優厳 × 赤鬼通信

社会参加活動の支援を目指す「なんちゃって社会貢献チーム」の、「優しく厳しい遊び場づくり」の迷走過程を記して行きます。

継続協議

2008年08月28日 | Weblog
 しばらく外で仕事をしてたために、ちょっと外界と連絡が途絶えてたこともあって、最近になって音信が忙しなく繋がってるのですが、某市の福祉施設を管轄する課の担当者より連絡が入りました。とても丁寧なもので、ここ数ヶ月の間、関わってきた某授産施設に行って来て、ちょっと話をして来たという報告でした。
 ただ、こちらで相談を受けていた2名は施設を退所していたこともあり、幾つか確認をしたところ、施設側と元の利用者側で、天と地ほども話に食い違いがあって、市側の担当者は「どっちの話が本当なものか考えあぐねてしまう」・・ということを言われました。
 まぁ、そうでしょう。「死人に口無し」である。名前を出さない訴えは、ほとんど意味が無いということを、改めて証明されたようなものだった。市の担当者は、「こういうことは難しいものですが、それでも何らかの跡が見えればと思ったんですが・・」と言ってくれたのは、ちゃんとこちらの声を聞いてくれたということなのでしょう。重ねて「苦情が何件も入ってるということは伝えておきました」とも言ってもらえた。
 「そうですね、うちの関係者は辞めたので、もう何を言っても始まらないのですが、残った方々に少しでもプラスになってくれれば十分です。」
 そう言って、御礼を伝えた。担当者は、きっと随分頑張ってくれたのだと思う。次に打つ手は自分には無いが、ここまでの一手は、きっと次に繋がって行くと信じている。できれば次に何も起きなければ、それに如くはない。


 いろんな言い分はあるのだろうが、利用者の声は、どの角度で聞こえたものでも、全てが「真実」である。それを届けたことによる成果など、求めていない。ただ、軽く扱うか否かは、その声を聞いた人の判断に委ねられている。
 教科書に書かれているように、問題は解決しない。それだけのことである。でも、教科書に書かれているように、問題を注視して解決に向けて取り組んでいるかどうかは、これもまた各人に委ねられている。
 うまく行かなかったことが積み重なっても、それでも見えない成果は多々ある。地道にそこに向き合って行くだけである。



 今日、「生きてるのが嫌になって、道路に飛び出しました。でも、車が止まってしまいました。」・・と、キーボードで言葉を綴る彼のところへ、やっと足を運ぶことができました。
 コメントは、何もしない。ただ、足を向けて訪ねるだけである。訪ねて行き、「また来るから、次は・・」と言って来るだけである。無力なもので、何の解決策も示せないのだが、それでも行き続けることに意味があると信じている。解決するのは本人の問題であって、自分らにできることは、一緒にいることを示すだけである。力は貸せないけど、足しにしてもらえるよう、「ここ」であっても、「そこ」であっても、どうにでも稼動できれば何よりだと思う。意志の継ぎ方も、きっと無限にあるのだろうから。