優厳 × 赤鬼通信

社会参加活動の支援を目指す「なんちゃって社会貢献チーム」の、「優しく厳しい遊び場づくり」の迷走過程を記して行きます。

まだまだロキソニン(悲)

2010年05月10日 | Weblog
 方法論はいろいろあっていいのだが、目指すべき本質を見失わないこと。そんなの、当たり前のことなんだが、往々にしてそれってすごく難しかったりする。
 万全じゃない状態で、膨大な作業量が目の前に立ち聳えたこともあり、週末は大勢の人に協力を得て、物量戦線を戦い抜いてもらったのでした。あー、本当にビジョンを持たずに仕事をしている職場だ。結果オーライでやってるからなのだろう、日々反省である。こうやって手伝ってくれる人たちがいるから、毛布を干したり、薪を取りに行ったり、印刷物を捌いたりすることができる。感謝に堪えないが、それに応えるだけの自分であるかどうかは、最近考えないようにしている(笑) ・・・まったく、「『それを求めるだけの自分』で有り得ているかどうか」が全ての基準であったことを思うと、こんなことは認められない声である(溜) でも、とにもかくにも、こうやって人が集まって何かをするための基盤になる「場」と「きっかけ」を作れてるんだったら、まずは御の字だと。あまり大仰しく構えず、少しずつでも地道に繋いで行ければいいかなと。


 最近、福祉系の学生と一緒に活動して思ったこと。
 現場で働く我々が「有用だと思っていること」「役に立つと思う講義」と、現役の学生が感じているそれとは大いに異なること。こんな無駄な講義を受けて、こんな無駄な資格を取ってるから、やたらめったに忙しいんだよな・・・って感じである。「面白くないけど、知識レベルでためになる講義」って、そーいうのって本で覚える程度のレベルじゃねーの?って思うんだけど、実際「受験対策講座」とかに行って、知識レベルに特化した話を聞くと、それはそれで楽しいんだが、それが毎回の講義だとしたら、どーなんだろね。ちなみに福祉用具相談員の資格なんて資格、大学のうちに取ってどうするんだ。もしくはそれって社会福祉士を取ろうと勉強してる学生にとっては不要なもんでしょう、法的には。でも、そういう理屈って、いわゆる学生には通じない。
 学校に通ってる間で、取れるだけの資格を取っておくのは悪い方法論じゃない。ただ、問題意識が高まってから勉強し直す方が、より意味を持って学べるのも事実である。でも、いわゆる「現場」に出ない段階で、課題が何なのかは明確には分からない。いや、課題や問題の本質は、学生という立場であっても分かっているかもしれない(逆に言えば、社会人になっても分からない人もいるし・・・)。ただ、それが「『生き死に』のレベル」で突き付けられているか、という意味では、きっと違うものだろう。

 とりあえず、目が死なないうちは、大丈夫。
 死にそうな目をしてるヤツがいたら、面と向かって「目が死んでるぞ」と言い放つ。
 フラフラしてても、立ち直って行くためのルートがあるんなら、どんな寄り道をしてでも、そこを目指せるといいなー。

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