ラティハン日記2

ラティハンと人生の散歩道

「万人に開かれる」という事。

1958-05-01 | 日記
始めから100%正しい動機や理解をもってラティハンに来れる人はいませんね。

それは無理です。

だからこそラティハンが出現したのですからね。


そしてラティハンを受ける上でのルール、「無用の混乱やら他人に迷惑をかけない」という程度の作法を守ってもらえるならば、希望するすべての人が参加できるのが理想です。

その人がラティハン以外のところでどのような思想や信条や生活習慣をもっていたとしてもそれはその人の自由、そして責任ですよね。

一般論として「こんな事はラティハンの邪魔になります。」という事はアドバイスはできますが、それすら受け入れるかどうかは最後は個人の選択の問題です。


もし宣誓が必要だとしたら「ラティハンの作法に従います。」程度で十分。

それ以外の要求はすべてラティハンの入り口を狭くすることにしかなりません。

そうして、そうなってこそ「万人に入口が開かれている」というものですよねえ。

2013・3・5


PS
2年ほど経ちました。

でも、基本的な認識に変化はありません。

付け加える事があるとすれば、バパに敬意を表して「バパのラティハンについての説明は聞いていただく」という程度でしょうか。

それで本人が納得してラティハンに参加を希望すれば、それで済であります。


そうして、あんまり大事にラティハンを仕舞い込んでいると、そのうちにこの国からはラティハンは蒸発してしまう事になりそうですので、、、。

まあ「大事にするのもほどほど」にしないと「誰の為のラティハン」なのか、「何のためのラティハン」なのか、訳がわからなくなりそうであります。

PS
ラティハンというのはインドネシアが発祥の地であります。

そうであれば、彼の地では常識とされる考え方が協会の中に入り込むのは、まあ致し方ない事でありましょう。

しかしながら、我々インドネシア以外の国の住民は「それはインドネシアでしか通用しない、ローカルな考え方である」という事をしっかりと認識しておく必要があります。

さて、通常我々は「神を信仰している」という人については「その人は宗教を持っている」と見なします。

そうしてそのような判断はたいていの国では妥当なものでありましょう。

しかしながらインドネシアでは状況が異なっています。

なにせ全ての国民は「唯一の神を信仰する事」が憲法の序文で求められているのですから。<--リンク

そうして「宗教」の定義も国によって定められています。

スラム、プロテスタント、カトリック、仏教、ヒンドゥー教、儒教に属する宗派のみが「宗教」とされます。<--リンク

それ以外の「唯一の神を信仰する者達、グループ」はクバティナン(信仰団体)と呼ばれて別の扱いをされています。

ちなみにインドネシア以外の国々では、これらのクバティナン(信仰団体)に相当するグループは「宗教」あるいは「新宗教」として認識されています。


さて、以上の様に宗教と信仰をとらえるのがインドネシアの常識であります。

そうでありますので、インドネシアにおいては「唯一の神を信仰します。」という宣誓は「私はインドネシアの国民です」と言っているのと同じで、誰にとっても何の抵抗もないものなのであります。

さて、所変われば、常識も変わります。

インドネシア以外の国では「唯一の神を信仰します」というのは「信仰告白」とみなされ、その方は「アブラハムの宗教」を自分の宗教として信仰している事を示すものになるのであります。

さてこれほどの認識のギャップが発生しているにも関わらず、世界中のどこの国でも「唯一の神を信仰します」と言わせようとする協会のスタンスは本当におかしな、グローバルでない、ローカルスタンスそのものなのであります。

(注:インドネシアにおいては「唯一の神」は「Tuhan Yang Maha Esa」と書かれ、それはアブラハムの宗教の神を含みますがそれに限定されません。
それゆえにインドネシアではパンチャシラ Pancasilaの下、「全ての宗教は唯一神への信仰をしている」とすることが出来るのです。<--リンク)

PS
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