人間だろうと物だろうと、存在する何ものかに「意味」だの「価値」が発生するのは、まず第一に、そのものとは別の人間が、それを受容するか、肯定するか、必要とするかによってです。その「意味」「価値」の大きさ・高さは、受容・肯定・必要を行う人間の数ではなく、行為の強度で決まります。
たった一人の人間が必要としているにすぎなくても、その必要の強度が高ければ、数百人が「まあ、あってもいいかな」程度に思うものより、「存在価値」は高いでしょう(およそ何ものかの「価値」が多数決によらないことを思えば、当然の話です)。
ただし、人間の場合、その価値は、当人とは別の人間によって受容されている・肯定されている・必要とされていることを、自ら受容し・肯定し・必要としない限り、「価値」「意味」として機能しません(好きでもない人に好かれても、あまり嬉しくないでしょう)。しかしこのことはあくまで二義的で、価値そのものの発生とは関係ありません。
生まれたての赤ん坊の「価値」は、「本人」の意志的受容とも肯定とも必要とも無関係で、親などの「他人」がどう思うかだけにかかっています。この他者による肯定から発生した原初的「価値」を、成長の後に意識して初めて、それが自分の「価値」「意味」の実感や理解の核となるわけです。
宗教やイデオロギーにコミットして「価値」や「意味」を調達する方法もありますが、これらは概して、共同的存在である人間にとって是非とも必要な他者との関係の仕方を根拠づけるための物語ですから、所詮は間接的な受容・肯定・必要の調達でしょう。
だとすると、自分の肯定には他者が絶対的に必要だということになりますから、この矛盾的な状況は「価値」と「意味」を欲望する人間にとって、根源的な「苦労」であり、「苦痛」でしょう。
したがって、言葉を話し、「私」だの「あなた」だの言いながら生きる実存は、生きている限り「苦」から「解脱」することはありません。
ただし、「苦」を緩和することはできます。それはつまり、「価値」や「意味」への欲望を低減することです。仏教はその低減の戦略的方法論の最も整備されたものの一つだと、私は思います。
とすれば、仏教そのものの「価値」「意味」の大げさな強調は、それ自体がとんでもない自己矛盾になるでしょう。
たった一人の人間が必要としているにすぎなくても、その必要の強度が高ければ、数百人が「まあ、あってもいいかな」程度に思うものより、「存在価値」は高いでしょう(およそ何ものかの「価値」が多数決によらないことを思えば、当然の話です)。
ただし、人間の場合、その価値は、当人とは別の人間によって受容されている・肯定されている・必要とされていることを、自ら受容し・肯定し・必要としない限り、「価値」「意味」として機能しません(好きでもない人に好かれても、あまり嬉しくないでしょう)。しかしこのことはあくまで二義的で、価値そのものの発生とは関係ありません。
生まれたての赤ん坊の「価値」は、「本人」の意志的受容とも肯定とも必要とも無関係で、親などの「他人」がどう思うかだけにかかっています。この他者による肯定から発生した原初的「価値」を、成長の後に意識して初めて、それが自分の「価値」「意味」の実感や理解の核となるわけです。
宗教やイデオロギーにコミットして「価値」や「意味」を調達する方法もありますが、これらは概して、共同的存在である人間にとって是非とも必要な他者との関係の仕方を根拠づけるための物語ですから、所詮は間接的な受容・肯定・必要の調達でしょう。
だとすると、自分の肯定には他者が絶対的に必要だということになりますから、この矛盾的な状況は「価値」と「意味」を欲望する人間にとって、根源的な「苦労」であり、「苦痛」でしょう。
したがって、言葉を話し、「私」だの「あなた」だの言いながら生きる実存は、生きている限り「苦」から「解脱」することはありません。
ただし、「苦」を緩和することはできます。それはつまり、「価値」や「意味」への欲望を低減することです。仏教はその低減の戦略的方法論の最も整備されたものの一つだと、私は思います。
とすれば、仏教そのものの「価値」「意味」の大げさな強調は、それ自体がとんでもない自己矛盾になるでしょう。
っていうのは、結局「仏教そのもの」の価値や意味じゃないでしょう。
矛盾というより「ああ、すり替えてんなあ」って思うかな。
南さんて、子供の世話したことないの?
この他者というのは、人間だけになるのでしょうか?
台風や気圧変化の著しい折、どうぞ御自愛下さいますよう心よりお祈り申し上げます。
よかった!南京ハゼさんも戻ってくれた。。ホ。。
お気の毒に、本当についてないね、
まあ仕方がないね、あなたのせいじゃないよ。
どうしたらいいかって?
どうにもならんよ。
なにせ生まれちゃったんだからね。
ついてなかったと諦めるしかないね。
この世は苦労するよ、出鱈目ばかりだ。でもヤケをおこしたらダメだよ、余計苦労するからね。
よーく考えて行動しようね。
間違っても直感に頼ったらダメだよ。
しなくていい苦労をするからね。
それと考え過ぎにも気をつけようね。
身動き取れなくなるからね。
まあそんなに心配しなくていいよ、
どうせ死んじゃうからね。
生きる意味?
あなたも困った人だね。
やめときな、あなたに仏教は向いてないよ。
しかし、その価値や意味を無力化するシステムを有効に使おうと意識すると、そこに意味と価値が発生する。
坐るしかないか〜。
「見≪性≫成仏」、
「悟り」そのものの絶対化、
覚者と凡夫の峻別、
小乗仏教での、「釈尊」と「阿羅漢」との断絶、
・・・
因みに、道元和尚は、
「見性成仏」を、釈尊正伝の仏法ではないとされた。
仏教=仏法=仏道から、
人間的な全ての「価値」「意味」を奪うために、
「ただただ、仏法の為に、仏法を学ぶ」と示された。
先週の日曜日に創価学会の人(私の長男の友人)に雑談に招かれ、行ってみたらなんと家庭集会であった。
日蓮大聖人の学びと各自の現在の取り組みの座談であった。
その招いた友人の両親は、創価学会の長い信仰歴の信者であり、真剣に生きて来た言葉として「仏教は、人を救わなければならない。役に立たなければならない。」と暗に、私の見解(禅宗、曹洞宗のような)に、反論なさっていた。
それは、その人の長い人生からの実感であった。
その息子である友人は、父親の確たる信仰の下に立っていた。
「また来てください」と言われているが、現在躊躇しながらも、集まった人にどのようにすればに役に立つのか、無駄な時間にしないようにできるか思案している状況…
仏教とは「世の中に役に立つべきものか」?
世俗の世界に、役に立つか、立たないか?で、判断・議論できるのか?
只、創価学会では、実際に役に立つものである。
誰を救うのか?
誰の役に立つのか?
対象となる人はどこにいるのか?
生きるための言い訳を聞いてどうする?
そもそも集まってする事か?
親分は、坐る事を説明するために、遠回しに小難しく、言ってるだべな。
受け手不在の文は
発言者の自我の露悪的な表れのようで
辟易とするのですが
記事は、最後の一文、結論を説得的にするため
読み手が頷くかを判断する材料をきちんと添えた構成で
読んでいて楽です。