北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第145回 北京の胡同・小椅子圏胡同(補足) 名前の由来や部屋の値段、胡同の部屋の改造例など

2017-05-31 14:00:01 | 北京・胡同散策
この胡同の名前の由来について、胡同関係の本、例えば『北京胡同志』などによると
その形が椅子(もちろん背もたれのある椅子のこと)に似ていることが挙げられてい
ました。

椅子を真横から見ると、背もたれがあり、その末端からお尻を置く場所が横に伸び、
その場所の両端から下に椅子の脚が二本続いています。実際、この胡同を歩いてみて
椅子の後ろ脚の部分がない点を除いて、先の指摘に納得です。

例えば、中国の「百度地図」を見てもそのように見えてしまいます。
オレンジ色の部分がこの胡同。



ならば、この椅子の形をした胡同が「小椅子圏胡同」と命名されたのはいつのことか?
と言いますと、今から52年ほど前の1965年で、それ以前は中華民国期に入ったばかり
の1911年に名づけられた「椅子圏」という名前でした。

名前の変遷を辿ると、1911年「椅子圏」、1965年「小椅子圏胡同」に改名される、
ということになる訳ですが、ここで、それならばこの椅子の形をした胡同が北京に
姿を現したのは1911年の民国期からなのか?という思いが頭の中をよぎります。

そこで、その辺のことを確認するため、やはり前掲書に載っている元代以降の北京
の地図、具体的には明代以降のこの胡同の変遷を辿ってみると次の通りでした。
この小さな胡同の形が時代によって変化しているのがよく分かり興味深く、変化の
原因や理由なども調べてみたくなってしまったのですが、今その点はおくとして、
明の時代の「小椅子圏胡同」の形と現在のそれとがほぼ同じ形をしている点には、
とりわけ印象深いものがありました。ご興味をお持ちの方はご覧ください。

〇『明北京城街巷胡同図』万暦ー崇禎年間(公元1573ー1644年)
  

現在の地図とほぼ同形ですが、名前が記されていません。

〇『清北京城街巷胡同図』乾隆十五年(公元1750年)


前掲のものとほぼ同形ですが、やはり名前がありません。

〇『北平旧城街巷胡同図(内城西部)』(1949)


名前は「椅子圏」とあるものの、前二者とは形が大きく違っています。「前公用庫」沿いに
出入口が二つあり、しかも、椅子の脚に該当する部分が下の胡同と接続しています。

〇『北京旧城街巷胡同図』(1990)


縦棒線が二本ありますが、これは数字の「11」で「小椅子圏胡同」であることを示しています。
前掲地図と同じく出入口が二本あるものの、前掲地図のような椅子の脚の部分が姿を消し、下の
胡同に接続していません。

〇『北京旧城街巷胡同図』(2003)


現在と同じ「小椅子圏胡同」という名前があり、しかも、見づらいかもしれませんが、現在の地図
で見ることができるような、椅子の脚の部分もあるものの、この地図では出入口が二つある点が現
在のものとは違っています。

そして、再び現在の「小椅子圏胡同」の地図(百度地図より)


明代から現在までの変化を辿ってみて、明代の地図上の形と似ているので、一瞬タイムスリップして
しまったような、キツネにつままれたような気持ちになってしまいました。


さて、話は変わりますが、パソコンでこの胡同について調べていると、不動産屋さんの部屋貸し出しの
広告が載っていました。この胡同における部屋代のご参考にどうぞ。


この広告を見ると、一部屋(20平米)が2200元。1元≒16円で、35200円なり。

部屋の写真も、どうぞ。





そして、もう一つ。
やはりパソコンで調べていたら、「小椅子圏胡同」ではないのが残念ですが、胡同の
部屋の改造という、写真を見るだけでも楽しい記事に遭遇しました。やはり、ご興味
をお持ちの方はご覧ください。胡同における部屋を改造する場合のヒントの一つにな
れば、嬉しいです。

題名は『北京胡同房舎改造:大雑院里30平米小房子的華麗蜕変』というもの。
アクセスできない場合は、次の簡体字の題名をコピペのうえ、検索してみてください。

『北京胡同房舎改造:大杂院里30平米小房子的华丽蜕变』。
  www.sjq315.com/news/347636.html

【オヤジの独り言】
「珠玉の短編」という言葉があるように「珠玉の胡同」「珠玉の住まい」という言葉があっても
良いんじゃないか。変化の激しい北京にあって、この胡同にも訪れるに違いない、さまざまな波。
たとえいかなる波が押し寄せようと、この『小椅子圏胡同』に見られた四季平安という静かで穏
やかな祈りの果てには、「珠玉の胡同」という言葉が待っていてほしい。いや、この静かでつつ
ましやかな祈りの中には、すでに珠玉の胡同と呼ばれる未來が孕まれているのかも知れない。



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第144回 北京の胡同・小椅子圏胡同 『漂流する小さな椅子』

2017-05-25 14:02:22 | 北京・胡同散策
日本語で「椅子」は、腰掛ける道具のこと。
中国語で「椅子」は、背もたれのある腰掛けに限ります。
今回おじゃましたのは、そんな椅子に形容詞「小」の付いた、幼児用の可愛らしい小さな椅子を
思い起こさせるような名前の胡同。そこは、狭くて小さいゆえに愛するコトやモノがすぐ手の届
くところにあって、小さくて狭いから夢やロマンがいっぱい詰まった場所なのかも知れません。

その名も、小椅子圏胡同。







簡素であって力強く、温もりを感じさせ、使い込むほど深い味わいをかもし出す木製の宅門。



都合により、角度は違ってしまったのですが、お隣りの宅門。


門の上部の「花瓦頂」。瓦を連続した波のように組み立てた繊細な模様に込もるのは、未
来永劫続きますようにという願い。日本の紋様「青海波」と無関係でないことは、言うま
でもありません。
やはり門の上部「門楣(menmei)」には静かで穏やかな日々が続くことへの祈りがこもる
四季平安。

そして、玄関脇に置かれたニューウェーブ。
「モバイクもなかなか似合うじゃないか」。思わず膝を打ちました。
ただし、広いところを狭くしてはばからない心無い乗り手は除きます。
だって、道路に置かれたモバイクの大量の波で歩行者も溺れそうじゃ
ないか!!







突き当りを曲がると工事中。



外壁及び内部も改修真っ最中。
以前はどのような外観だったのか。時代の移り変わりの一端を確かめるべく調べてみたの
ですが、今のところ不明。この後、外壁がどのような状態になるのか気になるところ。
機会を見つけてぜひ確認したいと思っています。



正面のお宅も工事中。



覗くと「中を見てもいいですよ」。そんなお言葉を頂戴したのですが、作業の邪魔を
してはいけないと思い、今回はご遠慮しました。



やはり、こちらも連続する波模様の花瓦頂と「四季平安」。



その北側隣の花瓦頂は円形の連続模様。



さらに続く狭い路地。しかも、道の片方は二階建てとあっては、
いやが上にもエスカレートしてしまう、わくわく感。





先に拝見したお宅を重ねあわせたような四季平安と円形の連続模様。









みんな大好き、喜羊羊(シーヤンヤン)!!
ピンク色の美羊羊(メイヤンヤン)も黄色の沸羊羊(フェイヤンヤン)も一緒だよ。


ちなみに、喜羊羊は、2005年から続くアニメ『喜羊羊(シーヤンヤン)と灰太狼(ホイタイラン)』
のヒーロー。

右手には、建て増ししてからそれほどの年月は経っていないのでは?と思わせる、レンガとは違う
質感や丈夫さや弱さを秘めた新建材に覆われた外壁のお宅が並んでいました。



以前はいったいどのような建物が並んでいたのか? やはり気になるところで、何とかして
昔の様子を今に伝える写真を探し出したい、そんな子供っぽいことを考えていると、正面に
ふいに立派な宅門が姿を現しました。



しかも、右手には春聯の貼られた堅牢そうな玄関。







箒の立てかけてあるお宅の角を右。
仲良く並び、しかも阿吽の呼吸の如くに開いたドア。



福の字や横批や春聯が貼られているので、もしドアが閉まっていたら全く分からなかったに
違いありません。手前のドアの中はトイレで、奥のドアの中は二階へと続く階段室になって
いました。

階段室やトイレがドア一枚を間において道路に接しているスタイルは、狭小という立地条件に
よる構造で、東京の狭小住宅などでも見かけるもの。だから珍しいという感想は抱かなかった
ものの、私にとってはひょっとして初めてかもしれないという感覚を味わいました。それは、
私が立っているのは「屋外の道路」ではなく、私が今まさに立っているのは屋根のない、あるい
は大空を屋根とした「屋内の廊下」なのだという奇妙な感覚でした。あえて言えば、この胡同は、
一本の廊下に沿って幾つもの部屋が設えられた狭小でありながら大きな家屋なのではないか?
という幻想。

住宅問題は、多くの人が集まる場所では必ずといって良いほどつきものですが、この幻想は、狭くて
小さい、「にもかかわらず」ではなく、「だから」豊かで心地よい住まい方の可能な大きな環境とし
ての住宅とその創造、そして結局は住まう人自身の心のあり方という最も大切な問題へと繋がる一本
の道を描いているようです。


この胡同の一番奥の、予想もしなかった宅門。
このお宅はいつごろ建てられ、もともとはどのような方が住んでいらっしゃつたのか?
この胡同の秘密めいた形と共に興味尽きない謎が微笑んでいます。









連続する波形の瓦の中に健気にも逞しく伸びる植物。

この堅牢な宅門の正面には、一本の大きな木があって、その向こう側には、三層のお宅
が、摩天楼のように聳え立っていました。




 
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第143回 通州の胡同・西順城街(その四) 「 秧歌(yangge)」と中倉社区の11の胡同

2017-05-20 11:28:58 | 通州・胡同散歩
前回の結びは、

「椅子の人」に別れを告げて、路地を出ると、右手にあったはずの数軒のお店が
なくなっているのに改めて気付づいた次第。

ということなのですが、まずは次の写真(前回分の再掲ですが)を。



向かって右側の一番手前の建物、この建物の窓の下に赤い看板らしきものがありますが、この看板に
書かれているのは「博古軒」という骨董屋さんの店名で、このお店は4年前にもありました。



その隣は本屋さんで、文房具なども扱っているお店。





この本屋さんの4年前のお姿をご覧ください。


マックとケンタが合体したような、あまりに楽しすぎるお店でした。
中国語に馴染み薄の方のために・・・「マクドナルド」は中国語で「麦当劳(maidanglao)」、
「ケンタッキー」は「肯徳基(kendeji)」。

角を曲がると、赤と黄の組み合わせがそれなりに今風の装飾。



4年前の姿をご堪能いただければ幸いです。



こちらもハンバーガーやフライドポテトなどを提供するお店だったのです。



そして、その隣のお店の4年前の姿。


貼られたイケメンのポスターが場末のホストクラブを髣髴とさせ、営業内容とのあまりの落差が
微笑ましい、その名もロマン溢れる「茶物語」。

そこは、やはりハンバーガーやフライドポテトなどを供するお店。
「いったい、どんな客がここを訪れるの?」
そんな興味も当時あったのですが、一度も訪れなかったことが今からすれば悔やまれてしかた
ありません。

写真では分かりづらいかも知れませんが、4年後の現在は「佳運文具」「晨光文具」という看板の
掲げられた文具店になっています。なお、この「晨光文具」という看板には後ほど再びご登場ねが
いますので、乞うご期待。



さて、以上4年前にハンバーガーなどを売っていたお店をご紹介しましたが、お次は西順城街の通りを
はさんだ南側にある学校をご紹介。

上のお店の南側には、坂道。
ここは立地条件から関係車両しか入ってきませんので、生徒たちにとって安全といえば安全な場所
なのです。



この坂を下りきると、右手に立派な校門。







「東方小学」の前は「通州区第六中学」。



学校見学は現在、関係者以外の立ち入りは厳しくなっていますが、当日は警備員さんのご厚意で、
少しですが中に入ることが出来ました。ほんの一部ですが、ご覧ください。

校舎。



グランド。





つぶやき・・・先の「東方小学」や通州区六中の生徒の中には、4年前にはあったお店で、
楽しい買い食いをした生徒もいたに違いない。



警備員さんにお礼をいって、再び西順城街へ。
この辺りから胡同の中を歩いていた時とは雰囲気がずいぶん変わります。



左側はアパートで、その一階は貸し店舗になっています。
右側は、「中倉社区」「中倉小区」と呼ばれる巨大なアパート群。このアパート群は、西順城街に沿っ
て西側と北側にのびる「中倉路」に沿って広がっていますが、いくつもの胡同を取り壊した跡地に建て
られたもの。昔、この地にあった胡同については後ほどご紹介いたします。



左手のアパート一階の貸し店舗は現在借り手がいないようで、ほとんど空室。



次の写真は「中倉社区」が、西順城街と「中倉路」とに分かれる角地。



右から(ここは写真では小さくて見えませんが)「超市」すなわちスーパーマーケット、薬屋、本屋と
お店が並んでいます。

4年前。



角には先にご紹介した「晨光文具」がありました。

現在、スーパーの隣は薬屋さんですが、



写真は省略ですが、4年前は、ありませんでした。

そして、「希望の弦」という名の本屋さん。



このお店、4年前は通りの反対側の、現在は借り手のいないアパート一階にあったのです。
おそらく家賃の値上がりによって現在の場所に移ったのでは、と考えられます。



当時、店頭には若い男の子や女の子向けの雑誌が置かれていました。



でも、現在のお店のウインドウに飾られているのは、幼い男の子や女の子向けのもの。


オジさんやオバさんが買っても、もちろん問題はありません。



お店入口脇には、女の子が欲しがりそうなものが溢れています。



さらに西順城街を歩きます。



スーパーがありました。



「北京大運河超市」。
お店はこじんまりとしていますが、名前はでっかいのです。



窓のガラス越しに飾られた商品をご覧ください。









店内を拝見。


店員さんが「没有(メイヨウ)」としか言わなかった時代の中国とは違い、所狭しと商品が並んでいます。
今の中国の縮図を見るようです。

私の好きなパイナップル。



店員さんはテレビを観ながら店番してました。



スーパーの斜め前には、中華レストラン。



店構えはおとなしいですが、このお店は4年前にはすでにあり、一時の流行に左右されない実力派かも。



先ほどのスーパーを過ぎると、ホテル。



「記憶にないなぁ、このホテル。」

そんなことは、さておいて、ホテルの名前は「東方之珠国際温泉酒店」。



金ピカな飾り付け。







ここは「酒店」、つまりホテルであることに間違いはないのですが、宿泊中心というより、
のんびりと温泉に浸かってから、食事を楽しんだりする娯楽施設といってよく、先にご紹介
した金ピカの飾り付けも、このホテルが非日常性、娯楽性を優先していることが分かります。
温泉、そこは憂き世(浮き世)の垢を綺麗さっぱり洗い流す場所。天使たちに俗世間からの
離脱への願いが込められているかのようです。

そして私が驚いたのは、玄関周り。



玄関脇にでっかい「泰山石敢当」。
この大きさのものは、はじめて見たような気がします。



この温泉ホテル、ひょっとして邪悪なものを完全にシャットアウトした聖なる場所なのかも。
ちなみに、私の経験範囲では温泉は水着着用てす。

金ピカの天使たちや「泰山石敢当」に見送られながら、さらに前身。





私の前を横切っているのは、ダック店やお粥屋さん、刀削麺や喫茶店、ホテルや郵便局に銀行などが
軒を連ねる「車站路」という商店街。



さて、ここまでが「西順城街」ですが、向かい側の公園からかすかに楽しげな音楽が
聞こえてきます。行ってみると、北方農村に伝わる田植え踊り「秧歌(yangge)」の真っ最中。


動画も撮っておいたのですが、当ブログではご覧いただけないのが残念です。



オヤジのつぶやき・・・北京の前門あたりで、この「秧歌」やらないかなぁ。チャルメラと太鼓の
音に合わせて、ガンガンねり歩いてほしいゾ!! しかも、プロの踊り手がやるんじゃあなくて、
素人の愛好家たちにやってほしい。1990年代の北京の東単なんかでもチャルメラと太鼓の音に
合わせて愛好家さんたちがねり歩いていたのを見かけたものです。

前門と踊りの取り合わせで思い出した。以前、前門で「阿波踊り」を踊るという企画があった。
奥さんも参加が決定していたのに、ちょっとした問題があってお流れになってしまった。その後、
あの計画はどこへ行ったの?

世界中の踊りが北京・前門に集結。
題して、ちょっと微妙ですが、『みんなで踊れば怖くないゾ in前門!!』。



さてさて、つぶやきはこの辺にして、かつて中倉社区(小区とも)にあった胡同名をご紹介。

まずは、次の清・光緒時代の通州城の地図(複製)。



オレンジ色が「西順城街」、左の水色部分が「車站路」。「車站路」から右に延びているのは
「西大街」という通りの一部、その右端から下がっているのは「中倉路」という通り。

これら4本の通りに囲まれているのが中倉社区(正確にはこんな長方形はしていませんが)。
ここには現在35棟ほどのアパートが建っていますが、かつては11本の胡同がありました。

次の写真は西順城街西側の出入口、その左側一帯に11本の胡同が広がっていたのです。



今回は、それら11本の胡同名のご紹介をもって当記事の結びとさせていただきます。

中倉胡同・・・・1992年取り壊し。
大焼酒胡同・・・1991年取り壊し。
中焼酒胡同・・・1991年取り壊し。
小焼酒胡同・・・1986年取り壊し。
華厳寺胡同・・・1991年取り壊し。
倪家胡同・・・・1991年取り壊し。
西麦芋胡同・・・1986年取り壊し。
東麦芋胡同・・・1991年取り壊し。
神路街・・・・・1991年取り壊し。
前板井・・・・・1991年取り壊し。
後板井・・・・・1991年取り壊し。



 
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第142回 通州の胡同・西順城街(その三) 椅子の人

2017-05-13 11:31:24 | 通州・胡同散歩
毛家胡同の南側出入口のお宅。



その玄関には可愛らしい絵が。



小飯桌(xiaofanzhuo)という玄関脇の看板から小学生に昼食を提供するお宅であることが
分かり、可愛らしい絵に、納得です。



4年前の冬に訪れた時を振り返ってみると、可愛らしい絵もなく看板もありません。



ついでに、やはり4年前の毛家胡同の南側出入口を見ると、



「小売部」という看板から、当時、出入口東角のお宅がお店を営んでいたことが分かります。



さらに歩いて行こうとすると、



先ほどのお宅の脇に路地。





玄関に比べて大きな春聯。



門神は、やっぱり「秦叔宝(しんしゅくほう)」と「尉遅恭(うつちきょう)」の二神。





玄関の奥正面に貼られた、門扉が開いていなければ全く気付かない、やや控え目な「福」の字。





階段の用途が不明なのですが、左手の建物は、通州区第六中学の一部です。



お次はその対面。



並びには、ズバリ「商店」という名のお店。



お客さんの出入口にも、ちゃんと「商店」と書かれています。



このお店、4年前もその名は「商店」。



ただ、玄関周りが変わりました。



写真を撮っていると、散歩中の二匹のワンちゃんと飼い主さん。





また路地がありました。







「椅子の人」。



この方は公共トイレの清掃員。ただ今、作業中。

それはそうと、右手の玄関に子供の落書きがありました。







玄関の中にも落書き。







魚の骨と戦う、凛々しいお顔の作者。



路地突き当たり。



突き当りを左折。



写真奥を横切っているのは、「中倉路」。その向こうに見えますのは「中倉社区」と
呼ばれるアパート群。次回、再びこのアパート群については触れたいと思います。

再び突き当りのお宅。玄関内を見ると「北京市政府放心早餐工程」と書かれた三輪車。











角地は果物やジュースなどを扱っているお店。



向かって左がお店のご主人。



ところで、貼られている春聯は牛乳メーカーとして名を馳せる一つ「豪牛」がお客さんに
配布したもの。中国の人たちの心性をよくよく掴んだサービスです。



お店の中に鳥籠が置いてあったのを眺めていると、ご主人がわざわざ外に出してくれました。
これも嬉しい心遣い。





4年前のご主人とお店をご覧ください。
廃品回収業者に廃品を出しているところでした。





もと来た出入口に戻る途中、トイレ清掃の仕事が一段落して休憩中のようなので、
「椅子の人」に写真を撮らせていただきました。



この椅子がこの方の休憩施設。
暑い夏も寒い冬も、この椅子に腰掛けて休む「椅子の人」。



「椅子の人」に別れを告げて、路地を出ると、右手にあったはずの数軒のお店が
なくなっているのに改めて気付づいた次第。

次回は、4年前に撮った店舗の写真をご紹介いたします。


  
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第141回 通州の胡同・西順城街(その二) ここは「毛家胡同」です。

2017-05-09 10:27:57 | 通州・胡同散歩
前回に引き続き、西順城街をご紹介。





春聯がありました。



しかも、通州で見た春聯の中では、このような貼り方は初めて。
ちょっと、感激でした。







お次は、私好みの木製門扉。






細かい指摘で恐縮です。

この春聯は、1984年地元通州で産声を上げた「強力家具」(正式名「北京強力家具有限公司)が
お客さんに配ったもの。春聯の配布とは、強力家具もなかなか心憎いことをやるものです。



年季の入った門扉を「素敵だなぁ」と思うのはもちろん。その門扉をカバーする金属板が、
私の思いに拍車を駆けます。



参ったなぁ、右手に路地。



もちろん、入ってみました。





まずは、玄関上部に貼られた「百福臨門」。
北京の胡同などで「五福」はよく見かけますが、「百福」は初めてではないかと。



そして、中に入ると突き当たりの壁に「百福」に正比例するような大きな「福」の字。
影壁の役割を持っているのかもしれません。



こんなに大きな福の字にはめったに出会えません。
貴重な体験でした。



突き当りを左折。





この路地を出る時に見かけた洗濯物。
ご覧のように馬、リス、キリン、花が描かれた可愛らしい幼児の衣服です。



小さなものは大きい、大きなものは小さい。
ひょっとして、そんなパラドックスも成り立つんじゃないかな?と
思った路地体験でした。







右手に再び路地。



実はこの路地、西順城街と悟仙観とをつなぐ間道で、それでいて西順城街にも悟仙観にも
属していない独立した胡同。名前は「毛家胡同」。気を付けないと地名を間違えてしまいます。

今回は悟仙観側から歩いた場合をご紹介いたします。







お気づきのようにチョークで「毛家胡同1号」と書かれています。



この胡同には、なぜか正式な門牌(住所表示板)が貼られておりません。



まるで天や地や日や月のような、よりプリミティブな古層がひょっこりと
顔を出していました。









門牌は貼られていませんが、春聯は貼られています。









この胡同、その名称からお分かりのように「毛さん」という姓の方が住み始めた
のが、名前の由来。『北京胡同志』によれば、1913年前後から住み始めたという
ことです。それ以上のことは『北京胡同志』には書かれていないのですが、この
胡同が西順城街にも悟仙観にも属さず独立した地名を保っているのは、なぜなの?
そんな疑問を胸にこの胡同を後にしました。



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