シンクロニシティ & etc.

日々訪れるシンクロニシティの意味の探求と、「青天井」な人間力向上の追究、その他いろいろなことについて。

頭の中は完全に自由

2007-08-29 11:15:32 | 気づき

 知ってますか?

 頭の中で何を考えるかは全く自由だということを。

 もちろん、「そんなの知ってる」と皆さん答えるでしょう。

 でも、私はこの「頭の中で何を考えるかについての自由」、すなわち思想良心の自由を本当の意味で使いこなしている大人というのはほんのわずかであるように思います。

 そのことにはっきり気づくのは、子供と接したときです。

 彼らはこの、「頭の中では何を考えてもいい」自由を完全に謳歌し、それによって喜びや生きる力を得ていると思います。全く枠のない自由な世界を思い切り楽しんでいるのです。

 「頭の中は完全に自由」なのであれば、これは「ノールール」ということであり、とてつもなく簡単な世界なはずです、本来。コートの線が全くないテニスコートでボールを好きな方向に打ちまくればOK、というような簡単さです。

 だから子供にこの自由な世界を楽しめるなら大人にもできるのが普通の筋道であるように思いますが、それがそうでもない。

 ほとんどの大人というのは、間違いなくこの分野では子供に圧倒的に負けています。考えるパターンはいつも同じで、退屈かつ窮屈な思考の枠の中にはまっています。

 せっかく、日本国憲法で「思想良心の自由」が規定されているのに、これを本当の意味では使いこなせていないわけです。

 だから子供の頃は、「大人になったらこんなことをしたいあんなことをしたい」と心から願い、早く大人になりたかったはずなのに、なってみると子供のころ期待していたよりは全然面白くないという事態になっているのではないでしょうか?

 昔、法律の勉強をしていたときに日本国憲法19条の思想良心の自由というものを勉強したときには、その本来の文字通りの意味を良く分かっていなかったように最近思います。 


人のことを思うとアイデアが・・・

2007-08-28 22:37:36 | 気づき

 人をどうやったら喜ばせられるか、とか、どうやったらその人の役に立つことができるかとかを考えていると、妙にビジネスのアイデアが浮かんでくることが分かりました。過去に、ボランティアみたいなことをしたときにかなりアイデアを思いついていることが判明したのです。

 こういうのって、ビジネスの啓発本とかに当たり前のように書いてあることですが、最近そのとおりだと実感しています。

 理論的には、相手が喜ぶことを考えるっていうのは、その相手以外の他の人も喜ぶことを考えることにつながっていて、そういうことってそのままビジネスのアイデアになるわけです。

 価値を分かってもらえる相手であれば、ちゃんと気持ちを込めてやることができ、たとえ無償の仕事をしたとしても、こんな形で戻ってくることもあります。

 そしてこの例に限らず、その時々は短期的にはビジネス的にはマイナスとなる無償奉仕でも、後で振り返ると結構帳尻が合うことがかなりあるのではないかと思います。


自分を安売りしないこと

2007-08-27 20:39:07 | 気づき

 普通、車でも装飾品でも、物を売ろうと思ったら、一番高く買ってくれるところを探すはずです。

 で、最高値のところで売るわけです。

 でも、自分の能力を売ろうと思ったときに、これを一番高いところで売ることをちゃんと考えているでしょうか?

 自分を全く評価してくれない世界にちょくちょく顔を出したり、自分の本当の価値を全然理解してくれない人の仕事を安値で引き受けたり手伝ったりしていないでしょうか。

 こういうのを、「自分の安売り」と言います。しかも安く売っても、一旦安く売った自分の値段は高くなることはほとんどありません。時間の無駄ですね。

 私は結構そういう無駄をしてきた自覚があります。

 まあ、無駄と言っても、そういうところと付き合っても全く意味が無いということに気づいたとか、認めて欲しくて頑張ってるうちに自分のコンテンツが出来てきたというような点ではそれなりに意味はあったわけですが。

 でもこれからは、自分の価値を評価してくれる人にだけ時間を割くことにします。時間は有限ですから、自分を評価してくれる人の優先順位を上げ、そうでない人の優先順位を下げるのは当たり前のことです。

 このことによって、大事にすべき人は大事に、そうでない人はそれなりに、とメリハリを付けることができます。

 こんな当たり前のようなことでも、きっちり実行できるようになるまでにはだいぶ時間がかかりました。


断食道場シンクロ

2007-08-26 15:08:55 | 新たなシンクロニシティ

 23日に、「『幸福』についてある人から言われた言葉」というブログを書きました。http://blog.goo.ne.jp/imagingstar/e/fd94c03cffce2b1199ee15075340ec93

 そのときにある断食道場の話を書いたのですが、この道場の話題を第三者にしたことは今まで15年間ほとんどありませんでした。 

 にもかかわらず、私のブログを教えていない方から、昨日25日に、この断食道場そのものについての話題を振られて、「どうですかね?こういうの?」という質問を受けたのです。

 これってかなり、というか無茶苦茶レアなシンクロニシティですよね・・・

 ちなみにこの道場については、http://www.taisitukaizen.com/dojo01.htmlに載ってます。

 今思えばこの道場って結構面白いところだったように思います。司法試験に受からず、かつ体調も悪くて悩んでいた私にはとても役に立ちました。

 私は15年前に行っただけでその後は行ってませんので道場主が私を覚えているかどうかは全く分かりません。


黄金の国、ジパング

2007-08-25 22:50:05 | 気づき

 私が普段思うのは、日本は、すごい沢山の才能ある人が埋もれているということです。 

 これは実にもったいないです。

 自覚してるのに表に出られない人もいれば、自覚すらしてない人もいます。

 これらの才能の金鉱をどんどん掘り出してしまえば、日本は本当の意味での黄金の国ジパングとなれるのではないかと常々思っています。

 才能を埋もれさせないために一番重要なことは、間違いなく自分の中に、何かきらめくものがあるんだという確信です。

 それがなければ、才能のきらめきは徐々に弱まって、本当に消えてしまうように思います。

 そして金鉱には、浅いところには何もなくて、深いところに大きな鉱脈があるものもあるはずです。才能も同じで、長い年月かけてやっと花開く才能というものはいくらでもあると思います。

 この点から言ってもやはり、どれだけ自分を信じて自分という才能の鉱脈を掘り続けられるかどうかが重要だと思います。


類は友を呼ぶ

2007-08-24 11:27:17 | 最近気になる言葉

 「類は友を呼ぶ」って言葉には、本当に深い意味があると思います。

 昔、丹波哲郎が「大霊界」という映画を作ったときに、「霊界では泥棒は泥棒の国、うそつきはうそつきの国、というように、自分と同じような霊がいる世界に分類される」なんてことを言ってましたが、別に霊界じゃなくてもそうだと思います。

 もちろん、どんな人でも毎日いろんな人に会います。

 でも、物理的空間を共有しても、精神的空間が違っていたのでは本当の意味で会ったことにはならないと思います。

 「会う」ということの本質は「合う」ことに同じなのではないでしょうか。「合う」とは、精神的空間を共有できるという意味に他なりません。英語でも、”meet”には「会う」という意味と、「合う」という意味の両方があります。

 今までに出会った人の多くが退屈だったとある知り合いが嘆いていましたが、そのことを後でしばらく考えてました。

 で、「類は友を呼ぶ」法則に従って解釈するととてもきれいに説明できることが分かりました。

 それは、彼が物質的なものばかり見ている人なため、同じように考える人しか寄ってきてないのではないかということです。

 そりゃあ、つまらないでしょうね。すぐに飽きてしまうことでしょう。

 そして、彼が変わらないうちは延々と同じような出会いが繰り返されることが容易に想像できます。そして、自分と似た要素を持つ人間が集まってきていることの自覚がないわけです。

 それにしても「類友」は決して侮れない、恐ろしいくらいの威力がある法則です。

 この法則に照らし合わせると、今までの自分の、問題のあった人間関係の相当多くをすぱっと説明できたりして、全くもって恐ろしいです。

 私の人生展開は、そのときそのときの私にぴったりとフィットしたオーダーメイドだったわけです。 


「幸福」についてある人から言われた言葉

2007-08-23 23:27:13 | 学んだこと

 15年ほど前に、ある断食道場に合宿に行きました。

 そこである時、当時あまり本音では尊敬していなかった道場主が、参加者1人1人に対して「幸福とは何か?」と聞きました。

 そのとき私が、「三昧(ざんまい)の境地(※)です。」と答えたところ、くだんの道場主から即座に「それじゃあ自分だけの独りよがりじゃないか!」といきなり喝破されました。

 当時私は瞑想に凝っていて、そこで自分なりに幸福というものを考えていたつもりだったので、その一言に相当なショックを受けたのでした。

 確かに、人間は1人で生きているわけではなく、他の人間、動物、植物など全ての存在と一緒に生きているのであり、幸福も、それらとの関係性においてのみ語れるはずのものです。

 今はそういうことは当たり前のように思うのですが、当時のその道場主の言葉によって気づかされた面が相当あるのではないかと今更ながら思うのです。

 いろいろと欠点もあって全面的に尊敬するわけにはいかない道場主でしたが、その点については本質を見事に突いてくれたと思います。その意味では師であると言わなければならないのかもしれません。

 ちなみに、そんなにはっきりした根拠があるわけではないのですが、私見では瞑想などの修行をする人は結構この陥穽(落し穴)に落ちやすい面があるように思います。

 修行による脳内麻薬の分泌が自分の感覚オンリーの世界観を誘導しやすいのではないかと推察しています。脳内が自律的に気持ちよくなるので、周りのことにそれほど関心がなくなるって感じですかね。ま、当たっているかどうか、確たる自信はありません。

 ※三昧の意味⇒http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%BB%B0%CB%E6&kind=jn&mode=0&base=1&row=0


身の程知らずはかっこ悪い

2007-08-23 01:56:07 | 気づき

 何がみっともないって、自分の身の程を知らないっていうことほどみっともないことってあまりないかもしれません。

 大きな組織に属していたり、立派な肩書きなどを持っていたりする人の中にそういう人がたまにいるように思います。

 私は、組織の力や肩書きをはずした時の残存価値がどれくらいあるかがその人の真価だと思うのですが、どうもそういった形式的なレッテルのようなものに守られていると、実質的な価値の有無を自らに問うような危機意識がなくなりやすい傾向にあると思われます。

 何でこんな話をするかというと、もちろん自戒のためです。

 別に大きな組織に属しているわけでも、大した肩書きがあるわけでもありませんが、私に、私の持っている資格や履歴などの形式的なものを取り去った後、どれだけの価値が残存するのか?

 そんな、人間としての底力みたいなもので勝負していきたいといつも思うのです。

 人間、ガチンコ勝負を避けるようになったら滅びの道に入り込んでしまうのではないでしょうか。組織や資格の力に頼って生きているのに、それを自覚せずに自分の力だと思っているのはかっこ悪いというだけでは済まず、もはや致命傷かもしれません。

 そういう裸の勝負をする土俵で勝負しているなら、多少強気の発言があっても全く問題ないと思います。

 こういう文脈からすれば、例えばK-1の魔裟斗選手の毎度毎度の強気発言は全くもって正当であると言えましょう。実力だけで勝負している彼が自分を鼓舞するためにしているであろう強気発言は、むしろかっこよいものですらあると思います。


執筆活動その後

2007-08-21 23:16:26 | ちょっとした話題&日々の出来事

 例の、大喜びで始めた執筆活動ですが、現在96ページまで書き、ちょうど真ん中あたりまで来ました。

 出版社の方と昨日また打ち合わせをした結果、

 1.あまりさらっと書かずに、重要なところはもっと深くじっくり書く。
 2.図を付ける

 などなどの改良点を指摘していただきました。

 せっかくやるんだから、しっかりやろうと思います。

 

 


Free Your Mind !

2007-08-19 01:36:38 | 学んだこと

 映画、Matrix Reloadedのプログラムには、”Free Your Mind !”というメッセージが記載されていますが、これは本当にすごいメッセージです。

 私たちは大抵の場合、本人が自覚している以上に、過去のトラウマや、洗脳による思い込み、コンプレックスなどに支配されているものです。特に、そういうものが自分には全くないと信じている人ほどそういう傾向があることが多いように思います。

 そしてこれらの、真実を見えにくくしているもののせいでいろんなことが見えなくなっているのですが、自分で自分が事実をありのままに見ることができなくなっていることに気づくのはなかなか難しいです。人は自分が見えていることこそが真実であると信じたい動物ですからね。

 実際、自分が物事のありのままを見ることが出来ていなかったことにはっきりと気づくのは、これらの歪んだフィルターがはずれたときであることがほとんどです。

 小さいときは歪みが全くなくて、大人になるプロセスで多くの歪みを獲得し、それからまたこの歪みをはずして心を解放していくプロセスに入るのが結構多いパターンですが、私もご他聞にもれず今は、いったん付いてしまった歪みを何とかかんとか取り払うプロセスにあります。

 これまで拘束されていた”Mind”をどんどん”Free”にして行っているということです。

 取り払うだけでも能力が開放されて行きますから結構楽しいのですが、もともとそういう歪んだフィルターを付けないようにしていれば、もっと楽ちんな人生だったのではないかとたまに思います。

 でも心に歪みフィルターがいっぱい付いていたせいで、これらをはずす技術に異様に長けることができたので、まあ人間万事塞翁が馬(じんかんばんじさいおうがうまhttp://www.mizz.jp/word/word_8.html)なのかなあと思うことにしています。

 やっとスタート地点に到着した感じです。

 MindがだんだんFreeになって来たら、今度はひたすら”Just Do It!”ですよね!