「志摩の石」について、古文書等を調べてみると、志摩市磯部町恵利原の「鸚鵡石」(おおむいし・おうむいわ)と、志摩市阿児町神明浦(しめのうら・現在の神明)産の「土殷□」(どいんけつ。□は文字転換不能の漢字です。以下の文中も同様)があり、幾つかの書物に記載されている。
磯部町の鸚鵡石は特に有名で、江戸時代に書かれた「伊勢参宮名所図会」の他、当地方の地誌や名所・名勝の案内記などいろんな印刷物に記され、一枚刷りの木版画もつくられている。
古来、巨大な霊石として神聖視され、崇拝の対象として庶民によく知られた志摩地方の名物岩である。和合山(わごうさん・海抜196m)の中腹に絶壁を成して露出しているが、この岩石は灰白色チャートで、スリッケンサイド(鏡肌・断層面)を伴う山肌の露岩である。
かつて国民宿舎「伊勢志摩ロッジ」が建っていた鸚鵡石の山上は、その跡地が広い駐車場となっており、現地には散策案内の表示板等と供に、整備された遊歩道がついている。
少し下ると「聞き場」と「語り場」がある。そして引き返して、階段を少し登ると巌頭に達するが、ここは見晴らしの良い展望台になっている。
神明産の「土殷□」は、江戸時代に書かれた石の名著、「雲根志」にも取り上げられており、現在の鉱物名では「高師小僧」(たかしこぞう)の事である。高師小僧は、愛知県豊橋市近郊の高師ヶ原が原産地の、パイプ状や樹枝状をした不純な水酸化鉄から成るコンクリーション(結核)で、植物の根などを取り巻くようにして、粘土層等の中に生じた沼鉄鉱の一種である。
俗に「キツネの小枕」とか「鬼ワラビ」などとも呼ばれ、全国各地に産し、地表付近の比較的浅い更新世時代の未固結の地層の中に生成している。
雲根志の以外では、江戸時代の「分国石譜」、明治初期の「三重県鑛物誌 全」(1881年)や「三重県管内鉱物属一覧」(北勢 鎌井松石 著・発年不詳)等にも記述が見られる。三重県管内鉱物属一覧には、「土殷□ 志州神明浦の産は花の如し」とある。
志摩地方では、磯部町から阿児町、大王町にかけて分布する、海成段丘堆積層の粘土層から多産し、中には現在生え繁っている植物根を取り巻いているものもあって、当地のものは言わば、生成中の「即成高師小僧」と言える。
昭和40年頃から50年代にかけては、鵜方の志摩自動車学校付近の路面や切通し、当時造成中だった裏城団地一帯の地層から量産し、その後アウト・ドア雑誌の「ビーパル」(小学館発行の月刊誌)誌上にも掲載され、広く全国に紹介された。
さて、その他の「志摩の石」について、「志摩の民俗」(上巻・下巻、鈴木敏雄著・昭和44年刊行)や、「鳥羽志摩新誌」(中岡志州 編・昭和45年発行)、「志摩国郷土史」(中岡志州 編・昭和50年発行)等の他、幾つかの資料文献を色々と調べてみると、次のような石や岩の記述が見られた。
磯部町沓掛の「沓掛石」「鞍掛石」「長者岩」、的矢の方位石(日和山の山頂)、渡鹿野島の「仏石」、阿児町鵜方の「アマンジャク石」(横山の南斜面)、「長原の浮岩」(なごらの…)、立神の「立石」(立石浦にある夫婦岩で、立石明神の神石)、安乗の「天魄さんの冠石」(てんびゃくさんのかんむりいし・安乗神社の境内)、大王町名田の「明神岩」、船越の「お馬の足跡石」、布施田の「馬乗石」、越賀の「石」(こぼしいし)と「まわり石」、和具の大島の「弘法石」、御座の「池の浜の美石」
これらの殆どは、各々の在所に鎮座する大岩や巨岩で、神石や霊石、謂れ石・名物岩の類であるが、山肌の露岩や海岸の離れ岩、岩礁・暗礁等もある。
但し、御座の「池の浜の美石」は、英虞湾に面する海岸の漂礫で、地層(層内断層や層内褶曲など)の入った硬砂岩等の小石のようである。
ついでに記すと、既述の「分国石譜」の「志摩国」の項には、「温石」(安乗浦)、石牡丹(国府の浜)、石柏(いしかしわ・あのり)の他、産地の記載はないが、「石決明石」(あわびいし)が記されている。
この中の「温石」(おんじゃく)は「石綿」の古名であるが、産地の誤記かも知れない。その他の石については、石名の比較文献が無くてよく解らない。
又、「三重県鑛物誌 全」には、かつての志摩国(答志郡・英虞郡)の石として、次の名前と産地が記載されている。
・ イシバイイシ(石灰砿)~ 「答志郡恵利原村字コシキ山、答志郡五智村字影
山」の記載がある。又、「イシバイイシ・方言アラレイシ」と別書きにしてあ
る産地の中には、「答志郡沓掛村」が入っている。
・ ボンセキ ~ 英虞郡片田村 方言烏イシト云フ世ニ那智黒ト云フ石ニ同ジ
・ カルイシ(浮石) ~ 英虞郡舟越村ニアリ
・ カイセキ(介化石) ~ 答志郡穴川村字大橋ニ産ス黄土質ノ中ニ蛤□ノ化シタ
ルモノナリ(□は、不明漢字です)
・ ヒウチイシ(玉火石)~ 英虞郡立神村字叶小路山中ニ産ス一村共有地タリ質
脆ニシテ砕ケ易ク代褐色ヲ為ス發見年暦ハ安政五年ト云フ
・ スイコウセキ(垂虹石)~ 英虞郡船越石海岸ニ産ス石質緻密ニシテ大小等カ
ラズ沢紅黄緑虹ノ大陽ニ映スル如キ紋理アリ盆石トシテ又園庭ニ布置シテ覗ル
ニ堪へタリ
以上の内、イシバイイシは石灰岩の事で、ボンセキは「盆石」の事らしく、黒色頁岩のようである。カイセキは貝化石の事で、ヒウチイシは「燧石」(主にフリント質チャート)であるが、スイコウセキ(垂虹石)だけは、どうもよく解らない。
さて、この記事のメインである「志摩地方の水石」であるが、現在では愛石家や紹介してくれる人が殆どいない。
我輩の調査では、名石・奇石の類は、殆どが磯部町の恵利原から逢坂峠にかけての秩父層群(主に古生代の地層)由来の堆積岩で、石灰岩を含む谷間の川石や山肌の土中石、及び鍾乳石である。他では、マンガン鉱床帯の赤石や赤玉石、蛇紋岩地帯の蛇紋岩の岩塊ぐらいであろう。
昭和40年代に発行された、何冊かの「銘石展」等の写真冊子をひもどいてみると、「志摩の名石」としては、次の水石が掲載されている。
・ 蛇紋岩・志摩 ~ 昭和40年(1965年)、三重県博物館発行「名石.岩石
展」(水石の銘は「荒巻」としてある )
・ 志摩産 梅花石 ~ 昭和42年(1967年)、伊勢愛石会発行「第壱回 銘石展」
(杏仁状輝緑凝灰岩らしき、研磨した紋様石が2点掲載されている。)
・ 志摩産 トーチカ ~ 昭和42年(1967年)、伊勢愛石会発行「第壱回 銘石
展」(トーチカは水石の「銘」である。写真がモノクロなので良く判らない
が、石灰華か石灰岩の穴あき石らしい。)
以上の名石については、原産地が記されておらず、石の出所についての情報は不詳であるが、石質から見てほぼ磯部町のものと思われる。現在でも似たような堆積岩は、当地の山地に行けば少なからず見られるはずである。
志摩地方の水石については、既にブログのバックナンバーに書いたとおり、大王町名田の大野浜等より産する、階段状の層内断層が示す「稲妻模様の紋様石」(漂礫・海石)と、今年の夏に見つけた、国府白浜北端の荒磯産のちょっとした「滝石」、及び志摩地方の各地から産する「赤石~赤玉石」の研磨石を加えたい。
最後に、志摩地方の鉱物について記すと、以前ブログに記したように、当地方には、浜島町の小矢取島あたりから大崎半島の「合歓の郷」の地下を通り、英虞湾内の土井ヶ原島を経て、立神の西山半島の赤崎付近に達し、さらに畦名口付近から畦名の沖合いの海底へと続く、マンガン鉄鉱の鉱床帯がある。
特に合歓の郷の西海岸等や西山半島、畦名口では、大正年代から昭和の初期にかけて試・採掘をされた鉱山跡があって(浜島鉱山、立神鉱山、他)、坑道跡付近や直前の海岸には、今も当時の鉱石が散乱している。
鉱石はいずれも、的矢層群(中生層)に胚胎する、二酸化マンガン鉱を伴う含マンガン赤鉄鉱(鉄マン)を主とするタイプで、鉱体は膨縮・断続しながら東西に直線状に分布している。
このエリアでは、ブラウン鉱と緑マンガン鉱がX線分析によって検出され、他に赤鉄鉱、二酸化マンガン鉱、鉄石英、石英(水晶)等が確認されている。
又、磯部町の天岩戸付近一帯には、かつて石灰岩を採掘し、石灰(いしばい)を生産していた石灰窯跡や採石場跡、それに幾つかの鍾乳洞があって、方解石、マンガン方解石、鍾乳石の他、緑簾石や曹長石、水晶(石英)、二酸化マンガン鉱、赤鉄鉱等も確認されている。方解石は、「鸚鵡石」の近くの「広の谷」や、大王町名切の海岸などでも産出している。
以上の他、磯部町の蛇紋岩帯では、蛇紋石、石綿、磁鉄鉱、黄鉄鉱等が少量産し、さらに鵜方(阿児町)から大王町にかけての丘陵地を構成する、段丘堆積層のカッティング等には、薄い鉱層を成す褐鉄鉱や既述の高師小僧、藍鉄鉱、亜炭等の産出を見る。
三重県産の水石や鑑賞石、庭石、硯石などの石材としては、明治期以前から紀州における「那智黒」(那智黒石)と「古谷石」(但し、これは和歌山県産の「山止め石」となった古来の銘石である)が知られており、江戸時代に書かれた我が国の石に関する最高の古典名著(古文書)である、「雲根志」(木内石亭の著書。1772年・明和9年~1801年・享和元年にかけて執筆。前、中、後の三編・15巻を順次刊行)にも「那智黒」が記載されている。
杉山友石氏の私本、「愛石史年表 ②」によれば、江戸時代の後期(文政7年頃)には、江戸に盆石商があって、盆石道具や置物石を商ったとある。
その後は、「分國石譜」(くにわけせきふ。発行年不詳)など、雲根志を引用したと思われる古文書が幾つかあるが、岩石・鉱物、鉱石、石材のみならず、各地の謂れ石や名物岩、化石や堆積物、そのほか遺跡や古墳からの出土品類に至るまで記載がしてあり、とにかく「石なるもの」についての記述は、木内石亭の雲根志がそうであったようにごちゃまぜで、一応分類がなされてはいるものの、当時の石の方言・俚言、俗名もかなり見られる。
この分國石譜の中にも、「紀伊」の項に那智黒石が「試金石」(方言 那智黒)として記されている。
明治の初期には、「三重縣鑛物誌 全」(明治14年2月)が三重県の官制資料として刊行され、その当時の県内産の地下資源等が「イロハ順」にほぼ網羅され、産地と供に詳述されているが、これも鉱物や鉱石だけではなく、岩石、石材、銘石、砂・土・粘土に至るまで、方言・俚言、俗名も含めて、記述はいっしょくたである。
本書には、那智黒石は書かれていないが、「ヨロイイシ」(鎧石)の記述がある。但し、現在の鑑賞石(水石の鎧石)に相当するのかどうかは、不明確である。
ちなみに、「ヨロイイシ」の他、本書には伊勢市朝熊の「ブドウセキ」(蛇紋岩の古名)や、度会郡柏崎付近の「コウコクセキ」(光黒石~石の種類は不詳)、志摩の船越の「スイコウセキ」(垂虹石~石の種類は不詳)の他、イタイシやボンセキ、ヘゲイシ、アヲイシ、ヒウチイシなどの石材名を見るので、後日詳しく取り上げてみたい。
そもそも、「伊勢古谷石」が世に出されたのは、昭和36年頃から始まった愛石ブームの時期からのようで、発祥は度会郡の旧大宮町から紀勢町の柏崎(現在の行政区画は大紀町)にかけての水石愛好家か、当時、当地の国道42号線沿いに何軒かあった水石や庭石を展示していた販売業者からだと思われる。当地方原産の「七華石」も、この頃に売り出された。
翌年(昭和37年)には、全国各地に水石趣味者の同好会が次々と発足し、全国の愛石団体は32団体、約2,000人に及んだと言われている。
昭和45年4月発行の「三重県要覧」(発行所は、三重県要覧編集総局)収録の大宮町(度会郡)の項目の中には、「大宮町展望」のコラムと供に「三重県愛石協会所属 大宮町名石連盟 石の街滝原」が、それぞれ写真入りで大きく掲載されていて、その中に「鎧石」「七華石」「伊勢古谷石」が紹介されている。
伊勢市にもその当時、政・財界や経済界、民間会社役員等の著名人が多数名を連ねた「伊勢愛石会」(会長 辻井慶一 氏)が結成され、昭和42年3月に第1回「銘石展」(展示会)が、伊勢市中小企業センターにて開催されている。
この時発行され、関係者に配布された立派なガイド冊子(出品水石の写真集)が残っており、巻末の70名程の会員名簿と供に掲載された、80点余の全国各地の著名な名石写真の中に、地元産出の「伊勢古谷石」も複数収録されている。
なお、本冊子の巻頭言には、名誉会長・西島好夫氏が「石に学ぶ」と題して、次のように述べている。
「石の趣味は誰にでもすぐ出来るが、中々奥の深いもので、あらゆる道楽の最後のものだと云われているほどです。石ブームとは近年のことですが、昔から石に対する感覚はただの趣味としてではなく人間性を高めるために何物かを石に教えられるものがあることです。
名石は、形、質、色の三条件と云われますがこれに加えて落ちついた品位がなければなりません。(後略)」
この伊勢古谷石の原岩は、当地方では伊勢市の高麗広(殆どが五十鈴川上流の伊勢神宮の宮域)付近から、横輪町~矢持町を経て、度会郡域(奥伊勢)に至る、中央構造線外帯の秩父累帯(主に古生層)の山岳地帯原産の風化した土中石である。
最初に世に紹介された頃のものは、ソフトなチョコレート色~アズキ色をした茶褐色の色調であり、和歌山県原産の著名な「古谷石」にあやかり、酷似した遜色の無い形状の山水景石(芯出し石)や奇石・珍石を指していた。
それらの原岩は、旧大宮町や紀勢町の柏崎、宮川上流の旧宮川村(現在の行政区画は多気郡大台町)等から産出する輝緑凝灰岩ないし暗赤色の泥質岩(泥岩・頁岩・粘板岩)等の風化岩であった。
昭和40年4月に、三重県立博物館にて開催された「名石.岩石展」(後援 三重県愛石協会)時に発行されたカタログ冊子には、「宮川鎧石」や「七華石」等と供に、見事な「伊勢古谷石」の名石写真が幾つか掲載されている。
伊勢市では、古くからの名石・奇石の産地としては、朝熊山と高麗広(五十鈴川上流)で、江戸時代には宇治橋付近で人の足形をした「神足石」(しんそくせき・じんそくせき)が発見されており、昭和半ばの水石ブームになってからは、横輪町から矢持町にかけての平家谷一帯が加わった。
朝熊山の石は、主に斑糲岩や蛇紋岩の巣立ち状の風化岩(昭和の石ブームの頃は、山上産の荒石は「雲上石」とも称していた)で、現在は「朝熊石」として県内外に知られている。
五十鈴川上流の高麗広付近の名石は、そこに居住権を持つ地元民から持たらされた山水景石や奇石が多く、伊勢市内の愛石家らはこぞって蒐集し、伊勢赤石等と供に、白っぽい感じの古谷石によく似た風化岩を「神代石」(かみよいし・じんたいせき)と呼んでいた。
この神代石は、形状は全く伊勢古谷石に同じであるが、原岩は色の抜けた輝緑凝灰岩や泥質石灰岩などのようである。
伊勢神宮宮域山地(神路山~島路山)の山肌やガレ谷の風化帯に露出する土中石が、五十鈴川等の上流に崩落し、自然に芯出しが成された「川流れ石」(現地性の転石)が殆どだったと思われる。
現在では世代が代わり、いわゆる伊勢古谷の解釈もかなり広義となった。伊勢市の島路山や神路山から奥伊勢地方にかけて分布する、古生層(秩父層群)由来の川石(転石)や山肌の土中石(風化岩)の内、あたかも和歌山県産の古谷石に見るような皴や穿ち、白色鉱物脈等の滝筋や条理に富む、山水景の際立った水石であれば、すべてが「伊勢古谷石」と呼称されている。
その石質も色調も様々で、中には石灰岩やチャート、鎧石系や紫雲石質の風化した堆積岩、及び砂質岩(砂岩、硬砂岩)や凝灰岩質の雑じった混成堆積岩などもその範疇に含まれている。
本来の伊勢古谷石(真正の伊勢古谷)は、主にチョコレート色の輝緑凝灰岩やアズキ色の泥質岩(泥岩、頁岩、粘板岩)の風化岩であるが、どのような堆積岩であっても、本家本元の「古谷石に酷似」という条件さえ満たしておれば、当地方では概ね「伊勢古谷石の部類」として鑑賞している人が少なく無い。
そして、その色調も肌色~灰白色、アズキ色~赤紫色、えび茶色~黒褐色などさまざまである。