歌舞伎蔵(かぶきぐら)

歌舞伎を題材にした小説、歴史的時代背景を主に、観劇記録、読書ノート、随想などを適宜、掲載する。

麦秋19

2020-06-12 09:58:03 | 時雨傘

「代官所でも時雨庵の亭主の名は明かされなかったのう」正朔が確かめるように言った。
「へぇ、お役人に聞かれましたけど、うちは何にも聞いておりません。先生のお世話をしてくれと兄さんに頼まれただけだす、いえ、お役人にはそないことは言うとりません。打ち合わせ通り三次さんにたのまれたというときました。見ていて不自由そうなんでお役に立つことないかとたのまれただけじゃと申し上げてます」
「それでよい、そう打ち合わせて代官所に参った。今もそう信じるようにしておくのがよい。正直なとこは忘れておけ」
「そうしてます。そないな嘘をつかなならんのか、うちには分かりませんけど・・・」
「それはともかく、これは何か分かるか?」
 正朔は正三に一枚の反故紙を手渡した。正三が広げてみると皺だらけながらはっきりと読める。「有節不預竹、三星廻月弓、日下在一人、一人在一星」
「これは?」
「実は時雨庵の書箱の奥にあったのじゃが、漢詩というわけではなさそうじゃが」
「五言絶句の形ですが、特に韻を踏んではいないようですね。これは清太郎殿が書かれたものですか?」
「いや、わからぬ。清太郎の手跡も知らぬ。誰が書いたにせよ、意味がわからぬ」
「そうですね、星、月、日、これは暦法が絡んでいるようにも思えます。しかし・・・しばらく考えてみましょう」


麦秋18

2020-06-11 13:07:05 | 時雨傘

「それはそうと、もうひとつ話がある。お俊坊の兄者から手紙が参った」
 三次のお役は探索ゆえ、やむを得ぬが、お俊坊も三次を亭主にするなら覚悟しておかねばなりませぬぞ」
「そうだすか・・・けど、兄さんはお尋ね者なんかとちゃいます」
「手紙には居場所も名も書いてはおらん。ただ「ちもり」と奥付にある。「ちもり」というのは代筆した男、いや女かもしれぬが、その名ではないかな?名も明かせぬぐらい警戒しておる」
「やっぱり兄者は・・・」お俊の顔が曇った。
「そうよのう」正三も正朔もそれ以上、言うことはできない。この先、どのような展開になるか、このまま何事もなく兄が大坂に戻って来ることができるか、確かなことは今は何一つない。
「そうよのう」正朔がまた、つぶやいた。
「親方、ちがうと言うんだすか?やっぱ兄さんは何か悪事を働いて逃げてると思うてはるんだすか?」
「そんなことない、が、そなたの兄者と話ができれば、何かが分かるかもしれん」
「何かって何だす?お二人の心中に何か隠れたことでもあるんだすか?」


麦秋17

2020-06-05 09:18:56 | 時雨傘

「ははは、そらえぇ。そしたら三次がさぞかし気をもむことじゃろ」正朔もめったに口にしない大坂言葉で返す。
「三次が気をもむ・・・やはり、そういうことですか」正三は納得した。どうやら話は進展しているようだ。
「三次も間ものう三十になりましょう。遅いぐらいです。お俊坊は?」
「三次さんって、もう三十歳におなりだすか・・・」
「聞いていると思っていたが、三次は孤児で年もよくは知らないらしい」
「へぇ、孤児とは聞いておりました。けど・・・三十歳だすか」
「そうよのう、そなたには年過ぎるかのう」正朔がつぶやく。
「けど、そないには見えません。それにもっと若いかもしれん」
「わたしが初めて三次に会うたのは、伊勢に行く時じゃったから、おそよ十年前になる。その頃、十七、八歳に見えた。けど、もう少し若かったかもしれん」
 正三が言うのは宝暦六年(一七五六)四月、伊勢に移った角之芝居を助けるために行った時のことだ。九年前になる。
「どうやら、お俊坊は三次を亭主に迎える気があるらしいのう。正三、お前から三次に打診してやってくれ」
「まあ、さような役目はお由の方がよろしいでしょう。お由に言っておきます」


麦秋16

2020-05-26 09:36:50 | 時雨傘

 徳三は長年、半二の弟子として修業していたが、結局、作者になるにはいたらず、京都に去った半二を追うこともなく、正三の弟子、奈河亀輔の弟子となり歌舞伎の世界に移ることになる。この近松徳三が『伊勢音頭恋寝剱(いせおんどこいのねたば)』で名をあげるのは三十年近くも後、四十五歳を待たねばならない。
この日、正三は半二にお勢の兄、清太郎のことを言いそびれた。そもそも本当に堀江の芸妓お千と心中したのは清太郎かどうかも定かではない。代官所ではあくまでも浪人として扱われていた。正三はそのことにあまり深入りしたくはない。それが半二に事件を知らせることを躊躇した一番の理由だ。竹本座の作者部屋から出ると、ほんの数軒先の父の住まいを訪ねてみた。
 意外なことにそこにお俊が来ていた。正朔の話では先日以来、何度か来ているとのことだ。まさかとは思いながらも、正三もからかい口調になる。
「父上、ぼちぼち後添えをお貰いになりますか?」
「お前まで何、言う。お俊坊が気を悪くする」
「そんなことありまへん。うち、ここへ住みましょか」
 お俊は正朔に体を寄り添えた。冗談にしても正三に対してか、正朔に対してか分からない馴れ馴れしさだ。


麦秋15

2020-05-25 09:12:42 | 時雨傘

 徳三は道頓堀の芝居町立慶町の南の伏見阪町の置屋大槌屋の息子、十七歳になる。子供の頃から芝居小屋や通りで何度か見かけた。路地裏で遊ぶ子供らと一緒の時もあったが、おとなしいという印象しか正三にはなかった。
「そうか、おぬしも作者を目指しておるのか」
「はぁ」徳三は俯いて小声で答えた。
「なかなか五八のようにはいかん。いつになれば作者の仲間に入れるかのう」半二はあまりこの弟子を気に入っている様子もなく、たんたんと述べる。
「五八さんは近々、道頓堀にもどられるのですか?」
「そうか、そうか、おぬし、五八の後にくっついて遊んでおったの」正三ははっきりと思い出した。五八が道頓堀からいなくなって、この徳三も見なくなった。「そうか、半二殿の弟子になっておったのか。知らなんだ」
「弟子といっても」徳三のことばをさえぎるように半二が言う。
「まだ、使いっぱしりじゃが、名ぁだけは近松徳三と一人前に名乗らしておる」
「五八もまだまだ先のようじゃ。今は京都で小芝居を作っている。おぬしも焦らずともよかろう。あいつはわしの弟子じゃと公言しながら、一人で好き勝手やり放題、弟子なんぞと言っても、それこそ名ぁだけのことに過ぎぬ。おぬしは半二さんには教わることも多かろう。いずれ五八ともまた顔合わせをしたら、驚かせてやれ」
「はい」と言ってまた俯いた。