北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第110回 通州・白将軍胡同(その五)「白醤児」と「白将軍」、そしてヘチマワールド。

2016-09-21 10:00:38 | 通州・胡同散歩
「白将軍胡同」。ずいぶん武張った厳めしい名前ですが、今回はこの胡同の名前の
由来についてご紹介したいと思います。その前にまずは胡同歩きから。

写真はこの胡同と中街(胡同)とが交わった所から東側。



門墩(memdun)のある家がありました。



門扉も年季が入っていますが、門墩(memdun)も同様です。



太鼓の部分の彫り飾りは削り取られていましたが、幸い下の「錦鋪」には植物の模様が残っていました。
確かなことは言えないのですが、私には梅の花のように見えました。もしそうだとすると、梅はまだ寒い
冬に花を咲かせる、生命力の強い花で吉祥図。


(「錦鋪」は、台座の上に錦布を掛けたように見える三角の部分の名称。)



上のお宅の前辺りから東側。



少し進むと左側のお宅の入り口からなかなかいい味を出した壁の一部が見えたので
近づいて覗いてみると。



予想だにしなかったワンちゃんとのご対面。



慌てふためく私、「泰然自若」そのもののワンちゃん。



そそくさとワンコ先生の前からひきさがると、右側にやはり門墩のあるお宅。







左右とも太鼓の部分の彫り飾りは「蓮」。吉祥紋様。
「錦鋪」の模様は上は「石榴」。「石榴」にはたくさんの男の子を授かるようにという願いが
込められているそうですが、この「石榴」で思い出すのは、石榴の実を右手に持っている「鬼子
母神」。鬼子母神が石榴を持っているのは、人の子をとって食べてしまう鬼子母神に、お釈迦様
が子を失う悲しみを教えたことに由来しているとか。そんな鬼子母神は、安産と子供を守る神様。

下の写真のものは長寿のシンボル「桃」のように見えました。二個あるというのは、ひょっとし
て夫婦を表しているのかも知れません。もしそうだとすると、夫婦そろっていつまでも仲良く長
寿という、いたってお目出度い図柄です。「桃」と言えば、なにはなくとも「桃太郎」。桃から
産まれた桃太郎だからこそ鬼退治ができたのかもしれません。桃には邪気を払う働きがあり、さ
ればこそ健康で長生きしたいという願いと結びついているのではないでしょうか。





門墩から目を上げると目に飛び込んできた風景。







中国語で「山墙(shanqiang)」と呼ばれる屋根を支える壁ですが、そこに見られる濃淡陰影。
見る者の眼を釘付けにしてしまう幽玄な世界。



さらに進むと、



窓枠に干された運動靴とサンダル。



違う日に訪れた時には、こんな可愛らしい靴も。



その斜め前のお宅の玄関。



二つでワンセットであるはずの門墩ですが、片方だけが残されていました。



「ここまでしなくてもいいんじゃあないかい?」と言いたくなるほど彫り飾りを削りとられながら
も容赦のない過酷な時代を生き延びた門墩。「苛政は虎よりも猛し」。彫り飾りを削りとったのは
儒教なるものを旧い教えとして否定した時代の人々ですが、その時代自体がまさにその時代の為政
者やそれに追随した人々によって否定された儒教の経典の一つに見られる「苛政は虎より猛し」と
いう状況であったことは、実に皮肉なお話でした。




その前にあるのは年季の入った壁、その右側には運動靴やサンダルが気持ちよく干されてあった、
増築されてまだ間もないのではと思しきお宅。そして、これら旧と新とが作りだした角地の隅に
まるで護符か何かのように置かれた、かつて生活の一部であった石臼の一部分。
胡同とは、それを歩く者によっては、決してこれ見よがしではない、磨きたてられたガラス張りの
陳列ケースなどには収まり切らない多くの時の集積した日常、そんな日常と地続きの「順路のない、
まるで起伏に富んだ迷路のようで、しかもどこまで広がっているのか不明な得体の知れない生きた
博物館」であるに違いありません。それゆえに胡同歩きは楽しい。しかし、だからこそ胡同歩きと
は実に油断のならない、困難に満ちた、あまりに無謀な営みなのかもしれません。



隣は路地。死胡同と言うそうですが、日本語では袋小路。



袋小路の前辺りから進行方向。





この辺で気分をちょっと変えて晴れた日に撮った写真をば。
向かって左側に路地がありました。





左側、壁沿いに鳥籠と小鳥。
路地の奥にはヘチマの蔓巻き用棚まであるではありませんか。





胡同につきものの鳥籠や小鳥や蔓巻き用の棚までそろったこの路地は思わず「THE HUTONG」と
呼びたくなってしまう場所。



そこで、この「THE HUTONG」で「白将軍胡同」という名前の由来をご紹介させていただきます。
この胡同は明の時代にはすでに形成されていたようで、初めは、白浆(醤)糊(baijianghu・のり)
で天井貼りなどをしていた職人さんがこの胡同に住んでいたので「白醤児(baijiangr)胡同」と呼
ばれていたそうです。それが中華民国期の1913年前後に「それでは雅趣に欠ける」という理由で
現在の「白将軍(baijiangjun)胡同」に改名されています。
「白醤児(baijiangr)胡同」と「白将軍(baijiangjun)胡同」はほぼ同じ音で、同音・諧音によ
る名前の変化ですが、実はこの「白将軍」はこの胡同に住んでいたことのある実在の人物でした。

名前は「白鎔 (bairong・1769年~1842年・文字化けの場合に備えて書きますと「rong」は金偏に
「容」)。乾隆五十四年(1789年)翰林院庶常館教習を振り出しに、その後、嘉慶・道光両朝の実録
の編纂に参与、皇帝直講官などを歴任した人物。
白鎔さんは本来文官であったのですが、その経歴の中に「武挙(武科挙)会試」の総裁官の経験が二度
あり、そのため「武官」の官名である「将軍」を称することを自他共に許されていたようです。

なお、彼について「邦有典型、古之君子、公心是石、公名不磨」という評言があるようですが、言行や
名と体との不一致の多かった役人の中で彼は儒教を絵に描いたような人生を貫いた人物であったのでは
ないかと思われます。

「白醤児(baijiangr)胡同」と「白将軍(baijiangjun)胡同」。
一つはいたって庶民的でもう一つは庶民からは遠く離れた誇らしげな名称。
どちらの名前が優れているかどうかはさておいて、そこにはおそらく時代状況や名づけた人たちの心の
あり方が反映されているはずで、同じ胡同でも時代の違いによって名前が変わっているのは興味深い。

では、白浆(醤)糊(baijianghu)で天井貼りなどをしていた職人さんと「白将軍(baijiangjun)」は
この胡同内のどこに住んでいたのか。残念ながら職人さんについては分っていないようですが、将軍に
関しては分っていて、それは次の写真の右のお宅。現在の住所で「15号」。





鳥籠と小鳥、蔓巻き用の棚、そしてこの胡同の由来となった人物が住んでいたという三点セットのこの
路地はまさしく「THE HUTONG」。



写真に写っている鉢植えの並んだお宅の裏の一帯が「白将軍」が住んでいたことのある場所。今後
この白将軍という名前とその名に由来する胡同名を何らかの形で目にする機会が増える可能性があるか
も知れません。もちろんそれはそれで喜ばしく、慶賀すべきことなのですが、もしそのために職人さ
んの職業に基づいた「白醤児(baijiangr)胡同」という名前が白将軍およびその胡同名の陰に隠れて
見えなくなってしまうようなことがあるとすれば、それはあまりに惜しい。

職人さんが実在の人物であったとすれば、その職人さんはどんな人物で、どんな仕事ぶりだったのか。
きわめて魅力に富んだ興味深いテーマですが、それはさておき、おそらくその職人さんに関して何ら
かの際立った特徴があったにちがいなく、だからこそ「白醤児(baijiangr)胡同」という胡同名の由
来にもなったのであって、もしこの職人さんとそれに基づく「白醤児(baijiangr)胡同」という胡同
名を亡失してしまうようなことがあるとすれば、それはこの胡同の経歴の少なからぬ部分の喪失を意味
しているのではないか。「白将軍」を称揚するあまりに白将軍を特化してしまうこと、それはこの胡同
自体の深い奥行きやそこに出来る濃淡陰影の喪失とそれに伴うこの胡同の平板化とを意味しているので
はないかと思います。


「THE HUTONG」を後にさらに進むと、「花瓦頂」の素敵なお宅がありました。







瓦を使って造られた「花瓦頂」。繊細な模様に仕上がっていますが、植物との配合がその繊細さを
いっそう引き立てているようでした。この「花瓦頂」があるために辺りの雰囲気まで柔らかくなっ
ているように感じてしまいます。



この胡同ももう少しで終点。



やはり玄関の上に飾りのあるお宅。八つの花模様が並んでいます。
胡同を歩く人の気持ちを和ませてくれる、ちょっとした工夫。



左側に物置が見えますが、その物置の屋根に子供用の運動靴が干してありました。





やはり左側。一列に門墩が並んでいます。







もちろんこれらの門墩は本来の役割を果たしていないのですが、このお宅の壁沿いが駐車場になって
いて、一列になった門墩はどうやらクルマ止めとして使われているようです。いかにも今時の胡同に
おける門墩使用法。



駐車場の前は路地。



まだ幼いヘチマがビニールシートで守られていました。



ヘチマ(糸瓜)。
中国語で「丝瓜(sigua)」。
英語では「dishcloth gourd」。「dishcloth」は布きん。「gourd」は瓢箪、ヘチマなど
ウリ科の植物やその実。合わせて「ヘチマ布きん」。

子供のころ、入浴グッズとして「ヘチマタワシ」は付き物でした。
大奥の女性たちも愛用していたという「ヘチマ水」。
咳止め、むくみ解消、利尿効果があり、食用ともなるヘチマ。

ヘチマはことわるまでもなく蔓性の植物ですが、人々に緑陰を提供する優れもの。
その蔓はどこまでも延び続け、たくさんの実をつけるので、万事発展・子孫繁栄
のシンボルとなっています。

後日、ビニールシートで守られたヘチマがどうなっているか知りたくて行ってみました。





胡同植物園になっていました。


そこで今回の記事の〆といたしまして「白将軍胡同」ならびに「蔡老胡同」に繰り広げられる
胡同植物園・お目出度いヘチマワールドをご覧いただきます。

まずは前回ご紹介した「オシロイバナ」のお宅から。
こんなになってました。



次は今回ご紹介した「THE HUTONG」。





続いては「第99回通州・蔡老胡同(その二)ヘチマ棚のある風景」でご紹介した「ヘチマ棚」を含む
蔡老胡同で見かけたヘチマワールド。


写っている女性は偶然通りかかったご近所さん。

そこへ姿を現したのは、この胡同植物園・ヘチマワールドを造ってしまった造園主さん。



立ち話に花が咲き始めているスキに写真を撮る私。





どこか「ひょうきん」で飄々としていて、しかも風格のあるヘチマの実。
ちなみに上と次のヘチマの実の写真は造園主さんの指示によって撮ったもの。



お宅の壁沿いには他の植物。
この植物園の造園主さんとご近所さんがメモ帳に書いてくださったのですが、中国語で
「五彩椒(wucaijiao)」。



日本語で「五色唐辛子」。唐辛子とはいうものの、この実は辛くありません。
英語で「Rainbow Pepper・Five-Color Pepper」。
初めは緑色で、赤・黄色・紫色などに変化する実。
日本語、中国語、英語とも、その名づけ方が視覚・嗅覚・味覚に基づいている点で共通しています。
前回ご紹介した「オシロイバナ」の名づけ方とは違った意味で興味深い。



ヘチマ棚のすぐ先の路地。



先にご紹介した胡同植物園の造園主さんが私の片腕をとるようにして盛んに「こっちの見て御覧なさい
よ」と私に薦めてくれたのですが、同じヘチマでも、ここで拝見したヘチマは時期がやや過ぎていたか
なと思われる時でしたが、その花の色が鮮やか。その上、レンガの色と花と葉の色の取り合わせが実に
綺麗でした。



写っているのは、ヘチマに関していろいろ教えてくださったこのヘチマを育てたご主人さん。



花も実もあるヘチマワールド、そして気さくな造園主さんやご近所さんたち。ここもまさしく
「THE HUTONG」。ヘチマの実のように再びぶらりと訪れてみたい。



しばらく進んだ所のお宅のファザード。







玄関脇には大きなヘチマの実がぶら下がっていました。



玄関横の壁沿い。
まるでヘチマの葉で創ったアート。
胡同は日々アートが制作されるアトリエ。



よく見ると、ここにも「五彩椒」がありました。



さらに進み、やはりファザード。



ヘチマが電線に巻きついていました。
蔓性という特性をいかんなく発揮した、強さとしなやかさをあわせ持ったヘチマたち!?

ヘチマの蔓は、中国語で「丝瓜藤(siguateng)」。この「藤」は植物の蔓のこと。日本で「藤」と
いうのは中国語で「紫藤(ziteng)」。ヘチマの蔓の中国語は棚に下がった藤の花を連想させる綺麗
な名前です。





「ヘチマの花」は、季語としては夏、「ヘチマ」で秋。
通州の胡同もこれから秋を迎えようとしています。



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第109回 通州・白将軍胡同(その四)「泰然自若」とオシロイバナの風景

2016-09-13 11:09:03 | 通州・胡同散歩
胡同の道端に置かれた石に腰を下ろし、あれこれと考えるのは楽しい。



たとえば前三回分にわたってご紹介しましたように胡同の道幅や電信柱が一つのキッカケとなって、
北京や地元通州についてのあれこれに思いを馳せ、それまで身近な事柄でありながら気がつかなかっ
たことに気がついたり、それまでおぼろにしか知らなかったことの輪郭が以前よりもハッキリとして
来たことなど、胡同は時に私にとって嬉しい道草を食わせてくれる場所となってしまいます。


しかし、道草もこの辺で切り上げ、石から腰をあげて「白将軍胡同」を再び歩き始めたいと思います。

腰掛けていた石の前辺りから胡同東側。



いつ頃のことか分りませんが、道にはみ出すように増築した家。
用途は何かのお店のようですが、今はお店としての機能は果していないようです。



道にはみ出した家の前辺りから胡同東側。



左側を見ると宅門。



宅門の飾りをアップしてみると・・・。



こういうちょっとした所にも、縁起物の蓮花紋様。



トイレの先にあるお宅。



北京の胡同などでは空調の室外機用のお洒落な覆いを見ることが多いのですが、この界隈の胡同では空調の
室外機に覆いがあるのは珍しいかもしれません。今後、胡同の景観保護のため、室外機に覆いをする胡同が
増えるかもしれません。

次は左側のお宅ですが、壁に何やら書かれています。



どうやら子供たちの勉強した痕跡のようです。

「泰然自若(tai ran zi ruo)」
下はその説明あるいは同意語。

毫不惊慌(hao bu jing huang)・・・少しも驚きあわてない。


私とは程遠い境地。見習わないと。



壁に「泰然自若」と書かれてあったお宅の玄関。



鳥籠と小鳥。
こういう風景自体が「泰然自若」の境地を表していると言えるかもしれません。



隣のお宅の植え込み。



オシロイバナがいっぱい。



玄関の屋根?に注目しました。



玄関の中に入ると、ちょっとした空き地になっていて自転車置き場などに利用され、
屋根がないと雨が降ったときなどは困ることになってしまいます。
そこで屋根ということになるのですが、採光のための工夫として部分的に透明になっています。
前にも書いたかと思うのですが、この界隈の胡同ではこのような工夫のなされたお宅が増えて
いるようです。ちょっとした工夫なのですが、モダンな雰囲気を醸し出しています。



オシロイバナの家の写真を撮っていたら、前にご紹介した電動三輪車が静かに私の前を通り過ぎ、
中街(胡同)に吸い込まれるように消えていきました。



オシロイバナという名前は和名。
種子の中が白粉のように白く粉っぽいことから。



花が夕方に咲き始めるのでイギリスでは、「フォー・オクロック」。
中国では風呂に入る時間なので「洗澡花」(xizaohua)、あるいは夕飯を炊く時間なので
「煮飯花」(zhufanhua)と呼ぶそうです。
花一つを見ても、国によって名づけ方が違うのは、おもしろい。



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第108回 通州・白将軍胡同(その三)【寄り道編】電信柱と通州の深い関係、そして北京へ(2)

2016-09-06 03:10:24 | 通州・胡同散歩
上海や天津の電報線を調べるために本のページをペラペラとめくっていたら、
こんな写真が目に飛び込んできました。


う~ん、イカスなぁ。

個人的な感想はさておいて、写真は中国国内で路面電車(中国では有軌電車)が
最初に走ったのが天津だったことを伝えるもの。走ったのは1906年2月16日。
運営はベルギー人の「天津電車電灯公司」で、清政府とベルギー政府の協力に
よってできた会社です。


(この写真は、日本租界で走った路面電車だそうです。)

一番手が天津ならば二番手は上海で、1908年3月5日。イギリス人経営の「上海
電車公司」が運営。そして同年、大連でも路面電車が走ったそうです。


(写真は、上海の路面電車。)

それでは、肝心の首都北京の街で路面電車が走ったのは、いつなの? ということ
になり、遅まきながら乗り物関係の本を図書館などで調べてみますと、なんと、
一番手の天津から18年後で、時代は清朝の次の中華民国になってから。

1924年(中華民国13年)12月17日、午前11時、路面電車の開通式がはなばなしく
挙行されています。この1924年12月17日は北京城内で最初に公共交通手段が走っ
た誠に記念すべき日なのですが、開通式が行なわれた場所もそれにふさわしく天
安門前でした。



運営は、中華民国政府・京都市政公所とフランス系の中法実業銀行との官商合弁
会社「北京電車股份公司」、略して「北京電車公司」(1921年設立)。この会社の
設立までには紆余曲折があったのですが、簡単に書きますと、1914年に中華民国
政府と中法実業銀行との間に結ばれた「五厘金幣実業借款合同」をよりどころに
1921年になって中華民国政府・京都市政公所と中法実業銀行との間にあらためて
締結された「北京電車合同」によってできた会社。なお、ついでに書いておきます
と、1912年中華民国が成立した当初、政府や官僚、商人たちの間では北京にも路面
電車を走らせようとする雰囲気があったようですが、資金や設備などの問題で実行
にまではいたらなかったそうです。


(京都市政公所は当時の北京政府が1914年に設立した役所でしたが、北京の市政に
関して大きな影響力を持っていたようです。場所は新華門の向かい側にありました。)


(この役所の設立当初の内務総長兼市政公所督辨・朱啓鈴は北京を語る場合に欠かす
ことの出来ない人物の一人。住んでいたのは国際飯店北側の趙堂子胡堂3号でした。)


(電車公司はご覧のように西総部胡同11号にありましたが、その後、ここには写って
いないのですが、西総部胡同の北側の遂安伯胡同に移っています。)

1924年12月17日の式典当日、電車は翌日18日の新聞「晨報」によりますと次の
コースを走っています。

  天安門→東単→東四→北新橋→後門→太平倉→西四→西単→天安門

まず関係者が、その後、会社から配られた優待券によって一般客が乗車した模様です。


(開通式当日の式典の模様などを伝える新聞記事。)

この北京城内を走った電車は、翌18日から正式に営業が開始されました。コースは、
前門と西直門の間で、司法部街、西単、西四、新街口。


(この写真からお分かりのように、開通式当日は「晨報」にも書かれているように、沿道は
黒山のひとだかりだったようです。中華民国の国旗「五色旗」が写っています。上から
漢(紅)・満(黄)・蒙(藍)・回(白)・蔵(黒)を表しているとか。)

開通当初は、前門と西直門の間の1路線だけでしたが、1925年までに第2、3、4の
路線が開通し、その後1930年までに第5、6、そして1940年までには第7路が通った
そうです。


(崇文門大街を走る路面電車。)

ご参考までに、中華民国期に発行された地図(複製版)などに載っていました路線図
に基づき、第1から第7までの路線を次に掲げておきましたので、ご興味をお持ちの
方はご覧下さい。

  第1路(紅牌):天橋-西単-西四-西直門
  第2路(黄牌):天橋-東単-東四-北新橋
  第3路(藍牌):西四-西単-東単-東四
  第4路(白牌):太平倉-後門-鼓楼-北新橋
  第5路(緑牌):宣武門-西単-東単-崇文門
  第6路(粉牌):和平門-虎坊橋-珠子口-崇文門
  第7路(灰牌):天橋-永定門

各路線の途中駅など、もう少し詳しくお知りになりたい方は、次の写真をご覧下さい。
やはり、中華民国期に発行された北京地図(複製版・当時は北平でした)に載っていた
路線図です。ただし、この路線図には第6と7の路線が記されておりません。そこで、
写真の次に不備な点もあるかと思いましたが私なりに調べた各駅名を書いておきまし
たので、ご興味をお持ちの方はご覧ください。



第6路:和平門-琉璃廠-藏家橋-虎坊橋-陝西巷-煤市街-珠市口-橋湾
      -水道子-磁器口-花市-崇文門
   第7路:天橋-天壇-永定門


(前門内西街を走る路面電車。)


ところで、今回、北京で最初の公共交通手段となる路面電車について調べていて、「
これは、イイね」「これはどうなのよ?」などと気になったことがいろいろありました。
次にその内の三点をとりあげてみました。

まず、先ほど掲げた第1から第7までの路線の中に「紅牌」「黄牌」「藍牌」などと書か
れてあったこと。「これは何?」と乗り物関係の本を調べてみますと、これは各路線の停
留場の標識が色分けしてあったことを示しているようです。より具体的には、次の通り。

  第1路:紅牌白字
  第2路:黄牌紅字
  第3路:藍牌白字
  第4路:白牌黒字
  第5路:緑牌白字
  第6路:粉牌黒字
  第7路:灰牌紅字

停留場の標識の色を見れば一目で路線がわかるというこの工夫、なかなかのすぐれモノだと
思っていましたら、実はこれ、字の読めない人たちにもわかり易いようにという会社側の
配慮だったそうです。これなどは「イイね」の内の一つなのですが、二つ目はその反対。

電車が走った当日、なんと、数千人の人力車夫たちがレールの上に腹ばいになって電車の
通行を阻止しようとした出来事があったこと。もちろんこれは、人力車夫たちが自分たちの
生活を守るための命がけの行動だったわけですが、その後1929年10月には数万人の人力車夫
たちによる大規模デモが発生しています。

この時、当局による逮捕者1200人あまり、4人の死者までが出ています。文字通り命がけの
行動でした。ちなみにこの時60輌以上の電車が破壊、レールなども剥がされ、停留場も壊さ
れ、その後18日間は運転休止状態だったそうです。

この出来事は、当時の人力車夫たちが物質的にも精神的にもいかに追い込まれていたかが分る
事件。当時こんな事件があったことを知り、ブログ用の下調べをしている最中だというのに、
大きく脱線して中国で最も尊敬している小説家老舎の『駱駝祥子』(ラクダのシァンズ)を読み
返してしまいました。

主人公シァンズはこの事件の主役たちと同じく人力車夫、時代背景も同じく北京が「北平」と
呼ばれていた1920年代後半。小説『駱駝祥子』にはこの事件のことは出てきませんが、主人公
シァンズも出口なしという状況に追い込まれている点で事件を起こした車夫たちと通じるもの
があり、作者が冷徹にも容赦なく主人公をあそこまで追いつめていった理由がほんの少しですが
分るような気がいたしました。この小説を読んだ労働者の一人が老舎に次のように言ったそうで
す。「シァンズがあんなふうに死んでしまうのだとしたら、われわれにはもはや希望などないの
ではなかろうか」。その時老舎は何も答えられなかったそうです。


さて、人力車の動力が文字通り“人力”であったとすれば、路面電車のそれが“電気”であること
はいうまでもありません。しかし、肝心のこの電気はいったいどうしたの? というのが、今回
気にかかった三つ目の事柄でした。

そこでさっそく当時の路面電車と電力との関係を調べてみますと、電車が開通した1924年から
数年間、北京電車公司が石景山にある発電所(現在北京京能熱電股份有限公司石景山熱電廠)から
送られてくる電気を利用していたことが分りました。北京在住の日本の方の中には石景山に発電所
のあることをご存知の方も多いかと思いますが、この発電所、ルーツを探ってみますと1905年に
設立された「京師華商電灯股份有限公司」という会社にたどりつきました。

この「京師華商電灯股份有限公司」は、馮公度、史履晋、蒋式惺など清の官吏によって1905年
(光緒31年)に設立されたもの。なんと、外国資本にたよらない中国最初の民族資本による電気会社
で、しかも北京で最初の民間用電灯会社なのだそうです。義和団事件の賠償金などによって財政難
に陥っていた中で推進されたさまざまな制度改革(光緒新政)の一環だったと考えてよろしいかと思
います。

この会社が発電所を建設したのは1906年。場所は、現在北京市電力公司がある前門西側で、市内に
電気が供給されたのは同年11月25日。この当時の利用者はもちろん北京の富裕層で、紫禁城にも
電線が敷かれたそうです。



そして、その後1919年(民国8年)、この会社は問題の石景山に発電所を増設、名前は石景山発電
分廠。1922年(民国11年)2月に北京に電気が送られています。1924年(民国13年)に開通した路
面電車が動力として利用した電気はまさにこの時に出来た発電所から送られたものだったわけなの
です。

なお、この電灯会社は、1933年(民国22年)には海淀区の青龍橋に変電所を建設していまして、この
変電所から当時の精華大学と燕京大学に送電されています。また、この会社設立に尽力した馮公度
たちは1921年(民国10年)司法部街に「京師電気学校」という学校まで設立しています。


(馮公度は、万松老人塔のある磚塔胡同の北側・羊肉胡同に1920年から48年まで
住んでいたそうです。)

さて、上に電車公司が電気を使用していた電灯会社の沿革を大急ぎで見てきたわけですが、電車公司
がこの電灯会社の発電所を利用していたのは、路面電車が走り出した1924年から1928年3月半ばぐら
いまででした。というのも、電車公司が利用する発電所をほかのそれに移したからなのですが、その
発電所が、なんと!!通県発電所だったのです。

北京電車公司と通県発電所との関係を調べて分ったことなのですが、北京電車公司には、どうやらその
設立時から自前の発電所を造る計画があったようで、1922年にその候補地として永定河と北運河の二ヶ
所の実地調査を行なっています。そしてその結果選ばれたのが、かつて京杭大運河の一部として、また
北京と天津をつなぐ重要な交通路であった北運河でした。

同年、工事を開始。しかし住民の建設反対運動などさまざまな問題に直面し、工事は一時停止を余儀なく
されていまして、工事が再開されたのは1924年2月。正式に営業が開始されたのは4年後の1928年3月22日
だったそうです。この時発電所によってつくられた電気が自社の路面電車の動力として利用されたのはも
ちろんですが、その時通州城内にも送電されたそうです。

なお、上に営業開始が1928年と書きましたが、地方誌『通県志要』に、民国13年(西暦では1924年)に
通州城内の「大焼酒胡同」に設立された「通県電気股份有限公司」なる私営で自家発電していた電気会
社があり、翌年の民国14年(1925年)には通県発電所からの電気を利用していたという記録があることを
書いておきたいと思います。このような記録を見ますと、規模は小さいながらも、通県発電所には正式発
電前に発電能力がすでにあったと考えてよいかも知れません。


(光緒時代の通州城の地図。「大焼酒胡同」は1991年に取り壊され、現在アパートが建っています。)


電車公司が建設した通県発電所の場所は、北運河に架かる運通橋のすぐ近く、運河西岸の大棚村。路線バス
317路の「通州電廠」という停留所の間近で、煙突が立っていますのですぐに分ります。


(路線バス317路「通州電廠」の停留所。2016年7月撮影。北京からいらっしゃる場合は、北京駅
前の668に乗り、終点・京東運橋建材城下車。そのまま東方向に進むと運通橋に出ますので
そこを右折。すぐ近くです。666でも可能ですが、これは各駅停車なので時間がかかります。
また、地下鉄6号線「北運河西」で下車し、その後運河沿いを歩くというのもよろしいかと思い
ます。なお、「北運河西」の近くにはセブンイレブンがあり、そこで買ったおにぎりやサンド
イッチ、いやいや、おでんを頬張りながら運河を堪能。これが最高!!ちなみに、ここは私の散歩
コースでもあります。)


(上の地図は2012年通州区交通地図。この時は「電廠」でした。)


(この住所の敷地内に発電所があったわけですが、現在は幾つもの企業が入っており、敷地内に
入ることは出来ますが、写真撮影は禁止です。ただし、どうしても写真をお撮りになりたい場合
は敷地内で出会った方に撮影理由や目的などを説明することをおすすめいたします。2016年7月
撮影)

突然ですが、次の写真をご覧下さい。これは枯水期の北運河を撮ったもの。撮影時期は1950年代。水が減って
いますが、そういう時にも民船が走っていたことが分る写真です。



写真左上の矢印が指しているのは、発電所の煙突で、この煙突が発電所の目印になっていたそうです。
同じ角度、距離で写真を撮ることは出来なかったのですが、運河に架かる運通橋の東側から運河西岸沿いの
発電所方向を撮ってみました。



写真真ん中に煙突が立っています。拡大すると次の通り。



先にご紹介した1950年代の写真とは違い、煙突が2本あります。中国のブロガーの中には手前の煙突(実
際には給水塔)が民国期の発電所のものと書いている方がいらっしゃるようです。しかし、それとは違い、
私がもと発電所の敷地内で出会った方の中に、写真奥に写っているのが民国期の発電所のもので、もう
一つはそれより新しく造られた工場の給水塔だよと説明してくださった方がいたことを書いておきたいと思
います。発電所の目印になっていたという大切な煙突。「どちらが民国期のものなの? 」という疑問は残っ
たままなのですが、今回は性急に答えを出すことを控え、謎の大好きな私としては今後の調査を楽しみにし
ています。

そうそう、「煙突が発電所の目印になっていた」で思い出したのですが、煙突が発電所の目印ならば、通州
という街の“目印”は昔も今も、現在「三教廟」内にある鎮河塔「燃灯仏舎利塔」。たとえば、1900年に
勃発した義和団事件に際し、フランス極東派遣隊の一員として通州に足を踏み入れた作家ピエール・ロチは、
『北京最後の日』(船岡末利訳・東海大学出版会)で次のように書いています。

「昼食のあと、薄暗い寝棺の中から出てきたわれわれに、中国人乗組員が地平線を指し示す。《天上の清ら
かなまち》通州がそこに姿を現し始める。監視所のある黒い大きな城壁、おどろく程高い繊細な塔が、二十
層もの屋根が重なり合ういかにも中国風のシルエットとなって見えてくる。」(十月十七日水曜日より)

作家の目に映った「おどろく程高い繊細な塔」が、「燃灯仏舎利塔」であることは言うまでもありません。


(1860年9月23日撮影。英仏軍の従軍記者が撮影したものだそうです。大英図書館蔵。)


(「三教廟」内の孔子像と大成殿。後ろに見えるのが「燃灯仏舎利塔」。)



思えば、ピエール・ロチより先に通州や北京に乗り込んだ八か国連合軍が通州に駐屯した際、兵士たちが
「燃灯仏舎利塔」の軒に下がる「胴鈴」を射撃の的にしていたこともありました。時代がくだり、日本に
ゆかりのある冀東防共自治政府が「三教廟」内にあった時代もありました。その後、国民党が通州を統治
していた時代もあり、その名残りかと思われる石碑だって「三教廟」にはあるのです。そして新中国にな
り、北京の工芸品や宮廷の装飾品といったら絶対ここ!!と言われる「北京花丝镶嵌廠」がやはり「三教廟」
内にあったこともありました。もちろん、そういう時代には宗教施設としての機能は停止していたと考えて
よい訳ですが、その「三教廟」が現在の状態になったのは、今から10年ほど前の2004年以降でした。「三
教廟」は通州はもとより、まるで北京の歴史の縮図のような場所なのです。


(国民党の晴天白日旗が刻まれた石碑。)

前にもご紹介させていただいたのですが、ここにはかつての北京や通州の人々が使っていたのと同じタイプ
のこんな古井戸だってあるんですよ。通州を訪れる機会がありましたら、儒教、仏教、道教が一堂に会した
「三教廟」や今も凛々しい姿を見せてくれる「燃灯仏舎利塔」に立ち寄ってみてはいかかでしょうか。



ただし、本年10月いつぱいは工事のため休館になっておりますので、ご注意ください。これも現在の通州の
一コマかな???


(これが現在の「燃灯仏舎利塔」風景。内部だけではなく、三教廟を取り囲む東西南北の地域は現在工事中。
これは工事関係者の許可を得て東側の工事現場内から撮影したもの。)

話しを通県発電所に戻しますが、通県発電所について今回調べている内に分ったことが幾つもあったのです
が、その中でとりわけ興味深く思われたものを次にとり上げておきたいと思います。それは、具体的な年月
日、具体的な用途は分らなかったのですが、「北京自来水公司(孫河水廠)」や「双橋無線電台」などの企業
にも電気を供給していたことで、それを知った時には驚きを禁じ得ませんでした。「北京自来水公司」と
「双橋無線電台」について、ここでは簡単にご紹介させていただきます。

「北京自来水公司」は1908年に設立された「京師自来水股份有限公司」がその前身。清の農工商部の官吏
たちが西太后と光緒帝に上奏の結果設立された会社で、北京の水道会社第1号。防災と衛生の重視が設立
動機となったようです。この会社設立も「光緒新政」の一環だったのかもしれません。東直門外に浄水場
(水廠)がありました。水源は孫河(未確認)で、ここにあった取水廠で取水・濾過した水を東直門水廠に送
り、さらに浄水していたそうです。


(民国期の地図に載っていた東直門水廠。1948年まで浄水場はここ一ヶ所だったそうです。)

北京城内に供水されたのは1910年3月。利用していたのは紫禁城内やごく限られた人たちで、専用の水夫が
荷車で宅配していたそうです。この会社がのちに「北京市自来水集団有限公司」という会社に発展しました。

この東直門水廠は現在「北京自来水博物館」になっており、かつて使用していた建物などさまざまな設備を
見ることができます。

北京市自来水集団有限公司による博物館のホームページ。
北京の住民に水を供給した重要な施設跡に立てられた博物館には、かつて使用していた機械設備は
もちろんのこと魅力的な建物なども残されており、見応え十分です。
www.bjwatergroup.com.cn/227/


(民国期の地図。前門西側に「自来水公司」はありました。ただし、清末に設立された
「京師自来水股份公司」がここにあったかどうかについては今回「?」とさせていただ
きます。)

「双橋無線電台」。この無線放送局の始まりは1918年、民国海軍部と日本の三井洋行(物産)株式会社との間に
締結された「無線電台借款契約」によって設立された「中国海軍中央無線台」。日本との結びつきが強かった
段祺瑞政権は「福原借款」など日本からの借款がありましたが、この「無線電台借款契約」もその一つでした。
1920年4月に工事が始まり、23年に竣工。設備は日本製だったそうです。



1937年日本軍の手に渡った時もあったのですが、1945年中国に戻り、1949年以降何度かの改名を経て1965年
1月1日に「中央広播事務局491台」になっています。

1949年10月1日、中華人民共和国開国の式典が行なわれたのはご存知の通りですが、その時の模様を世界に向け
て発信したのがこの無線局でした。双橋無線電台というのは、朝陽区の双橋にあることからの通称で「491電台」
旧跡として現在も遺されています。1997年北京市級文物保護単位、2015年には全国重点文物保護単位に指定され
ました。


それではここで、北京の街を走った路面電車に電気を供給していた旧通県発電所内の水塔と煙突をば。
撮影は2016年7月。



さてさて、どちらが民国期に設立された通県発電所が使用していたものやら・・・・・???

通県発電廠は北運河の水を利用していました。現在、旧発電所のある運河沿いは「運河公園」や「大運河森林
公園」として通州っ子たちの憩いの場。「いつか通州と北京の間を通恵河で小さな船の旅! 」、そんなことを
私は夢見ています。



(北運河東側船着場への途中の並木道。)


(大運河森林公園東側の船着場辺りから西側の船着場方向を撮影。渡し舟が往復し、その他舟遊びが楽しめます。
西側がこの公園の正門になっていますので、初めての方はそちらから入園することをお薦めいたします。こちら
の方がいろいろ見どころが多いかもしれません。と書いたものの、渡し舟に乗ればどちらから入っても同じこと
なんですが・・・。ちなみに、この公園の案内板は、たとえば「トイレ」などと日本語でも書かれているのが印
象的です。上記、東と西を何を勘違いしたのか反対に書いていましたので、訂正いたしました。)

電信柱。辞書に「電信・電話・電気などの送電線を支える柱。電柱。」とありました。
中国語で「电线杆子(dianxianganzi)」。

白将軍胡同の道端に何気なく立っていた電信柱。その電信柱のお蔭で、不備な点もあったのですが、北京に
ついて多くのことを知ることができ、感激しました。電信柱、病みつきになりそうです。



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