魔界人の妄想録

思いついたお話しや物語を書いています

ヒルコ物語 その2

2016年10月23日 15時46分18秒 | 紀行
 どれくらい時間がたったのだろう。ヒルコは自分が自分以外の世界の中にあることを自覚し始めていた。雨水が口に入れば飲み込み、固形物が入ればなんでも飲み込んだ。ヒルコはそうして生きながらえていた。雨に打たれても、強い日差しにさらされても、どれほど冷たい風がヒルコを痛めつけても、ヒルコはただ受け入れ耐えていた。どうやら生き続ける運命にあるらしい。昼にしろ夜にしろ、目が開いていないヒルコにはどちらでも関係はなかった。ただ終わることなき空腹だけはヒルコを悩ませていた。
 自分の体をゆだねているものの動きがゆったりしたものになった。川から海に入ったようだがヒルコは知る由もなく、ただ任せているだけだ。
しかし葦の舟は次第に緩んできた。にじみ出てきた水はヒルコの体を冷やし始めた。葦の舟はもうすぐばらばらになってしまうかもしれない。さすがに水に沈めばヒルコも生き延びることは難しいだろう。状況を理解はできなかったがヒルコは「死」という得体のしれない恐ろしい感覚に包まれた。それは2度目の感覚。この体が流された時だ。ヒルコはイザナミの最後の言葉を思い出していた。
泣き叫ぶ声。「あなたは日の御子、日る子」
 
 そうか「私はヒルコというのだ。」
 そしてそれは甘い感覚に変わった。ぬくもりのある優しい感覚。


 その時ふわりと体が宙に浮いたような気がした。
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泉佐野市『犬鳴山』の由来 七宝瀧寺に関連して

2016年10月16日 16時17分27秒 | 紀行
山号『犬鳴山』の由来:義犬伝説
七宝瀧寺のホームページに次のようにあります。
「宇多天皇(889〜898)の寛平二年(890年)三月、紀伊の猟師が
 犬を連れて、当山の行場「蛇腹」附近で一匹の鹿を追っていまし
 た。猟師の傍の大樹に大蛇がいて、猟師を狙っていましたが、猟
 師はそれに気づかず弓をつがえ、鹿に狙いを定めて射ようとした
 とき、猟師の犬は愛犬は急にけたたましく吠えだしまし た。犬の
 鳴声におどろいた鹿は逃げてしまい、獲物を失った猟師は怒っ
 て、腰の山刀で吠え続ける愛犬の首に切りつけました。犬は切ら
 れながらも大蛇めがけて 飛び上がり、大蛇の頭に噛みつき、猟師
 を助けて大蛇と共に倒れました。
  事の意外さを知った猟師は、自分の命を救って死んだ愛犬の死
 骸をねんごろに葬り、弓を折って卒塔婆とし、そして七宝瀧寺に
 入って僧となり、永く愛犬の菩提を弔いつつ、安らかに余生をす
 ごしたと語り伝えられています。
  この話を聞いた宇多天皇は「報恩の義犬よ」と賞し、「一乗鈴
 杵ヶ岳(一乗山、鈴杵ヶ岳とも)」を改め「犬鳴山」と勅号を与
 えたと伝えられています。」

 犬鳴山となった由来ではありますが、実は僕はこの話は好きでは
なく、そんなことで首を切られた犬がかわいそうに思っていました。
 今になって考えてみると異なる読み方ができます。
 普通に読んでも不自然です。映画「アナコンダ」にでてくるよう
な、人間をも一飲みする大蛇は日本にいないし(いかに実在する
アナコンダが世界最大といっても、そんな怪物のような大きな蛇で
はありません。)

 恐らく大蛇は川から流れてきた土石流でしょう。
 蛇や龍は川の神様として考えられていますから。
 
 お供の猟犬は敏感にもそれをいち早く察知し、恐れて吠えたのだと
思います。猟師も馬鹿ではないから、きっと川原から逃げ出したのだ
けれど、猟犬は間に合わず土石流の流れに巻き込まれたのではないで
しょうか。 
 
 天皇へ献上したお話として脚色されたのでしょうね。

 といっても僕の想像したお話でもありますが。 
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天河神社の弁才天は観音菩薩か?

2016年10月10日 17時51分52秒 | 紀行
2016年10月9日
天河弁才天神社は世間ではパワースポットということになっています。僕は正直言って
そんなことより、江戸時代までこの神社はじつは寺であったという点が気になってい
ました。

弁才天はそもそも仏教を鎮護する神で、日本古来の神ではない。
「神仏習合」だという解釈以上の大きなものがあるのではないか?

Wikipediaには
「天河神社社家が代官所に1712年出した『願書』に『生身天女の御鎮座天照姫とも奉
崇して、今伊勢国五十鈴之川上に鎮り座す天照大神別体不二之御神と申し伝え』ると
あることからも判明するように、創建に関わった天武天皇と役行者は、伊勢神宮内宮に
祀られる女神(荒祭宮祭神 瀬織津姫)を天の安河の日輪弁財天として祀った。』
とあります。

 しかし現在は明治政府の廃仏毀釈の誘導により、主祭神は厳島神社と同じ「市杵島
姫(いちきしまひめ)」とされています。祭神が「市杵島姫(いちきしまひめ)」と
いうのは強引すぎだと思います。

 またWikipediaには
「室町期の僧英俊による多聞院日記に、『天川開山ハ役行者』と記述がある。
 天河大辨財天社の草創は飛鳥時代、役行者の大峯開山の際に蔵王権現に先立って
 勧請され最高峰である弥山(みせん)の鎮守として祀られたのに始まる。
 弘法大師が高野山の開山に先立って大峯山で修行し、最大の行場が天河神社で
 あった。弘法大師にまつわる遺品が奉納されている。 」

「当社は江戸時代までは琵琶山白飯寺と号し、本尊を弁才天(宇賀神王)としていたが、
 明治の廃仏毀釈で白飯寺は廃寺となり、本尊の弁才天は市杵嶋姫命と改められた。」

神仏習合とはなにかという問題もありますが、ここで僕が気になっていたのは、
天河神社はそもそも白飯寺という寺であったということであり、主祭神は宇賀弁才天
(頭上に頭が老人または女性で体が蛇である宇賀神を載せている)だということです。
瀬尾律姫にしろ弁才天にしろ水に深く関係する神であり龍神とも言われ、恐らく古代
から中世さらに近世にいたるまでこの地域の人々は川の氾濫などの、非常に大きな
水災害に見舞われたものと思われます。これは天河神社の付近には天水分神社
(てんすいぶんじんじゃ)や丹生川上神社下社などの水に関係する神社が多く存在す
ることからも言えるものと思います。
 ここで僕の疑問は付近に水害という災いが鎮まることを祈る神社があるのに、
何故ここは寺であったのか、という点です。

 僕が調べた限り、この疑問の答えは見当たらなかった。だから自分なりに探して
みよう、ということで、ここに来たわけです。
 とはいうものの天河神社が何か言ってくれるわけでもないので、実はどうしたら
よいかなんの計画もできていませんでした。

 天河神社には2016年10月8日大阪阿部野橋駅から1時間15分くらいで
下市口駅に着き、そこから1日3本しかないバスに乗り換え、70分ほど揺られ
ると、「天河大弁財天社」という停留所に到着します。

午後2時半ごろに到着し、天河神社境内の駐車場に面したペンションミルキー
ウェイが今回のお宿です。本当は3時からチェックインなのですが、身軽になり
たかったものですから、お願いして部屋に入らせてもらいました。
 この時点では何故か神社にお参りする気になれなかったのです。恐らく停留所
の前が、すぐ神社であることから、バスを降りたとたんに早速写真撮影などを始
めた方々を目にすると、彼らと一緒に行動したくなかったのかもしれんません。

 とはいうものの、ペンションにいくために境内に入ったこともあり、神様には
ご挨拶をしました。

 部屋に戻って、さあこれからどうしよう。乗り物に乗ってばかりだったので
とにかく歩いてみよう。というわけで、あまり考えもせず身軽になってペンシ
ョンからでました。天河神社のそばには天の川(下流は熊野川)が流れており、
これを少し上流に向かってみようと思い、バスで来た道を帰っていく形で歩き
始めました。

 歩き始めて5分のところに小さな神社がありました。八坂神社です。
 八坂神社の祭神はというとスサノオあるいは牛頭天王(ごずてんのう)です。
 誰もいない神社です。静かです。川の流れる音がよく聞こえます。畏怖を感じ
させる重い雰囲気があります。こういう神社こそ失礼のないようにお参りしない
といけない。
 素戔嗚は八岐大蛇(川の氾濫)を退治した神であり、ここに鎮座する意味は
大きいと思います。大きな杉が何本かあり、それらの樹齢は300年以上といわ
れているそうです。

 丁寧にお参りしたつもりでしたが、後から思えばここから僕の調子が悪くなっ
ていきます。此処にくる1週間ほど前から、僕はおなかの調子を崩していました。
また乱視が強いほうで、日ごろは眼鏡で矯正しているので問題はないのですが、
今回は歩くほどに焦点が合わなくなっていく。ものが2重になっており気分が
悪い。
 それでも川沿いを歩き続けると、川の下へ降りられる階段がいくつかあるのを
目にし、そのうちの鉄製の階段を、特に理由はないのですが何故か降りてみよう
と思いました。

 その半ばまで来た時に、僕は足を滑らせました。雨でぬれていたせいでもあり
ますが本当に気持ちよく滑りました。右手で手すりをつかみましたので運よく
尻もちをつくことはありませんでしたが、左手で首からぶら下げていたカメラを
落とさぬように必死で握りしめ、右手1本で体を支えていました。
 こけずに済んだと思ったらさらにまた滑り、なかなか立ち上がれない。
 これ以上滑らないように足場を確認してから右手で体を起こしましたが、右手
が手すりをつかんでいなかったら、恐らく一挙に川まで滑っていたと思います。
前方に人がいましたから、巻き込んでいた可能性もあるわけで、本当に危なかった。
 「なんでこんなとこで滑んねん?」と苦笑いしながらぶつぶつ独り言を言いなが
ら、降りるのはやめて道に戻りました。
 後で分かるのですが、これは意味あることだったようです。

 途中小さな蛇の死骸をよけながら、また猟犬と思われれる犬たちに吠えられなが
ら、村で唯一といわれる信号のところまで来ました。ここは天川川合といい、
一方は天川弁財天社、他方は洞川温泉へと向かう分岐点です。
 あちこち寄りながらだったので1時間以上も登り坂を歩いていたので、
小路の駅「てん」というお店で休憩し、名物「いもぼた」をいただきました。

「いもぼた」とは「米と細かく切ったジャガイモを炊いて手の平大に握り、表面を
焼いた料理」で「山間地の寒冷な気候で米が育たないなか、保存食のジャガイモを
利用したおやつ料理として、各家庭で受け継がれてきた。」ということです。
 天河神社がもとは「白飯寺」というのも、ご飯をたくさん食べたいという強い祈り
があったからかと思いながらアツアツの「いもぼた」を頬張りました。

その後ペンションに帰ってお風呂に入り夕食を頂きました。食事はとてもおいしかっ
たですね。文句なしです。
 オーナーから朝6時40分から朝拝があることを教えてもらいましたので、ぜひ
参加してみよう早めに床につくことにしました。そして夢を見ました。

 そのうちの一つは川の上流から巨大な蛇(龍かもしれませんが僕は蛇だと思いまし
た)が水を伝って下ってくる夢でした。

 もう一つは、これは強烈に覚えています。後姿ではありましたが白装束の、あれは
きっとお坊さんです。川に向かっていき、川岸へ降りようとしています。川は大雨で
氾濫していましたが彼はその中へ身を投じました。

彼は流されすぐに姿は見えなくなりました。場所は僕が滑ったあの場所かもしれま
せん。これは人身御供だ、と僕は夢の中で思いました。川の氾濫という災いを鎮め
るため、僧は自らの命をもって祈りを全うしようとしたのだと思いました。
そこで目が覚めました。

 なぜ天河神社では般若心経が唱えられるのか?何故寺であったのか。
 ネットに出ていた異形の本尊、弁才天像を思いながら考えてみました。
 「もしかしてあなたは観音様ですか?あなたは彼を救おうとしたのですか?」
 観音様も水に関係する仏様です。

 彼の命を救うことはできなかったかもしれませんが魂は救われたのだと思いました。
眠気のまだあるなかで思い浮かべた弁天像は、微笑みを浮かべていました。
 これは正しい解釈なのかどうかは分かりません。
 ただ僕はその後おなかの調子もよくなり、眼も通常通りの状態になりました。つまり
絶好調になったわけです。

 翌朝の朝拝のあと、神職の方が天河神社の由来をお話ししてくれました。
 「むかしこの地域に水の神様として善龍と悪龍が住んでいた。善龍には子供がいた
  のですが、その子供を悪龍が殺してしまう。善龍はこれを悲しみ悪龍を退治する。
  勝った善龍こそ役行者が出会った弁才天だ。」というのです。

 この話は毎回されるのかもしれませんが、僕にとっては奇妙なタイミングでした。

 悪龍は川の氾濫。子供は人身御供。そして勝利する弁才天。

 この弁才天は観音菩薩として、失われた御霊を救っていたのだと僕は思っています。


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