実高ふれ愛隊で~す(*^_^*)
1689(元禄2)年新暦9月21日、俳聖松尾芭蕉はここ全昌寺を訪れ宿泊しました。
全昌寺の山門の脇に芭蕉塚、曾良の句碑があります。
そして本堂には杉風(さんぷう)作のにっこり微笑んだ芭蕉木像があります。
1689(元禄2)年新暦5月16日に江戸深川を出発した松尾芭蕉(当時45歳)は、
弟子の河合曾良(当時40歳)と二人で、東北や北陸地方の名所旧跡を巡り岐阜の大垣にまで
行く旅程を『奥の細道』にまとめたのです。全行程約2400キロ、日数約150日間という長旅でした。
松尾芭蕉が全昌寺を訪れたのは、『奥の細道』に旅立ってから約4カ月後のことです。
しかしこのとき弟子の曾良は一緒ではありませんでした。
なぜなら、普段とても健康だった曾良が金沢に入った頃から胃痛が悪化して、
ついに伊勢長島の親類の家に先に行って療養することになったのです。
山中温泉での別れに際して、芭蕉が寂しさを込めて詠んだ句です。
「今日よりや 書き付け消さん 笠の露」
(曾良とはここで別れ、これからは一人道を行くことになる。笠に書いた「同行二人」の字も消すことにしよう。
笠にかかる露は秋の露か、それとも私の涙か。)
曾良と別れて旅することになった芭蕉は、山中温泉で宿泊した泉屋の縁で、全昌寺に泊まりました。
全昌寺は泉屋の菩提寺でもあり、当時の住職月印和尚は泉屋の久米之助の伯父でした。
『奥の細道』では、全昌寺でのことが次のように記されています。
「加賀の城下町【大聖寺】の城外、全昌寺という寺に泊まる。いまだ加賀の国である。
曾良も前の晩この寺に泊まり、一句残していた。
「終宵(よもすがら) 秋風聞や うらの山」
(芭蕉師匠と別れて一人でこの寺に泊まったが、寂しさの余り眠ることが出来ず、一晩中裏山に吹く
秋風の音を聞いていました。)
今まで一緒に旅してきたのが一晩でも離れるのは、千里を隔てるように淋しく心細い。
私も秋風を聞きながら僧の宿舎に泊めてもらった。夜明け近くなると、読経の声が澄み渡り、
合図の鐘板をついて食事の時間を知らせるので食堂(じきどう)に入った。今日は越前の国に越える
つもりである。あわただしい気持ちで食堂から出ると、若い僧たちが紙や硯をかかえて寺の石段のところまで
見送ってくれる。ちょうど庭に柳の葉が散っていたので、
「庭掃いて 出でばや寺に 散る柳」
(一宿一飯の御礼にせめてこの寺に散っている柳を掃いてから出発したい。)
取り急ぎわらじを履いたままあわただしく句を作った。」
本堂内の右手に芭蕉庵と名付けられた茶室があり、ここに芭蕉や曾良が泊まったといわれています。