「色々と勉強させてください」
と例えばそんなふうに言われたとする。
もともとがお節介な私のことだ。若い人にそう言われりゃあ、「ひと肌脱ぎやしょう」てな気持ちにはなる。
(それが社交辞令かも知れないとか、挨拶がわりかも知れないとか、そんなことは疑いもしない)
「(ゴホッ)CCPMっていうのは聞いたことがあるかい?(エッヘン)」
「あそれ、ウチの場合はちょっと事情が違うんで・・・」
「あそう、じゃそれはおいといて・・・」
(と言いつつ、気持ちはすでに萎える)
いつ何どきに、これこれしかじかという実例ではないが、こんなことはよくある。
例えばこの場合、いや何もCCPMを実践せよと押し付けているわけではないのだ。
しかし、土木について何か教えるものが私にあるとしたら、(今の私には)CCPMがその骨格の一つであることは間違いがないところだし、
だいいち、私が決めたコンテンツであろうとなかろうと、まずは受け取る側が「自分の都合を優先した思い込み」を排除してかからないことには、メッセージは伝わりにくい。
なんとなれば、こっちだって「なんだかよくわからない」のを試行錯誤しつつ日々を生きているのだ。
その「なんだかよくわからない」オジさんから何かを学ぼうとすれば、「学びのメカニズム」に忠実であることがまず必須項目である。
それこそ張良と黄石公のエピソード(※1)のとおり、受け取る(学ぶ)側が思い込みさえすれば、いつでもどこでも「学びは起動する」(※2)。
逆にいえば、「思い込まなければ学びは起動しない」のである。
※1 張良と黄石公
内田樹が好んで引用する「学びのメカニズム」についてのエピソード。
張良というのは劉邦の股肱の臣として漢の建国に功績のあった武人です。
秦の始皇帝の暗殺に失敗して亡命中に、黄石公という老人に出会い、太公望の兵法を教授してもらうことになります。
ところが、老人は何も教えてくれない。
ある日、路上で出会うと、馬上の黄石公が左足に履いていた沓(くつ)を落とす。
「いかに張良、あの沓取って履かせよ」と言われて張良はしぶしぶ沓を拾って履かせる。
また別の日に路上で出会う。
今度は両足の沓をばらばらと落とす。「取って履かせよ」と言われて、張良またもむっとするのですが、沓を拾って履かせた瞬間に「心解けて」兵法奥義を会得する、というお話です。
それだけ、不思議な話です。
けれども、古人はここに学びの原理が凝縮されていると考えました。
『日本辺境論』(内田樹、新潮新書、P.142)
※2 学びは起動する
張良の逸話の奥深いところは、黄石公が張良に兵法極意を伝える気なんかまるでなく、たまたま沓を落としていた場合でも(その蓋然性はかなり高いのです)、張良は極意を会得できたという点にあります。
メッセージのコンテンツが「ゼロ」でも、「これはメッセージだ」という受信者側の読み込みさえあれば、学びは起動する。(P.148)
もちろんこの場合に重要なのは、「たまたま沓を落としていた場合でも」OKなんだよ、という部分である。
「そんな極端なことはあれへんやろ」と思うなかれ。
このブログの熱心な読者であらせられますNさんの例が理解しやすい。
(無断です。ごめんなさいネ)
海のもんだか山のもんだか判らない私を(山のもんです)、彼は「先生」だと思い定めた(らしい)。
そしてその「おかげ」で、県の優良工事表彰を受けることが出来たのだ、というメールがNさんから届いたことがある。
賢明なかたならお解りだろう。
ここでは、私が「何者か」であるとかないとか、そんなことは副次的な意味しか持っていないし、(たぶん)本質は「おかげ」だなどというレベルのものでもない。
誰かを学ぶ対象として思い定め、そこから「学ぶ」決意をした。そのことに大きな意味があるのだと私は思う。
そう決意をしさえすれば、どこにだってネタは転がっているし、「先生」たる対象がこの私だったとしても全く問題がないということなのである。
メッセージのコンテンツが「ゼロ」でも、「これはメッセージだ」という受信者側の読み込みさえあれば、
どこかの馬の骨である(高知県安芸郡北川村の馬の骨です)ボウズ頭のオジさんからでも、学ぶことが出来るのである。
それがオープンマインドである。
そしてそれを出力する。考える。自分オリジナルな知見でなくたって良いのだ。
(現に内田樹の著書にはこれと同様のことが繰り返し出てくる。つまりアタシガパクリマシタ)
そして出来得れば、私の気がついていない部分をどなたかに読み取っていただいて、私がその誰かからまた「学ぶ」、などと夢想する。
現実にその芽生えは、あっちにもこっちにもあるはずだが、「オレは何者かになった」などとふんぞり返っていては、「学び」はもちろん起動しない。
「これはメッセージだ」が「勘違い」だとすると、「オレは何者かだ」もまた「勘違い」。
しかし前者は「自覚(または勘違い)」であり、両者の間には三億光年ほどの隔たりがある。
きっとある。間違いない。