優厳 × 赤鬼通信

社会参加活動の支援を目指す「なんちゃって社会貢献チーム」の、「優しく厳しい遊び場づくり」の迷走過程を記して行きます。

革命をめぐる迷路のような冒険@その3

2008年12月16日 | 革命をめぐる迷路のような冒険
 大阪で行われた全障連(「全国障害者解放運動連絡会議」の略)の全国大会に介護人として参加したのは大学2年のときだったと思う。2日ほど大会に出て、後は脳性麻痺の友人であるNさんと一緒に大阪の街を回っただけだが、今でも忘れられないことが幾つもあった。
 ひとつは、今から20年近くも前の話になるので、まだ障害がある人と一緒に出掛けるということ自体が、中々ハードなものだということ。まぁ、この時は宿も予約して行ったし、障害者団体の大会ということもあって、移動手段についても余程スムーズに行ったはずだ(いつか、余程スムーズじゃなかった時のことも伝えられればと思う)。それでも駅がバリアフリー化されていない時代に、全国大会があるからと大阪の各地のJR駅で大勢の障害者を迎え入れるための体制やら様相は、ある種ものスゴイ光景であった。

 初めに断っておきたいのだが、同じ大学生レベルであっても、自分よりも遥かに障害者問題に取り組んでいる人たちからすれば、自分のボランティア活動など、些細なものでしかなかったと思う。もっとすごい活動・・・まさに闘争運動みたいな活動をしていた人はたくさんいたし、今でもそうなんだと思う。だから別にボランティア活動のどうこうを並べるつもりはない。
 でも、確かに革命的なことが時折起こるのが、この世界だった。最近思うのは、そんな革命的なことが現在進行形で起こっているのかどうか・・・・そうした魅力だったり、「問いの方から自分に向かって来て、そこから避けることができないような『問い』自身」に出会うようなことが、果たしてあるのだろうか。。。。と、ついつい余計なお世話なことを思ってしまうのだ。


 ・・・閑話休題、この大阪の旅、障害者問題の勉強会のために東北から関西を往復する、多分4日くらい車イスを押してるような旅だったが、希望をひとつ出した。「解放会館」を見学に行きたい、と。東北に住んでいると、問題について頭の中でしか分かっていないことがあるから、途中で見つけたら寄りたいんだと。
 自分と、このとき一緒に行くことになったNさんは、自分がよく足を運んでいたボランティア団体がある建物の、隣にある障害者施設に入所していた。年が15近く離れているのだが、何故か妙に気があって、大学生活の3年の間、大きな旅を何度かすることになる。ひとつは大阪での全国大会。ひとつは横浜の福祉施設の見学。もうひとつは、彼が親子関係を清算する気持ちを持って母親に会いに行った時だ。いずれも数日に渡る、そのときそのときに忘れ難い、くだらない出来事がある旅で、自分は彼とあちこち出掛けて行くことで「旅」に出ることを覚えたと言っても過言じゃない。
 ろくにすることもなかった大学生活を送ってた自分が、全国あちこちを回れるようになったのは、彼と一緒に出歩いていたからだと自信を持って言える。単純に、彼とあちこち出掛けるのが楽しかった。形としては「ボランティア」だったかもしれないけど、それ以上に、自分が彼と一緒に居るのが楽しかったのだ。そういうのって、とっても悪くない。

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 大阪での最後に晩、もう自分らは全国大会での分科会の参加も終えて、明日には大阪を発つことになっていた。その夜、自分たち2名と相部屋になったのは、同じ大会に参加していた関西の大学生だった。今考えると、車イス利用で宿泊してる我々に、見知らぬ客と相部屋で泊まらせるような人員配置をするのもすごいなーと思いつつ、まぁ、同じ目的で参加してる人同士だから、地元の彼らは、東北から電車を乗り継いで来た自分たちのことを歓迎してくれたのだ。
 いろいろ話してる中で、この日の帰り、解放会館に入って差別に関する展示物を見た自分は、初めて見た様々な驚き、そして怖さについて、率直に「こんなことがあるのか?」と訊ねたのだった。そこで自分が目の前にしたものの重さを、今も忘れない。

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 一緒にいた1人の大学生は、来年春から教員の採用が決まっているという教育大学の4年生だった。そうですね、と彼は言う。
 「自分も問題とか、小学校の頃からずっと教育を受けてるわけですよ、関西なので。だから頭の中では差別とかあるの分かってるのですが、それが目の前に現れたことは無いんですよ。だからどこかで問題はもう解決してることなんじゃないかなと思って大学生をやってるんですよね。」
 問題についての自分のスタンスを説明してくれた後、ちょっと一息ついてから彼は続けた。
 「・・・後輩がいるんですよ、とてもいいヤツで、一緒にいろんなことをしてる仲間なんですが、ある日、話をしてるうちに問題の話になったんですね。みんなでいろんなことを話して、その日はその後輩がうちに泊まってったんですけど、二人きりになったときに後輩が言うんですよ。
  『今日、問題のことを話したじゃないですか。
   これまで誰にも言ったことないし、
   親からも言っちゃダメだと言われて来たし、
   絶対に言うことは無いだろうと決めて来たんですけど、
   ・・・自分は「出身」なんです。』
、と。」
 
 「・・・驚きましたよ、そんなこと考えたこともなかったし、仮にそうだったとしても、自分がその後輩に対して何ら変化があるわけはない。でも、その後輩が、どれだけのものを背負って生きてきたのかを考えたら、自分は何も知らないのと同じじゃないか、というか、これまで何を見てたのだろう・・・って。
 後輩も、『先輩だから言うんです、他には絶対に言えません。』、と。
 ・・もう言葉なんか出ませんよね。もちろん後輩に対して持っている気持ちに変わりはありません。でも、自分がそれまで見ないでいた差別について、きっとこれから教師になってからも、やらなきゃならないことがあるんだということを、そのとき実感しました。だからきっと、まだまだなんだと思いますよ。どうにかしていかなくちゃいけないんだって、思うんですよね。」

 彼は、自分たちが参加した全国大会の実行委員でもあったので、先に寝ててくださいと言って、途中で部屋を抜けて行った。残された自分とNさんは、空気すらも重くなった差別の話を、もう一度反芻した。自分とNさんも、障害者の権利や差別問題を齧ってはいたが、さすがにグーの音も出なかった。「後輩もすごいけど、彼もすごいよね。。。。」、そう2人で言って、頷いていた。帰りに、もう一回、解放会館へ行ってみようと言いながら、ベッドに入ったのだった。

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 このときに感じたのは差別問題についてもだが、「大学4年生の力量」をまざまざと見せられたという気持ちの方が強かった。自分のことを考えてみて、大学生にもピンからキリまであるよなー・・と思ったものだ。
 だから卒業年度の学生に対して、特に強い思い入れを持っている。4年生は、単に大学4年目ということじゃない。もっと大きなことを担うことができる特別な年なのだと。人の気持ちを動かすのに年齢など関係ないのだが、それでも「大学4年生」というのは、きっと大きなステップを踏めるようじゃなきゃならない「年」なんだと。
 尤も、学歴などそれほど価値がないものだから、今の自分の考え方に換算すれば、専門学校であっても何処であってもいいのだが、卒業年度や次のステップに進む自覚を有する場合の前年度という時期に、自分の弱さを前に進むための力にできる、しっかりとした言葉で話ができる人材であって欲しいと思う。自己完結するだけではなく、もっと社会的にも意義のあるだけの人材になれるようであって欲しいと。
 そして、この時期に大きくステップを踏めないのだとしたら、それはそこにいる間に程度の低い生活を続けて来たってことなのだ。自分の大学4年生時は、まさにその通りで、これっぽっちの価値もない大学4年生を送ることとなった・・・勿論何年か後に跳べるための素地だけは作ることができたのだが、「偉大な大学4年生像」を考えた場合、やっぱりゴミみたいな存在でしかなかったと思う。

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