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中学生のための人間=人間交際学」講座~「いじめ」を考える授業~

2011年04月23日 | ホリスティック教育研究

中学生のための人間=人間交際学」講座~「いじめ」を考える授業~

1 中学生のころ―二回目の誕生を迎えるころ―

わたしたちは、いわば、二回生まれる。一回は存在するために、二回目は生きるために。(ジャン=ジャック=ルソー『エミール』より)

人は二度生まれると言われます。一度目は母から生を受ける誕生です。
二度目は子どもから大人なるための、自らが自らを生む誕生です。
そして、いずれも陣痛(じんつう)を伴います。
一度目は女性である母の身体の痛みであり、二度目は男女問わず自らの「こころ」の痛みです。
母は陣痛の痛さを憎まない、むしろ、痛ければ痛いほど生んだ赤ちゃんへの愛とつながりは深くなるとも言います。
中学生の君に、もうすぐ「陣痛」がやってきます。

2 「人間交際」に立ち返る―もしかすると、「社会科」は「人間交際科」だったのかのしれない?!―

“Society”の訳としての「社会」

幕末から明治初期にかけて様々な訳がありました。
交ル 集ル 会 結社 仲間 懇 一致 社中 組 組合 人間など

福沢諭吉「学問のすゝめ」の中で変わった「社会」
第 9編(1874年・明治7年)では「人間交際」という言葉を使っていた。
第17編(1976年・明治9年)では「社会」を使うようになった。
(参考文献:斎藤毅『明治のことば』講談社)

君たちが何気なく使っている「社会」という言葉にも歴史があります。
かつて、中国で使われていた「社(やしろ)」で「会(あう)」は、すなわち宗教的な地域的な人間関係や組織を意味していました。
今、その意味はまったくと言っていいほどありません。
それは、明治時代に入って欧米の人や文化との接触を通じて手に入れた「思想」を、如何にして日本人が日本語・漢字文化に翻訳して使うのかという努力の賜物(たまもの)だからなのです。
しかし、翻訳の過程における試行錯誤を見ると、訳語が定まる前のもとの「思想」がよく見えてきます。
「社会」より「人間交際」の方が具体的なのかもしれません。
そして、中学校社会科で学ぶことは、中学生のための「社会=人間交際学」であってもいいはずです。

3 中学生のための「社会=人間交際学 」~たとえば「いじめ」を考える~

「『いじめ』をしたことのある人、手を挙げなさい!」と言われて手を挙げることができる人は何人いるでしょうか。ほとんど、いないのではないでしょうか。
「それでは、『いじめ』をしたことのある人、心の中で手を挙げなさい!」と言われて手を挙げる人は何人いるでしょう。その数はあまり増えないのではないでしょうか。
やったことのある人の中に、明確に意識している人の数は多くありません。
そのほとんどが、たとえやっていたとしても、いじめていることすら自覚していないことが多いのではないでしょうか。

「いじめ」の定義

「いじめること。特に学校で、弱い立場の生徒を肉体的または精神的に痛めつけること。」とあります。
「いじめる」とは、「弱いものを苦しめる。」
  『広辞苑(第四版)』岩波書店より
「いじめる」とは、
 ①〔弱い立場にある者に〕わざと苦痛を与えて、快感を味わう。
 ②限度を越えて、乱暴に物を扱う。
  『新明解 国語辞典(第三版)』三省堂より
今(1997年当時)話題の『新明解』の方が的を射ているように思います。
「わざと」「快感」「限度を越えて」「物」というキーワードで説明しているところがすごいですね。
『広辞苑』のいいところは、「肉体的または精神的に」というところでしょうか。

さて、いじめの対象は、「弱い立場の生徒」「弱い立場にある者」だとあります。
それはだれが判断するのでしょうか。
「強い」「弱い」は、主観的な判断でどうにでもなります。
いや、判断などしていないかもしれません。
やっている本人は無意識のうちに、いじめたくなっていじめていることもあります。
「わざと」とありますが、本人は故意にやっていると思っていないこともあります。
「快感」もそれ自体、意識された目的ではなく、無意識のもとでの目的となっていることもあるのではないでしょうか。

だから、いじめについてどんなに論理や理屈の通った話をいくら聞いても、頭で理解したとしても、無意識の行動はとめられないのかもしれません。
自分は「いじめなんかしていない」と思っている人も、もしかしたらやっているのかもしれないのだ、ということだけでも理性のどこかにインプットしておいてほしいと思います。
過去の出来事を思い出し、もしかしたら、あれがそうだったのかもしれないなど気がつければ、一歩前進かもしれませんね。

今度は逆に、「いじめられたことのある人、手を挙げなさい!」と言われると、「いじめた人」の場合の質問に比べて手は挙るのではないでしょうか。
でも、いじめられた苦痛を味わった経験をもっていても、手を挙げない人も多いものです。
心の中では挙手できる人は、たくさんいるはずなのに……。
それは、なぜでしょうか。
それは、人としての「プライド」があるからかもしれません。
「いじめられた」=「弱い立場、みじめな思いをした人」というレッテル、もちろん他人から張られたくないし、決して自分では認めたくないのです。
「いじめ」がしばしば、深刻になるまで親や教師、友だちにさえ「SOS」を発信できないのは、相手から「告げ口をするな、すればもっと痛い目にあうぞ」と言われていたり、そう思わされていたりすること以外にも、これも1つの理由だと思います。いじめられている子の、ぎりぎりのところにあるプライドです。

そして、「いじめを目撃したことのある人、手をあげなさい!」と言われれば、多くの人が挙手をするにちがいありません。
でも、「そのとき、あなたはどんな行動をとったの?」と尋ねられて、明快な答えを言える人はいないのではないでしょうか。
とめに入った人は?! 先生や大人に相談にいった人は?! この人たちは勇気ある行動が取れた人だね。
友だちと「どうしたらいい」と相談した人、友だちとそのうわさ話をするくらいで何もしなかった人、結構たくさんいるんじゃないの。
いや、むしろ、自己防衛のためにする側にすり寄ってゆき、いじめに加わっていった人も少なくないはずです。
かつていじめにあって、今いじめをする側に入っている人もいるのでは……?

いじめの構造の問題点は、ここにあります。
している側にしばしば自覚症状がないこと。
あってもされている側が「SOS」を発信できない状態に追い込んでしまっていること。
される側の人としての「プライド」ゆえに、あえて「SOS」もせず必死で耐えていること。
周囲の人間が、いじめを助長することや許容することはあっても、有効な対策を考えられず、誰か相談もできないでいること。

では、いじめられているあの子は、どうなるのでしょう。

「いじめ」をめぐるシミュレーション

あの子は自殺する(間接的な他殺かもしれない):最悪・犯罪
あの子は病気になる(ストレスが将来、悪い病気を誘発する) 
あの子は不登校になるのかもしれない
あの子は「自分(個性)」を殺す=「みんな」と「仲よし」になる:個性の抹殺
あの子は「みんな」に合せるようになる
あの子のいじめは「解決」した?!:「幻」の解決
あの子は「みんな」と新たに別な子をいじめるようになる:いじめの再生産
「みんな」で授業中の発言や討論を抑えるムードをつくる 
「みんな」で学力の向上をさせない、受身の学級・学年・学校をつくる 
「みんな」で異なる考えや立場を認めない学級・学年・学校…日本…をつくる:いじめの構造

世間では、しばしば、こういう声が聞かれるます
「いじめる子どもが悪い、厳しく制裁を!」
「学校や教師が悪いから、いじめが起こる!」
「家庭の躾(しつけ)がなっていないから、起こる!」
「社会や時代が悪いからだ!」などと言われる。
悲しいことに、本人は心もからだも痛めつけられているのに、追い討ちをかけるように「いじめられる子にも問題がある!」「やられて当然よ」などという人もいる。
果たして、それでいいのでしょうか。
なんかだれかを「悪者」に仕立て上げようとしているだけみたいですね。
それで、いじめは解決できるのでしょうか。

答えは、「NO!」です。

では、どう考え、どうすればいいのでしょう?
いじめている子もいじめられている子もまわりにいる子も、決して悪くありません。善悪でいじめを捉えたら解決の糸口を見逃してしまいます。
(もちろん、いじめが犯罪になり、裁きを受けなくてはならない場合もあります!!)
いじめは、人と人とのつながり方そのものなのです。
みんな、人と人とのつながり方を間違えているか、別のつながり方があるのに気づいていないのです。

いじめられている子へのメッセージ

まず、「二度目の誕生に伴う君の『陣痛』、その痛みが痛ければ痛いほど、その痛みをまるごと受け止めることができるならば、美しい人間になれる」と言いたいです。
そして、「夢を持て、希望を持て!」と言いたいです。
かつて、アメリカのキング牧師は「私には夢がある」と演説し、黒人差別のない時代や社会を夢みました。
その希望は単なる夢にとどまらりませんでした。
夢は実現しつつあります。
さらに、「勇気を持て!」と言いたいです。
相手は君が嫌な思いをしているということに気づいていないことがあります。
「NO!」「やめて!」「いやだ!」と毅然(きぜん)とした態度をとること。
自分の心の中のプライドにしがみつくのではなく、相手に自分のプライドを伝えること、気づかせてやることが大事です。
君は、いじめられて悲しい思いをしているが、いじめている子はいじめることでしか、君とつながれない悲しい人なのです。
「NO!」と言えることは、君自身を救う方法であると同時に、その悲しさから相手も救うことになります。
できるだけはやく、相手に君が嫌な思いをしているということを気づかせることです。

それでも夢も希望も持てず、勇気も持てず、何も言えないときはどうするのか。でも、あきらめることはありません。
そんなとき、ゆっくりだが、きわめて単純で変化・変容が期待できる毎日の過ごし方もあります。(参照:4※)

いじめている子やまわりの子たちへのメッセージ

まず、自分が無意識のうちにいじめているのかもしれない、ということに気づく「勇気」を持つことです。
いじめている人、特に自覚症状のある人は、最悪のとき、罪を犯すことになることにもつながる行為に関わっているのだ、という認識が大切です。
でも、罪を犯すとまずいから、やめとておくと考えるのではなく、自分の中の怒りや憎しみの種にこころを奪われることなく、心底、「心から喜び、分かち合える楽しみ」を探し出すようにこころがけることです。

「喜びはいじめを超える」ことに気づいてほしい。

長年の習慣は恐ろしく、頭でそのことを理解しようにも、からだが「怒りや憎しみ」に反応する、感応するようになってしまっている場合が多いのだ。そんなとき、どんなに有難い心構えを教えられてもだめです。
分かっているけどやめられない、などということもあります。
では、どうすればいいのか。もう、あきらめるしかないのでしょうか。

答えは、「NO!」です。

そんな「怒りや憎しみ」に感応する凝り固まったからだをほぐす方法があります。(参照:4※)

いじめの側にすり寄ったり、傍観したりしている大勢の人にも「勇気を持て!」と言いたいです。
いじめをしている張本人ほど「弱いもの」はないと思ったほうがいいです。
自らを制することのできない、悲しくかわいそうな人間なのです。
そうした悲しい人たちに加担したり、何もできずにいたりすることは、その悲しい人を救うことができないばかりか、自分もその悲しい人たちの仲間入りをすることになるのです。
そして、やはり最悪の場合、共犯者になってしまうかもしれません。
小さな「勇気」もたくさん集まれば、大きな「勇気」になるし、いじめに対して毅然と「NO!」と言える仲間を探してほしいです。
そこここにたくさんいるはずです。

でも、それができずに引きずられてしまう人もいるでしょう。
そんな人は、小さな「勇気」も持てないのは、凝り固まった自分のからだがそうさせているのだ、と思った方がいいです。
だから、君もそんなからだをほぐす方法を毎日やってみるといい。徐々にではあるが、ゆっくりとほぐれてきます。
そうすれば、あの人からのプレッシャーや脅威をはねのけるからだができ、気持ちもすわってくるはずです。(参照:4※)

4 凝り固まった君の「からだ」をほぐす作法 ※

凝り固まったきみの「からだ」をほぐす作法は、いたって簡単!
はじめのうちは奇妙に思えたり、奇妙に思われたりするかもしれませんが、毎日続けてください。
厳しい修行でもなければ、難しい苦行でもないのですから。

凝り固まったきみの「からだ」をほぐす作法

「笑う門には福来る法」~朝起きて朝飯前の高笑い~
 処方箋:毎日、朝起き抜けの、朝飯前に数回笑う。
「陽気高める呼吸法」~吸っては吐いて吐き切って~
 処方箋:食後以外は時を選ばず、数回ずつ。
 ふつうに吸って、ゆっくりと吐き切ること数回ずつ。

丹田(たんでん):おへその下に、笑ったときに堅くなる部分がある。
そこがキーポイント。ここに、陽気をためるようにイメージしよう。
呼吸法では、怒り・不安・憎しみなどの気持ちを「吐き切る」ようにしよう。

付録「逆中の順 ~発想の転換のすすめ~」

「人の一生は順境有り、逆境有り。消長の数(すう)、怪しむべき者無し。余(よ)又自ら検するに、順中の逆あり、逆中の順有り。宜(よろ)しく其(そ)の逆に処して、敢(あ)えて易心(ししん)を生ぜず、その順に居て、敢えて惰心(だしん)を作(おこ)さざるべし。唯(た)だ一(いつ)の敬の字、以(もっ)て逆順を貫かば可なり。」(江戸時代の思想家・佐藤一斎、1772~1859)

注                 
 易心(ふてくされおろそかにする心)
 惰心(安心してなまける心)
 敬(つつしむという意味)
(1997年中学校1年対象実践)



2 コメント

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ドウモ (momo.com♥)
2011-05-22 16:50:54
今ウチのクラスでは、イジメまではいかないものの、イジメもどきがおこっています。私は一応学級委員長なので、責任を感じます。どうすればいいですか??
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レスポンスします (Mr.Narick)
2011-05-22 20:26:00
ご質問、ありがとうございます。状況がよく見えていないので、的を射たレスポンスができるかどうか心配です。中学生なのかな?
おそらく如何なる場合でも言えることは、イジメもどきにあっているその人を決してひとりぼっちにしないようにすることです。あなたの立場もあるかもしれないけど、ともかく陰日向でその子とつながってあげることです。あと、学級委員長さんだとしたら、「喜びはイジメを超える」という言葉忘れないでください。イジメをする喜びではなく、クラスや仲間とともに「つながる」喜びを共有できる場面をたくさん作っていくようにすることです。どちらもそんなに難しいことじゃないので、無理せずやってみてください。ゆるやかな「つながり」を大切にね。
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