北牟婁郡海山町( 現 紀北町海山区 )から尾鷲市にかけては、中央構造線外帯地質区の四万十塁帯( 日高川帯北半の的矢層群に相当 )の中生代の地層等に貫入する、大規模な熊野酸性岩の分布があり、特に尾鷲市以南では、花崗斑岩や石英斑岩等を対象に幾つかの丁場が開かれ、石材用にかなり大々的に採石が成されている。 これらの切り石は、「紀州みかげ」として生産され県内 ・ 外の各地に出荷されている。
これらの酸性火成岩体( 熊野酸性岩 )の周辺には、輝安鉱や含銅硫化鉄鉱等の小規模な金属鉱脈や、水晶に富むペグマタイト質石英脈、岩体中にポケット状を成す晶洞や、茶褐色 ~ 黄白色 ~ 淡青色等の粘土脈( 主にカオリナイト ・ モンモリロナイト )を伴う花崗岩ペグマタイトの鉱脈があり、古くから海山町船津では「水晶」が多産し、地元では「六方石」と称して親しまれ、古文書などにもその記述が見られる。
筆者が、海山町の銚子川上流の「魚飛渓」( うおとびけい )にて、最初にペグマタイトの晶洞を見つけたのは、昭和48年の初夏の頃で、仕事の関係で紀伊長島町に赴任して、自家用車を購入し、周辺の景勝地などに遊びに行ったのがきっかけであった。
国道42号線の相賀から銚子川の手前で右折し、銚子川左岸の未舗装だった細道から林道に至る道路を辿り、「便ノ山」( びんのやま )の小散村を経て「木津」( こつ )の村落まで、約5km 程走ってから、本流に架かる左手の赤く狭い鉄橋を渡ると、すぐ先の右手に砂防ダムの工事場があった。 ここにあった沢落ちの大きな岩塊の表面に細かな水晶が認められ、その周囲を見回した処、カリ長石・水晶・黒色の短柱状の小指大程の電気石の結晶を含む晶洞が開口していた。
ここは工事中であったので、この上方の沢に登るのはその時は無理であり、次の休日に再訪し、この岩塊からかなりの電気石の美晶と水晶の群晶を、ほぼ全部採集する事が出来た。
その後、ここから先の銚子川支流の又口川の「魚飛渓」では、両岸に露出する節理の見事な酸性半深成火成岩類の岩盤や露岩、渓流に散在する巨岩塊を見回ったが、両岸ではペグマタイトの晶洞は全く見られず、渓流に点在する幾つかの現地性の巨岩塊( 節理崩れの転石 )の表面に、溶解浸食等によって既に中身の殆ど無くなった大 ・ 小のポケット状の晶洞跡の空隙を見つけたが、丸まった長石類の残骸結晶だけで、採集する程のレベルではなく、川原の転石や土砂を見ても水晶など、ペグマタイト脈や晶洞由来の結晶鉱物は全くなかった。
時を同じくして、「魚飛渓」のすぐ上流の左岸から、橡山( とちやま )に登る新たな林道の建設工事が行われており、工事関係者に尋ねると、1km ばかり上方まで道がつき、そこまでは登って行けるとのことであったが、昼間は平日、土 ・ 日を問わず油母( ゆんぼ )が岩盤を掘削し、土砂を運ぶダンプカーが頻繁に行き来をし、左岸道路の分岐点に「関係者以外は立入禁止」の表示もあって、現場へは入れてもらえなかった。
地図で調べると、この建設中の林道の最先端は、電気石を採集した下の沢谷の真上になるので、ペグマタイトの鉱化帯になっている可能性があり、きれいな結晶鉱物が採集出来るのではないかと考え、赴任先の仕事がひけ、林道の工事の終わる時間帯を狙って、午後6時過ぎに紀伊長島を出て、1時間ほどかけて「魚飛渓」に行き、ヘッドライトをつけながら、ガタガタでつづら折りのこの林道( 橡山林道 )を登ってみた。
真っ暗闇の中、ヘッドライトの先々に野生動物達の目が光り、空中にムササビらしい生き物が飛翔し、鳥類がギャーギャーと鳴き騒ぐ林道を、20分ほどかけてゆっくりと注意深く進むと、油母が道を遮りすぐ手前は、切通としてえぐられたままの岩盤があり、その先は山深い山林のままで、右下の沢谷はブッシュの繁る急斜面であった。
車を20m程慎重にバックをさせ、切り返しの出来そうなスペースに駐車し、後は大型の懐中電灯を照らしながら、再び徒歩で行き止まりの切通しの岩盤まで行ってみた。 その時は、花崗斑岩の岩盤の一部にごく小規模な晶洞を認めたが、この晶洞での採集は後日にする事にした。
それならばと、掘削したばかりの路面を丹念に見わたしながら、下りかけた時、黒光りをする小指大程度の結晶鉱物が散乱しているのを目の当たりにした。
路面をライトの光線で照らしながら探し回る事、30分は有に過ぎていたと思うが、至るところに椎の実程の完全結晶の小型の電気石が続々と照らし出され、あるわあるわで次々と見つけては拾い、夢中でポケットに詰め込んだ。 帰りに車内で調べた処、数十個の小晶全てにきれいな端面が付いており、殆どがほぼ四周の短柱面も整った完全結晶であった。
その後も5~6回程、連日夜間採集を続けたが、誰一人としてこの「含電気石ペグマタイト」の存在には全く気づかず、工事関係者らは当地で「水晶」の採れる事は知っていたが、電気石など見向きもせず、この産地を訪れる採集者など皆無であった。 その年の夏期間は、当地は全く筆者の独断場であった。
夏休みに入ってから、幾度か工事の無い日を狙って現地に出向き、さらに50m 程先まで進んだ林道工事場の現地調査を進める中、鉱物採集と共に、この産地の「ルート・マップ」を2年ほどかけて作成し、三重県高等学校理科教育研究会発行の「三重科学」( 第17号 ・ 1978年 )に、最初の報文を発表した。
その後、京都の益富寿之助先生にこの産地を紹介させて頂いた処、「地学研究」( 第29巻 第1号 ~ 第3号 ・ 1978年 )誌への発表を薦められ、原著( 短報 )の投稿と共に「標本玉手箱」用に、100個以上の当地の「電気石」のきれいな小晶を寄贈させて頂いた。
その後、コロナ社発行の「三重県地学のガイド」( 1979年 )にも、当地の「電気石」について、詳しく分担執筆を致しました。
以下は、当時発表した上記2つの報文からの概要の転載になります。
電気石の産状
1.花崗斑岩や石英斑岩の岩体中に、晶洞を伴うペグマタイト鉱脈に産するもの
2.以上の岩盤中に、ポケット状の晶洞に産するもの
3.節理の間隙や裂罅を充填する形の、黄褐色等の粘土脈中に産するもの
4.母岩の節理面にペグマタイト性巨晶帯を成し、このゾーンに伴って産するもの
5.母岩の組織を交代し、鉱染状を成して産するもの
電気石の結晶形態
当地の電気石は、柱面と共に端面の発達が著しく、他の産地のように脆弱ではなく、しっかりとしたガラス光沢の著しい条線を伴う柱状、及び端面の発達が著しい短柱状のきれいな結晶である。 採集した約数100個の結晶について観察、簡単な測角をした結果、次の諸面を認めた。
柱面 …… m ・ m ₁ ・ a 端面 …… r ・ o
主な随伴鉱物
石英( 水晶 )・ カリ長石( 正長石 )・ 斜長石( 曹長石 ~ 曹灰長石?)・ 鉄礬石榴石 ・ 蛍石 ・
武石 ・ 石墨( 捕獲状で、塊状や小球状等を成す )・ 鉄雲母 ・方解石 ・ 菫青石( 一部は雲母化 )・
粘土鉱物( 主にカオリナイト、モンモリロナイト )
付 記 「 三重県下のペグマタイト鉱物の主産地を回想 」の記事は、本稿で最終と致します。
なお、「 goo ブログ 」のサービスが11月で終了となりますので、筆者のブログ
「 伊勢すずめのすずろある記 」も、次回で終了を致します。
「 goo ブログ 」のサービス終了後は、他社への「のりかえ」が出来ますが、この
ブログは「のりかえ」をせずに、11月で閉鎖をさせて頂きます。
投稿記事のバックアップも致しませんので、三重県下の鉱産地や水石など、
バックナンバーをご参考資料としてご利用されます方は、必要記事のダウン
・ ロードにて、コピーを録っておいて下さい。
◆ 四日市市宮妻町山之坊、宮妻峡左岸・冠山林道奥の「水晶山」付近のペグマタイト
当地方は、県内では明治期から「黄玉」( トパーズ )の著名な産地として、鉱物学者や趣味者らには大変よく知られている場所である。 特に 「水晶山」からは、戦前の昭和 12 年1月 に、花崗岩ペグマタイトの鉱脈中に大晶洞が発見され、それまで水沢峠付近や入道ヶ岳下の内部川の川岸等で、時折採集されていた黄玉とは、比較にならない程の多数の黄玉の美・巨晶が産出し、採集された立派な数々の結晶標本が三重県の内外に紹介されてからは、当地がかつて水沢村であった事から、「水沢のトパーズ」として、岐阜県の恵那 ~ 苗木地方や滋賀県の田上地方と共に、全国に知れわたるに至った。
それまで、県内ではペグマタイト鉱物の著名な最大の産地であった、「石榑南」( いしぐれみなみ ~ いなべ市大安町 )の水晶や煙水晶、黄玉、カリ長石、曹長石、蛍石、鉄礬石榴石、電気石、方解石、輝水鉛鉱、鉄マンガン重石、ガドリン石など、きれいな結晶の諸鉱物が採集し尽くされていた事もあり、その後は北勢地方では「石榑南」と共に、双肩のペグマタイト鉱物の大産地となった。
特に、終戦の間もない昭和 19 年 には、水晶山のこのペグマタイト鉱脈に、紅色等の「含リチウム雲母」( リチア雲母 ~ チンワルド雲母 )が豊富に含まれていた事から、この雲母を対象に坑道が穿たれ、鉱石鉱物の「含リチウム雲母」の試掘が成され、それ以外の黄玉や煙水晶、水晶、紫水晶、カリ長石、曹長石、リチア電気石、電気石、錫石、ガドリン石などは、結晶いかんにかかわらず全てズリ石として、坑口のある山林の斜面から直下の林道にかけて撒き捨てられ、ペグマタイト・バラストとなって散乱していた。
筆者が当地を最初に訪れたのは、高校時代の昭和 40 年頃であり、伊勢市から長時間かけて電車と本数の少ない田舎のバスにゆられ、「山之坊」のバス停から先は、林道を1時間以上歩いての採集行であった。 この頃には、既に多数の採集者が訪れていた後であった事もあり、石英やカリ長石、雲母類ばかりで、斜面のズリにも未舗装だった林道の路面上にもトパーズは皆無であった。
その後、現職に就いてからは、自家用車で何度か当地に行き、坑道跡にも入坑して露頭を勝ち破ってトパーズの採集を試みたが、何度行っても目ぼしいものは「紅雲母」ぐらいであり、きれいな結晶の水晶や「黄玉」は全く採集出来なかった。
何度目かに行く内に、坑道の規模の割りには、山林の斜面や路面にばらまかれて散らばっている、ペグマタイト・バラストのズリの量が、あまりにも少なすぎる事に気付いた。 はてさて、当時掘り出した多量のズリ石は、いったいどこに行ったのだろうかと … 。
平成3年( 1991年 )の1月 の初旬、積雪の無い冬日和に同好者1名と共に当地に行き、いろいろと考え抜いた末、狙いをつけていた水晶山のリチウム坑の真下の林道直下に降り、植林された立木や雑木林の斜面に散乱するガレ石や表土にまみれ、ひときわ白いペグマタイト・バラストを求めて歩き回り、斜面を虱つぶしに調べ回った結果、多量のズリ石は今まで誰も気づかなかった道路下の表土層の内部、50cm~60cm 程の地下に隠されていた。
道具を持ち込み、本格的な穴掘り作業を開始したのは、平成3年の1月20日 以降で、大雪の日や積雪の真っただ中にもめげず、休みの日ごとに採集作業に終始した結果、この年の6月までに、美晶約 50 個を含む 500 個以上のトパーズ( 殆どが 50g 以下の結晶質小塊かカケラ )を採集したが、中には結晶の完全な 100g 以上の宝石質の美晶もかなりあった。
その内の最大の結晶は、a軸約 5.1 cm・b軸約 7.0 cm・c軸約 6.7 cm、重量約 284.5g の半透明・淡黄色、四周ほぼ完全なこぶし大の庇面式結晶である。
以下は、平成15年度に実施した「地学部会第2回野外巡検テキスト」( 平成15年11月14日 ・筆者の編集 )から抜粋した、当地の解説文の転載です。
水晶山のペグマタイトについて
鈴鹿山脈の鎌ケ岳( 1157m )と入道ヶ岳( 906m )に挟まれた、宮妻峡( 内部川上流の渓谷 )の奥には、終戦間際に一時的に含リチウム雲母を採掘した鉱山跡があり、水晶山のペグマタイトとして、著名な鉱産地となっている。当地のペグマタイトは、チンワルド雲母やトパーズ( 黄玉 )を豊富に含む、極めて珍しいリチウム・ペグマタイトであり、現在も林道直下の山林斜面に散乱する採掘当時のズリから、水晶やトパーズの美晶をはじめ、多数種のペグマタイト鉱物を採集する事が出来る。
現在、現地は鉱物採集家らにより掘り返されているが、数種類の鉱物と共に、花崗岩ペグマタイトの貫入岩脈や、接触変成作用を示す岩石片も採集が出来る。
当地は、宮妻峡キャンプ場から、水沢峠の方へ1km ばかり冠山林道を辿った右手の山林で、入道ヶ岳の真北 1.8 km の位置に当たる。 現地には路面一面に石英、カリ長石、雲母類のバラスト( ズリ石 )が散乱しており、そこだけ白っぽいのですぐ判る。 林道から 50° ~ 60° もあるズリ石をバラ撒いた急斜面を約 20 m 程よじ登ると、坑道跡が開口しているのが目に付く。 さらに、そこから崖伝いに左方に 10 m 程行けば、奥行きのある最大の坑道に至る。
複数穿たれたこれらの坑道は、いずれも戦時中にリチウム資源を得る目的で雲母類を採掘していた跡で、あたりには、よく見るとピンク色の紅雲母が混在している。 一見、リシア雲母の様であるが、分析結果は殆どがチンワルド雲母( Zinnwaldite )であると、一部の文献には記載されている。
ここのペグマタイトは、古生層の粘板岩やホルンフェルスに貫入した晶洞型で、晶洞の規模は高さ0.8m、幅約1m、奥行き( 深さ )約2m に及ぶと言う大規模なものである。 当地一帯のペグマタイト脈はレンズ状に膨縮、断続しながらかなり続いているものと考えられるが、最大の坑道跡も 10 数m で行き止まりとなっている。
かつて全国の鉱物関係者らを震撼させた多数のトパーズの美・巨晶は、いずれもこの坑道が掘られる前に、ここの晶洞から産したものである。
なお、トパーズと共に、水晶、煙水晶、さらに頭の部分( 錐面の頂部 )だけが薄紫色の煙水晶( 冠水晶 )や、薄水色のカリ長石( 天河石 )の美・巨晶もかなりあったと聞く。
産出鉱物
水晶山の坑道跡下のズリ、並びに周辺のペグマタイト鉱脈等から、これまでに産出が記録された鉱物は、下記の通りです。
1.一般的なもの …… 黄玉( トパーズ )、石英、水晶、煙水晶、カリ長石( 正長石 ・ 微斜長石 )、
曹長石、鉄電気石、カオリナイト、チンワルド雲母、白雲母、黒雲母、鉄雲母、
絹雲母、鉄礬石榴石、褐鉄鉱、忍石( 二酸化マンガン鉱 )、方解石
2.ごく希なもの …… 紅雲母( リシア雲母 )、紫水晶、天河石、玉滴石、蛋白石、リチア電気石、
蛍石、緑泥石、透閃石、方沸石、石膏、硫砒鉄鉱、黄鉄鉱
3.肉眼鑑定の難しいもの …… 錫石、ルチル、鉄スピネル、コルンブ石、ガドリン石、苦鉄石榴石、
鉄天藍石、ジルコン、アルミナ電気石、フェルグソン石、鉄重石、
苗木石、褐簾石、白鉄鉱
4.主要変成鉱物 …… 紅柱石、珪線石( いずれもホルンフェルス中に産出 )
参考文献
(1) 新帯国太郎 ( 1913年 ) 伊勢國水澤村の黄玉石 地学雑誌 第25巻 P. 55 ~ 63
(2) 春本篤夫 ( 1913年 ) 伊勢水澤村のペグマタイト 地球 第12巻 第6号 P. 63
(3) 松山外次郎 ( 1938年 ) 三重県水澤村の黄玉石 三重博物 1( 創刊号 ) P. 16 ~ 24
(4) 櫻井欽一 ・ 他 ( 1940年 ) 三重県水澤産トパズ 我らの鉱物1( 創刊号 ) P. 2 ~ 33
(5) 櫻井欽一 ・ 他 ( 1953年 ) 三重県水澤産トパズ 鉱物学雑誌 第1巻 第4号 P.231 ~ 241
(6) 下田信夫 ( 1955年 ) 三重県水沢産チンワルド雲母 地学研究 第8巻 第2号 P.58
(7) 長島弘三 ・ 他 ( 1963年 ) 四日市市宮妻峡産ガドリン石 地学研究 31周年記念特集号 P. 130
(8) 田端 茂 ( 1966年 ) 水沢の鉱物 断層(三重県高等学校理科教育研究会発行) 1号 P. 2 ~ 3
(9) 南平秀生 ( 1992年 ) 再発見 ! 水沢のトパーズ 地学研究 第41巻 第1号 P. 29 ~ 42
(10)南平秀生 ( 2003年 ) 平成15年度 地学部会第2回野外巡検テキスト(三重県高等学校理科教育研
究会 ・ 地学部会 発行)全4頁

6月に入ってから、東シナ海にあった停滞前線が、九州付近に延びて小型の低気圧となって東進し、四国から紀伊半島沖へと足早に進み、東海地方にも6月2日から3日にかけて、2日程地雨の降るうっとうしい日々となった。 このまま梅雨入りかと思っていた処、前線がかなり南下し、低気圧は房総半島付近で発達をし、関東地方から東北地方にかけて、季節外れの強風をもたらせた。 南下した前線は北からの寒冷高気圧に押されてか、日本列島は4日から6日にかけては、高気圧圏内となって太平洋側の東海地方は好天が続き、うすら寒いながらも初夏の行楽日和をもたらせた。
梅雨入り前の束の間のこの好天に、6月4日の雨上がりの朝から、久しぶりに五十鈴川の川原へ出向いてみた。 今春からずっと続いていた五十鈴川の「御側橋」( おそばはし )下の河床の工事は、完全に終わっていて、重機の跡かたも全く無く、元のきれいな川原に戻っていた。
この日は、歩行のリハビリを兼ねて、御側橋すぐ川上の堰堤の下に降りたが、前日までの雨天のせいか、五十鈴川の流れも川瀬が隠れる程水量が多く、清流となって流下していた。 この小広い橋下の川原を行き来しながら見回ったが、少し不自由な右脚の疲れで時々しゃがみ込んだものの、転石を凝視し熱中していたので、軽い痛みなど全く忘れたかのように感じずに採集に終始した。
この日は2時間ほどで、かなりきれいな形状の「神足石」など、掲載写真の通り、比較的珍しい転石礫数個を見つけ、まずまずの結果であった。
この後、いつものように二見浦( ふたみがうら )の立石崎東方の海岸に行ってみたが、今度はこの海岸が護岸工事中であり、残念ながら降り口が塞がれ、立入禁止となっていて海浜には降りられずに、昼前でもあったのでやむなく引き返した。

◆ 一志郡美杉村 ~ 白山町( 一志郡は現在は津市に併合 )にかけてのペグマタイト
一志郡美杉村竹原の一帯には、領家変成帯の片麻岩や花崗岩、閃緑岩、トーナル岩などの岩体に貫入し、膨縮した鉱脈を成す中 ~ 小規模の花崗岩ペグマタイトの鉱脈があり、戦後の昭和50年代まで、各地で珪石( 石英 )と長石を稼行の対象として、小規模な鉱山が点在していました。 それらの中で全国時によく知られていたのは、竹原鉱山と隣り合わせの美杉鉱山で、いずれも坑道掘りで珪・長石を盛んに採掘をしていました。
この2つの鉱山が特に有名なのは、随伴鉱物としてモナズ石やゼノタイム、フェルグソン石、褐簾石、ジルコン等、各種の希元素鉱物の結晶が、主に紅長石に伴って産し、長島乙吉・長島弘三( 親子 )が共著で執筆した著書の「日本希元素鉱物」( 1960年・長島乙吉先生祝賀記念事業会 発行 )にも取り上げられ、その当時、鉱物趣味者らの同好会であった京都市の「日本礦物趣味の会」( 益富壽之助 主宰 )の会員らが、幾度となく当地に採集に訪れ、人伝えで三重県下にも広く知れ渡りました。
その後、白山町にも同様の白山鉱山が開発され、既に断続的に採掘が成されていた福田山鉱山などと共に、鉄礬石榴石や黒雲母( 鉄雲母 )の美・巨晶などが多産し、その後白山鉱山からは珪線石に伴う「燐灰ウラン鉱」が発見され、福田山鉱山からは「褐簾石」の長柱状の巨晶がかなり採集されました。
これらの鉱山跡は、 現在はその後の整地や宅地化、緑地化事業等で立消えたり、荒れはてたたままに残存するのみで、ズリ跡も確認が出来なくなっているようです。
以下に、現職の頃( 平成年代の初期 )に教材資料としてまとめたプリントを、その当時の回想記として記しておきます。
1.美杉村竹原 美杉鉱山・竹原鉱山
君ヶ野ダムの南西約1kmの、雲出川右岸の山中に、昭和40年代まで稼行をしていた2つの珪・長石鉱山がある。両者は300m程しか隔たっていないが、発電所に近い下流側にあるのが美杉鉱山、そして製材所(横谷木材)背後のものが竹原鉱山である。閉山後は、双方共坑内に溜まった地下水を生活用水源として利用しているが、現場はズリを残し、放置されたままである。
いずれの鉱山も、殆ど同じタイプのペグマタイト脈を採掘したもので、希元素鉱物に富む紅長石と灰色の石英を混じえ、脈幅は最大8mに及ぶ。 産出鉱物は、石英、カリ長石のほか、黒雲母、鉄雲母、白雲母、絹雲母、灰曹長石、鉄礬石榴石、緑泥石、カオリナイト等が豊富で、特に紅長石と灰色の石英には、モナズ石、フェルグソン石の巨晶や、ゼノタイム、ジルコン、テンゲル石、阿武隈石、褐簾石等の希元素鉱物を伴い、稼行当時は、輝水鉛鉱や錫石、黄鉄鉱、褐鉄鉱( 武石 )、忍石( 二酸化マンガン鉱 )等の金属鉱物も若干産した。
2.白山町山田野 白山鉱山
白山鉱山は、白山町山田野( 家城の西方約3.5kmの山中 )にある珪・長石鉱山であるが、雲出川支流の山田野川に架かる戸田川橋の左岸に、川を遡る林道がついている。途中に、分譲別荘地に入る舗装道路が幾つも分岐しているが、左サイドの貯水池を越え、川沿いの林道を約3.3km辿ると、右サイドに貯鉱場跡の石積みがあり、その上に細かなペグマタイトのバラストがひときは白く残存する。
鉱山跡へは、ここの小橋に流下する小谷の流れに沿って、縫うように入る杣道がついている。 途中、小谷が二度二又に分岐するが、最初は左、次に右の谷へと入る。 杣道や谷川の随所には、索道からこぼれ落ちたと思われる、目印となる細かなペグマタイトのバラストが散乱する。 鉱山跡は、最後の流れを登りつめた谷頭にあり、下の貯鉱場跡からは約800mの道のりである。
白山鉱山が稼行していたのは、昭和40年代( 昭和34年に発見、同39年頃開発 )で、休山して久しいにも関わらず、現場はさほど変わっておらず、小谷の両サイドの斜面にばらまかれたズリも、水が流れるせいか新鮮である。 トタン小屋等は、既に立ち腐れとなっており、井戸状に穿たれた竪坑も水没しているが、その後、人の入った様子は殆どない。
石英と微斜長石の豊富なズリでは、黒光りする黒雲母や鉄雲母などが目につき、少し探すと、遊離した黒褐色の鉄礬石榴石が拾える。 稼行当時に目を見張ったピンク色 ~ 酒赤色の鉄礬石榴石の美・巨晶は残っていないが、他の数々のペグマタイト鉱物は豊富である。
ここのペグマタイトは、領家変成帯の片麻岩類を貫く白色 ~ 淡青灰色の微斜長石及び灰曹長石、塊状の石英を主とする膨縮脈( 最大幅10m、走向はE-W、傾斜は45°S )で、鉄雲母( 黒雲母 )と鉄礬石榴石を豊富に伴い、他に珪線石、白雲母、緑泥石、燐灰ウラン鉱、燐ウラニル石、黄鉄鉱等を随伴する。 美杉 ~ 布引( 青山 )地方特有の黒雲母( 鉄雲母 )に富むタイプである。
3.白山町福田山 福田山鉱山
白山町から美杉村にかけては、20数ヶ所にのぼるペグマタイト鉱脈の露頭が古くから知られており、その幾つかは、かつて珪・長石を稼行の対象として開発し、一時的に採掘をしていた。 福田山地区には、3ヶ所の鉱山跡がある。 この内、黒雲母と褐簾石の巨晶の産地として、県外にも知れ渡っている鉱山跡は、上福田山のバス停から、メナード青山に登る道とは別の右手の道をとり、700m程入った山中にある。
現場は、約20m下の小谷までズリが斜面を覆い、その上に坑道が開口する。 坑内は入口のすぐ下が60平方メートル程のスペースの広間となっており、壁や天井一面に石英や長石、黒雲母等が、巨大なペグマタイト構造の粗面を成して露出する。 特にサイズが20cmを超える黒雲母の密集したゾーンには、褐簾石の結晶が豊富に含まれ、中には径1.5cm、長さ15cmに達する程の巨晶も見られる。 褐簾石に富むその周辺一帯は、構成鉱物が紅長石や灰色石英に変わるなど、顕著な放射能汚染による赤茶けた変色帯を形成している。
なお、坑口下の広間から、東方向の斜め下に坑道が一本穿たれ、約17m先で竪坑に変わるが、ここから下は地下水が溜り水没している。
主な産出鉱物は、上記のほか白雲母、鉄雲母、鉄礬石榴石、ジルコン、ゼノタイム、それに白色石英で、場所によっては小さな水晶や煙水晶も産する。
福田山鉱山跡は、ペグマタイト構造の観察と共に、坑内の鉱脈露頭から各種の鉱物が直接採集出来る、当地方では唯一の鉱山跡である。
【 参考文献 】
Ⅰ.荒木慶雄・山田 純 ( 1957年 ) 一志郡美杉村珪長石調査報告 地下資源調査報告書 P.46 ~ P.52
三重県商工水産部商工観光課・三重県鉱産資源開発協会 発行
Ⅱ.益富寿之助 ( 1958年 ) 三重県松阪市西方の含希元素ペグマタイト鉱床 地学研究 第10巻 第4号 P.153
日本礦物趣味の会 発行
Ⅲ.長島乙吉・長島弘三 ( 1960年 ) 三重県美杉地方のペグマタイト鉱床 「日本希元素鉱物」 P.374
長島乙吉先生祝賀記念事業会( 日本礦物趣味の会内 ) 発行
Ⅳ.益富寿之助 ( 1970年 ) 第133回 京都地学同好会「巡検テキスト」 P.1~ P.2 京都地学同好会発行
4月に入ってから、ひと雨ごとに春の温かさが加速して桜の開花が進み、中旬には満開の花盛りとなった。その桜も、今は葉桜の新緑となっている。 桜の名所は、週末はどこもかしこも「花見」の行楽者でにぎわっていたし、 伊勢市内の道路も県外ナンバーの自動車や観光バスが頻繁に行き来をしていた。
このシーズンは、まだ山野にそれ程丈長の雑草も繁っていないので、好天の日は探石や鉱物採集には最適である。
しかし、4月になって再度の物価高で、車を走らせるにもガソリン代がバカにならない。 しかたがなくまたもや閉じこもりの毎日で、連日のように処分品の水石や鉱物標本の吟味と、蔵書の整理に没頭している。 外出は食料の買い出しだけで、食品の中でも特に米価の跳ね上がりには閉口している。
「ヤフオク」を利用していろいろと出品をさせて頂いているが、他の出品者のように商品説明を簡素にして、殆ど掲載画像のみで出品をすればよいのだが、水石も鉱物標本も一つひとつに、又専門書をはじめとする数々の蔵書や資料物の印刷物にも、それぞれに愛着や見つけて手にした時の思い出もあり、出来るだけ解りやすく丁寧な「商品説明」を心がけて、出品をさせて頂いている次第だ。
特に郷土誌などの稀覯本や、地元を中心に蒐集をし続けて来た資料物の鳥瞰図や古地図、戦前からの観光パンフレットなどは、二度と集められないものばかりなので、散逸をさせるにはかなりの決断を要する。 かと言って、地元の資料館や図書館などにも、多少はダブりがあると思うので寄贈する気にもなれない。
以上の他にかなりのレコード盤と、母親が生前に集めていた「猫の置物」などもたくさんあり、これらの物品をまとめて買い取って下さる古書店や資料物店、リサイクル・ショップ、専門業者さんなども、全国各地にはたくさんあって、年に何回かは書類や電話でアクセスをして来て下さっているが、良心的なお店でも、どれだけの値段になるかは判らないので、商取引きの対応をさせて頂いた事は一度もない。
ヤフオクへ大量出品をするには、今後は古書や資料物等への「商品説明」は、他者のようにかなり簡素化しなければ、なかなか減ってかないと思う。
そんな4月の日々も、桜花後の新緑の芽生えと共に過ぎゆこうとしているが、この23日には薄日の漏れる曇天の空模様の中、横輪町の「風輪」まで出かけ、石商品の入れ替えを行って来た。
桜のシーズンに合わせて製作をした、幾つかの「桜マンガン石」の出荷商品の中で、完売をしていたのは「桜マンガン石」のザレ石をビニールの小袋に詰めた、格安のサービス商品だけであった。

3月20日の彼岸が過ぎたとたんに、伊勢の町も一気に春暖の好天となった。 桜が開花しはじめたものの満開ではないので、 春爛漫とまではいかないが、絶好の行楽日和が20日 ~ 23日と続いている。 彼岸からの飛び石連休でもあり、伊勢神宮の界隈は人波でごった返している。 この時期には、五十鈴川の川原も朝早くから散歩や散策をする地元民や、河川敷に市営の駐車場がある事もあって、川遊びをする親子連れの外来客などもかなりいる。
その事も加わり、五十鈴川の川原での探石を兼ねた「歩行のリハビリ」は、この先々までとてもやれそうにない。
先月に川原の様子を見にに、五十鈴川の「御側橋」まで行ってみたが、河床や護岸の工事がまだ終わっていないので、この改修工事が終わるまでは、「神足石」も「三稜石類似の三角礫」も拾えそうになかった。
近場での探石に出向けるような場所と言えば、二見浦(ふたみがうら)の立石崎の東海岸や横輪川、一之瀬川ぐらいであるが、3月の下旬から4月の初めにかけては、花見のシーズンの真っ盛りで、毎年のように「広報 いせ」の3月号の表紙には、市内の桜の名所のカラー写真が何枚か掲載されており、「桜まつり」などのイベントもたけなわを迎える。
特に伊勢神宮の内宮前界隈の雑踏は、未だ終息をみないコロナ・ウイルスや感染性の病原菌の蔓延、スギ花粉の飛来など、お構いなしの混雑ぶりである。 春夏秋冬を通して、全国津々浦々からの伊勢神宮への参詣者や観光客の来訪は絶え間がなく、国内最大の「皇大神宮」様のご威光ははかり知れない。
さて、例年製作をさせて頂いて来た「桜マンガン石」の商品化も、原石の鉱塊は幾つかあるものの、体調の影響もあって今春は最小限にし、そのザレ石と二見浦立石崎東海岸産の緑色片岩の偏平漂礫を組み合わせた、調度用の小型の「置物石」を幾つか試作してみた次第だ。 水石などの「石の商品」を出品している横輪町の交流施設「風輪」に出し置いてみて、売れ行きが良ければ、桜のシーズンに合わせて幾つか製作をする所存である。
このような「ミニ水石」を組み合わせた「置物石」が、当地限定販売の「新商品」になれば、夏向きの「ミニ滝石」なども面白いのではないかと思っている。


2月に入って、通院先の病院で感染して来たのか、風邪をこじらせ体調不良に見舞われた。 春先になると、毎年のように風邪をひき、喉と気管支を痛め、いつもなら風邪薬の投薬で4日~5日経てば治まるのだが、今回は体温はずっと平熱なのに、咳と痰が治まらずに近所の耳鼻科に行って診察を受け、処方薬をもらって来たが、食欲も減退し1週間程寝込んでしまった。 その後も体調不良のまま食材等の買い物も、割高を覚悟の上で、至近のコンビニで間に合わせながら、気が付けば3週間も寝起きに終始していた。
2月になると、いつも座右に飾る「梅林石」も、今冬は探石どころではなく、寒さのせいもあり室内に引き籠もながら、身体の回復を最優先に生活し、下旬となった21日になって、ようやく動けるようになった。 この日は1日中曇天で、溜まっていた洗濯物の始末やら炊事で、丸1日が過ぎたが、暫く気ままに屋外に出られずに過ごしていたので、ストレスは溜まる一方であった。
3連休初日の2月22日は、朝からよく晴れた冬日和となった。 天気予報では、三重県の南部にも寒波の再来で雪雲がかかるとの事であったが、西風が少し冷たい程度で、伊勢市内は春先さながらの日差しが眩しいばかりに降り注いでいた。
半月(はんつき)程寝込んでいた反動もあり、これならば少し市外に行けるなと思い、早速二見浦(ふたみがうら)の江海岸にまで車を走らせた。 防波堤の階段口から突堤に下りる石段にひと足踏み出した処、強烈な海風にあおられた。 伊勢湾を通り道に流れる北西からの寒気流が吹き荒れ、磯波も海鳴りとなって押し寄せ、海浜には近づけそうもない。 即刻引き返したが、昼までは2時間以上あったので、風の弱い奥伊勢へと車を走らせ、一之瀬川の左岸の県道を遡り、「火打石」まで行った。
天祥橋を渡り、彦山川を遡る右岸の「火打石林道」を1kmばかり進み、車を止めて山林の草分け道を辿り、すぐ先の渓流へと降りた。 かつて幾つかの名石をゲットした場所である。 ここは川原と言うよりは、堆く転石の流れ積もった「石溜り」である。 右脚にシビレ痛をかかえているので、この秘密のポイントへは3年程来ていなかったゆえ、石溜りの状況が一変していた。 僅か10分程の探石であったが、手持ちの布バケツには大きい目の「伊勢古谷石」2個と、小型の転石礫数個を拾い入れた。
帰りには、伊勢市上野町の横輪川の蛇紋岩地帯に立ち寄ってみた。 ここは過去に何度かブログで取り上げた場所であるが、川岸から川床にかけて、蛇紋岩(一部は蛇灰岩)の岩体が角閃岩や千枚岩などに貫入し、両岸に小高い残丘地形を形成している。 露頭には、半ば大理石化した大・小の方解石脈が複雑に貫入して入り組み、時にはきれいな「滝石」となって転がっている。 運が良ければきれいな「滑石」や「黄鉄鉱」「珪ニッケル鉱」などの鉱物も採集出来る。
立ち寄った甲斐があって、程良い標準サイズの「蛇紋岩の滝石」と、鑑賞出来そうな小物水石2個を見つけて持ち帰った。
右脚のシビレ痛も、朝飲んだ痛み止め薬が効を奏し、忘れていたかのように気にも負担にもならずに、探石を兼ねた久しぶりの気晴らしドライブは、思いのほか楽しく、寒さもさほど感じずに午前中で無事に済んだ。

昨年の年末から新年の年始にかけては、普段と何ら変わらないままに松の内が過ぎて、巳年の睦月も早や半ばとなった。その間に成したことと言えば、年の瀬には恒例の事であるが、玄関の軒下の「注連飾り」の付け替えと、床の間に祀った神棚の簡単な清掃、そして供え物の入れ替えぐらいである。

31日の夜から新年の元旦にかけては、伊勢地方も寒波の到来で寒くなるとの予報であったので、明るい午後の内に、まだ「どんど焚き」の準備中であった「茜神社」に年越し詣りに行った。 参拝客など境内には全く人影が無く、焚き火用の薪が積まれているだけで、社務所も閉まっていたが、声をかけた処、神職の方が只一人出てみえたので、お供えを申し出て少し話をしてから、神殿にお詣りをした。 ここは、幼少の頃から勾玉池の「アコネさん」として馴染んできた、親の代から信仰を続けているお稲荷様である。
元旦は、予報通り寒々とした一日であった。 10数枚ほど届いた年賀状を拝見し、返信の御挨拶を数枚書いて投函しに伊勢郵便局まで出向いた。 自宅からは僅か200m程の距離であるが、防寒には完全武装である。 郵便局内も今年はガラガラで、「年賀状仕舞い」が旧ピッチで進む昨今の世相を、今更のように目の当たりにした。

午後になってからは、昨年末に行なった奥伊勢の小学校の児童たちの「授業の感想文」を拝読し、添え書きをして返送の仕事を済ませると、夕方まで寝転んだ。 寒さのせいもあり、仕事疲れから来る右脚腰のケアである。
2日と3日は、ラジオで箱根駅伝を流しながら、昨秋に五十鈴川で拾って来た、片面が観音像にも見える流木を磨き、根枝状の流木で巳年にちなんで「蛇の飾り物」を作った次第だ。


8日は、伊勢地方も久しぶりに丸一日冷たい雨天であったが、その日以外は真冬の好天が続いている。 しかし、例年とは身体の具合が全く違うので、やはり寒風の冷たいフィールドへの見回りは、意識の中では気にはなるものの、ごく近距離の五十鈴川へすら身体の拒絶反応の方が勝っているゆえに、もっぱら身辺の収蔵品などの整理に終始している。 どうやらこのまま無為に新春が過ぎて行きそうで、外出と言えば食材の買い物と、連日歩行のリハビリを兼ねて、自宅裏の勢田川沿いの保安道路を散歩しているだけである。


今年も一週間を切り、冬日和の続く年末となった。 寒波が到来しても、伊勢地方は例年のように小雪の舞い散る事も無く、穏やかに一年が終わろうとしている。
今月中旬の12月18日には、奥伊勢地方の小学校からの依頼で、10何年ぶりにか教壇に立ち、6年生10名程を相手に教科書の「大地のつくり」の章に関連して、岩石、鉱物等の話と実物サンプル数個の観察指導をさせて頂いた。 小学校の理科室ではあったが、地学の教師として長年高校生達に講義をして来た教室の雰囲気は、僅か1時間の事ながら現場復帰さながらに懐かしく感じられた。
志摩市の海岸へは、12月14日の朝から、その為の実物標本の採集に出かけた次第だ。 志摩の初冬は風も無く、打ち寄せる磯波も穏やかで、大海原を照らす陽射しも伊勢よりは温かい。 そんな好天の中、まず阿児町安乗の外海岸に行って「漂着軽石」を探し終えると、防波堤の階段で日向ぽっこをしている老婆から声をかけられた。 隣に腰かけて、悪い右脚の疲れ痛みをほぐしながら軽石の話をすると、「漂着軽石」の大きなものは、昔から家庭の風呂用などによく拾われていたとの事で、海女をしていた若い頃の今とは違った海岸風景の様子や、ご自身の脚腰が悪くなるまでの磯働きの回想を懐かし気に語ってくれた。
30分ほど当地安乗の昔の話を拝聴し、その後は広々ときれいな弧を描く国府の白浜に立ち寄ったが、全くサーファーのいない初冬の海景を眺めただけで、目的地の大王町名田の大野浜に行った。 ここはいつ来ても、誰もいない筆者の貸し切りみたいな遊び場である。 海食崖の出鼻に囲まれた100m程の弧状の入浜で、浜砂利がビーチカスプを成して堆積している。
その浜砂利の漂礫の中には、潮かぶれで縞目模様の浮き出た珪質岩や泥質岩(珪質頁岩)などのきれいな小礫が入り混じり、その中にかなりの確率で「断層石」がみつかる。
地層の変形の説明や「層内断層」の観察には、うってつけの教材になる。 渚や砂利浜の中を探し回る事約30分、どうにか10数個を採集したが、きれいなものは数少ない。 表面だけがイエロー瑪瑙化した、段丘堆積層由来の「黄色玉石」(きいろだまいし)は、全く見つからない。
もう少し良い標本を得るべく、すぐ南に隣接の名田漁港の海浜に行ってみた。 しかしここも期待する程の成果はなく、同程度の漂礫数個とビーチグラスを少し拾っただけで、なぜか以前のように多産しなくなっていた。 この漂礫の「断層石」が採集出来るのは、名田漁港から大野浜を経た北隣りの畔名の海岸までである。 但し、畔名の海岸への村道は入りにくく、戻るのもひと苦労なので、時間的にみて行く気がしないし、採集出来る効率もあまり良くない。
どうにか教材用のサンプルは、必要数だけ採集出来たので、この日は午前中で帰宅をした。 穏やかな陽射しの温かい師走の初冬の志摩の海景は、何度眺めても青々としていて快適である。

晩秋となった11月23日(勤労感謝の日)は、3日続きの好天となった。 早朝のうちは快晴と思われたが、昼前になって少しちぎれ雲が断続的に流れ、日射しと陰りが繰り返される天気で、晴れていても真冬のように北風が冷たく、とても小春日和とは言えない一日であった。 伊勢市内の道路は、土曜日と休日が重なったせいかすいていたが、年末の間近な連休とあって、内宮前と外宮前だけは観光客や参詣者らの団体で混雑していた。 その他の行楽地といえば、二見浦の立石崎(夫婦岩のある興玉神社)と、伊勢志摩スカイラインで登る朝熊山の山上広苑ぐらいしかない。
屋外に出ると、日射しはまぶしいものの、枯れ葉を舞い散らす程の季節風が肌寒くて、天空に流れ飛ぶ積雲も全く秋空とは思えないし、かと言って真冬のような寒空でもなく、今年は山野の色づいた秋らしい風景にまだ接していなかったので、買い物の帰りに五十鈴公園手前の「御側橋」まで、いつものように裏道を車で走ってみた。
五十鈴公園の紅葉は、すでに葉の落ちた枯れ木となっていたし、五十鈴川の「御側橋」橋下の川原も、再工事でかなりえぐられ、転石礫の土砂がショベルカーによってかき集められ、以前のように積もられていた。 ショベルカーが動いていなく、この日は作業は休みのようであったので、降りてはみたものの川原は汚れがひどく、まだ普通に歩行が出来ない身体なので、以前のように効率よく場所を選びながら、意のままに動き回る事は無理であった。 とりあえず地均しの成された無難なキャタピラーの跡を辿る事にした。
汚れたままの川原を、リハビリのつもりでゆっくりと少し歩いてみたものの、やはり足元の転石礫がつい気になってしまう。 ひと雨降れば形状の良い緑色岩の「神足石」やきれいな三角礫(三稜石)がまた拾えるだろうと思いつつ、堰堤下の流木の集積箇所に行ってみた。 ここも掘削がひどく流木も泥まみれで埋もれていた。 一つだけ手頃な根っ子木を掘り出して、五十鈴川の流水で洗ってみた処、まずまずの恰好なので持ち帰る事にした。
車を止めた右岸の土手道路に戻るにつき、川原の転石礫に目をこらしたが、体の不具合をかかえながらでは集中力も散漫となり、根気もなえがちで以前のようには見回れなかった。 それでも石への執着が勝ったのか、それらしい形状のひと握りの緑色岩の「神足石」礫を見つけた。
車にたどり着いた時には、身体のケアを考えずに歩き回った足腰の運動が、リハビリの程度を超えた全身への負担となって、かいだるさが心身に及び、思った以上に疲れていた。
対岸にいた工事関係の人に尋ねた処、今回の工事は撤去した「旧御側橋」跡の川床に埋まっている、橋杭の残骸の撤去作業との事であった。
昼前になって、二見町の立石崎東方の江の「突堤」まで行ってみた。 良く晴れていて伊勢湾の眺望は実に良好であったが、風浪が轟音を立てて突堤に押し寄せ、北からの潮風が強くて肌寒いせいか、釣り人は一人もいず、海浜を歩く散策者も皆無であった。
今のシーズンだと、普段なら回遊して来るカイズ(チヌ)ねらいの磯釣りや、カレイやシロギスなどをターゲットにした投げ釣りの釣り人が何人かはいるはずなのだが、強風と激しく打ち寄せる磯波のしぶきで、海辺で遊ぶには全く不向きな昼下がりであった。 江海岸では、海浜の風景写真を1枚撮影しただけで、秋らしい風景を目にする事なく帰宅の途についた。