。これが真の「チャイニーズルック」であり、今日の「チャイニーズルック」は「騎馬民族」の服装なのである。ついでにいうと、今のチャイニーズルックの裾が大きく裂けているのは馬に跨(またが)りやすいようにという工夫なのであり、女性の足を露出させるためのものではない。要するに、そんな格好ができるか!ということで猛反発されたのである。

 そもそも「寛衣」というものは、乱暴なことができないように、きわめて動きにくく作られている。この服装で喧嘩をするのは至難の業。もともと自然と優雅な挙措動作が生まれるような作りとなっているのである。しかも漢民族の戦法では、このような服装の者が三人(御者・弓矢を持つ指揮官・戈を持つ接近戦担当者)戦車に乗り込み戦闘に参加するというものであったので、きわめて機動力に欠ける。

 だから、武霊王は今のチャイニーズルックのようなスポーティーな服装で、機動力を生かした戦いをしようではないか、と言ったのである。が、反対された。

 が、しかし武霊王は粘り強く家臣たちを説き伏せ、ついに胡服騎射を取り入れることに成功した。

 他にも、時代はぐぐっと下って、女真族が清国を建国するや、漢民族にも「辮髪」(ベンパツ)が強要されたけど、あまりにも抵抗が激しいので、ついに清朝は「頭を残す者は、髪を残さず。髪を残す者は、頭を残さず」といって、この規則を破るものには死刑を宣告することとなった。

 このように、ただ単に風俗を改めるということがいかに困難なことであるかは歴史から読み解くことができる。

 ところで、中華思想では蛮夷の「文化」に対する差別はあったが、「人種」や「血統」については、あまり頓着していない。蛮夷とされている遊牧民族から王室にお嫁さんを迎えたりしているし、そのことについては「胡服騎射」にあれほど反対した人々も何も文句を言っていないのだ。

 もっというなら、唐の玄宗皇帝につかえた晁衡(チョウコウ)こと阿倍仲麻呂の例があげられる。唐の長安といえば、当時では世界第一級の国際都市。そこで国家公務員となった阿倍仲麻呂は、中原の人たちがいう「蛮夷戎狄」から、さらに遠く離れた、想像を絶する世界から来た人であった。それでも、中原の文化を身にまとい、公務員試験に合格しさえすれば、玄宗皇帝に抜擢され「左補闕」という官位にまでのぼった。李白・王維などと対等にお付き合いをしたし、詩の応酬もあり、尊敬されていた。

 同じ唐の詩人で漢人である杜甫は、国家公務員試験になかなか受からず、心がいじけてしまって「貧交行」という詩を詠んでいる。

 君不見管鮑貧時交  君見ずや 管鮑貧時の交
 此道今人棄如土    此の道 今人棄てて土の如し


 公務員試験に落第したら、昔の友人はみな知らぬ顔をして相手にしてくれなくなった。
 さきに登場した管仲鮑叔のような深い友情はどこへ行ってしまったのか?
 そんなものは、今時の人間はちりあくたのように捨ててしまっている、というのである。今時といっても奈良の大仏様ほどの古さの「いまどき」である。

 杜甫ですら、ノイローゼになるほどの「科挙」の試験にすんなりと及第するほどの天才であった阿倍仲麻呂は多くの人から愛された。けれどもその出身は現在の日本。日本は当時の人々の感覚からすると想像を絶する世界で、今の我々の感覚でいえば「火星から来た人」みたいなものではなかろうか。でも、その「火星」から来た人を誰も差別しなかった。漢人の文化にさえ馴染めばそれで対等におつきあいできたのである。

 いまだに外国人が公務員になれないどころか、参政権すら与えられない国とは大違いである。

 またまた、蛇足が長くなってしまった。

 肝心の「烏滸蠻」(オコバン)である。

 漢人の「中華思想」を取り入れた我が国でも、表面的にそれを真似して、たとえば都から遠く離れた関東以北の人々を(えびす)などといって差別した。ついでに「烏滸蠻」(オコバン)の人々まで侮蔑し、誰かがヘンなことをして「愚かな奴め!」と罵るとき、そのような所業は「烏滸の沙汰」おこのさた)だ!などというようになった、つまり、そんな馬鹿な行為は「烏滸蠻」(オコバン)の人がするようなことだ、というのである。そこから「おこがましい」などの言葉も生まれた。とにかくひどい差別語だ。

 さらに物好きな人がいて、この「おこ」ということばに当て字を作った。訓読みで熟語を作り「尾籠」(おこ)とした。

 もっともっと物好きな人がいて、この「尾籠」(おこ)を、さらに音読みして「尾籠」(ビロウ)。

 そこから、「尾籠」(ビロウ)ですが・・・などという言い回しが生まれた。

 全く複雑なことをしてくれたもので、衒学趣味というのは本当に困ったものだ。

 自分たちは「夷狄」とされる人々の、そのまた外側にいるというのに、中華思想を真似するなんて、なんと「夜郎自大」な話だろうか。

 ということで、次回は「夜郎自大」をやろう!

 → 盃中蛇影(盃中の蛇影)<故事成語>
 → 蛇足(画蛇添足)<故事成語>
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