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モーリス・メルロ=ポンティ 『見えるものと見えないもの』滝浦・木田訳 1989 みすず書房 その1

2013年02月04日 | メルロ・ポンティ

モーリス・メルロ=ポンティ 『見えるものと見えないもの』 滝浦静雄・木田元 訳 1989 みすず書房。原著は1964年刊行。日本で翻訳出版されるまで25年近く経過していたが、待ちわびていた人たちがいたのだろう、本屋に注文してもなかなか届かず、巻末の奥付をみると、1989年9月29日に第1刷、その年の12月22日に第3刷発行となっている。しばらく待たされたのだ。定価当時6386円、3ヶ月以内に3刷となっている。「思考ー哲学ー記述ー推敲ー思考」 の圧倒的な気迫に満ちた喜ばしき思考の断片、これは「無為の贈与」以外のなにものでもありえない。 

 

モーリス・メルロ=ポンティの思考の記述 

以下は、モーリス・メルロ=ポンティ 『見えるものと見えないもの』 滝浦静雄・木田元 訳 1989 みすず書房からの、メモ。

 「問いは哲学にとっては、われわれの実際の視角と折り合い、その視角の中でわれわれを思考へと促しているものに対応し、その視角をつくりなしているもろもろのパラドクスに対応するただ一つのやり方なのだ。言いかえれば、物や世界という形象化された謎ーーそれらの重厚な存続と真理はさまざまの両立しえぬ委曲に満ちているのだからーーーに適応しようとする仕方なのである。」 13p

「知覚の母岩としての私の肉についての経験」 19p

「知覚がやってくるや、身体は知覚の前から消え失せるし、知覚が知覚しつつある身体を捉えることは決してないのだ。仮に私の左手が右手に触れ、そしてふと、触りつつある左手の作業を右手で捉えようとしたとしても、身体の身体自身に対するこの反省は、きまって最後には失敗する。私が右手で左手を感じるやいなや、それに比例して、私は左手で右手に触ることを止めてしまうからである。それにしても、この最後の挫折は、触りつつある自分に触れることができるのだという予感、一切の真理性を奪い去るわけではない。」 19p

「知覚の母岩としての私の肉についての経験が、知覚の出生地はどこでもいいわけではなく、それは身体という隠れ家から出現するのだということを私に教えてくれたのである」 19ー20p 

 

野生の思考 Pansée sauvage

[本当の対話というものは、自分でも知らなかったし、自分だけでは考えることもできなかったような考えを思いつかせてくれるものであり、そして私は時には自分が、自分自身にも未知な道、私の言述(ディスクール)が他人よって投げ返されながら、初めて私のために聞きつつある道を歩んできたように感ずる」 25P

「世界というのは、われわれの眼に入ってくる、あるいは入りうる事物の総体であるばかりでなく、そういったものの共可能性(compossibilité)の場であり、それらの遵守する不変なスタイルを結び合わせ、一方から他方への移行を可能にしてくれるのであり、そしてこのスタイルこそが、風景の細部を記述する場合であれ、また絶えざる真理に同意する場合であれ、いずれにしても、われわれは同じ真なる対象を上空から俯瞰しうる二人の証人であり、またちょうど文字通りの意味での見える世界の中でわれわれ各自の視点が交換しうるように、少なくともその対象に対するお互いの立場を交換し合える二人の証人なのだという感じをわれわれに与えてくれるのである。」 25p

 

ポンティは、哲学の思考だけではなく、絵画のマチエールの記述にも深い影響をあたえつつあるようだ。

この項 続く

 



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