優厳 × 赤鬼通信

社会参加活動の支援を目指す「なんちゃって社会貢献チーム」の、「優しく厳しい遊び場づくり」の迷走過程を記して行きます。

問いかけに対して、なるたけ正直に

2011年07月24日 | Weblog
残念ながら、仕事をするために「多く」を、もしくは「ほとんど」を捨ててます。
私は他者と関わるのが元々好きじゃないし、福祉にも愛着はありません。
今の仕事も「たまたま」ですし、逃げられないために「ここにいる」のも事実です。
そうですね、年に3日、北アルプスで山登りをするために、
4ヶ月休み無く働いて、ようやく誰にも文句を言わせずに休みが取れる、みたいな・・・



言い方は複雑ですが、私を助けてくれた、あるいは守ってくれた人たちに、
直接恩返しができない分、私は自分が出来得る最大限のことを、
次の世代の人たちのために費やすように・・・と思ってます。
誰かを救えるとも思わないし、大したことをやれてるわけでもないけど、
多分、自分が手を抜くと、大事なところで怠けると、
「自分が勝負したいと思ってる人」、「自分と勝負したいと思ってくれてる人」に対して、
きっと顔向けできないような、そんな気がするのですね。
役に立つことも必要とされることも大事だけど、
それ以上に「出来得る最大のことをやれているか」を問う方が大事なんで、私は。


いいんじゃないかなー、
どんな形でも、自分が助かりたいと思ってないと、誰かを助けられないし。
「強くないと、誰かを支えることはできない。」
うちの兵隊に年中言ってます。
それが高いハードルで、付いて来れない人もいます(悲)
でも、福祉の世界って、ある意味で、助けられたい人たちが集まってるでしょ。
敢えてこの表現を使うと、
「助ける側」と「助けられる側」に、そんなに違いは無いし、
いつそれが逆転するか分からないし、
そもそも逆転することを前提に成り立っている世界だったりもしますよね。
「誰かの人生を本当に考えられるか?」の問いについて、正解は基本的にないので、
自分の人生を賭けて、試し続けるしか無いんだろうと思います。
仮に「助け過ぎた」としても、その助けた場面も「一部」でしかありませんからね。



「愛は地球を救う」という、くだらない標語がありますが、
「愛は地球を救うとは限らない、愛が人を殺すことだってある
 金は使い方によっては、人も地球も救うことができる」と言い換えるように、
毎年この時期に連呼します。

「助け過ぎ」ちゃうかもしれないけど、助けなかったら命が失われるかもしれない。
我々は、助けなかった命の重さを背負いながら平然と生きて行けるほど、強くはなかったりします。
死なれてしまうと、あるいは生死を分かれ目に全身全霊で付き合うと、
きっと分かりますよね、それが「助け過ぎ」か、「助けるべきところ」か。
でも、みんながそれを踏まえて、相手に向き合うわけじゃない。
だから、悩む人は偉大なんですよ、きっと。

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