実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

久法寺・日本で最初に鉛筆をつくった柿澤理平

2012年09月02日 | 日記

実高ふれ愛隊で~す(^^)/

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”大聖寺山ノ下寺院群”の一つに久法寺」があります。久法寺」は法華宗本能寺派のお寺です。

本能寺といえば、織田信長が家臣の明智光秀の謀反にあい、自刃したお寺として有名ですよね。

この「久法寺」には日本で最初に鉛筆をつくった柿澤理平(かきざわりへい)さんのお墓があるとお聞き

しましたので、お訪ねしました。

お墓の場所は、久法寺」の93歳のおばあちゃんにご案内いただきました。

お墓には、柿澤理平さんの法名が「制鉛院造筆日肇居士」と刻まれていました。

「制鉛院造筆日肇居士」

”肇”は”初め”を表し、「日本で初めて鉛筆を製造し、生涯を鉛筆づくりに捧げた」という意味だと思います。

1875(明治8)年、江沼郡富士写ケ岳片谷村で良質の黒鉛が見つかったことがきっかけで、

旧大聖寺藩士の飛鳥井清らが、同じく旧大聖寺藩士の柿澤理平に鉛筆の製造法を学ばせました。

士族授産(旧士族の失業対策)にしようと考えたと思われます。 飛鳥井と柿澤は1877(明治10)年、

鉛筆の製造工場である「加州松島社」を錦城山麓の現加賀市大聖寺松島町付近に設立しました。

1878(明治11)年12月、片谷村の黒鉛に合う良質の粘土をさがし、昼夜工夫をかさね、ようやく試作品の

製造に成功しました。1882(明治15)年には海外製の鉛筆に劣らない製品を作り出し、

1883(明治16)年のアムステル ダム万博に出品したものが、第一級第一等賞を獲得しています。

一般的には、125年前の1887(明治20)年、眞崎仁六が『眞崎鉛筆製造所』(現『三菱鉛筆』)を創立し、

日本初の鉛筆の工場生産(動力源は水車)を開始したとされていますが、実は柿澤理平「東洋鉛筆」こそが、

日本で最初の鉛筆なのです。

 柿澤理平「東洋鉛筆」は大聖寺大火や、外国製品の大幅な値下げなどにより資金不足となり、

1903(明治36)年廃業に追い込まれました。しかし、条件の悪い北陸地方の小都市で30年近くも鉛筆製造

が存続できたのは、まさに柿澤理平の血のにじむような努力のたまものです。

1893(明治26)年5月、柿澤理平「加州松島社」の隆盛期を見ながら、72歳でこの世を去りました。

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