まあそれなりの数のトークを読んできましたが、バパがトークで間違えるのは珍しいことであります。
それでミスがあったのは1963年3月4日のアデレード・トークですね。
バパにとっては何百回ともなく繰り返してきたであろうトーク冒頭の「スシラ ブディ ダルマの説明」の所でした。
もともとスシラ ブディ ダルマというコトバはバパにとっても「外国語」のサンスクリット語ですからまあ無理もありません。
そして何回ともなく同じ事をしゃべっていれば「つい言い間違える」ということも十分ありますからね。
まあそうではありますが、通常バパのトークは「受けて話される」と言われてきました。
ですから通訳さんが「もう一度繰り返してもらえませんか?」と頼んでもバパは「それはできません」と言っていましたね。
思考や記憶を頼りに「事前にシナリオを作って話している訳ではない」という事です。
でも今回は言いなおす事ができました。
さて、これは何を表しているのでしょうか?
コトバを常に受けながら話している場合は、そのミスの原因は受信しているバパにはありませんね。
その責任は送信側が負わなくてはなりません。
でも送信側が間違えるというのはなかなか考えにくいものがあります。
さあそうすると残る可能性は「バパはコトバそのものを受けながら話してはいなかった」ということになります。
最初に「スシラ ブディ ダルマの説明をしなくてはいけない」という思いがあります。
次に頭の中のメモリに説明に相当する部分があるかどうか検索します。
スシラ ブディ ダルマの説明は当然のことながらバパの頭のメモリの中に入っていますね。
検索によってメモリの場所が特定できました。
そうして、そこから説明に必要なコトバを順序正しく口に送り出して声にしていきます。
これで完璧な説明が出来るはずでした。
そうですね、上記の2行目から5行目までのプロセスは当然意識には登ってきません。
すべては意識下で自動的に行なわれてしまう脳の仕事であります。
でも今回は頭から口に情報を送り出す過程で順序にミスが生じた模様です。
そうして「ブディ」と言うべき所で「ダルマ」と言ってしまいまいました。
それでイブに注意されたと、そういう訳であります。
さてそうすると、バパといえども「知っている知識については新たに受け直しながらトークをする事はない」と、そういう事になりそうです。
まあ普通の人であれば当たり前すぎて、どうということもありません。
でもバパのトークは「受けて話される」と言われてきました。
ですので暗黙の内に「トークに間違いはない」とされています。
でも実際は必ずしもそうではなさそうですね。
バパといえども「常にコトバを受けてトークをされている訳」ではないからです。
さて、以上の話のポイントは何でしょうか。
バパが「これは正しい知識だ」と認識した情報は頭にメモリされ「その情報がトークに入り込む」と、そういうことであります。
それでは「これが正しい」というのはバパはどうやって認識するのでしょうか?
そこがこの話のキーポイントになりますね。
まあそれはさておき、頭の中にメモリされる知識のそもそもの「でどころ」はどこでしょか?
たとえばバパがその中で成長してきたジャワの文化や伝統であります。
もう少し具体的にはそれはワヤンであったりジャワの宗教的常識であったりします。
成人するまでに聞かれたご自分の両親や祖父母などの近親者からの話も入りますか。
成長する過程での先輩や同輩と議論した事柄や本から得た知識もあったでしょうか。
そういうようなご自身が体験されてきた事が知識の源になります。
その中には世的な体験と霊的体験の両方が含まれます。
そうして締めくくりは「ご自身で受けて確認された知識」になりますか。
まあそういういろいろなものがバパの中で統合されてトークとして表現されている様です。
そして、常にトークの現場で「1から10までを受けて話されている」という訳ではないと。
そのようにとらえるのが一番妥当なように思われます。
PS
「記憶にたよって外来語を説明する」で思い出しました。
1957年7月20日のクームスプリングのトークでもそのようなミスがあった可能性があります。
それは人間が持つとされている「4つのナフスの説明」のところですね。
ここでは本来は「aluamah」と言わなくてはいけない所を「amarah」といってしまいましたか?
ナフスを示すこの言葉はアラビア語由来ですし、なにより発音がいずれも「ア」で始まりますからね。
そうして2つのコトバの全体の語感も似ています。
これでは言い間違いが起きても無理はないかなと思われます。
ちなみに4つのナフスについての伝統的な説明はこちらを参照ねがいます。<--リンク
そしてバパのトークではたとえばこんな感じです。<--リンク
追伸
上記の件、訳注にてそのような指摘がありましたが、ナフスの性質をまとめてみますと「人間が一番使うナフスとしては「強いamarah」で間違いなさそうです。
つまりトークのこの場所での記述には間違いはなかったと言う事になります。(16,11,25)
PS
物質力にはnafsu amarahが植物力にはnafsu aluamahを対応させるのがバパの説明の基本であります。
しかしながら以下の2つのトークにおいてはそれとは違った対応をさせてしまっています。
いずれの場合もそれぞれのナフスがもつとされる性質までの言及はなく、単にナフスのラベルとしての呼び名だけの引用であり、言い間違いの可能性が大であります。
(バンドン、84,4,24)では植物力にamarahを対応させています。
(ジャカルタ、85,1,19)では植物力にamarahを物質力にaluamahを対応させています。<--リンク
加えてこのトークの場合、後段では物質力に amarahを正しく(?)対応させています。
そしてそこではnafsu amarahの持つ性質に言及しているのであります。
そういう訳で、バパもトークでは言い間違いをするのであります。
追記
『物質力にはnafsu amarahが植物力にはnafsu aluamahを対応させるのがバパの説明の基本であります。』と書きましたが、トークの時期によってこのナフスの順序が入れ替わったり戻ったりしています。<--リンク
それは単にバパが諸力とナフスの対応を間違えた、というのではなく、アマラとアルアマのどちらを植物力に対応させるのがより良いのかを試行錯誤された、いろいろと考えた、その経緯が表れていると見た方が妥当であります。
(当然ながら、植物力に対応させられなかった方のナフスが今度は自動的に物質力に対応することになります。)
このようにバパがそのように自分の考え方を変えていかれた、より良いものにされようとしていかれたという事実の記録がトークに残っている訳であります。
そうして、そのようなバパの努力を認めない、というならば、「バパは常に完全でなければならず、途中で見方を変えることなどあってはならない。」というバパのファンの勝手な想いを優先させるならば、それはバパの望むところではないように思われます。(2017.7.9)
PS
バパのトークで気をつけなければいけない点、それはナフスを上げる順序です。
物質力にはアマラー(nafsu amara:赤)が、そうして植物力にはアルアマー(nafsu aluama:黒)がいつも対応しています。
ですので4つの諸力の順番にならべる場合は1、アマラーー>2、ルアマー ・・・となります。
(70・12・5、72・11・3、85・6・25、85・7・2 etc)
しかしながら単にナフスの事を述べる場合(諸力との関係を言わない場合)はインドネシアの伝統にそった順番になります。
つまり1、アルアマーー>2、アマラー ・・・と順序が逆転するのでありました。
(57・9・29、59・8・6、59・8・7、63・9・13、81・6・18 etc)
そうして、二代目の並べ方は常に後者であります。
(99・12・16、01・7・12、02・2・28、02・3・3、03・2・14 etc)
そうしてこの件につきましては、ハッキリ言って混乱させていただきました。(16.10.1)
PS
ジャワに伝わる神話についての記憶間違いと、仏教の信仰対象についての記憶間違いについてはこちらを参照願います。<--リンク
人が作ってきた文化や歴史についての記憶は、バパ程のラティハンをもってしても修正されることはない様であります。
つまり「ラティハンを実習していても、一度思い込んだものはラティハンによっては修正されない」ということであります。
違うコトバでいえば「個人の記憶内容は浄化対象ではない」ということになりますね。
そうしてそこから出てくる結論は「どのような事を見たり聞いたりして、どのような宗教や思想を学び、どのように自分の考え方を形造るのかは全く個人の自由であり、責任の下で行われる」というルールであります。
さてそういう訳で「トークに入り込むバパのこうした個人的な思い込み」にはやはり注意する事が必要な様であります。
PS
以上のように「人類の全ての知識にアクセスできる」とされたバパでありますが、それでもやはり「間違えること」はあったようです。
バパは人間でありました。
そうして人間というものは間違えるものでありますね。
ですので「バパは間違えることはない」という主張は、バパから「間違えてもよい」という「人間としての当然の権利」を奪いとっていることになります。
「バパはどうやら思い違いをしていたようだ」。
もし本当にそうだとしても、それがバパの何を傷つけるのでしょうか?
バパがラティハンを苦労されながら地上におろし、そうして広めるための懸命の努力をされた。
それほどの事をされた方のいったい何が傷つくというのでしょうか?
我々の何とも頼りない状況の反対願望として、バパに「スーパーマンの役目」を押し付けるのはそろそろやめにしても良い頃だと思うのでありました。
(2015.7.17)
PS
文字サイズはページ右上で変更できます。
ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク
それでミスがあったのは1963年3月4日のアデレード・トークですね。
バパにとっては何百回ともなく繰り返してきたであろうトーク冒頭の「スシラ ブディ ダルマの説明」の所でした。
もともとスシラ ブディ ダルマというコトバはバパにとっても「外国語」のサンスクリット語ですからまあ無理もありません。
そして何回ともなく同じ事をしゃべっていれば「つい言い間違える」ということも十分ありますからね。
まあそうではありますが、通常バパのトークは「受けて話される」と言われてきました。
ですから通訳さんが「もう一度繰り返してもらえませんか?」と頼んでもバパは「それはできません」と言っていましたね。
思考や記憶を頼りに「事前にシナリオを作って話している訳ではない」という事です。
でも今回は言いなおす事ができました。
さて、これは何を表しているのでしょうか?
コトバを常に受けながら話している場合は、そのミスの原因は受信しているバパにはありませんね。
その責任は送信側が負わなくてはなりません。
でも送信側が間違えるというのはなかなか考えにくいものがあります。
さあそうすると残る可能性は「バパはコトバそのものを受けながら話してはいなかった」ということになります。
最初に「スシラ ブディ ダルマの説明をしなくてはいけない」という思いがあります。
次に頭の中のメモリに説明に相当する部分があるかどうか検索します。
スシラ ブディ ダルマの説明は当然のことながらバパの頭のメモリの中に入っていますね。
検索によってメモリの場所が特定できました。
そうして、そこから説明に必要なコトバを順序正しく口に送り出して声にしていきます。
これで完璧な説明が出来るはずでした。
そうですね、上記の2行目から5行目までのプロセスは当然意識には登ってきません。
すべては意識下で自動的に行なわれてしまう脳の仕事であります。
でも今回は頭から口に情報を送り出す過程で順序にミスが生じた模様です。
そうして「ブディ」と言うべき所で「ダルマ」と言ってしまいまいました。
それでイブに注意されたと、そういう訳であります。
さてそうすると、バパといえども「知っている知識については新たに受け直しながらトークをする事はない」と、そういう事になりそうです。
まあ普通の人であれば当たり前すぎて、どうということもありません。
でもバパのトークは「受けて話される」と言われてきました。
ですので暗黙の内に「トークに間違いはない」とされています。
でも実際は必ずしもそうではなさそうですね。
バパといえども「常にコトバを受けてトークをされている訳」ではないからです。
さて、以上の話のポイントは何でしょうか。
バパが「これは正しい知識だ」と認識した情報は頭にメモリされ「その情報がトークに入り込む」と、そういうことであります。
それでは「これが正しい」というのはバパはどうやって認識するのでしょうか?
そこがこの話のキーポイントになりますね。
まあそれはさておき、頭の中にメモリされる知識のそもそもの「でどころ」はどこでしょか?
たとえばバパがその中で成長してきたジャワの文化や伝統であります。
もう少し具体的にはそれはワヤンであったりジャワの宗教的常識であったりします。
成人するまでに聞かれたご自分の両親や祖父母などの近親者からの話も入りますか。
成長する過程での先輩や同輩と議論した事柄や本から得た知識もあったでしょうか。
そういうようなご自身が体験されてきた事が知識の源になります。
その中には世的な体験と霊的体験の両方が含まれます。
そうして締めくくりは「ご自身で受けて確認された知識」になりますか。
まあそういういろいろなものがバパの中で統合されてトークとして表現されている様です。
そして、常にトークの現場で「1から10までを受けて話されている」という訳ではないと。
そのようにとらえるのが一番妥当なように思われます。
PS
「記憶にたよって外来語を説明する」で思い出しました。
1957年7月20日のクームスプリングのトークでもそのようなミスがあった可能性があります。
それは人間が持つとされている「4つのナフスの説明」のところですね。
ここでは本来は「aluamah」と言わなくてはいけない所を「amarah」といってしまいましたか?
ナフスを示すこの言葉はアラビア語由来ですし、なにより発音がいずれも「ア」で始まりますからね。
そうして2つのコトバの全体の語感も似ています。
これでは言い間違いが起きても無理はないかなと思われます。
ちなみに4つのナフスについての伝統的な説明はこちらを参照ねがいます。<--リンク
そしてバパのトークではたとえばこんな感じです。<--リンク
追伸
上記の件、訳注にてそのような指摘がありましたが、ナフスの性質をまとめてみますと「人間が一番使うナフスとしては「強いamarah」で間違いなさそうです。
つまりトークのこの場所での記述には間違いはなかったと言う事になります。(16,11,25)
PS
物質力にはnafsu amarahが植物力にはnafsu aluamahを対応させるのがバパの説明の基本であります。
しかしながら以下の2つのトークにおいてはそれとは違った対応をさせてしまっています。
いずれの場合もそれぞれのナフスがもつとされる性質までの言及はなく、単にナフスのラベルとしての呼び名だけの引用であり、言い間違いの可能性が大であります。
(バンドン、84,4,24)では植物力にamarahを対応させています。
(ジャカルタ、85,1,19)では植物力にamarahを物質力にaluamahを対応させています。<--リンク
加えてこのトークの場合、後段では物質力に amarahを正しく(?)対応させています。
そしてそこではnafsu amarahの持つ性質に言及しているのであります。
そういう訳で、バパもトークでは言い間違いをするのであります。
追記
『物質力にはnafsu amarahが植物力にはnafsu aluamahを対応させるのがバパの説明の基本であります。』と書きましたが、トークの時期によってこのナフスの順序が入れ替わったり戻ったりしています。<--リンク
それは単にバパが諸力とナフスの対応を間違えた、というのではなく、アマラとアルアマのどちらを植物力に対応させるのがより良いのかを試行錯誤された、いろいろと考えた、その経緯が表れていると見た方が妥当であります。
(当然ながら、植物力に対応させられなかった方のナフスが今度は自動的に物質力に対応することになります。)
このようにバパがそのように自分の考え方を変えていかれた、より良いものにされようとしていかれたという事実の記録がトークに残っている訳であります。
そうして、そのようなバパの努力を認めない、というならば、「バパは常に完全でなければならず、途中で見方を変えることなどあってはならない。」というバパのファンの勝手な想いを優先させるならば、それはバパの望むところではないように思われます。(2017.7.9)
PS
バパのトークで気をつけなければいけない点、それはナフスを上げる順序です。
物質力にはアマラー(nafsu amara:赤)が、そうして植物力にはアルアマー(nafsu aluama:黒)がいつも対応しています。
ですので4つの諸力の順番にならべる場合は1、アマラーー>2、ルアマー ・・・となります。
(70・12・5、72・11・3、85・6・25、85・7・2 etc)
しかしながら単にナフスの事を述べる場合(諸力との関係を言わない場合)はインドネシアの伝統にそった順番になります。
つまり1、アルアマーー>2、アマラー ・・・と順序が逆転するのでありました。
(57・9・29、59・8・6、59・8・7、63・9・13、81・6・18 etc)
そうして、二代目の並べ方は常に後者であります。
(99・12・16、01・7・12、02・2・28、02・3・3、03・2・14 etc)
そうしてこの件につきましては、ハッキリ言って混乱させていただきました。(16.10.1)
PS
ジャワに伝わる神話についての記憶間違いと、仏教の信仰対象についての記憶間違いについてはこちらを参照願います。<--リンク
人が作ってきた文化や歴史についての記憶は、バパ程のラティハンをもってしても修正されることはない様であります。
つまり「ラティハンを実習していても、一度思い込んだものはラティハンによっては修正されない」ということであります。
違うコトバでいえば「個人の記憶内容は浄化対象ではない」ということになりますね。
そうしてそこから出てくる結論は「どのような事を見たり聞いたりして、どのような宗教や思想を学び、どのように自分の考え方を形造るのかは全く個人の自由であり、責任の下で行われる」というルールであります。
さてそういう訳で「トークに入り込むバパのこうした個人的な思い込み」にはやはり注意する事が必要な様であります。
PS
以上のように「人類の全ての知識にアクセスできる」とされたバパでありますが、それでもやはり「間違えること」はあったようです。
バパは人間でありました。
そうして人間というものは間違えるものでありますね。
ですので「バパは間違えることはない」という主張は、バパから「間違えてもよい」という「人間としての当然の権利」を奪いとっていることになります。
「バパはどうやら思い違いをしていたようだ」。
もし本当にそうだとしても、それがバパの何を傷つけるのでしょうか?
バパがラティハンを苦労されながら地上におろし、そうして広めるための懸命の努力をされた。
それほどの事をされた方のいったい何が傷つくというのでしょうか?
我々の何とも頼りない状況の反対願望として、バパに「スーパーマンの役目」を押し付けるのはそろそろやめにしても良い頃だと思うのでありました。
(2015.7.17)
PS
文字サイズはページ右上で変更できます。
ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク