扱うのが面倒な物事を考えるときには、より単純にモデル化して、「見取り図」めいたものを頭の中に作ると便利な場合があります。
いわゆる「形而上学」的思想、すなわちこの「世界」や「自己」の実存に対して、それに根拠を与える超越的理念(「絶対神」とか「イデア」など)を設定するようなアイデアも、過去から今に伝わるものだけでも多種多様で、今なお生まれつつあり、これからも増殖していくことでしょう。
私はこういう思想の問題を考えるとき、超越的理念と実存の関係を、以下のようにモデル化して、その後の議論に見通しをつけることが多いです。
まず、理論的、あるいは認識論的に、思想を大きく二つに分けます。
一つは、「浮世は夢」型です。
これは、この世に存在するすべてのもの・現象(実存の在り方)は、すべて夢幻のようなもので虚構に過ぎず、愚かな我々は通常「本当に存在している」と錯覚しているだけだと考えます。したがって、「真に存在するもの(超越的理念)」は実存と隔絶していて、我々が日常で機能している認識能力では、把握も理解もできないということになります。
もう一つは、「真理は丸出し」型。
このアイデアは、超越的理念は実存にありのまままに現れているか、部分的に反映していると考えています。したがって、我々の持つ認識能力を一定の方法で訓練すれば、超越理念へのアプローチは可能です。
次は、実存が超越理念に対してとる態度や行為、すなわち実践様式で分けます。
第一には、「信仰・祈願」様式です。
これは、超越理念に対して実存者がまったく無力であることを前提に、ひたすら超越理念の降臨や啓示を期待して、それに随順する意思を示し続けることで、自らを根拠づけようとする行為です。
第二は、「変身・合一」様式です。
このアイデアは、基本的に超越理念と実存は「本当は同じだ」と考えます。だから、特殊な訓練(「修行」)をすれば、超越的理念そのものに「なる」か、それと「一体になる」と考えます。つまり、実存は根本的に変容しうるというアイデアです。
第三は、「観照・研究」様式です。
この実践は、「変身・合体」などという実存の変容は決して起らないが、なんらかの方法で実存は超越理念を認識できる考え、そのための方法を提案します。多く採用されるのは瞑想などの自意識の操作であったり、ある種の直感を根拠にした知的考察です。
私は普段、この二つの理論類型と三つの実践様式を何回か組み合わせることで、ものを考えることあります。
たとえば、古代ギリシャで言えば、プラトン系は「浮世は夢」型、アリストテレス系は「真理は丸出し」、実践様式はともに「観照・研究」が主であり、前者は観照、後者は研究に重心がかかってます。
中国では、いわゆる老荘思想は「浮世は夢」型で「観照・研究」様式、観照重視でしょうが、孔子孟子のアイデアは「真理は丸出し」型で同じく「観照・研究」様式、研究重視だと思います。
ところが、時代や場所が変わると、最初の基本型や基本様式に、さらに型と様式を掛け合わせて、独自の思想に仕立て、流派を立てて分岐していくという現象が阿起ります。
孔子孟子の思想の後には、「真理は丸出し」「観照・研究」ラインを押し通す朱子学に対して、「変身・合一」様式を取り込んだ陽明学が現れてきます。
キリスト教も似たことが起こります。キリスト教は「浮世は夢」型「信仰・祈願」様式の典型でしょうが、カトリックになると、教会体制の強大化にともなって次第に「真理は丸出し」的色彩が強まり、アリストテレスを応用したトマス・アキナスのごとき、驚くべき学的体系が成立したりします。ところが、トマスとほぼ時代を同じくして、マイスター・エックハルトが極めて「変身・合一」的な様式を提案して、異端とされています。
また、プロテスタントは、「真理は丸出し」的カトリックに対する、「浮世は夢」型「信仰・祈願」様式への揺り戻しだと、思想モデル的には考えられると、私は思います。
ゴータマ・ブッダの言説として語られる仏教は、もともと「形而上学」を持たない、唯一の例外的思想・実践体系です。私は以前、そうした仏教の特異性を「形而外学」と称しました。
この「形而外学」は、パターンとしては、古代インド思想の主流である「浮世は夢」型「変身・合一」様式に見えますが、とにかく「ニルヴァーナ」にしても「悟り」にしても、出来事の正体が不明なため、何かに変身するとも、何かと合一するとも、確かなことは一切言うことができません。これでは端から「形而上学」にならないのです。
ですが、何分にも、「形而上学」的思考は本来我々を強力に拘束しますから(言語の機能そのものが「形而上学」的)、仏教にもそれが強力に作用して、古来「形而外」であるはずの考え方が「形而上」化する事例が多々出てきます。(理論のコンテクストにおいて、「悟り」「涅槃」「空」などが「絶対の真理」や「万物の根源」の意味として機能する)。
たとえば、上座部の論書は「丸出し」型「観照・研究」様式の「形而上学」に大きく傾いています(でなければ、アビダルマになるまい)。
大乗経典では、特に初期の般若経典が「実体」論的思考を拒否することにおいて「形而外」に踏みとどまるのに対して、法華経には「真理は丸出し」的傾向の言説が散見され(「久遠実成の仏」など)、華厳経典は「浮世は夢」型のアイデアが仕掛けられています(「法身毘盧遮那仏」「三界唯一心」)。
また「形而外学」理論としての中観思想は、言語批判を通じて「実体」思考を徹底的に解体し、「浮世は夢」であることラジカルに理論化しましたが、唯識思想になると、「夢」的現象世界が成り立つ理屈を提出する過程で、「阿頼耶識」という「形而上学」的に「実体」化して語られやすい概念が導入されています。その結果、華厳思想にも密教にも馴染みのよい道具立てになっているわけです。
浄土経典は「最後の審判」無き一神教のごときパラダイムですし、密教などは ブラフマニズム同様、「浮世は夢」型「変身・合一」様式の形而上学そのものでしょう。
中国における天台と華厳の思想的差異は、「空」「縁起」を解釈する上での、「丸出し」要素と「夢」要素の配分具合や濃度差に比定できるでしょう。そして、中国の禅思想は、仏教本来の「浮世は夢」を「真理は丸出し」に改訂して、さらに「変身・合一」様式を採用するという、あまり例のないタイプのアイデアに、私には見えます。
こういうモデルの利用は、思考の遊びのように見えるかもしれませんが、大げさに「絶対の真理」を吹聴する輩のアイデアを、思考パターンとして相対化する方法としては、けっこう便利に使えるような気がします。よろしければ、お試しあれ。
ところで、道元禅師の思想は? あるいは親鸞聖人の思想は?
いわゆる「形而上学」的思想、すなわちこの「世界」や「自己」の実存に対して、それに根拠を与える超越的理念(「絶対神」とか「イデア」など)を設定するようなアイデアも、過去から今に伝わるものだけでも多種多様で、今なお生まれつつあり、これからも増殖していくことでしょう。
私はこういう思想の問題を考えるとき、超越的理念と実存の関係を、以下のようにモデル化して、その後の議論に見通しをつけることが多いです。
まず、理論的、あるいは認識論的に、思想を大きく二つに分けます。
一つは、「浮世は夢」型です。
これは、この世に存在するすべてのもの・現象(実存の在り方)は、すべて夢幻のようなもので虚構に過ぎず、愚かな我々は通常「本当に存在している」と錯覚しているだけだと考えます。したがって、「真に存在するもの(超越的理念)」は実存と隔絶していて、我々が日常で機能している認識能力では、把握も理解もできないということになります。
もう一つは、「真理は丸出し」型。
このアイデアは、超越的理念は実存にありのまままに現れているか、部分的に反映していると考えています。したがって、我々の持つ認識能力を一定の方法で訓練すれば、超越理念へのアプローチは可能です。
次は、実存が超越理念に対してとる態度や行為、すなわち実践様式で分けます。
第一には、「信仰・祈願」様式です。
これは、超越理念に対して実存者がまったく無力であることを前提に、ひたすら超越理念の降臨や啓示を期待して、それに随順する意思を示し続けることで、自らを根拠づけようとする行為です。
第二は、「変身・合一」様式です。
このアイデアは、基本的に超越理念と実存は「本当は同じだ」と考えます。だから、特殊な訓練(「修行」)をすれば、超越的理念そのものに「なる」か、それと「一体になる」と考えます。つまり、実存は根本的に変容しうるというアイデアです。
第三は、「観照・研究」様式です。
この実践は、「変身・合体」などという実存の変容は決して起らないが、なんらかの方法で実存は超越理念を認識できる考え、そのための方法を提案します。多く採用されるのは瞑想などの自意識の操作であったり、ある種の直感を根拠にした知的考察です。
私は普段、この二つの理論類型と三つの実践様式を何回か組み合わせることで、ものを考えることあります。
たとえば、古代ギリシャで言えば、プラトン系は「浮世は夢」型、アリストテレス系は「真理は丸出し」、実践様式はともに「観照・研究」が主であり、前者は観照、後者は研究に重心がかかってます。
中国では、いわゆる老荘思想は「浮世は夢」型で「観照・研究」様式、観照重視でしょうが、孔子孟子のアイデアは「真理は丸出し」型で同じく「観照・研究」様式、研究重視だと思います。
ところが、時代や場所が変わると、最初の基本型や基本様式に、さらに型と様式を掛け合わせて、独自の思想に仕立て、流派を立てて分岐していくという現象が阿起ります。
孔子孟子の思想の後には、「真理は丸出し」「観照・研究」ラインを押し通す朱子学に対して、「変身・合一」様式を取り込んだ陽明学が現れてきます。
キリスト教も似たことが起こります。キリスト教は「浮世は夢」型「信仰・祈願」様式の典型でしょうが、カトリックになると、教会体制の強大化にともなって次第に「真理は丸出し」的色彩が強まり、アリストテレスを応用したトマス・アキナスのごとき、驚くべき学的体系が成立したりします。ところが、トマスとほぼ時代を同じくして、マイスター・エックハルトが極めて「変身・合一」的な様式を提案して、異端とされています。
また、プロテスタントは、「真理は丸出し」的カトリックに対する、「浮世は夢」型「信仰・祈願」様式への揺り戻しだと、思想モデル的には考えられると、私は思います。
ゴータマ・ブッダの言説として語られる仏教は、もともと「形而上学」を持たない、唯一の例外的思想・実践体系です。私は以前、そうした仏教の特異性を「形而外学」と称しました。
この「形而外学」は、パターンとしては、古代インド思想の主流である「浮世は夢」型「変身・合一」様式に見えますが、とにかく「ニルヴァーナ」にしても「悟り」にしても、出来事の正体が不明なため、何かに変身するとも、何かと合一するとも、確かなことは一切言うことができません。これでは端から「形而上学」にならないのです。
ですが、何分にも、「形而上学」的思考は本来我々を強力に拘束しますから(言語の機能そのものが「形而上学」的)、仏教にもそれが強力に作用して、古来「形而外」であるはずの考え方が「形而上」化する事例が多々出てきます。(理論のコンテクストにおいて、「悟り」「涅槃」「空」などが「絶対の真理」や「万物の根源」の意味として機能する)。
たとえば、上座部の論書は「丸出し」型「観照・研究」様式の「形而上学」に大きく傾いています(でなければ、アビダルマになるまい)。
大乗経典では、特に初期の般若経典が「実体」論的思考を拒否することにおいて「形而外」に踏みとどまるのに対して、法華経には「真理は丸出し」的傾向の言説が散見され(「久遠実成の仏」など)、華厳経典は「浮世は夢」型のアイデアが仕掛けられています(「法身毘盧遮那仏」「三界唯一心」)。
また「形而外学」理論としての中観思想は、言語批判を通じて「実体」思考を徹底的に解体し、「浮世は夢」であることラジカルに理論化しましたが、唯識思想になると、「夢」的現象世界が成り立つ理屈を提出する過程で、「阿頼耶識」という「形而上学」的に「実体」化して語られやすい概念が導入されています。その結果、華厳思想にも密教にも馴染みのよい道具立てになっているわけです。
浄土経典は「最後の審判」無き一神教のごときパラダイムですし、密教などは ブラフマニズム同様、「浮世は夢」型「変身・合一」様式の形而上学そのものでしょう。
中国における天台と華厳の思想的差異は、「空」「縁起」を解釈する上での、「丸出し」要素と「夢」要素の配分具合や濃度差に比定できるでしょう。そして、中国の禅思想は、仏教本来の「浮世は夢」を「真理は丸出し」に改訂して、さらに「変身・合一」様式を採用するという、あまり例のないタイプのアイデアに、私には見えます。
こういうモデルの利用は、思考の遊びのように見えるかもしれませんが、大げさに「絶対の真理」を吹聴する輩のアイデアを、思考パターンとして相対化する方法としては、けっこう便利に使えるような気がします。よろしければ、お試しあれ。
ところで、道元禅師の思想は? あるいは親鸞聖人の思想は?
最後のオチが
和尚さんらしいですね。
仕様書及び設計書のようなご説明に、感謝申し上げます。
思考の取説とでも、言えましょうか。
著作を書かれた時期によっても、道元禅師のお考えが変わっていることも多々あるのではないか、と思いますが、どちらかと言えばあえて思想性を固定しないようにされているようにも見えます。形而上学スタイルをキープしようとされたのでしょうか。随分勉強家だったであろう道元禅師の思想には、その全ての知識が織り込まれているのかもしれません。
坐禅中の感覚は、様々に解釈出来ると思いますが、一般的にはそこに思想性を入れないように指導される老師が多いようです。現実との接点を失わない事、個人が世界感の選択ができる余地を残すこと、を重視しておられるのかな、と思っています。
ところで道元禅師と親鸞聖人は同じことを真逆のベクトルで語っておられるようにも思います(親鸞聖人はジャンルとしては「浮世は夢」型の「信仰・祈願」様式ですよね?)。あまり浄土真宗のことはよく知らないので、いい加減なことは言えませんがどうなんでしょう?自分の薄い知識では、たまにそのように感じる時があります。
道元禅師の教えは極めてハードですが、親鸞聖人の教えは逆の意味でそれ以上にハードだと思います。とても易行とは思えませんね。自分にはとても勤まりません。個人的には道元禅師の思想を知り、本当に救われたな、と実感する今日この頃です。
著作を書かれた時期によっても、道元禅師のお考えが変わっていることも多々あるのではないか、と思いますが、どちらかと言えばあえて思想性を固定しないようにされているようにも見えます。形而(上)学スタイルをキープしようとされたのでしょうか。随分勉強家だったであろう道元禅師の思想には、その全ての知識が織り込まれているのかもしれません。
の
「形而上学」を「形而外学」に訂正します。
真逆の意味に書いていました。訂正してご理解ください。
それで思い出したのですが、漱石研究論文(作品解説)の『夏目漱石の継承』(ネットでの論評です)において、
第15章「彼岸過ぎ迄」第8節「ユングのタイプ論」(人間の性格分析についての分類化)の凄さと、
漱石が同じ頃独自に「文学論」に於いて、既にユングと同じ結論を洞察しており、今回南師・ユング・漱石三者の分析力の凄さに舌を巻く感じとなりました。
「形而上学的思考モデル、超越理念と実存の関係性」、纏めてみましたが間違いあれば是非御指摘下さい。
①.「浮世は夢」型「信仰・祈願」様式
イエス・キリスト、
プロテスタント(揺り戻し現象)
②.「浮世は夢」型「変身・合一」様式
古代インド思想の主流、
浄土経典(最後の審判無一神教)、
親鸞聖人、
密教(ブラフマ二ズム)、
華厳経典(三界唯一心)、
唯識(阿頼耶識)(華厳と同じく
形而外学より変化)
③.「浮世は夢」型「観照・研究」様式
プラトン(観照タイプ)、
老荘思想(観照重視)、
龍樹(実体解体、研究タイプ)、
道元禅師(二元論の否定・研究タイ プ、中観と同様形而外学より変化)
④.「真理丸出」型「信仰・祈祷」様式
カトリック、
法華経(久遠完成の仏)
⑤.「真理丸出」型「変身・合一」様式
中国の禅思想、
陽明学(孔子・孟子より変質)、
マイスター・エックハルト(異端
とされた)
⑥.「真理丸出」型「観照・研究」様式
アリストテレㇲ(研究タイプ)、
孔子・孟子(研究重視)、
朱子学(孔子・孟子を継承)、
トマス・アキナス(カトリックに
アリストテレス応用)、
上座部(アビダルマ)
⑦.形而外学
ゴータマ・ブッダ(パターンは浮 世夢型変身・合一なのだが内容 不明故に形而上学とならない)、
大乗の初期般若経典
⑧.注;中国の天台と華厳の差は「空」
「縁起」の解釈に於いて「真理
丸出」「浮世夢」の配分具合
や濃度差に比定する)
纏めてくれて、ありがとう。
南師やユングや漱石は、どの分野になるんでしょね。
今から坐ります!
結跏趺坐には随分慣れましたが、2時間半の正座はキツかったです。でも気軽に禅マインドに触れられて、結構楽しかったです。はやくお手前をやってみたい。
正座の2時間半は、さすがに足が痺れちゃうよね。
(^^;)
坐禅は、30分後くらいから、足が痺れてくるね。
その後、ベタっと真っ直ぐ横たわって、足を伸ばすと、あの強烈なジンジンは、感じなくて済むね。
即座に血流を、足にスムーズに流してあげると、アーっていう痺れは回避されるようだね。