日々の気になるトピックス

瀬尾佳美の暇つぶし日記

日向子女史の著作を読み直す(1) 吉良供養

2005年07月27日 | Weblog
「快挙とも義挙ともはた壮挙とも言われる義士の討ち入りはまぎれもない惨事だと思う(ヒナコ)」


忠臣蔵の討ち入りは今なお持てはやされているが、日向子氏は「吉良供養」の中でこれを大義なき大量殺戮だと言い切っている(彼女は可愛い感じだが意外にものをハッキリ言う人であった)。その通りだと思う。

赤穂の浅野内匠はかなり子供じみた人物に見える。現代のサラリーマンとて気にいらない上司の1人や2人いない者はない。それでも灰皿一つ投げずに我慢するのが大人というものだ。まして武士が、教育的指導を根に持って、いきなり刀を抜くなど言語道断の所業ではなかろうか。「即日切腹」という処置からも、内匠の行動が当時としても如何に非常識であったかが読み取れる。芝居では内匠は「この田舎者が」といわれてキレたことになっているが、「ほんとに田舎者なんだからしょうがねえじゃねえかなあ」(←北野武言)。

ちなみに幕府隠密の内偵記録によると、赤穂の浅野内匠は大変な女好きで昼夜問わず女と閨にこもっており、政治は家老にまかせきりだったらしい。

テレビの侍は町人に対してでも簡単に刀を抜くが、実際には当時武士が刀を抜くのにはそれ相当の覚悟が必要であったらしい。そういう意味では、松の廊下の暴行に対して幕府がとった、内匠の切腹と藩の取り潰しは当然の処置であったと言える。

仮にこの処置が妥当でなかったとしても、決定したのは幕府である。藩がつぶれて失業した浪士たちには気の毒であるが、恨むべきは第一に主君、第二にせいぜい幕府だろう。吉良は主君に暴行を受けた被害者であり、逆恨みするにしても方角が違う。

世の中には浅野びいきを「判官びいき」だと思っている人がいるかもしれない。が、浅野は田舎の弱小大名で、吉良は大大名であったかのように思っていたら大間違いだ。事実は逆で、浅野は5万石、対して吉良の禄高は4千200石であり、浅野の方が10倍も大きい。つまり大大名が小国に対してけんかを仕掛けたわけである。ちなみに吉良上野介は、地元では慈悲深い名君として知られた人物であったようだ。

討ち入りは、失業武士団の気晴らしのためのテロ攻撃だったと思う。検視後の吉良サイドの死者23名、負傷者16名。ロンドンの自爆テロなみの大惨事である。なんと数えで15歳(満14歳)の茶坊主まで殺されている。

狙われたのは吉良邸だが、討ち入りの時にはすでに上野介は隠居しており、当主は上杉からの養子左兵衛義周(当時18歳)だった。この人はテロ当夜こそ一命を取り留めるものの、不始末の責任を問われて流罪、幽閉先で二十歳そこそこで衰死させられている。とんでもない災難だ。流罪の身の義周は検視まで埋葬もゆるされず、家臣は青年の遺体を泣く泣く塩づけにして見守っていたという。

「事後二百八十年、今尚この大量殺戮は賛美され赤穂主従の墓所泉岳寺もたいそうな景気だが、片や吉良家の「忠臣」はその埋骨の地点さえ分からない。いわく大義悉くを滅す」(日向子氏)復讐に名を借りた集団暴力。これを賛美までする日本人とは・・・ 



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