北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第157回 北京の胡同・春雨二巷(中) 鼻の短くなった象の話

2017-09-12 10:31:30 | 北京・胡同散策
乾隆年間に象鼻子胡同と呼ばれ、現在その一部として残った春雨二巷を歩いていたら、なかなか趣き
のある路地がありました。





右側のどの住居にも窓以外に開口部がありません。

入ってすぐの左側は取り壊し中のようで、今後どうなるのか分からない状態。





この住居も屋根の部分の傷みが激しく、やはり今後どうなることか不明です。
また、この住居には門牌が貼られていない点も気になるところ。







突き当りを左折。



この路地は、西方向奥で行き止まりになっていました。
なお、写真奥に見えるビルは、前々回ご紹介しました春雨胡同の西側に建っている恒和医院。





この路地で初めて出会った門牌。
春雨二巷、29号。





壁沿いや頭上に、蔓巻き用の棚。お邪魔する時期が時期であれば、グリーンの見事なトンネルを
くぐることができたかもしれません。







春雨二巷、31号。



そうして突き当たりは、33号。



前回は39号で終わっていましたので、この後35号、37号と奇数番号が続くはずなのですが、どうやら
見過ごしてしまったようです。もしかして、先にご紹介いたしました取り壊し中の住居とその隣が35号
と37号だったのかもしれません。

さて、前回この春雨二巷という胡同が、清の乾隆年間(1735年ー1795年)には“象鼻子胡同”という名
の胡同の一部、時代が下って宣統年間(1908年ー1912年)には“象鼻子坑”という名称の胡同の一部で
あったこと、そして、その真偽のほどは分からないものの、それらの名称が、ここには清朝皇家の象の
飼育所があり、そこに象を洗ったり、水浴びさせるための池があったという言い伝えに由来しているこ
とに触れました。

そこで今回も、明、清の時代の北京にありました象関係の施設について、もう少しご紹介させていただ
きます。まずは次の地図をご覧ください。



この地図は『北京胡同志』に「明北京城街巷胡同図 万暦ー崇禎年間(公元1573-1644年)」として載っ
ているものですが、ほぼ中央に“象房”とあるのがお分かりかと思います。

場所は宣武門内を入った西側。建てられたのは清の干敏中等編纂『日下旧聞考』によりますと、明の弘
治8年(1495年)。当時、明国と朝貢関係にあった南方の国から贈られた象を飼育する場所として設けら
れたそうです。

この象房は、時代が下った清末まで受け継がれるのですが、次の民国期には、なんと、民国元年(191
2年)に開かれた“衆議院”(国会議場)の建物が置かれていました。


上の地図は、中華民国十年十二月再版『新測北京内外城全図』(上海商務印書館発行)の一部。


なお、“衆議院”の西側に“参議院”と書かれていますが、ここには清朝の立憲準備の一環として宣統二
年(1910年)に開院した“資政院”が置かれていました。

そして、さらに時代が下った新中国成立後の現在、衆議院のあったところには、日本では新華社通信とし
て知られる国営の通信社“新華通訊社”が置かれています。下の地図のオレンジの線部。




さて、この象房について調べていますと、興味深い記述に出会いました。

“象初至京、傳聞先於射所演習、故之演象所。”(明の沈徳符『萬暦野獲編』)

これを読みますと、はるばる南方からやって来た象は、上にご紹介した象房にすぐ収容されるのではなく、
まず「射所」(兵士たちの弓の訓練所)に連れていかれ訓練されたこと、また、その訓練所が「演象所」と
呼ばれていたことが分かります。

ならばその演象所は、いったいどこにあったのかを調べてみると、象房とはそれほど離れてはいない場所
で、西長安街の北側、四単の十字路近く、現在、電報大楼が建っている所でした。



この電報大楼は、1956年4月に工事が始まり、1958年10月1日に竣工された、当時の中国における電報通
信の中枢をになっていた重要な施設でした。時代を遡ってみますと、ここは金の章宗大定26年(1165年)
に建てられ、元代初期に再建された名刹、双塔大慶壽寺があったところだったのです。ちなみに、明の第
3代皇帝永楽帝に仕えた高僧姚広孝がこの寺の住持をつとめていたこともありました。

このお寺さんはその後、明の正統13年(1448年)に当時その権力をほしいままにした宦官王振によって改修
され、大興隆寺(またの名を慈恩寺)と改名。そして、時代が下って、やはり明の嘉靖14年(1535年)に火災
に遭い、翌年の嘉靖15年(1536年)に「射所」ならびに「演象所」として使用されるようになりました。

次の写真の右側、象房とは程遠からぬ場所、オレンジの線部辺りが双塔大慶壽寺だったところです。


(現在、かつて象房であったところには新華社通訊社、かつて双塔大慶壽寺のあったところには演象所
が設けられ、現在そこには電報大楼が建っています。

なお、時代が下って「射所」や「演象所」の必要のなくなった民国期には、ここに民国政府の「交通部」な
どの施設があったことも書き落とすことが出来ません。


中華民国十年十二月再版『新測北京内外城全図』(上海商務印書館発行)より。

では、演象所に送り込まれた象、一体なぜ訓練を受けたのかといいますと、元旦や冬至の日に催された大朝
会をはじめ、普段の朝会、その他さまざまな儀式に儀仗隊の一員として参加する栄誉を皇帝から賜っていた
からでした。おそらく、南方からはるばるやって来たこの珍獣は、皇帝の権威を家臣たちや一般民衆に示す
役割を担わされていたのかもしれません。

しかし、この珍獣も儀仗隊の一員として皇帝一人を喜ばせていたわけではありませんでした。
明の劉侗『帝京景物略』には、次のような記述がありました。カッコ内は引用者。

“三伏日洗象,錦衣衛官以旗鼓迎象出順承門,浴響閘。(中略)觀者兩岸各萬眾,面首如鱗次貝編焉。”

細かいことは省略して書きますと、旧暦の夏の暑い盛りの日、順承門(宣武門のこと)を出て、河で水浴びを
した。その様子を多くの観衆が河の両岸に集まり見物した。

清の敦崇『燕京歳時記』も次のように書いています。

“象房有象時、毎歳六月六日、牽往宣武門外河内浴之。觀者如堵。(中略)光緒十年以前、尚及見之。”

象房に象がいた時代には、毎歳(旧暦)六月六日、象を宣武門外の河で水浴びをさせていた。見物人で人垣が
できるありさまだった。光緒十年(1884年)以前には、なお見られたのである。

上に明と清各時代から一例ずつ引用しましたが、護城河で水浴びする象の姿を見よう見ようと河べりに集まっ
た多くの民衆がいて、象がその民衆たちの目をいかに楽しませていたかが分かるのではないでしょうか。


さて、今まで宣武門内にありました“象房”“演象所”という象にまつわる施設をめぐって書いてきたわけで
すが、今回これら二ヵ所について調べてみて、ここにぜひ書きとめておきたいことがありました。それは、こ
れら象にかかわりの深い二ヶ所の施設には共通点があるということ。もうすでにお気づきの方もいらっしゃる
のではと思うのですが、あえて書けば、これら両施設のあった場所には、時代の変遷とはかかわりなく、高い
公共性を持った施設がおかれていた、また、現在もおかれ続けているという一事でした。

そして、もう少し範囲を広げてみると、かつて公共性の高い施設がおかれていた、あるいは、現在もおかれて
いるという点で、上の両施設のあった場所が、前回ご紹介しました、やはり象という言葉とかかわりの深い、
現在春雨二巷と呼ばれる胡同にかぎりなくその相貌が似てきてしまうという一事でもありました。現に、春雨
二巷のすぐ近くにはかつて大土地廟、小土地廟、娘娘廟、火神廟という公共性の高い宗教施設がおかれていた
ことは前回ご覧いただいたとおりですが、それら宗教施設が消滅した跡地には、現在、恒和医院、中国婦女児
童博物館、中華全国婦聯、北京市政協会議中心など、やはり、いたって公共性の高い施設がおかれていること
は、次に挙げる地図をご覧いただければ容易にお気付きになるのではないかと思われます。


オレンジ色線部が、現在の春雨二巷。当時は象鼻子胡同の一部。その左側には大土地廟、
小土地廟、娘娘廟がありました。『清北京城街巷胡同図 乾隆十五年(公元1750年)』。
『北京胡同志』より。


オレンジ色の線部が春雨二巷。その左側に春雨胡同とありますが、その西側にはこの地図には書かれ
ていませんが、現在恒和医院という病院があり、その南側には中国婦女児童博物館、中華全国婦聯、
そして、かつて春雨二巷と同じく象鼻子胡同の一部でもあった春雨一巷の跡地には、北京市政協会議
中心がおかれています。

なお、これはもう蛇足でしかないのですが、かつて象房、演象所と呼ばれた場所のそれぞれに現在
おかれているのが、新華社通訊社、電報大楼という通信関係の施設であることは、単なる偶然なの
でしょうか。


もう少し歩いて見たいと思います。
が、都合により今回は前回の予告どおりに東端までご紹介できないことをご容赦願います。









このお宅は27号。



玄関の闇の中で何やら光るものがありました。



一瞬ぎょっとしたのですが、おそるおそる覗いてみると、



魔除けの鏡でした。



 
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