7.レクイエム・雪
今日降る雪の
いやし(重)け よごと (大伴家持「万葉集」第四五一六番)
今日降る雪の
いやし(重)け よごと (大伴家持「万葉集」第四五一六番)
万葉集の掉尾、第四五一六番の大伴家持の歌、「新しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いやしけよごと」の終わり二句である。
「餘其謄(よごと)」が「慶事(吉事)」あるいは「寿詞」(小野寛解釈)とは、すぐに思いつかなかった。「餘」すなわち「余り」という言葉は「余計」「余分」などエコの現代ではマイナスイメージが強い。しかし、考えてみれば、万葉集の時代には食物に限らず「あり余る」ほど物があるということは最高に素晴らしいことであったろう。「余事」は「慶事」そのものなのだ。
「餘其謄(よごと)」が「慶事(吉事)」あるいは「寿詞」(小野寛解釈)とは、すぐに思いつかなかった。「餘」すなわち「余り」という言葉は「余計」「余分」などエコの現代ではマイナスイメージが強い。しかし、考えてみれば、万葉集の時代には食物に限らず「あり余る」ほど物があるということは最高に素晴らしいことであったろう。「余事」は「慶事」そのものなのだ。
大雪の年は豊作だと言われているらしい。事実かどうか知らないが、寒ければ寒いだけ害虫が死ぬと理由づけられている。それでなくとも、しんしんと凍る夜に降り続く雪にはむしろ暖かさを感じる。近頃、めっきりと少なくなった雪の夜の静けさは心も落ち着き、深い眠りにさそわれる。これは都会人の感慨であり、豪雪地帯ではまた異なった気持ちが湧くものかもしれない。
そしてまた降り続く雪にはまた別の思いに誘われる。雪で死んでゆく害虫は死ぬことで豊穣をもたらすのだろうか?
たとえば戦争中なら戦死は犬死ではなく、来るべき時代の礎として称美される。戦争でなく革命にあっても、銃に倒れることが無駄死にだとは考えられてはいないだろう。敗戦や敗北が死を無駄死にと思わせることがあるにしても、無駄死にと分って死んで行った者は少ないだろう。しかし、結果として、無駄死に、いやそれ以上に犯罪者として扱われることも少なくない。
害虫は無駄死にに過ぎないのだろうか?雪の下に埋もれた死者の墓標にも唾やペンキが掛けられることさえある。あれから数十年が経った今も豊穣の気配はない。それどころか、ますます吐きかけられる唾ばかりが増えているように思える。だが彼らが無駄死にだったとしても、生き残った者はそれほどに豊かさをもたらしたのか?無駄に生き続けているに過ぎないのではないだろうか。同じように余計者なのではないか。しかし、生き残った者の不甲斐なさを見るにつけ、余計者、半端者とされた者こそ善き者だったように思えるのだ。
たとえば戦争中なら戦死は犬死ではなく、来るべき時代の礎として称美される。戦争でなく革命にあっても、銃に倒れることが無駄死にだとは考えられてはいないだろう。敗戦や敗北が死を無駄死にと思わせることがあるにしても、無駄死にと分って死んで行った者は少ないだろう。しかし、結果として、無駄死に、いやそれ以上に犯罪者として扱われることも少なくない。
害虫は無駄死にに過ぎないのだろうか?雪の下に埋もれた死者の墓標にも唾やペンキが掛けられることさえある。あれから数十年が経った今も豊穣の気配はない。それどころか、ますます吐きかけられる唾ばかりが増えているように思える。だが彼らが無駄死にだったとしても、生き残った者はそれほどに豊かさをもたらしたのか?無駄に生き続けているに過ぎないのではないだろうか。同じように余計者なのではないか。しかし、生き残った者の不甲斐なさを見るにつけ、余計者、半端者とされた者こそ善き者だったように思えるのだ。