シンクロニシティ & etc.

日々訪れるシンクロニシティの意味の探求と、「青天井」な人間力向上の追究、その他いろいろなことについて。

情報の海の中で生きた証を残すこと

2008-09-30 23:18:01 | 気づき

 現在の我々が生きている世界では、行きかう情報の量が加速度が加速するくらいの勢いで増加しています。

 毎日、とんでもない量の情報が次々と我々の脳にインプットされていくのです。

 我々は、あたかも、未だにその量を増大させている情報の海で泳いでいるようなものです。

 この、情報の海の中で、情報を摂取したり、消化したり、吐き出したりする一連の流れが我々の毎日の生活、というより人生そのもののプロセスになっているのです。

 では、情報の大海原を毎日泳いでいる我々1人1人が、自分の生きた証を残していくにはどのようにしたら良いのでしょうか?

 ただ、世の中の情報を頭に詰め込んで、吐き出しているだけでそんな証が残らないことは間違いないでしょう。それはいかにも空しいです。

 私は、そんな中で自分が生きた証を残すには、自分が扱う情報の密度を限りなく上げていく他ないと思います。

 では、具体的に密度が限りなく高い情報とは何でしょうか?

 定義は難しいけれど、そういう情報を扱うときに私が感動を覚える、ということだけはっきりしているように思います。

 人が感動を覚えるときというのは、人が無限を感じるときです。そして、無限を感じるときに、扱う情報の密度が限りなく高まっているに違いないと感覚的に思うのです。

 長い話になりましたが、まとめてみると、「我々は、感動することによって、膨大な情報の海の中であっても、生きた証を残すことができる」ということです。


とにかく強気で行かなきゃ

2008-09-29 11:06:43 | 気づき

 人間、厳しい状況が続くと、とにかく弱気になりやすいです。

 もっと状況が悪くなるのではないか、とかの心配が出てきてしまいます。

 しかし、実際には、厳しい状況であればあるほど、強気であるべきです。「ここまで厳しい状況が続いたんだからこれからはきっとうまく行くはずだ」とか思っていると力が溢れてきます。

 そういう強気の力が、現在の状況を変えることができるに違いありません。

 弱気になって、事態が打開されるなら喜んで弱気になりますが、そんなことはありえませんから、そういう損なことはしたくありません。

 ここで強気と言うのは、引っ込むべきときに引っ込まない意固地さを意味するわけではありません。

 ここで言ってるのは、パンチを打ち出すことが必要なときにしっかりとパンチを打ち出せる、というようなイメージの強気です。


「自分の親を大切にして何が悪い」

2008-09-29 10:38:12 | ちょっとした話題&日々の出来事

 この前、俳優の山本太郎さんが、トーク番組に出演して、お母さんと仲がいいという話の流れで、オセロの松嶋さんが、

 「でも、それってマザコンになりませんか?」というような趣旨の発言をしたのに対して、山本さんが真剣な面持ちで、

 「それは言葉の解釈によりますよね・・・でも自分の親を大事にして何が悪いんですか? 安っぽい言葉ですよ。」

 といきなり返していました。

 あれは面白かったですね。空気を読むも何もあったもんじゃなくて、怒ってる感じでした。

 いきなり、「安っぽい」とまで言われた松嶋さんも、そこまで深いニュアンスはなかったとは思いますが、ま、正論ですね。確かに安っぽい。

 ここで大きな時代の流れについて私なりに分析すると・・・

 戦前⇒家制度の下、家族関係は、うざいくらいの緊密さを持っていた。
 戦後~バブル期⇒家制度がなくなり、個人主義の下、人々は家から解放されて自由になって経済活動にまい進した。親の子に対する存在感は薄くなっていった。この時代には、「親を大切にする」ことは、ある意味非効率な馴れ合いの世界に安住しているようなニュアンスとして取られることもあり、この時代に「マザコン」という言葉が定着することになる。
 バブル崩壊~現在に至る期間⇒高度成長期に家族の絆が失われたことの深刻な影響が全国的に現れ始めた。そのため、家族の絆の価値を見直そうという動きが起き、若い世代にも、実は身を粉にして家族のために頑張ってきた親の世代の苦労を理解しリスペクトする動きが現れ始めている。

 というような分析を前提とするならば、松嶋さんは、上記ではむしろ古い流れに属しているという分析ができなくもありません。

 現在山本さん33歳、松嶋さん36歳。

 日本のバブルが崩壊した1991年に、松嶋さんは20歳、山本さんは17歳でした。

 たった一つの事例では何ともいえませんが、この3歳の年の差が、2人の意識の違いに多少なりとも影響している可能性というのはあるかもしれません。

 私の周りをよく観察していると、ここらへんの年齢を境に、日本人のキャラクターはマクロ的に見てかなり変化しているんですよね。

 いいとか悪いとかの話ではなしに、現在の34~5歳より上の人には、考え方が甘めで、夢見がちな人が多く、それより下の人には、物の見方が厳しく、現実的な人が多いように思います。

 もちろん一般的傾向の話です。

 他にも、前者には自動車に関心がある人が多く、後者にはそれが少ない、とか、いろいろな差異があり、分析すると面白いです。 


ポール・ニューマンとのシンクロニシティ

2008-09-28 15:12:02 | 新たなシンクロニシティ

 昨日27日、私は船橋のコストコに行きました。

 そして、その食料品売り場で、ニューマンズ・オウンブランドのジュースを見つけ、一緒に行った人たちに、「ポール・ニューマンがやってるブランドで、元々ドレッシングだったんだけど、ジュースもやってるんだね。これって、儲けは全て寄付するらしいよ。ル・マンで2位を取ったこともある人。若いときはマーロン・ブランドといつも比較されて苦労したんだよね。」

 という話をしたのでした。

 そしてそのときに、「あれ?ポール・ニューマンって生きてたっけ?」とふと思ったのです。

 そしたら、今日になって分かったのが、26日(これって日本時間では27日ですよね。)に彼が亡くなっていたということ。

 高校生の頃から、ポール・ニューマンに憧れてました。

  儲けを全て寄付する会社を作ってしかも成功するなんてことも含めて、かっこよすぎる人でした。

 ご冥福をお祈りします。 


自分中心じゃあ、かっこよく年取れない

2008-09-27 08:50:55 | 気づき

 この前、小学生の姪っ子としゃべっていたら、あるとき、「自分のこと以外どうでもいい。」という言葉を口にしました。 

 なるほど。子供っていうのはそうですよね。子供ならこのセリフは十分絵になりますし、なにしろかわいいわけです。

 一方、大人になってもこういうスタンスを続けようとする人というのがいますが、これってどうなんでしょうか?

 確かに、人って、結構子供時代は途方もなく幸せだったりするから、その時代をいつまでも続けたい気持ちはよく分かります。

 しかし、しかしですよ、これは絵的にどうなんでしょうか?

 私は、これはやっぱりダメだと思います。

 「自分大好き人間」っていう言葉、最近良く聞きますが、これが悪い方に現れてる人が結構多いと思います。「自分だけ大好き人間」。

 そういう人としゃべっていると、寒いですよね。だって、こちらに関心がないんですから。関心を示してるように見えても、実は自分に目を向けて欲しいが故に関心があるように演技してるだけだったりする。

 コミュニケーション(communication)という言葉の頭のcomって、一緒にとか、共に、というニュアンスなんですけど、このコミュニケーションが全然できないんですよね。

 同じ自分中心だったら、小学生としゃべってる方がかわいいし発想が面白い分、余程楽しいと思います。

 ということを書いてみて、自分のことを考えてみると、やっぱ自分、まだまだ子供だったと感じるimagingstarでありました。

 でもね、これもバランスで、周り中心ってのもまずいんですよね・・・自我やアイデンティティが自分の意思とは関係なく周りの流れだけによって決まってしまっている状態です。こういうケースでは、ある日「私って誰?」なんて疑問が止まらなくなってしまう危険性が大です。


自己開示のない文体はつまらない

2008-09-26 01:30:39 | ちょっとした話題&日々の出来事

 前から思っていた、つまらない文体についてコメントします。

 それは、自分の考えや思いの開示が全くない文章の書き方です。

 どういうわけか、年齢が上がれば上がるほどこの文体が増えてきます。

 自分の考えを示すことによるリスクを避けているのだと思うのですが、読んでる方としては、書き手の心の底から思っていることを全然書かない文章というのは読んでいていかにも退屈です。

 やはり、たとえ批判されるリスクがあろうとも、自分の考えというものを外に曝して、「どうですか?」と問うている文章こそ読む価値があると感じます。そういうものだけが言霊を持つに違いありません。

 この前の師匠の言葉(http://blog.goo.ne.jp/imagingstar/e/892ff00ac5dfbd264cd9c1b228aeaba7)は、オバサンというカテゴリーで、極論のカタチで語られていますが、その本質は、「リスクを負わない人間の言う言葉には価値がない」ということに尽きると思うのです。

 文体についても、同様のことがあてはまると思うんですよね。


「あの人、私を嫌ってる」の半分は、自分がその人を嫌ってる

2008-09-23 00:16:45 | 気づき

 心理学で、「投射」という言葉があります。

 自分が相手に対して思っていることを、相手が自分に対して思っていることと勘違いしてしまうことです。

 これって、好き、嫌いの感情に一番表れると思うんです。

 ま、「好き」の投射は恋の素ということで特に問題はないとして・・・

 一番の問題は、「嫌い」という感情の投射です。

 これ、本当に多いです。

 私の場合、 「あの人・・・私を嫌ってる」という風に思う場合、投射の疑いをよくよく検討すると、実に半分以上が投射、すなわち、実は自分が相手を先に嫌ってしまっているような気がします。

 でも、この仕組みがちゃんと分かっていれば、こういった、被害妄想みたいなケースを防ぐことができ、自分の対人関係の可能性を狭めず人生を楽しむことができるはずです。


某師匠とのやり取り

2008-09-20 01:44:03 | ちょっとした話題&日々の出来事

 この前、私が良く知ってる飲食店オーナーの某師匠とこんな対話をしました。

 某師匠;「日本を支配してるのが誰か知ってる?」

 一同;「?」

 某師匠;「それはね、『オバサン』だよ。あの、何のリスクも負わない連中が、一生懸命リスクを負って頑張ってる人間のことについてつべこべ口出ししているのが大問題だ。あいつらに参政権を与えたのがとんでもない間違いだった。」

 私;「なるほど。リスクも責任も負わない人間が、リスクと責任を負ってる人間に指図するべきではないということですね。」

 某師匠;「そーうそう。いいねえ、その言葉! 女子供には口出しさせちゃいけないんだよ。」

 某女性弁護士;「あの~~ 私、一応、女なんですけど。」

 某師匠;(女性弁護士の指摘に全く無反応で)「男女平等なんてありえないよな。これからの日本の未来をちゃんと考えなきゃなんないんだよ。」

 某プロゴルファー;「大阪のオバちゃんは特に問題です。」

 某師匠;「そーうそう。その通り!」

 師匠の論理はいつも明快です。

 あまりに面白いので、内緒で語録を作って、いつか出版しようと思います。


モテ道とは何か?

2008-09-20 01:29:01 | 本日の内なる声

 なぜか、モテ道についてご神託が下りました。

 「モテ道とは、自分がモテたい相手からモテることである。」というご神託。

 おー、確かにそうです。

 やはり人間、モテたい相手からモテてなんぼのもんです。そうでない人からモテてもそれほど嬉しいわけではありません。

 というわけで、その対象が男であろうと、女であろうと、まずは自分がモテたい相手、すなわち自分のターゲットを絞りこむことが最初の作業となります。

 そして、そのターゲットが決まったら、そのターゲット以外からモテることはスッパリ切り捨てるのが潔いです。

 とにかく全ての人からモテたいというのは、不可能に近いばかりか、このずうずうしい性質が、品のないオーラを全身から染み出させることになる可能性が高いのではないでしょうか?

 こんな話もリアルではよくしてる、imagingstarでありました。どうですか?そんなに高尚じゃないですよね・・・


人生は、周囲の人間からダウンロード&インストールされるプログラムに大きく依存している

2008-09-19 09:02:56 | 気づき

 人間のネガティブ度あるいはポジティブ度は、いつも一緒にいる人間の影響を大きく受けるのではないかと最近強く思います。

 なぜなら、人は、一緒にいる人間の言葉を毎日シャワーのように浴び、また、その人の行動を毎日目にするからです。 

 これは、実際のところ、すごい量のプログラムのダウンロード&インストールが毎日行われていることを意味します。ポジティブな言葉を浴び、ポジティブな行動を見ていれば、常にポジティブなプログラムのダウンロード&インストールが繰り返され、ネガティブな言葉を浴び、ネガティブな行動を見ていればネガティブプログラムがどんどんダウンロード&インストールされるというわけです。

 どんな言葉を毎日自分は、身近な人間からダウンロードしているのか、あるいは、視覚を通じてその人のどのような行動をダウンロードしているのか、を注意して観察すると面白いです。そしてその結果、自分の気持ちがどのように影響を受けているのか?

 そして、テクニカルには、若ければ若いほど、外からのプログラムのダウンロード&インストール容易度が高いので、より大きく周りの人間の影響を受けてしまうことになります。

 例えば、子供時代に周囲の大人からネガティブな情報を大量にインストールした人は、大人になってからポジティブ情報をインストールしても、なかなか心のネガティブ比率を大きく変えるのは難しいでしょう。また、「さあこれからポジティブに生きよう」と気合を入れたところで、全く効果がないとまでは言いませんが、長期的視野から見ての大きな変化が見込めないのは言うまでもありません。要は一時的に変わったとしてもしばらくすると元通りになる可能性が高いのです。

 この場合には、まずは既にインストールされているネガティブ情報を検索して見つけ出した上で、アンインストールするような作業をすることが先決問題になりますが、これが個別具体的に抜いていかねばならない根気のいる作業になります。

 さて、よくよく考えてみれば、このようにして周囲の人間の言動や行動の影響を受けるのは、ネガティブ度ポジティブ度だけでなくて、運気、能力、性格、などを含む人生のあり方自体が決定的に影響されてしまうのかもしれませんね。