歌舞伎蔵(かぶきぐら)

歌舞伎を題材にした小説、歴史的時代背景を主に、観劇記録、読書ノート、随想などを適宜、掲載する。

般若楼1

2017-03-12 10:01:38 | 女歌舞伎襤褸鑑2

 おれはうす暗い街道を急ぎ足で歩いていた。ほかに道行く人とてないさびしい時間であった。冷たい風がおれの髪を巻き上げていたが、やがて生暖かい夕餉の匂いを交え始めた。遠くでちらちらと街の明かりが灯るのが見えだした。おれは頭が少しずつ重くなり、視界はますますぼんやりしていくように感じた。今晩はあの街で一泊せねばならぬ。
 街道ぞいの旅籠の前では客引きの女たちの声がかしましかった。その中に長介がいた。遠くから寺の鐘の音が聞こえてきた。ここは旅籠なのか、遊郭なのか、おれにはわからなかった。長介がいるからには伏見なのか。店の中に入ると、長介は手にした蝋燭に火をつけて、おれを薄暗い廊下へと導いていった。どこからか男の声が聞こえてきた。
 「いらっしゃいませ、布袋屋般若楼へ。いい子ばかりでございます。しかも部屋はひろびろとしておりますぞ」
 長介はすでに酔いがまわっているようだった。階段をのぼる足つきもおぼつかなく、時に後からのぼるおれに倒れかかってきた。階段をのぼって二階にあがると、どの部屋からも酒宴のざわめきが聞こえてきた。廊下ですれちがった遊客に長介はしなだれかかり、手を取っておのれの胸元に導き入れた。おどろいて手を引っ込める客もいれば、長介の胸をなでまわす客もいた。やがて長介はおれを部屋のひとつに案内した。