S.Oさん撮影
バルコニーから仰ぎ見る、空を泳ぐ鯉のぼり。
鯉のぼりは「希望」だ。
ふと、3週間ほど前に杯をかたむけあったある人が言った言葉を思い出す。
「アナタ、けっこうやばい橋を渡ってきた過去があるでしょ」
ん・・・
と思い起こしてみた。
もちろん、ないわけではない。グレーゾーンならたくさんある。だが、世間一般で言うところの「やばい橋」を渡ったことはない。
あるとしたら・・・
「あれか。」
と膝を打ち答えた。
「ヤクザの女に手を出したことはある」
むむむ・・・・
たぶん、彼が言わんとしたのはそのようなことではない。
だが、ほろ酔い加減のお互いだ。
そうだそうださもありなんと、なんとなく納得しつつ話は進んだ。
なぜ鯉のぼりの写真からそんな他愛もない話を思い起こしたのだろう。
いつものことながらこのオヤジ、心象の飛び具合がはなはだしい。ホップ・ステップ・ジャンプと順序を踏んで跳ぶことなく、右に左に後に前に、変幻自在といえば聞こえはいいが、脈絡がなく心象が飛んでいく。
たぶん、「紆余曲折のはて」と言いたかったのだろう。紆余曲折のロング・アンド・ワインディング・ロードを七転八倒しながら歩いてきたあげくのやっとこさ、オジさんは鯉のぼりに「希望」を見る。
何が「希望」なのか。
「鯉のぼり」の対象たる君たちには、たくさんの時間が与えられている。
たくさんの時間があるということはすなわち、その時間のうちのいくばくかをたとえ無為に使ったとしても、人生をトータルに見ればたいした影響はないということだ。いやむしろ、若いアナタが無為に使ってしまったと思うその時間は、人生をトータルに見たとき、「あゝあれはあれなりに有為な時間だったのだ」とふり返ることになり得る可能性を含んだアナタにとってプラスの時間なのかもしれない。
とはいえ、自分自身が生きているそのときが無為な時間だと思えてたまらないそのときは、まぎれもなく辛い時間だ。この辛さがこの先どこまでつづくのか、そう思い始めると果てしなく辛い。
どのようにしてそこから脱するか。
残念がらそれに対する一般的な解をわたしは持ち合わせてはいない。局所局所場合場合に応じては解を示してあげることができるかもしれないが、まことにもって冷たいけれど、一般的な解はない。
「あきらめたらそこで試合終了」
というのはけだし名言で、わたしも好んで使わせてはもらうのだが、人間だもの、局地戦であきらめてしまうのは仕方がない。炎が消えてしまうこともあるだろう。ただ、そんな時代を経ながらでも火種だけは持ちつづけてほしい。火種さえ失くさなければ何度でも炎を燃やすことができる。あきらめて、またあきらめて、そして何度でも立ち上がればいい。
高く泳げよ鯉のぼり。