北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第159回 北京の胡同・鷂児胡同(前) 清末「外城巡警庁」があった場所

2017-09-29 16:03:39 | 北京・胡同散策
今回は、外城は先農壇の北側、天橋地区におじゃましました。

まず歩きましたのは“鷂児胡同”。



胡同関係の本などによりますと、ここには、山西省の「平介会館」「浮山会館」、清末、犯罪
者の捜査逮捕にあたった官署「外城巡警庁」(前身は清代の「都察院中城正指揮衙門」)があっ
たそうで、それらの跡地が現在どうなっているのかを自分の目で確認してみたくて歩いてみま
した。

名称について簡単に記しておきますと、明の時代は「要児胡同」という名前でしたが、清の時
代に「要(yao)」が同音の「鷂」に変化したそうです。
ちなみに、「鷂」は肉食の猛禽ハイタカ(雀鷹)のこと。ここは、けっこう恐ろしい名前の胡同
なのです。

なお、当日は庶民的で人出の多い商店街「留学路」沿いの西入り口から歩き始めました。















傷を負った門墩。













ミシンの修理屋さんがありました。



ご主人のご厚意で、店内に置かれていたミシンを拝見することができました。







置かれていたのは、飛人牌、蝴蝶牌など、いずれも中国の有名ブランド。
蝴蝶牌は1960年代中ごろに出現したブランドですが、その前身は1927年国産第一号として誕生した
“金獅牌”。

なお、1970年代の末から80年代、蝴蝶牌あるいは蜜蜂牌縫紉機(ミシン)、永久牌自行車(自転車)、
上海牌手表(腕時計)は、当時の青年男女にとって、結婚のための“三大必需品”といわれていたとか。



後日お伺いすると看板が出ていました。










こちらの門敦も凄いことになっていました。
痛ましい姿を人目にさらしていますが、その時代を語る場合に欠かすことのできない存在なのです。








左手のお宅の外壁、屋根瓦とも新しく改修されたばかりといった雰囲気。









大きな剪紙(切り絵)。










次のお宅は31号院。清末から民国期に建てられたものでしょうか、背後に見える洋風の建物が
しゃれています。はたしてどのような方が住んでいらっしゃったのか、単なる個人住宅であっ
たのかどうか、いろいろと考えさせられた物件です。




後日知ったことなのですが、こちらには指揮者の李徳倫さん(1917-2001)が住んでいらっしゃった
そうです。

お隣の29号院。



他日見かけた時には門扉が開いていたので覗いてみると、門扉が二重になっていました。
住居棟が少し低い位置にあることが分かります。



29号院の南側は、30号。

胡同関係の本などによりますと、ここがかつて山西省の「平介会館」(「平遙」「介休」の二県の合
建。ここを「三晋会館」と呼ぶ胡同本もあり)のあったところ。また、一説には28号院もこの会館の
一部であったといわれています。
かつては戯楼などもあったそうで、大きな会館ではなかったかと思われます。





次の写真は「平介会館」の一部であったといわれる28号院。ここは30号院のすぐ隣。



そして、お次は「浮山会館」のあったところ、と、はっきり書きたいところなのですが、「浮山会館」
の所在地について14号院という説と16号院という説の二説があり、ただいま思案中というのが正直な
ところです。そこでここでは、ご参考にその二箇所の写真を挙げておくことにいたしました。

まずは、14号院。





お次は、16号院。ここは、14号院のすぐ隣になっています。





なお、民国初年に作られたのではないかと思われる『北京地図 MAP OF PEKING』(複製)には「各省
会館基地」として各省の会館名と所在地が載っていまして、それによると確かにこの胡同には山西の
「平介会館」(「平遙」「介休」の二県の合建)と「浮山会館」があったこと、そして、安徽省の「徽
州会館」のあったことが分かりました。ただ、残念なことはこの地図では具体的な番地が分からない
こと。そのため胡同関係の本や中国人ブロガーの記事などを調べてみたのですが、今なお安徽省の「
徽州会館」の跡地がどこなのか不明です。






今回、この胡同にあったといわれる会館について、今後さらに調べてみる必要があると痛感した
次第です。



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第158回 北京の胡同・春雨二巷(後) 鼻の短くなった象の話

2017-09-21 10:25:46 | 北京・胡同散策
春雨二巷を歩いていますと、玄関の闇の中で光るものが。


おそるおそる中を覗いてみると、



魔除けの鏡でした。


たとえば、迷信などといった言葉とともに一笑にふしてしまうことも可能な魔除けの鏡。

ここには、「魔的なもの」の存在への確信、鏡が魔除けになり得るという信念(のようなもの)、
そして、鏡という道具の一般的使用法からの逸脱などがありますが、必ずしも独自なものでも
なく、ましてや非合法なものでもないし、その手段、方法がどこまで有効なのかといった点は
さておいて、鏡という道具の一般的使用法からの逸脱といった現象がわたしにはとりわけ興味
深い。

わたしの誤読でなければ、ここにはラスキンの言う「外界の事物を形作り支配するところの独
立の力」「周囲のあらゆる物を食物に、或は機械に変ずるところの同化力」に通ずるものがあ
るからかもしれません。




二脚の椅子が仲良く並んで置かれていました。



お次のお宅は春雨二巷の25号。






ここは物置のようですが、福の字が貼られていました。


椅子と言えば、これら二脚の椅子の斜め前には、



ビーチパラソル、テーブル、椅子。



テーブルには魚の入った水槽までが置かれていました。


ここは、住民の方たちが、空いた時間のひと時をくつろぐために造りだしてしまった場所なのです。

後わずかで春雨二巷の東端。




ここで、上の写真を撮りました二週間ほど前の東端の様子をご紹介させていただきます。





どうした訳か横断幕があったり、何台もの自転車が置かれていました。





上の写真は東端にあります23号。






それでは再び、時間をもとに戻してご覧いただきます。



写真右手を見ますと、自転車置き場が設置されているのが分かります。
雑然と置かれた自転車たちがその置き場を関係当局者に設置させてしまったという一幕。
こういうちょっとした所にも「公」と「私」の駆け引きが見られるのは興味深い。


この建物は公共トイレ。



23号の玄関周りも、すっかり片付いていました。





なかなか風格のある門構え。







門墩(mendun)。





軒先を彩る彫り飾りのある雀替。




奥行きのある門扉前。



壁画の有無を確認してみました。




少しですが内部をご紹介いたします。







ここは「二門」。
壁に埋まる門墩(mendun)。














趣きのあるランプシェード。


突き当りを左。





反対側。



この年季の入った邸宅には、見過ごしてしまった宝物がまだまだちりばめられているようです。





春雨胡同ならびに春雨二巷が、いわゆる「公共性」の高い施設と関係の深いことは今まで書いた通りなの
ですが、時と場合によっては、それらの施設について考えるひとつのヒントを提供してくれるのではない
かという意味で、「公共の場所」に関して書かれた、二十一世紀の今となってはごく日常的でありふれた
出来事を綴った次の記述を咀嚼してみるのもまんざら無意味なことではないのかも知れません。

“(前略)建築主が君主、独裁者、大企業のいずれであっても、このような「公共の場所」の創出行為の
 すべてには、グッドマンが言っているようなマキャベリ的な意図が含まれている。「『官僚的な公共
 の場所』が壮大で記念碑的なものになればなるほど、市民のプライベートな環境はつまらないものに
 なり、また彼らはその官僚的な環境に畏れを抱くようになりがちだ・・・・・」。集権化された政府
 や組織の地位と権威の明確化は、こうした「官僚的な公共の場所」において、またはそれを通して行
 なわれる。”(エドワード・レルフ『場所の現象学』)



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第157回 北京の胡同・春雨二巷(中) 鼻の短くなった象の話

2017-09-12 10:31:30 | 北京・胡同散策
乾隆年間に象鼻子胡同と呼ばれ、現在その一部として残った春雨二巷を歩いていたら、なかなか趣き
のある路地がありました。





右側のどの住居にも窓以外に開口部がありません。

入ってすぐの左側は取り壊し中のようで、今後どうなるのか分からない状態。





この住居も屋根の部分の傷みが激しく、やはり今後どうなることか不明です。
また、この住居には門牌が貼られていない点も気になるところ。







突き当りを左折。



この路地は、西方向奥で行き止まりになっていました。
なお、写真奥に見えるビルは、前々回ご紹介しました春雨胡同の西側に建っている恒和医院。





この路地で初めて出会った門牌。
春雨二巷、29号。





壁沿いや頭上に、蔓巻き用の棚。お邪魔する時期が時期であれば、グリーンの見事なトンネルを
くぐることができたかもしれません。







春雨二巷、31号。



そうして突き当たりは、33号。



前回は39号で終わっていましたので、この後35号、37号と奇数番号が続くはずなのですが、どうやら
見過ごしてしまったようです。もしかして、先にご紹介いたしました取り壊し中の住居とその隣が35号
と37号だったのかもしれません。

さて、前回この春雨二巷という胡同が、清の乾隆年間(1735年ー1795年)には“象鼻子胡同”という名
の胡同の一部、時代が下って宣統年間(1908年ー1912年)には“象鼻子坑”という名称の胡同の一部で
あったこと、そして、その真偽のほどは分からないものの、それらの名称が、ここには清朝皇家の象の
飼育所があり、そこに象を洗ったり、水浴びさせるための池があったという言い伝えに由来しているこ
とに触れました。

そこで今回も、明、清の時代の北京にありました象関係の施設について、もう少しご紹介させていただ
きます。まずは次の地図をご覧ください。



この地図は『北京胡同志』に「明北京城街巷胡同図 万暦ー崇禎年間(公元1573-1644年)」として載っ
ているものですが、ほぼ中央に“象房”とあるのがお分かりかと思います。

場所は宣武門内を入った西側。建てられたのは清の干敏中等編纂『日下旧聞考』によりますと、明の弘
治8年(1495年)。当時、明国と朝貢関係にあった南方の国から贈られた象を飼育する場所として設けら
れたそうです。

この象房は、時代が下った清末まで受け継がれるのですが、次の民国期には、なんと、民国元年(191
2年)に開かれた“衆議院”(国会議場)の建物が置かれていました。


上の地図は、中華民国十年十二月再版『新測北京内外城全図』(上海商務印書館発行)の一部。


なお、“衆議院”の西側に“参議院”と書かれていますが、ここには清朝の立憲準備の一環として宣統二
年(1910年)に開院した“資政院”が置かれていました。

そして、さらに時代が下った新中国成立後の現在、衆議院のあったところには、日本では新華社通信とし
て知られる国営の通信社“新華通訊社”が置かれています。下の地図のオレンジの線部。




さて、この象房について調べていますと、興味深い記述に出会いました。

“象初至京、傳聞先於射所演習、故之演象所。”(明の沈徳符『萬暦野獲編』)

これを読みますと、はるばる南方からやって来た象は、上にご紹介した象房にすぐ収容されるのではなく、
まず「射所」(兵士たちの弓の訓練所)に連れていかれ訓練されたこと、また、その訓練所が「演象所」と
呼ばれていたことが分かります。

ならばその演象所は、いったいどこにあったのかを調べてみると、象房とはそれほど離れてはいない場所
で、西長安街の北側、四単の十字路近く、現在、電報大楼が建っている所でした。



この電報大楼は、1956年4月に工事が始まり、1958年10月1日に竣工された、当時の中国における電報通
信の中枢をになっていた重要な施設でした。時代を遡ってみますと、ここは金の章宗大定26年(1165年)
に建てられ、元代初期に再建された名刹、双塔大慶壽寺があったところだったのです。ちなみに、明の第
3代皇帝永楽帝に仕えた高僧姚広孝がこの寺の住持をつとめていたこともありました。

このお寺さんはその後、明の正統13年(1448年)に当時その権力をほしいままにした宦官王振によって改修
され、大興隆寺(またの名を慈恩寺)と改名。そして、時代が下って、やはり明の嘉靖14年(1535年)に火災
に遭い、翌年の嘉靖15年(1536年)に「射所」ならびに「演象所」として使用されるようになりました。

次の写真の右側、象房とは程遠からぬ場所、オレンジの線部辺りが双塔大慶壽寺だったところです。


(現在、かつて象房であったところには新華社通訊社、かつて双塔大慶壽寺のあったところには演象所
が設けられ、現在そこには電報大楼が建っています。

なお、時代が下って「射所」や「演象所」の必要のなくなった民国期には、ここに民国政府の「交通部」な
どの施設があったことも書き落とすことが出来ません。


中華民国十年十二月再版『新測北京内外城全図』(上海商務印書館発行)より。

では、演象所に送り込まれた象、一体なぜ訓練を受けたのかといいますと、元旦や冬至の日に催された大朝
会をはじめ、普段の朝会、その他さまざまな儀式に儀仗隊の一員として参加する栄誉を皇帝から賜っていた
からでした。おそらく、南方からはるばるやって来たこの珍獣は、皇帝の権威を家臣たちや一般民衆に示す
役割を担わされていたのかもしれません。

しかし、この珍獣も儀仗隊の一員として皇帝一人を喜ばせていたわけではありませんでした。
明の劉侗『帝京景物略』には、次のような記述がありました。カッコ内は引用者。

“三伏日洗象,錦衣衛官以旗鼓迎象出順承門,浴響閘。(中略)觀者兩岸各萬眾,面首如鱗次貝編焉。”

細かいことは省略して書きますと、旧暦の夏の暑い盛りの日、順承門(宣武門のこと)を出て、河で水浴びを
した。その様子を多くの観衆が河の両岸に集まり見物した。

清の敦崇『燕京歳時記』も次のように書いています。

“象房有象時、毎歳六月六日、牽往宣武門外河内浴之。觀者如堵。(中略)光緒十年以前、尚及見之。”

象房に象がいた時代には、毎歳(旧暦)六月六日、象を宣武門外の河で水浴びをさせていた。見物人で人垣が
できるありさまだった。光緒十年(1884年)以前には、なお見られたのである。

上に明と清各時代から一例ずつ引用しましたが、護城河で水浴びする象の姿を見よう見ようと河べりに集まっ
た多くの民衆がいて、象がその民衆たちの目をいかに楽しませていたかが分かるのではないでしょうか。


さて、今まで宣武門内にありました“象房”“演象所”という象にまつわる施設をめぐって書いてきたわけで
すが、今回これら二ヵ所について調べてみて、ここにぜひ書きとめておきたいことがありました。それは、こ
れら象にかかわりの深い二ヶ所の施設には共通点があるということ。もうすでにお気づきの方もいらっしゃる
のではと思うのですが、あえて書けば、これら両施設のあった場所には、時代の変遷とはかかわりなく、高い
公共性を持った施設がおかれていた、また、現在もおかれ続けているという一事でした。

そして、もう少し範囲を広げてみると、かつて公共性の高い施設がおかれていた、あるいは、現在もおかれて
いるという点で、上の両施設のあった場所が、前回ご紹介しました、やはり象という言葉とかかわりの深い、
現在春雨二巷と呼ばれる胡同にかぎりなくその相貌が似てきてしまうという一事でもありました。現に、春雨
二巷のすぐ近くにはかつて大土地廟、小土地廟、娘娘廟、火神廟という公共性の高い宗教施設がおかれていた
ことは前回ご覧いただいたとおりですが、それら宗教施設が消滅した跡地には、現在、恒和医院、中国婦女児
童博物館、中華全国婦聯、北京市政協会議中心など、やはり、いたって公共性の高い施設がおかれていること
は、次に挙げる地図をご覧いただければ容易にお気付きになるのではないかと思われます。


オレンジ色線部が、現在の春雨二巷。当時は象鼻子胡同の一部。その左側には大土地廟、
小土地廟、娘娘廟がありました。『清北京城街巷胡同図 乾隆十五年(公元1750年)』。
『北京胡同志』より。


オレンジ色の線部が春雨二巷。その左側に春雨胡同とありますが、その西側にはこの地図には書かれ
ていませんが、現在恒和医院という病院があり、その南側には中国婦女児童博物館、中華全国婦聯、
そして、かつて春雨二巷と同じく象鼻子胡同の一部でもあった春雨一巷の跡地には、北京市政協会議
中心がおかれています。

なお、これはもう蛇足でしかないのですが、かつて象房、演象所と呼ばれた場所のそれぞれに現在
おかれているのが、新華社通訊社、電報大楼という通信関係の施設であることは、単なる偶然なの
でしょうか。


もう少し歩いて見たいと思います。
が、都合により今回は前回の予告どおりに東端までご紹介できないことをご容赦願います。









このお宅は27号。



玄関の闇の中で何やら光るものがありました。



一瞬ぎょっとしたのですが、おそるおそる覗いてみると、



魔除けの鏡でした。



 
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