実高ふれ愛隊で~す(^^)/
全昌寺の墓所を歩くと、大聖寺藩ゆかりの多くの偉人の墓石を見ることができます。
墓所に入ったすぐの所に、「瓜生(うりう)家累代の墓」が建っています。そして墓前の灯籠には
「外吉傳治」ときざまれています。ここに見られる瓜生外吉(うりう そときち)とは、日露戦争連合艦隊
第四戦隊の司令官をつとめ、日露開戦の火ぶたを切った仁川沖の海戦で最初の号砲を鳴らした人物です。
仁川沖の海戦では、瓜生外吉がロシア艦『ワリャーグ』号の砲の死角を巧みに利用し、緒戦の勝利を導きました。
瓜生はいくつもの戦功によって、1907(明治40)年に男爵を授けられ、1912(大正元)年に海軍大将に昇進、
1922(大正11)年から3年間は勅選貴族院議員になりました。
また1914(大正3)年にはパナマ運河開通記念博覧会に日本代表として参列したそうです。
←瓜生外吉(wikipediaより)
瓜生外吉は大聖寺藩士、瓜生吟弥の次男として1857(安政4)年に大聖寺に生まれました。
幼いときから優秀な人物で、海軍兵学寮を卒業後、1875~1881(明治 8~明治14)年には
米国アナポリス海軍兵学校に留学し、海軍きってのアメリカ通でした。
奥さんの繁子さんもとても有名な人です。瓜生繁子さんは三井物産創始者益田孝の妹さんで、
1871(明治4)年、9歳のときに岩倉遣欧使節団の一員として、津田梅子、山川捨松らとともにアメリカに渡り、
ワシントンで10年間ピアノを学んだことで知られています。のちに、文部省音楽取調掛教授となり、
東京音楽学校や東京女高師(現お茶の水女子大)の教授として1902(明治45)年に退職するまで
音楽教育に尽力しました。
瓜生外吉はアメリカ留学中に繁子と知り合い、帰国してすぐの1882(明治15)年に二人は結婚しました。
繁子は鹿鳴館の花の一人とうたわれた人でもあります。また瓜生外吉は繁子や津田梅子、山川捨松など、
帰国子女の活動を支える良き理解者でした。外吉と繁子の間には7人の子が生まれています。
瓜生外吉は晩年、神奈川県小田原市に別邸を構えました。その別邸の近くにある坂はいまでも「瓜生坂」と
呼ばれているそうです。瓜生外吉は1937 (昭和12)年、80歳で亡くなり、今は東京の青山墓地で
眠っています。